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原始仏典コミュの五蘊 「七処と三種」 五蘊の定義と詳細

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(『南伝大蔵経14 相応部経典3』大蔵出版 P96−102  に相当)



相応部経典>犍度篇>蘊相応

「   第五 七処

57.サーヴァッティ因。
 比丘たちよ、比丘が七処に善であり三種の観察があれば、この法と律において完全に完成した者、最上の人と言われる。

 比丘たちよ、ではどのようにして比丘は七処に善なのか。
 比丘たちよ、ここに比丘は色を知り、色の集を知り、色の滅を知り、色の滅に行く道を知り、色の味を知り、色の過患を知り、色の出離を知る。
 受を知り、受の集を知り、受の滅を知り、受の滅に行く道を知り、受の味を知り、受の過患を知り、受の出離を知る。
 想を知り、想の集を知り、想の滅を知り、想の滅に行く道を知り、想の味を知り、想の過患を知り、想の出離を知る。
 行を知り、行の集を知り、行の滅を知り、行の滅に行く道を知り、行の味を知り、行の過患を知り、行の出離を知る。
 識を知り、識の集を知り、識の滅を知り、識の滅に行く道を知り、識の味を知り、識の過患を知り、識の出離を知る。

 比丘たちよ、では何が色か。四大存在(地水火風)と四大存在を取る色。
 比丘たちよ、これが色と言われる。
 食の集によって色の集がある。
 食の滅によって色の滅がある。
 この聖八支道は色の滅に行く道である。即ち正見・正思・正語・正業・正命・正勤・正念・正定である。
 色を縁として生じる楽と喜、これが色の味である。
 色が無常にして苦であり変化する法であるということ、これが色の過患である。
 色を貪る意欲を制御し、色を貪る意欲を断つこと、これが色の出離である。
 比丘たちよ、いかなる沙門やバラモンであってもこのように色を超知(勝知)し、このように色の集を超知し、このように色の滅を超知し、このように色の滅に行く道を超知し、このように色の味を超知し、このように色の過患を超知し、このように色の出離を超知し、色を厭患し離貪し滅するために行道するならば、彼は善く行道する者である。このように善行道者である彼はこの法と律において堅固である。
 比丘たちよ、いかなる沙門やバラモンであってもこのように色を超知し、このように色の集を超知し、このように色の滅を超知し、このように色の滅に行く道を超知し、このように色の味を超知し、このように色の過患を超知し、このように色の出離を超知し、色を厭患し離貪し滅し無取(無執着)にして解脱すれば、彼は善く解脱する者である。このように善解脱者である彼は完全である。完全なる者である彼において輪廻は設定されない(知られない)。

 比丘たちよ、では何が受(感受)か。
 比丘たちよ、これら六受身がある。眼に接触があることよって生じる受、耳に接触があることによって生じる受、鼻に接触があることによって生じる受、舌に接触があることによって生じる受、身に接触があることによって生じる受、意に接触があることによって生じる受である。
 比丘たちよ、これが受と言われる。
 触(接触)の集によって受の集がある。
 触の滅によって受の滅がある。
 この聖八支道は受の滅に行く道である。即ち正見・正思・正語・正業・正命・正勤・正念・正定である。
 受を縁として生じる楽と喜、これが受の味である。
 受が無常にして苦であり変化する法であるということ、これが受の過患である。
 受を貪る意欲を制御し、受を貪る意欲を断つこと、これが受の出離である。
 比丘たちよ、いかなる沙門やバラモンであってもこのように受を超知し、このように受の集を超知し、このように受の滅を超知し、このように受の滅に行く道を超知し、このように受の味を超知し、このように受の過患を超知し、このように受の出離を超知し、受を厭患し離貪し滅するために行道するならば、彼は善く行道する者である。このように善行道者である彼はこの法と律において堅固である。
 比丘たちよ、いかなる沙門やバラモンであってもこのように受を超知し、このように受の集を超知し、このように受の滅を超知し、このように受の滅に行く道を超知し、このように受の味を超知し、このように受の過患を超知し、このように受の出離を超知し、受を厭患し離貪し滅し無取にして解脱すれば、彼は善く解脱する者である。このように善解脱者である彼は完全である。完全なる者である彼においては輪廻は設定されない。

