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原始仏典コミュの一世界の定義 「大中小の千世界の記述」

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一世界・小千世界・中二千世界・三千大千世界の詳細な定義は原始仏典中においてはこの記述のみであったと記憶しています。他の記述については「一世界」ではなく「一劫」「劫」に関する記述があるだけです。原始仏教の世界観において決して外す事ができない最重要の記述だと思っています。






(『南伝大蔵経17 増支部経典1』大蔵出版 P370–373 に相当)



増支部経典>三集>第三 アーナンダ品

「  第十 小

81.ときに尊者アーナンダは先生を訪ねた。訪ねて先生に敬礼して一方に座った。一方に座って尊者アーナンダは先生にこう言った。

 先生、私はこのように先生の面前で聞き、面前で受け取りました。
 「アーナンダ、シキン先生にアビブーという名の弟子がいて、ブラフマーの世界(梵世)に立って千世界に声を認識させた」と。
 では先生、阿羅漢・正覚者である先生はいくつに声を認識させることができるのですか。
 アーナンダ、彼は弟子である。如来は無量(量れない)である。

 再び尊者アーナンダは先生にこう言った。
 先生、私はこのように先生の面前で聞き、面前で受け取りました。
 「アーナンダ、シキン先生にアビブーという名の弟子がいて、ブラフマーの世界(梵世)に立って千世界に声を認識させた」と。
 では先生、阿羅漢・正覚者である先生はいくつに声を認識させることができるのですか。
 アーナンダ、彼は弟子である。如来は無量である。

 三たび尊者アーナンダは先生にこう言った。
 先生、私はこのように先生の面前で聞き、面前で受け取りました。
 「アーナンダ、シキン先生にアビブーという名の弟子がいて、ブラフマーの世界(梵世)に立って千世界に声を認識させた」と。
 では先生、阿羅漢・正覚者である先生はいくつに声を認識させることができるのですか。

 アーナンダ、あなたはその小世界を聞いたか。
 先生、今がその時です。善きところに達した方、今がその時です。
 どうか先生は説いてください。先生から聞いて比丘たちは受持するでしょう。
 それではアーナンダ、聞いて善く考えなさい。説こう。
 「はい、先生」と尊者アーナンダは先生に応えた。先生はこう言った。

 アーナンダ、月と太陽が運行し、諸の方角を照らすだけ[の世界]がある。その千倍の世界がある。
 その千世界には、千の月、千の太陽、千のシネールという山の王(須彌山王)、千のジャンブディーパ(閻浮提)、千のアパラゴーヤーナ(西牛貨)、千のウッタラクル(北倶盧)、千のプッバヴィデーハ(東勝身)、千の四海洋、千の四大王たち、千の四大王(天)、千の三十三(天)、千のヤーマ(夜摩天)、千のトゥシタ(都卒天)、千のニンマーナラティ(化楽天)、千のパラニンミタ・ヴァサヴァッティ(他化自在天)、千のブラフマーの世界(梵世)がある。
 アーナンダ、これが小さい千の世界(小千世界)と言われる。
 アーナンダ、小さい千の世界を千倍にした世界がある。
 アーナンダ、これが第二の中なる千世界(中二千世界)と言われる。
 アーナンダ、第二の中なる千世界を千倍にした世界がある。
 アーナンダ、これが第三の大なる千の千世界(三千大千世界)と言われる。

 アーナンダ、如来は望むならば第三の大なる千の千世界に声を認識させる。あるいは望むだけ。
 先生、では先生はどのように第三の大なる千の千世界に声を認識させるのですか。あるいは望むだけ。
 アーナンダ、ここに如来は第三の大なる千の千世界を光で満たす。そのかぎりの生ける者たちがその光明を知覚したならば、そのとき如来は音を発して声を聞かせる。
 アーナンダ、このように如来は第三の大なる千の千世界に声を認識させる。あるいは望むだけ。
 
 このように言われて尊者アーナンダはこう言った。
 ああ私に利得がある。ああ私に善き利得がある。私にはこのように大神通・大威力ある師がいる。
 このように言われて尊者ウダーイは尊者アーナンダにこう言った。
 友アーナンダ、君の師がこのように大神通がありこのように大威力があるとして、それが君の何になるのか。
 このように言われて先生は尊者ウダーイにこう言った。
 ウダーイ、そのようであってはならない。ウダーイ、そのようであってはならないのだ。
 ウダーイ、もしアーナンダが貪りを離れずに死ぬとしても、その心の浄信によって七たび神々の間で天王となり、七たびこのジャンブディーパにおいて大王となるだろう。
 ウダーイ、さらにまたアーナンダは現世において般涅槃するだろう。

