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原始仏典コミュの中部経典 第88経「バーヒティカー経」(重要部分訳)

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中部経典第88経「バーヒティカー経」の重要部分訳。

アーナンダとコーサラ王パセーナディの問答。原始仏教の善悪の判断基準を明確に示す重要経典。またアーナンダが自らの名声を揚げた件のこと。



[あらすじ]

ゴータマ在世中の頃、コーサラ王パセーナディとアーナンダはアチラヴァティー川の岸で落ち合った。
「アーナンダ先生、かの先生は沙門・バラモン・知者に非難される身体・言葉・心の行ないを行ないますか」
「大王、かの先生は沙門・バラモン・知者に非難される身体・言葉・心の行ないを行わない」
「不思議だ。あり得ない。先生、私は質問によって満足できなかったことをアーナンダ先生への質問の解答により満足しました。
 先生、愚か者が調べず確認せずに人を称賛したり非難したりすれば私はそれを真実だとは思いません。
 しかし先生、もし賢者が調べ確認して人を称賛したり非難したりすれば、私はそれを真実だと思います。
 アーナンダ先生、それではどのような身体の行ないが沙門・バラモン・知者に非難されるのですか」



[重要部分訳]
「アーナンダ先生、それではどのような身体の行ないが沙門・バラモン・知者に非難されるのですか」
「大王、悪い身体の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような身体の行ないが悪いのですか」
「大王、有罪の身体の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような身体の行ないが有罪なのですか」
「大王、害する身体の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような身体の行ないが害するのですか」
「大王、苦を結果する身体の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような身体の行ないが苦を結果するのですか」
「大王、自己を害することにも転じ、他者を害することにも転じ、両者を害することにも転じ、悪法を増大させ、善法を減少させる身体の行ない。
 大王、このような身体の行ないは沙門・バラモン・知者に非難される」

「アーナンダ先生、それではどのような言葉の行ないが沙門・バラモン・知者に非難されるですのか」
「大王、悪い言葉の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような言葉の行ないが悪いのですか」
「大王、有罪の言葉の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような言葉の行ないが有罪なのですか」
「大王、害する言葉の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような言葉の行ないが害するのですか」
「大王、苦を結果する言葉の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような言葉の行ないが苦を結果するのですか」
「大王、自己を害することにも転じ、他者を害することにも転じ、両者を害することにも転じ、悪法を増大させ、善法を減少させる言葉の行ない。
 大王、このような言葉の行ないは沙門・バラモン・知者に非難される」

「アーナンダ先生、それではどのような心の行ないが沙門・バラモン・知者に非難されるのですか」
「大王、悪い心の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような心の行ないが悪いのですか」
「大王、有罪の心の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような心の行ないが有罪なのですか」
「大王、害する心の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような心の行ないが害するのですか」
「大王、苦を結果する心の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような心の行ないが苦を結果するのですか」
「大王、自己を害することにも転じ、他者を害することにも転じ、両者を害することにも転じ、悪法を増大させ、善法を減少させる心の行ない。
 大王、このような心の行ないは沙門・バラモン・知者に非難される」

「アーナンダ先生、ではかの先生は一切の悪法を断つことを称賛しているのでしょうか」
「大王、如来は一切の悪法を断ち、善法を成就している」


「アーナンダ先生、それではどのような身体の行ないが沙門・バラモン・知者に非難されないのですか」
「大王、善い身体の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような身体の行ないが善いのですか」
「大王、無罪の身体の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような身体の行ないが無罪なのですか」
「大王、害さない身体の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような身体の行ないが害さないのですか」
「大王、楽を結果する身体の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような身体の行ないが楽を結果するのですか」
「大王、自己を害することにも転じず、他者を害することにも転じず、両者を害することにも転じず、悪法を減少させ、善法を増大させる身体の行ない。
 大王、このような身体の行ないは沙門・バラモン・知者に非難されない」

「アーナンダ先生、それではどのような言葉の行ないが沙門・バラモン・知者に非難されないのですか」
「大王、善い言葉の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような言葉の行ないが善いのですか」
「大王、無罪の言葉の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような言葉の行ないが無罪なのですか」
「大王、害さない言葉の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような言葉の行ないが害さないのですか」
「大王、楽を結果する言葉の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような言葉の行ないが楽を結果するのですか」
「大王、自己を害することにも転じず、他者を害することにも転じず、両者を害することにも転じず、悪法を減少させ、善法を増大させる言葉の行ない。
 大王、このような言葉の行ないは沙門・バラモン・知者に非難されない」