 比丘たちよ、では何が想か。
 比丘たちよ、これら六想身がある。色想、声想、香想、味想、所触想、法想。
 比丘たちよ、これが想と言われる。
 触の集によって想の集がある。
 触の滅によって想の滅がある。
 この聖八支道は想の滅に行く道である。即ち正見・正思・正語・正業・正命・正勤・正念・正定である。
 想を縁として生じる楽と喜、これが想の味である。
 想が無常にして苦であり変化する法であるということ、これが想の過患である。
 想を貪る意欲を制御し、想を貪る意欲を断つこと、これが想の出離である。
 比丘たちよ、いかなる沙門やバラモンであってもこのように想を超知し、このように想の集・滅・道・味・患・離を超知し、想を厭患し離貪し滅するために行道するならば、彼は善く行道する者である。このように善行道者である彼はこの法と律において堅固である。
 比丘たちよ、いかなる沙門やバラモンであってもこのように想を超知し、このように想の集・滅・道・味・患・離を超知し、想を厭患し離貪し滅し無取にして解脱すれば、彼は善く解脱する者である。このように善解脱者である彼は完全である。完全なる者である彼においては輪廻は設定されない。
 
 比丘たちよ、では何が行か。
 比丘たちよ、これら六思身(六意思身)がある。色思、声思、香思、味思、所触思、法思。
 比丘たちよ、これが行と言われる。
 触の集によって行の集がある。
 触の滅によって行の滅がある。
 この聖八支道は行の滅に行く道である。即ち正見・正思・正語・正業・正命・正勤・正念・正定である。
 行を縁として生じる楽と喜、これが行の味である。
 行が無常にして苦であり変化する法であるということ、これが行の過患である。
 行を貪る意欲を制御し、行を貪る意欲を断つこと、これが行の出離である。
 比丘たちよ、いかなる沙門やバラモンであってもこのように行を超知し、このように行の集・滅・道・味・患・離を超知し、行を厭患し離貪し滅するために行道するならば、彼は善く行道する者である。このように善行道者である彼はこの法と律において堅固である。
 比丘たちよ、いかなる沙門やバラモンであってもこのように行を超知し、このように行の集・滅・道・味・患・離を超知し、行を厭患し離貪し滅し無取にして解脱すれば、彼は善く解脱する者である。このように善解脱者である彼は完全である。完全なる者である彼においては輪廻は設定されない。
 
 比丘たちよ、では何が識か。
 比丘たちよ、六識身がある。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識である。
 比丘たちよ、これが識と言われる。
 名色の集によって識の集がある。(名は受・想・思・触・作意)
 名色の滅によって識の滅がある。
 この聖八支道は識の滅に行く道である。即ち正見・正思・正語・正業・正命・正勤・正念・正定である。
 識を縁として生じる楽と喜、これが識の味である。
 識が無常にして苦であり変化する法であるということ、これが識の過患である。
 識を貪る意欲を制御し、識を貪る意欲を断つこと、これが識の出離である。
 比丘たちよ、いかなる沙門やバラモンであってもこのように識を超知し、このように識の集・滅・道・味・患・離を超知し、識を厭患し離貪し滅するために行道するならば、彼は善く行道する者である。このように善行道者である彼はこの法と律において堅固である。
 比丘たちよ、いかなる沙門やバラモンであってもこのように識を超知し、このように識の集・滅・道・味・患・離を超知し、識を厭患し離貪し滅し無取にして解脱すれば、彼は善く解脱する者である。このように善解脱者である彼は完全である。完全なる者である彼においては輪廻は設定されない。
 比丘たちよ、このようにして比丘は七処に善である。
 