 註 梵世  ブラフマローカ brahma loka
   千世界 サハッシローカダートゥ sahassilokadhātu
       サハッシ(千)ローカ(世)ダートゥ(界・領域)
   無量  アッパメッヤ appameyya 量れない 量る(pameti)の否定(a)
   月 canda
   太陽 sūriya
   運行 pariharanti
   諸々の方角 disā
   照らす virocanā 
   千倍の世界 sahassadhā loko
   須彌山王 sineru pabbata rāja
   ジャンブディーパ jambudīpa
   アパラゴーヤーナ aparagoyāna
   ウッタラクル uttarakuru
   プッバヴィデーハ pubbavideha
   千の四海洋 cattāri mahāsamuddasahassāni
   千の四大王 cattāri mahārājasahassāni
   千の四大王天 sahassaṃ cātumahārājikānaṃ
   千の三十三 sahassaṃ tāvatiṃsānaṃ
   千のヤーマ sahassaṃ yāmānaṃ
   千のトゥシタ sahassaṃ tusitānaṃ
   千のニンマーナラティ sahassaṃ nimmānaratīnaṃ
   千のパラニンミタ・ヴァサヴァッティ sahassaṃ paranimmitavasavattīnaṃ
   千のブラフマー世界 sahassaṃ brahmalokānaṃ
   小さい千世界 sahassī cūḷanikā lokadhātu 小千世界
   第二の中なる千世界 dvisahassī majjhimikā lokadhātu 中二千世界
   第三の大なる千である千世界 tisahassī mahāsahassī lokadhātu. 三千大千世界」

   『南伝大蔵経17 増支部経典1』大蔵出版 P370–373 に相当





[一世界の構成要素]

  月・太陽・シネール山王・人四州・四海洋・四大王・
  四大王天・三十三天・ヤーマ天・トゥシタ天・化楽天・他化自在天・梵世



[世界] 

 一世界    一つの太陽と月が照らす領域から梵世までで一太陽系だと思います。 
 小千世界   第一の千世界・小さい千世界とも言えると思います。
        銀河は千以上の恒星がありますが、
        千は正確な数字の千ではないと思います。
        千世界を支配するブラフマーがいます。これは別経にあります。
        千世界を支配するブラフマーを千梵と言い、二千世界は二千梵。
        三千梵・四千梵・五千梵・一万梵・十万梵の記述があります。
        五千梵は五つの銀河を支配するブラフマー。
        一万梵は十の銀河を支配するブラフマー。銀河群でも可。
        十万梵は百の銀河の梵でこれは銀河団だと思います。
 中二千世界  第二の千世界。中なる世界が千
        集まっている領域(ダートゥ)だと僕は解釈します。
        これは超銀河団あたりに相当するのではないかと思います。
 三千大千世界 第三の千世界。なぜか千が二つついています。
        グレイトウォールでしょうか。とにかく大きいです。
        第四の千世界の設定がないのは、
        これ以上はキリがないのだと思います。
        あるいは無記の領域に抵触するかです。



伝統的には小千世界・中二千世界・三千大千世界と言われて来ました。しかし、この記述からはそれぞれが「千倍」なのであり、「二千倍」とか「三千倍」という記述はありません。ここから、この二(dvi)とか三(ti)は、倍数の二ではなく四禅のように第一、第二、第三、第四の何番目かを意味するものであると僕は見ています。そうすれば、「小さい世界が千集まった領域」「第二として中の世界が千集まった領域」「第三として大なる千の世界が千集まった領域」として理解できます。言い換えれば「小宇宙・中宇宙・大宇宙」であり、「第一の千世界・第二の千世界・第三の千世界」です。この理解のほうが整合性があります。現状の僕の考えとしては以下のようです。



 太陽系  一世界  太陽が照らす範囲。太陽の重力範囲。
           現状では恒星の神々はトゥシタ天に相当すると考えています。
           そう考えればゴータマが太陽の末裔と
           いうのも整合性が得られます。またトゥシタ天の
           使命感と如来になるという使命が一致します。