「アーナンダ先生、それではどのような心の行ないが沙門・バラモン・知者に非難されないのですか」
「大王、善い心の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような心の行ないが善いのですか」
「大王、無罪の心の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような心の行ないが無罪なのですか」
「大王、害さない心の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような心の行ないが害さないのですか」
「大王、楽を結果する心の行ないである」
「アーナンダ先生、それではどのような心の行ないが楽を結果するのですか」
「大王、自己を害することにも転じず、他者を害することにも転じず、両者を害することにも転じず、悪法を減少させ、善法を増大させる心の行ない。
 大王、このような心の行ないは沙門・バラモン・知者に非難されない」

「アーナンダ先生、それではかの先生は一切の善法を具足することを称賛しているのでしょうか」
「大王、如来は一切の悪法を断ち、善法を成就している」

「先生、不思議です。先生、あり得ません。・・・・・・」



[結び]

感激したコーサラ王パセーナディは象宝でも馬宝でも良き村でも与えたいがそれは相応しくないことを知っているので、バーヒティカーを布施することにした。このバーヒティカーはマガダ王アジャータサットゥ・ヴェーデーヒプッタからパセーナディに送られたもので天蓋の支柱に掲げられる長さ十六肘・幅八肘の大きさの非常に高級な美しい布。

これによってアーナンダは美しい三衣を得た。後にこの名声が轟き『バーヒティカーの聖者アーナンダ』と呼ばれるようになる。布施の後に両者は別れた。ゴータマはこの問答を知ってパセーナディ王は幸いだ、アーナンダに会い奉仕したからと述べた。


   『南伝大蔵経11上 中部経典3』大蔵出版 P150−157 に相当







・善悪の判断基準

 1.知者に非難される三行
 2.悪い三行
 3.有罪の三行
 4.苦を結果する三行
 5.自他両者を害し悪法増大と善法減少の三行
   この三行は知者に非難される

 1.知者に非難されない三行
 2.善い三行
 3.無罪の三行
 4.楽を結果する三行
 5.自他両者を害さず悪法減少と善法増大の三行
   この三行は知者に非難されない














この経典はコーサラ王パセーナディがゴータマの三行が知者に称賛されるものなのか非難されるものなのかを「アーナンダに聞く」という形でいきなり始まっています。ゴータマの侍者であるアーナンダにゴータマの三行の内実を確認したかったのだと思います。

パセーナディの質問の主旨は「アーナンダ先生はゴータマは非難される三行は行なっていないと言いますが、そもそも知者に非難される三行とは何ですか」というところです。アーナンダの言葉をより突っ込んで細かく詳細に誤解がないところまで知りたいというパセーナディの良い意味での疑い深さ・慎重さがあります。王に相応しい資質だと思います。

この経典は時期的にパセーナディがゴータマとまだ会っていなかったのときの話だと僕は考えています。この経典の前の経典である中部経典第87経『愛生経』においてパセーナディと王妃マッリカーの問答で王がゴータマにまだ会っていないことを示すような内容があるからです。



愛生経の概要は以下の通りです。

ある在家の男性が息子の死を悲しんでいるところ、ゴータマに会いました。ゴータマが「愛(ピヤpiya、渇愛のタンハーではなく愛情を意味する)より苦しみが生じるのだから当然だ」と言うと在家男性は「愛より生まれるのは楽しみです。苦しみではありません」と憤慨して立ち去ります。

男性は不快になって博打をしながら博打打ちの仲間に事の顛末を話すと博打打ちたちも「愛より生まれるのは楽しみだよ。それはゴータマがおかしいね」と男性に同意します。この話が王宮にまで伝わります。

パセーナディがこの話をマッリカーにすると「先生がそうおっしゃるならそうでしょう」と言うと王は「お前は何でも沙門ゴータマの意見に賛同する。あたかも弟子が師に同意するように。不愉快だ。マッリカー、お前は去れ。どこかへ行け」。それでマッリカーはバラモンを使いを出してゴータマに「愛より苦しみが生じる」という教えの詳細を聞いて来るように言いました。

使いのバラモンにゴータマは説法しました。母が死んで苦しむ子供や妻が死んで苦しむ夫、その他の家族が死んで苦しむその遺族の話を延々繰り返し、最後に許されない愛のために心中する若い男女の話をして「愛情は苦しみを生む」と教えました。この教えをマスターしたマッリカーはパセーナディ王に言いました。