 比丘たちよ、ではどのように比丘は三種を観察するのか。
 比丘たちよ、ここに比丘は界を観察し、処を観察し、縁起を観察する。
 比丘たちよ、このように比丘は三種を観察する。
 比丘たちよ、比丘が七処に善であり三種の観察があれば、この法と律において完全に完成した者であり最上の人と言われる(了)」

    『南伝大蔵経14 相応部経典3』大蔵出版 P96−102  に相当






[五蘊]  五蘊×七処
色 ルーパ rūpa  四大と四大取色
受 ヴェーダナー vedanā 六受身
想 サンニャー saññā 六想身
行 サンカーラ saṅkhāra  思 チェータナー cetanā 六思身
識 ヴィンニャーナ viññāna 六識身

[七処]  七処に善 Sattaṭṭhāna kusalo
此 
集 サムダヤ samudaya 原因・縁に同じ
滅 ニローダ nirodha 
道 ニローダ・ガーミニン・パティパダー nirodha gāminiṃ paṭipapā 聖八支道
味 アッサーダ assāda 縁による楽・喜
患 アーディーナヴァ ādīnava 無常・苦・変化の法
離 ニッサラナ nissarana 超越 貪る意欲の調伏と断

[三種]  三種の観察 tividhūpaparikkhī
界  ダートゥ dhātu 地水火風空識の六界 他
処  アーヤタナ āyatana 眼耳鼻舌身意の六処 他
縁起 パティッチャサムッパーダ paṭicca samuppāda 十二縁起 他



 まとめて「蘊界処縁起」と覚えています。蘊に七処、後ろが三です。




六受身・六想身・六思身・六識身と「身体」(カーヤ kāya)の語が付きますが詳細は不明です。
「この身に六受六想六思六識がある」とも取れ、「六受〜六識いずれも身体とみなす」とも取れます。
即ち滅すべき身体です。
行を意思(意思食と同じ語)と説きますが、他では行は三行である身行・語行・意行とも説きます。

色の集滅は食の集滅であること、食は四食(摶食・触食・意思食・識食)と思われること。
識の集滅は名色の集滅であること。
受想行の集滅はいずれも触の集滅であることが重要だと思います。
五蘊の滅に行く道はいずれも聖八支道です。

五蘊の味はいずれも縁として生じる喜楽。
五蘊の患はいずれも無常・苦・変化の法。
五蘊の離はいずれも貪る意欲の制御と断。

修行が完成しても阿羅漢や如来に五蘊六界六処は傍目からはあるように見えます。
しかし蘊界処への執着が完全にゼロなので阿羅漢においては滅したと言われます。
そして死後は固定的な身体を得ることはありません。何が残るかは無記です。

三種の観察においては単に観察するのではなくむしろ観察の語、ウパパリッカティ(upaparikkhati)を僕は「三種を見切る」というぐらいに受け取りたいです。七処に善、つまり七処をマスターし、三つの事柄を見切ったとき、人は阿羅漢となり、最上の人「ウッタマ(最上)プリサ(人)」となるのだと思います。七処を修習中であり、三種を見ている最中は善行道者と言われます。七処に善となり三種を見切ったとき、善行道者(スッパティパンナー)から善解脱者(スヴィムッター)になるのだと思います。








 

5. Sattaṭṭhānasuttaṃ

57. Sāvatthinidānaṃ. ‘‘Sattaṭṭhānakusalo, bhikkhave, bhikkhu tividhūpaparikkhī imasmiṃ dhammavinaye kevalī vusitavā uttamapurisoti vuccati. Kathañca, bhikkhave, bhikkhu sattaṭṭhānakusalo hoti? Idha , bhikkhave, bhikkhu rūpaṃ pajānāti, rūpasamudayaṃ pajānāti, rūpanirodhaṃ pajānāti, rūpanirodhagāminiṃ paṭipadaṃ pajānāti; rūpassa assādaṃ pajānāti, rūpassa ādīnavaṃ pajānāti, rūpassa nissaraṇaṃ pajānāti; vedanaṃ pajānāti … saññaṃ… saṅkhāre… viññāṇaṃ…