 銀河   小千世界  千世界。「千」ですが実際は千以上の恒星があります。
            「小宇宙」とも。天の川銀河は約2000億個の恒星群。
      二千世界  二つの銀河を支配するブラフマーの支配領域。
      三千世界  三つの銀河を支配するブラフマーの支配領域。
      四千世界  四つの銀河を支配するブラフマーの支配領域。
      五千世界  五つの銀河を支配するブラフマーの支配領域。
 銀河群  一万世界  十の銀河を支配するブラフマーの支配領域。
 銀河団  十万世界  百の銀河を支配するブラフマーの支配領域。
            数十から数千個の銀河の集まり。
    
 超銀河団  中世界  銀河団の集まり。1億光年以上の広がり。

 グレートウォール 大世界 超銀河団の集まりによる巨大な壁。
              宇宙の大規模構造はこの壁と超空洞(ボイド)による。
              ゴータマはこの領域まで光で満たして声を聞かせる。

 全宇宙    無記の領域




この銀河系の中心部である射手座A*(いてざ・えー・すたー)付近にも超大質量ブラックホールがあるとする仮説があります。果たしてその特異点がこの銀河系としての千世界を主宰するマハーブラフマーの梵宮の物質界における座なのかどうかは不明です。あるいはクエーサーは世界が作られる際の成劫の反映なのか、ホワイトホールとは光天から落ちてきた生ける者たちの出現場なのかも不明です。逆に光天・浄天・広果天や五浄居天などが宇宙のどのような事象に関係するのかも不明です。これらは天眼による確認がなければ全ては仮説にとどまり、どうしても色々な象徴を現象界の様々なことに対応させる知的遊戯に終わりがちです。

ただ僕が全宇宙に慈心を修そうとするとき全宇宙の外に立って、あたかも全宇宙を一つのボールのように見立てて全宇宙に対して慈心を修するというよりは、むしろ、ブラックホールの内側から全宇宙を見るように、全外界の光が僕の目の前に収束するがゆえに全宇宙がまとまったものとして見られる、ゆえにそれはもはや全宇宙というよりは「全外界」と言ったほうが適切だと思うのですが、そのように超重力によってねじ曲げられたものとして慈心を修します。これは僕のただの思考実験であり、慈心を修していない人にも可能なイメージに過ぎません。誰でもこういった思考実験はできます。僕は天眼がありませんから。

僕が思うのは、このような光さえねじ曲げる超重力、それは外界の認識のされ方さえも通常とは異なった認識に変えると思うのですが、そのような認識状態とマハーブラフマーの精神状態は似ていると思います。それぞれのブラックホールの特異点がそれぞれの宇宙の中心になるのだと思います。ゆえに彼らはこここそが全宇宙の中心であり、座であると見ます。これだけの星々が広がる宇宙、それぞれの銀河にブラフマー存在がいるのであれば、どうして彼らが互いに自分の存在に気がつかないのかという疑問があります。しかし、気付かないような必然的な何かがあるのであるとすれば、それはブラックホール内における外界の認識の在り方に何らかのヒントがあるのだと思います。もっとも現象界と梵世とでまったく条件も異なるでしょうが。

このように全外界への考察を巡らしていると、必然的に内界は外界に先行するものだということがわかってきます。それは色界の瞑想である四禅よりも無色界の瞑想である四無色定のほうが上位にあることと同じです。認識者が先立ち、認識される外界は後に来ます。外界は色に依存するところが大です。ゆえに色界とひとくくりにします。ゆえに色界を一時的に認識領域より滅するところの力を得るならば、無限に広がる空間のヴィジョンに意識は飛び込みます。そこからは完全に孤独な世界だと思います。一般的に他者がいることは楽に思え、孤独は苦に思いますが、そこにおいて一時的に欲を滅することができるのであれば、逆に他者がいることこそが苦となり、孤独こそが楽となります。これもまた「滅を楽しむ」ことの一つです。四禅と四無色定と想受滅は段階を追って、五蓋を滅する楽から欲・思考・感情・楽受苦受を滅する楽、さらに削減して、無限の空間、無限の認識、無のヴィジョン、微細な行の順に滅して、最後は一時的には想受を滅し、想受を滅すれば全てが滅します。これらは類推により推察可能です。ゴータマの偉大なところはそれらの滅も楽しいがさらに、貪瞋癡の滅を楽しむことを最上究極と設定したことです。