「あなたの娘である王女ヴァジーリーに何かあったらどうです」「うむ苦しむ」
「あなたの妾のヴァーサバーに何かあったらどうです」「うむ苦しむ」
「将軍ヴィドゥーダバや私やコーサラ国に何かあったらどうです」「うむ苦しむ」
「それが理由でかの先生は愛より苦しみが生まれると言ったのです」
「おお素晴らしいマッリカー。その先生は智慧によって洞察している。それならばマッリカー、彼をますます称賛しなさい」と言ってパセーナディはいきなり立ち上がって肩を露にしてゴータマの方角に向かって「かの先生・ブッダに帰依します」を三回繰り返した、ということです。

この経典の内容からパセーナディがゴータマに会っていないのだとわかります。この次の経典である「バーヒティカー経」でパセーナディはアーナンダにゴータマの三行を質問しています。パセーナディはマッリカーからゴータマのことを知り、さらに弟子のアーナンダからもっと正確にゴータマのことを聞きたいと思ったのかも知りません。第87経「愛生経」、第88経「バーヒティカー経」に続いて、次の第89経『法荘厳経』ではゴータマを疑っていた頃と打って変わってゴータマをパセーナディが称賛し続ける内容です。

そこでは80歳のパセーナディが80歳のゴータマに最敬礼としてゴータマの足にキスして手で足をスリスリして「私はコーサラ王パセーナディです。私はコーサラ王パセーナディです」と言っています。「王よ、なぜ私に最敬礼を」と質問するゴータマに対して、ひたすらパセーナディはゴータマと教えとサンガを称賛し続けます。その称賛によってダンマが荘厳され装飾され飾られたということで「法荘厳経」というタイトルになっています。この経典で「私パセーナディもコーサラ人、先生もコーサラ人」と語る場面があります。ゴータマはコーサラ人のようです。



このバーヒティカー経は善悪の判断基準、有罪無罪の判断基準、非難称賛の判断基準の根本となる経典です。とても重要な概念規定の話だと思います。








kāyasamācāra 身体の行ない
vacīsamācāra 言葉の行ない
manosamācāra 心の行ない

samaṇehi brāhmaṇehi viññūhī 沙門バラモン知者
opārambha 非難する
anopārambha 非難されない
akusala 悪い
kusala 善い
sāvajja 有罪
anāvajja 無罪
vyābajjha 害する
avyābajjha 害さない
dukkha vipāka 苦の異熟
sukha vipāka 楽の異熟

自己を害することにも転じる attabyābādhāyapi saṃvattati,
他者を害することにも転じる parabyābādhāyapi saṃvattati,
両者を害することにも転じる ubhayabyābādhāyapi saṃvattati
それは悪法を増大させる tassa akusalā dhammā abhivaḍḍhanti,
善法を減少させる kusalā dhammā parihāyanti;

自己を害することにも転じず nevattabyābādhāyapi saṃvattati,
他者を害することにも転じず na parabyābādhāyapi saṃvattati,
両者を害することにも転じず na ubhayabyābādhāyapi saṃvattati.
それは悪法を減少させ Tassa akusalā dhammā parihāyanti,
善法を増大させる kusalā dhammā abhivaḍḍhanti.









[パーリ語原文]
360. ‘‘Katamo pana, bhante ānanda, kāyasamācāro opārambho samaṇehi brāhmaṇehi viññūhī’’ti? ‘‘Yo kho, mahārāja, kāyasamācāro akusalo’’.

‘‘Katamo pana, bhante, kāyasamācāro akusalo’’? ‘‘Yo kho, mahārāja, kāyasamācāro sāvajjo’’.

‘‘Katamo pana, bhante, kāyasamācāro sāvajjo’’? ‘‘Yo kho, mahārāja, kāyasamācāro sabyābajjho’’ [sabyāpajjho (sī. syā. kaṃ. pī.), sabyāpajjo (ka.)].

‘‘Katamo pana, bhante, kāyasamācāro sabyābajjho’’? ‘‘Yo kho, mahārāja, kāyasamācāro dukkhavipāko’’.

‘‘Katamo pana, bhante, kāyasamācāro dukkhavipāko’’? ‘‘Yo kho, mahārāja, kāyasamācāro attabyābādhāyapi saṃvattati, parabyābādhāyapi saṃvattati, ubhayabyābādhāyapi saṃvattati tassa akusalā dhammā abhivaḍḍhanti, kusalā dhammā parihāyanti; evarūpo kho, mahārāja, kāyasamācāro opārambho samaṇehi brāhmaṇehi viññūhī’’ti.

