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城下町コミュの宇和島

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 宇和島城は、藤原純友の乱鎮圧の翌年に当たる941年、橘遠保が伊予国宇和郡の治安維持のため、海に臨んだ標高約80mの丘陵に築いた平山城で、当初は板島城と呼ばれた。
 戦国時代には西園寺氏の家臣家藤信種・西園寺宣久の居城であった。1585年には小早川隆景の所領となり、1587年には大洲10万石城主戸田勝隆の所領となった。
 1595年、藤堂高虎が8万1000石で入府し、板島城を宇和島城と改称、1596年から近世城郭へと城の大修築を行ない、城下町の整備も行った。高虎は、1600年の関ヶ原の戦功により伊予半国20万石に加増され、今治城を築城して居城とした。
 高虎は1608年には伊勢安濃津22万石に転封され、富田信高が10万石で入封したが、1613年に石見津和野城主坂崎直盛と争って改易となり、宇和島は暫時幕領とされた。
 1615年、仙台城主伊達政宗の庶長子秀宗が10万石で入封したが、この際、微禄の身から起用されて家老となった山家清兵衛が、疲弊した領地を復興させるため畜産を奨励したのが契機となって名物の闘牛が始まったとされる。清兵衛は家老の桜田玄蕃の讒言で1620年に処刑されたが、玄蕃も地震によって不慮の志を遂げたため、清兵衛の鎮魂のため和霊神社が創建された。
 1657年、秀宗の五男宗純に吉田3万石が分与されたが、1696年、新田開発によって宇和島藩は10万石に復している。
 1662年、2代宗利は老朽化した城の修築を幕府に願い出て、それが許された1664年から修築工事を開始し、1671年に完成、この時に現存する三層の天守も築かれた。
 1844年、8代藩主となった宗城(ムネナリ)は、高野長英に蘭学教授、大村益次郎に軍艦建造を行わせるなど開明的な政治を行ない、安政の大獄で隠居させられた後も、公武合体派の重鎮として活躍し、維新後は議定・大蔵卿・遣清欽差全権大臣・修史館副総裁等を歴任した。
 また名勝天赦園は、1866年第7代藩主伊達宗紀が、2代藩主宗利の浜御殿であった敷地の一部に隠居所として南御殿を建てた時に造園した大名庭園である。
 市制施行は1921年。

コメント(2)

史跡宇和島城については以下を参照。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=12368756&comment_count=0&comm_id=398257
名勝天赦園については以下を参照。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=12371160&comm_id=360748

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