‘‘Katamañca, bhikkhave, rūpaṃ? Cattāro ca mahābhūtā, catunnañca mahābhūtānaṃ upādāya rūpaṃ. Idaṃ vuccati, bhikkhave, rūpaṃ. Āhārasamudayā rūpasamudayo; āhāranirodhā rūpanirodho. Ayameva ariyo aṭṭhaṅgiko maggo rūpanirodhagāminī paṭipadā, seyyathidaṃ – sammādiṭṭhi…pe… sammāsamādhi.

‘‘Yaṃ rūpaṃ paṭicca uppajjati sukhaṃ somanassaṃ – ayaṃ rūpassa assādo. Yaṃ rūpaṃ aniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāmadhammaṃ – ayaṃ rūpassa ādīnavo. Yo rūpasmiṃ chandarāgavinayo chandarāgappahānaṃ – idaṃ rūpassa nissaraṇaṃ.

‘‘Ye hi keci, bhikkhave, samaṇā vā brāhmaṇā vā evaṃ rūpaṃ abhiññāya, evaṃ rūpasamudayaṃ abhiññāya, evaṃ rūpanirodhaṃ abhiññāya, evaṃ rūpanirodhagāminiṃ paṭipadaṃ abhiññāya; evaṃ rūpassa assādaṃ abhiññāya, evaṃ rūpassa ādīnavaṃ abhiññāya, evaṃ rūpassa nissaraṇaṃ abhiññāya rūpassa nibbidāya virāgāya nirodhāya paṭipannā, te suppaṭipannā. Ye suppaṭipannā, te imasmiṃ dhammavinaye gādhanti.

‘‘Ye ca kho keci, bhikkhave, samaṇā vā brāhmaṇā vā evaṃ rūpaṃ abhiññāya, evaṃ rūpasamudayaṃ abhiññāya, evaṃ rūpanirodhaṃ abhiññāya, evaṃ rūpanirodhagāminiṃ paṭipadaṃ abhiññāya; evaṃ rūpassa assādaṃ abhiññāya, evaṃ rūpassa ādīnavaṃ abhiññāya, evaṃ rūpassa nissaraṇaṃ abhiññāya rūpassa nibbidā virāgā nirodhā anupādā vimuttā, te suvimuttā. Ye suvimuttā, te kevalino. Ye kevalino vaṭṭaṃ tesaṃ natthi paññāpanāya.

‘‘Katamā ca, bhikkhave, vedanā? Chayime, bhikkhave, vedanākāyā – cakkhusamphassajā vedanā…pe… manosamphassajā vedanā. Ayaṃ vuccati, bhikkhave, vedanā. Phassasamudayā vedanāsamudayo; phassanirodhā vedanānirodho. Ayameva ariyo aṭṭhaṅgiko maggo vedanānirodhagāminī paṭipadā, seyyathidaṃ – sammādiṭṭhi…pe… sammāsamādhi.

‘‘Yaṃ vedanaṃ paṭicca uppajjati sukhaṃ somanassaṃ – ayaṃ vedanāya assādo. Yā vedanā aniccā dukkhā vipariṇāmadhammā – ayaṃ vedanāya ādīnavo. Yo vedanāya chandarāgavinayo chandarāgappahānaṃ – idaṃ vedanāya nissaraṇaṃ.

‘‘Ye ca kho keci, bhikkhave, samaṇā vā brāhmaṇā vā evaṃ vedanaṃ abhiññāya…pe… vaṭṭaṃ tesaṃ natthi paññāpanāya.