‘‘Katamo pana, bhante ānanda, vacīsamācāro…pe… manosamācāro opārambho samaṇehi brāhmaṇehi viññūhī’’ti? ‘‘Yo kho, mahārāja, manosamācāro akusalo’’.

‘‘Katamo pana, bhante, manosamācāro akusalo’’? ‘‘Yo kho, mahārāja, manosamācāro sāvajjo’’.

‘‘Katamo pana, bhante, manosamācāro sāvajjo’’? ‘‘Yo kho, mahārāja, manosamācāro sabyābajjho’’.

‘‘Katamo pana, bhante, manosamācāro sabyābajjho’’? ‘‘Yo kho, mahārāja, manosamācāro dukkhavipāko’’.

‘‘Katamo pana, bhante, manosamācāro dukkhavipāko’’? ‘‘Yo kho, mahārāja, manosamācāro attabyābādhāyapi saṃvattati, parabyābādhāyapi saṃvattati, ubhayabyābādhāyapi saṃvattati tassa akusalā dhammā abhivaḍḍhanti, kusalā dhammā parihāyanti; evarūpo kho, mahārāja, manosamācāro opārambho samaṇehi brāhmaṇehi viññūhī’’ti.

‘‘Kiṃ nu kho, bhante ānanda, so bhagavā sabbesaṃyeva akusalānaṃ dhammānaṃ pahānaṃ vaṇṇetī’’ti? ‘‘Sabbākusaladhammapahīno kho, mahārāja, tathāgato kusaladhammasamannāgato’’ti.

361. ‘‘Katamo pana, bhante ānanda, kāyasamācāro anopārambho samaṇehi brāhmaṇehi viññūhī’’ti? ‘‘Yo kho, mahārāja, kāyasamācāro kusalo’’.

‘‘Katamo pana, bhante, kāyasamācāro kusalo’’? ‘‘Yo kho, mahārāja, kāyasamācāro anavajjo’’.

‘‘Katamo pana, bhante, kāyasamācāro anavajjo’’? ‘‘Yo kho, mahārāja, kāyasamācāro abyābajjho’’.

‘‘Katamo pana, bhante, kāyasamācāro abyābajjho’’? ‘‘Yo kho, mahārāja, kāyasamācāro sukhavipāko’’.

‘‘Katamo pana, bhante, kāyasamācāro sukhavipāko’’?

‘‘Yo kho, mahārāja, kāyasamācāro nevattabyābādhāyapi saṃvattati, na parabyābādhāyapi saṃvattati, na ubhayabyābādhāyapi saṃvattati tassa akusalā dhammā parihāyanti, kusalā dhammā abhivaḍḍhanti; evarūpo kho, mahārāja, kāyasamācāro anopārambho samaṇehi brāhmaṇehi viññūhī’’ti.

‘‘Katamo pana, bhante ānanda, vacīsamācāro…pe… manosamācāro anopārambho samaṇehi brāhmaṇehi viññūhī’’ti? ‘‘Yo kho, mahārāja, manosamācāro kusalo’’.

‘‘Katamo pana, bhante, manosamācāro kusalo’’? ‘‘Yo kho, mahārāja, manosamācāro anavajjo’’.

‘‘Katamo pana, bhante, manosamācāro anavajjo’’? ‘‘Yo kho, mahārāja, manosamācāro abyābajjho’’.

‘‘Katamo pana, bhante, manosamācāro abyābajjho’’? ‘‘Yo kho, mahārāja, manosamācāro sukhavipāko’’.

‘‘Katamo pana, bhante, manosamācāro sukhavipāko’’? ‘‘Yo kho, mahārāja, manosamācāro nevattabyābādhāyapi saṃvattati, na parabyābādhāyapi saṃvattati, na ubhayabyābādhāyapi saṃvattati. Tassa akusalā dhammā parihāyanti, kusalā dhammā abhivaḍḍhanti. Evarūpo kho, mahārāja, manosamācāro anopārambho samaṇehi brāhmaṇehi viññūhī’’ti.

‘‘Kiṃ pana, bhante ānanda, so bhagavā sabbesaṃyeva kusalānaṃ dhammānaṃ upasampadaṃ vaṇṇetī’’ti? ‘‘Sabbākusaladhammapahīno kho, mahārāja, tathāgato kusaladhammasamannāgato’’ti.

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