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原始仏典コミュの中部経典 第152経 根修習経(全訳)

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(『南伝大蔵経11下 中部経典4』大蔵出版 P433−439 に相当) 



  中部経典 第152経 根修習経[インドリヤバーヴァナー・スッタ]

「   第十 根修習経

453.このように私は聞いた。
 あるとき先生はガジャンガラーのスヴェール林に住んでいた。
 ときにパーラーサリヤの内弟子であるウッタラ青年は先生を訪ねた。訪ねて先生と共に挨拶した。挨拶して記憶すべき会話を交わして一方に座った。一方に座ったパーラーサリヤの内弟子であるウッタラ青年に先生はこう言った。
 ウッタラ、パーラーサリヤ・バラモンは弟子たちに根の修習を説くか。
 ゴータマさん、パーラーサリヤ・バラモンは弟子たちに根の修習を説きます。
 ウッタラ、それではどのようにパーラーサリヤ・バラモンは弟子たちに根の修習を説くのか。
 ゴータマさん、ここに眼によって色を見ず、耳によって声を聞きません。
 ゴータマさん、このようにパーラーサリヤ・バラモンは弟子たちに根の修習を説きます。
 ウッタラ、もしパーラーサリヤ・バラモンが言った通りであるならば盲者が根の修習者となり、聾者が根の修習者となるだろう。
 ウッタラ、実に盲者は眼によって色を見ず、聾者は耳によって声を聞かないのだから。
 このように言われてパーラーサリヤ・バラモンの内弟子であるウッタラ青年は沈黙し当惑し肩を落とし、俯いて落胆して返答できずに座った。

 ときに先生はパーラーサリヤ・バラモンの内弟子であるウッタラ青年が沈黙し当惑し肩を落とし、俯いて落胆して返答できずに座ったのを見て尊者アーナンダに呼びかけた。
 アーナンダ、パーラーサリヤ・バラモンは弟子たちに根の修習を説くが、しかしアーナンダ、聖者の律における無上の根の修習はこれとは異なっている。
 先生、今がその時です。善きところに達した方、今がその時です。
 先生は聖者の律における無上の根の修習を説いてください。先生から聞いて比丘たちは受持するでしょう。
 アーナンダ、それならば聞いてよく考えなさい。説こう。
 「はい、先生」と尊者アーナンダは先生に応えた。先生はこう言った。