阿羅漢は五蘊や三界を確かに滅しますが、それは渇愛滅尽と一切の執着対象の完全放棄という意味においてです。他者から見ればまだ生きている阿羅漢には五蘊があるように見えます。しかし阿羅漢自身においてはそれは五蘊でしかなく、五取蘊ではなく、自らの身体であると認識してはいません。そのような阿羅漢と凡夫双方の阿羅漢への認識は異なっています。五蘊の因果連鎖が行なわれていながら、その因果連鎖体はその自身の因果連鎖体を自分であるとして取ることがないという因果連鎖も組み込んだ因果連鎖体です。これをブラフマ存在とかダンマ存在とか別名がありますが、そういうことです。無記のことです。これらは全て僕の類推によるものです。仮説は実証されなければ意味がありません。どんなに壮大な宇宙の科学を学んでも「銀河団を支配する大いなる存在となろう。そのような存在になるための道をこの現在の自分からそちらに道づけることができるだろうか。いかなる原因が銀河団クラスを支配する名色の獲得に導くのだろうか」という信念と努力と念と集中と考察が起きなければ、宇宙のことを考えることをやめたときにはただの凡夫に舞い戻るだけですから。

壮大な世界観と現在の自分の立ち位置を分離したものとして認識しているかぎりは、その学はまだ真の意味で有意義なものとして消化されたとは言えません。壮大な世界観と現在の自分の立ち位置を結び合わせて、何か新しい信念と志につなげて、実際に自分の未来を変えるために、新しい修行を毎日5分でも始めるようにすれば、それが新しい利益に導く流れを作り、それについての知識と確信が生じれば、後は惰性であっても目的は達成できるようになると思います。

僕も色々と考えますが、結局いつも出て来る結論は、自分を作り替える、自分を作り上げる、自分を進歩させるということはやはり時間と労力がかかるということです。そして、時間と労力をかけるしかないということも思い知らされます。そしてさらに、自分だけでなく外界、他者、周りの人々や社会や地球や星々を作り替えようと思ったら、もっと膨大な時間と労力がかかるということです。

結局、全てが思い通りになる魔法というものはなくて、今日も一分一秒でも善想を意図的に作り出して、善なる諸行を蓄積する修行を続ける他ないという現実だけが見えてきます。やはり、在家も出家も現実は厳しいということです。逆にそれを逆手に取って「時間と労力がかかるからこそ手にした力は失われにくい」というのを楽しむべきとも言えます。これは大海の八法の一つで「比丘は徐々に進歩するを楽しむ」という記述があったと思います。


慈心を多く修すれば、世間は厳しくなくなり、優しい世間がだんだん現れてくるとは思います。業の報いによって。それも時間と労力がかかりますが。結局は継続的な努力に全ては還元されると思います。厳密には「自他に利益を結果する継続する正しい努力」です。阿羅漢を目指すにしても五欲を楽しむにしても、忍耐強く努力できない人は聖なる果実も俗なる果実も獲得できません。でもできれば、好きでやってることが正しい努力で、気付いたら善き果実を獲得できていたという方向に自分を持って行けたらとは思います。そのためにも正見と「正精進への善いイメージ」の刷り込みを自分に対して行なわないといけないなと思います。





       ・中部経典 第120経 行生経
        http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=48958359&comm_id=951429
       ・参考トピック「劫に関する原始仏典の記述」
        http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25993138&comm_id=951429
  









[原文]


10. Cūḷanikāsuttaṃ

81. Atha kho āyasmā ānando yena bhagavā tenupasaṅkami; upasaṅkamitvā bhagavantaṃ abhivādetvā ekamantaṃ nisīdi . Ekamantaṃ nisinno kho āyasmā ānando bhagavantaṃ etadavoca – ‘‘sammukhāmetaṃ, bhante, bhagavato sutaṃ sammukhā paṭiggahitaṃ – ‘bhagavato, ānanda, sikhissa abhibhū nāma sāvako brahmaloke ṭhito sahassilokadhātuṃ sarena viññāpesī’ti. Bhagavā pana, bhante, arahaṃ sammāsambuddho kīvatakaṃ pahoti sarena viññāpetu’’nti? ‘‘Sāvako so, ānanda, appameyyā tathāgatā’’ti.

Dutiyampi kho āyasmā ānando bhagavantaṃ etadavoca – ‘‘sammukhā metaṃ, bhante, bhagavato sutaṃ sammukhā paṭiggahitaṃ – ‘bhagavato, ānanda, sikhissa abhibhū nāma sāvako brahmaloke ṭhito sahassilokadhātuṃ sarena viññāpesī’ti. Bhagavā pana, bhante, arahaṃ sammāsambuddho kīvatakaṃ pahoti sarena viññāpetu’’nti? ‘‘Sāvako so, ānanda, appameyyā tathāgatā’’ti.