‘‘Katamā ca, bhikkhave, saññā? Chayime, bhikkhave, saññākāyā – rūpasaññā, saddasaññā, gandhasaññā, rasasaññā, phoṭṭhabbasaññā, dhammasaññā. Ayaṃ vuccati, bhikkhave, saññā. Phassasamudayā saññāsamudayo; phassanirodhā saññānirodho. Ayameva ariyo aṭṭhaṅgiko maggo saññānirodhagāminī paṭipadā, seyyathidaṃ – sammādiṭṭhi…pe… sammāsamādhi…pe… vaṭṭaṃ tesaṃ natthi paññāpanāya.

‘‘Katame ca, bhikkhave, saṅkhārā? Chayime, bhikkhave, cetanākāyā – rūpasañcetanā, saddasañcetanā, gandhasañcetanā, rasasañcetanā, phoṭṭhabbasañcetanā, dhammasañcetanā. Ime vuccanti bhikkhave , saṅkhārā. Phassasamudayā saṅkhārasamudayo; phassanirodhā saṅkhāranirodho . Ayameva ariyo aṭṭhaṅgiko maggo saṅkhāranirodhagāminī paṭipadā, seyyathidaṃ – sammādiṭṭhi…pe… sammāsamādhi.

‘‘Yaṃ saṅkhāre paṭicca uppajjati sukhaṃ somanassaṃ – ayaṃ saṅkhārānaṃ assādo. Ye saṅkhārā aniccā dukkhā vipariṇāmadhammā – ayaṃ saṅkhārānaṃ ādīnavo. Yo saṅkhāresu chandarāgavinayo chandarāgappahānaṃ – idaṃ saṅkhārānaṃ nissaraṇaṃ.

‘‘Ye hi keci, bhikkhave, samaṇā vā brāhmaṇā vā…pe… vaṭṭaṃ tesaṃ natthi paññāpanāya.

‘‘Katamañca, bhikkhave, viññāṇaṃ? Chayime, bhikkhave, viññāṇakāyā – cakkhuviññāṇaṃ, sotaviññāṇaṃ, ghānaviññāṇaṃ, jivhāviññāṇaṃ, kāyaviññāṇaṃ, manoviññāṇaṃ. Idaṃ vuccati, bhikkhave, viññāṇaṃ. Nāmarūpasamudayā viññāṇasamudayo; nāmarūpanirodhā viññāṇanirodho. Ayameva ariyo aṭṭhaṅgiko maggo viññāṇanirodhagāminī paṭipadā, seyyathidaṃ – sammādiṭṭhi…pe… sammāsamādhi.

‘‘Yaṃ viññāṇaṃ paṭicca uppajjati sukhaṃ somanassaṃ – ayaṃ viññāṇassa assādo. Yaṃ viññāṇaṃ aniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāmadhammaṃ – ayaṃ viññāṇassa ādīnavo. Yo viññāṇasmiṃ chandarāgavinayo chandarāgappahānaṃ – idaṃ viññāṇassa nissaraṇaṃ.

‘‘Ye hi keci, bhikkhave, samaṇā vā brāhmaṇā vā ...vaṭṭaṃ tesaṃ natthi paññāpanāya. Evaṃ kho, bhikkhave, bhikkhu sattaṭṭhānakusalo hoti.

‘‘Kathañca, bhikkhave, bhikkhu tividhūpaparikkhī hoti? Idha, bhikkhave, bhikkhu dhātuso upaparikkhati, āyatanaso upaparikkhati, paṭiccasamuppādaso upaparikkhati . Evaṃ kho, bhikkhave, bhikkhu tividhūpaparikkhī hoti. Sattaṭṭhānakusalo, bhikkhave, bhikkhu tividhūpaparikkhī, imasmiṃ dhammavinaye kevalī vusitavā ‘uttamapuriso’ti vuccatī’’ti. Pañcamaṃ.

コメント(1)

五蘊ひとつひとつの定義を現代語で言うことはなかなかに難しいですね。

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