Tatiyampi kho āyasmā ānando bhagavantaṃ etadavoca – ‘‘sammukhāmetaṃ, bhante, bhagavato sutaṃ sammukhā paṭiggahitaṃ – ‘bhagavato, ānanda, sikhissa abhibhū nāma sāvako brahmaloke ṭhito sahassilokadhātuṃ sarena viññāpesī’ti. Bhagavā pana, bhante, arahaṃ sammāsambuddho kīvatakaṃ pahoti sarena viññāpetu’’nti? ‘‘Sutā te, ānanda, sahassī cūḷanikā lokadhātū’’ti? ‘‘Etassa, bhagavā, kālo; etassa, sugata, kālo! Yaṃ bhagavā bhāseyya. Bhagavato sutvā bhikkhū dhāressantī’’ti. ‘‘Tenahānanda, suṇāhi sādhukaṃ manasi karohi, bhāsissāmī’’ti. ‘‘Evaṃ, bhante’’ti kho āyasmā ānando bhagavato paccassosi. Bhagavā etadavoca –

‘‘Yāvatā, ānanda, candimasūriyā pariharanti, disā bhanti virocanā, tāva sahassadhā loko. Tasmiṃ sahassadhā loke sahassaṃ candānaṃ, sahassaṃ sūriyānaṃ, sahassaṃ sinerupabbatarājānaṃ, sahassaṃ jambudīpānaṃ, sahassaṃ aparagoyānānaṃ, sahassaṃ uttarakurūnaṃ, sahassaṃ pubbavidehānaṃ, cattāri mahāsamuddasahassāni, cattāri mahārājasahassāni, sahassaṃ cātumahārājikānaṃ, sahassaṃ tāvatiṃsānaṃ , sahassaṃ yāmānaṃ , sahassaṃ tusitānaṃ, sahassaṃ nimmānaratīnaṃ, sahassaṃ paranimmitavasavattīnaṃ, sahassaṃ brahmalokānaṃ – ayaṃ vuccatānanda, sahassī cūḷanikā lokadhātu.

‘‘Yāvatānanda , sahassī cūḷanikā lokadhātu tāva sahassadhā loko. Ayaṃ vuccatānanda, dvisahassī majjhimikā lokadhātu.

‘‘Yāvatānanda, dvisahassī majjhimikā lokadhātu tāva sahassadhā loko. Ayaṃ vuccatānanda, tisahassī mahāsahassī lokadhātu.

‘‘Ākaṅkhamāno, ānanda, tathāgato tisahassimahāsahassilokadhātuṃ sarena viññāpeyya, yāvatā pana ākaṅkheyyā’’ti.

‘‘Yathā kathaṃ pana, bhante, bhagavā tisahassimahāsahassilokadhātuṃ sarena viññāpeyya, yāvatā pana ākaṅkheyyā’’ti? ‘‘Idhānanda, tathāgato tisahassimahāsahassilokadhātuṃ obhāsena phareyya. Yadā te sattā taṃ ālokaṃ sañjāneyyuṃ, atha tathāgato ghosaṃ kareyya saddamanussāveyya. Evaṃ kho, ānanda, tathāgato tisahassimahāsahassilokadhātuṃ sarena viññāpeyya, yāvatā pana ākaṅkheyyā’’ti.

Evaṃ vutte āyasmā ānando, etadavoca – ‘‘lābhā vata me, suladdhaṃ vata me, yassa me satthā evaṃmahiddhiko evaṃmahānubhāvo’’ti. Evaṃ vutte āyasmā udāyī āyasmantaṃ ānandaṃ etadavoca – ‘‘kiṃ tuyhettha, āvuso ānanda, yadi te satthā evaṃmahiddhiko evaṃmahānubhāvo’’ti? Evaṃ vutte bhagavā āyasmantaṃ udāyiṃ etadavoca – ‘‘mā hevaṃ, udāyi, mā hevaṃ, udāyi. Sace, udāyi, ānando avītarāgo kālaṃ kareyya, tena cittappasādena sattakkhattuṃ devesu devarajjaṃ kāreyya, sattakkhattuṃ imasmiṃyeva jambudīpe mahārajjaṃ kāreyya. Api ca, udāyi, ānando diṭṭheva dhamme parinibbāyissatī’’ti. Dasamaṃ.

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