454.アーナンダ、では何が聖者の律における無上の根の修習なのか。
 アーナンダ、ここに比丘は眼によって色を見て可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じる。
 彼はこのように知る。
 「私にこの可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じた。
 そしてそれは有為であり、粗く、縁によって生起したものである。
 しかし捨、これは寂静であり、これは優れている」と。
 彼はその生じた可意、生じた不可意、生じた可意不可意は滅し、捨に住する。
 アーナンダ、たとえば眼ある人が開いた眼を閉じたり、閉じた眼を開いたりする。
 アーナンダ、このようにいかなるものであってもこのように速やかに、このように急速に、このように容易に、生じた可意、生じた不可意、生じた可意不可意を滅し、捨に住する。
 アーナンダ、これが聖者の律における無上の根の修習である眼による色の認識と言われる。
455.アーナンダ、また比丘は耳によって音を聞いて可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じる。
 彼はこのように知る。
 「私にこの可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じた。
 そしてそれは有為であり、粗く、縁によって生起したものである。
 しかし捨、これは寂静であり、これは優れている」と。
 彼はその生じた可意、生じた不可意、生じた可意不可意は滅し、捨に住する。
 アーナンダ、たとえば力ある人は容易に指を弾く。
 アーナンダ、このようにいかなるものであってもこのように速やかに、このように急速に、このように容易に、生じた可意、生じた不可意、生じた可意不可意を滅し、捨に住する。
 アーナンダ、これが聖者の律における無上の根の修習である耳による音の認識と言われる。
456.アーナンダ、また比丘は鼻によって香を嗅いで可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じる。
 彼はこのように知る。
 「私にこの可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じた。
 そしてそれは有為であり、粗く、縁によって生起したものである。
 しかし捨、これは寂静であり、これは優れている」と。
 彼はその生じた可意、生じた不可意、生じた可意不可意は滅し、捨に住する。
 アーナンダ、たとえばわずかに傾いた蓮の葉に水が触れると動いて住することがない。
 アーナンダ、このようにいかなるものであってもこのように速やかに、このように急速に、このように容易に、生じた可意、生じた不可意、生じた可意不可意を滅し、捨に住する。
 アーナンダ、これが聖者の律における無上の根の修習である鼻による香の認識と言われる。
457.アーナンダ、また比丘は舌によって味を味わって可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じる。
 彼はこのように知る。
 「私にこの可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じた。
 そしてそれは有為であり、粗く、縁によって生起したものである。
 しかし捨、これは寂静であり、これは優れている」と。
 彼はその生じた可意、生じた不可意、生じた可意不可意は滅し、捨に住する。
 アーナンダ、たとえば力ある人は舌で痰唾の固まりを集めて容易に吐き出す。
 アーナンダ、このようにいかなるものであってもこのように速やかに、このように急速に、このように容易に、生じた可意、生じた不可意、生じた可意不可意を滅し、捨に住する。
 アーナンダ、これが聖者の律における無上の根の修習である舌による味の認識と言われる。
458.アーナンダ、また比丘は身によって触れられるものに触れて可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じる。
 彼はこのように知る。
 「私にこの可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じた。
 そしてそれは有為であり、粗く、縁によって生起したものである。
 しかし捨、これは寂静であり、これは優れている」と。
 彼はその生じた可意、生じた不可意、生じた可意不可意は滅し、捨に住する。
 アーナンダ、たとえば力ある人は曲げた腕を伸ばしたり、伸ばした腕を曲げたりする。
 アーナンダ、このようにいかなるものであってもこのように速やかに、このように急速に、このように容易に、生じた可意、生じた不可意、生じた可意不可意を滅し、捨に住する。
 アーナンダ、これが聖者の律における無上の根の修習である身による触れられるものの認識と言われる。
459.アーナンダ、また比丘は意によって法を認識して可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じる。
 彼はこのように知る。
 「私にこの可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じた。
 そしてそれは有為であり、粗く、縁によって生起したものである。
 しかし捨、これは寂静であり、これは優れている」と。
 彼はその生じた可意、生じた不可意、生じた可意不可意は滅し、捨に住する。
 アーナンダ、たとえば力ある人が一日中熱せられた鉄板に二三滴の水を落とす。
 アーナンダ、ゆっくりと水滴を落とすと、そのときそれは速やかに(蒸発し)遍尽し遍滅する。
 アーナンダ、このようにいかなるものであってもこのように速やかに、このように急速に、このように容易に、生じた可意、生じた不可意、生じた可意不可意を滅し、捨に住する。
 アーナンダ、これが聖者の律における無上の根の修習である意による法の認識と言われる。
460.アーナンダ、それでは何が有学の行道なのか。
 アーナンダ、ここに比丘は眼によって色を見て可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じる。
 彼はその生じた可意、生じた不可意、生じた可意不可意を愧(は)じ、慚(は)じ、厭嫌(えんけん)する。
 ここに比丘は耳によって音を聞いて可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じる。
 彼はその生じた可意、生じた不可意、生じた可意不可意を愧じ、慚じ、厭嫌する。
 ここに比丘は鼻によって香を嗅いで可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じる。
 彼はその生じた可意、生じた不可意、生じた可意不可意を愧じ、慚じ、厭嫌する。
 ここに比丘は舌によって味を味わって可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じる。
 彼はその生じた可意、生じた不可意、生じた可意不可意を愧じ、慚じ、厭嫌する。
 ここに比丘は身によって触れられるものを触れて可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じる。
 彼はその生じた可意、生じた不可意、生じた可意不可意を愧じ、慚じ、厭嫌する。
 ここに比丘は意によって法を認識して可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じる。
 彼はその生じた可意、生じた不可意、生じた可意不可意を愧じ、慚じ、厭嫌する。
 アーナンダ、これが有学の行道である。
461.アーナンダ、それでは何が聖者の修習された根なのか。
 アーナンダ、ここに比丘は眼によって色を見て可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じる。
 彼がもし「違逆(不快なこと)において不違逆想(不快でないと思う)に住そう」と望むならば、そのときは不違逆想に住する。
 もし「不違逆において違逆想に住そう」と望むならば、そのときは違逆想に住する。
 もし「違逆と不違逆において不違逆想に住そう」と望むならば、そのときは不違逆想に住する。
 もし「不違逆と違逆において違逆想に住そう」と望むならば、そのときは違逆想に住する。
 もし「違逆と不違逆のその両方を避けて捨に住し念じて自覚していよう」と望むならば、そのときは捨に住し念じて自覚している。
462.アーナンダ、また比丘は耳によって音を聞いて可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じる。
 彼がもし「違逆において不違逆想に住そう」と望むならば、そのときは不違逆想に住する。
 もし「不違逆において違逆想に住そう」と望むならば、そのときは違逆想に住する。
 もし「違逆と不違逆において不違逆想に住そう」と望むならば、そのときは不違逆想に住する。
 もし「不違逆と違逆において違逆想に住そう」と望むならば、そのときは違逆想に住する。
 もし「違逆と不違逆のその両方を避けて捨に住し念じて自覚していよう」と望むならば、そのときは捨に住し念じて自覚している。
 アーナンダ、また比丘は鼻によって香を嗅いで可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じる。
 彼がもし「違逆において不違逆想に住そう」と望むならば、そのときは不違逆想に住する。
 もし「不違逆において違逆想に住そう」と望むならば、そのときは違逆想に住する。
 もし「違逆と不違逆において不違逆想に住そう」と望むならば、そのときは不違逆想に住する。
 もし「不違逆と違逆において違逆想に住そう」と望むならば、そのときは違逆想に住する。
 もし「違逆と不違逆のその両方を避けて捨に住し念じて自覚していよう」と望むならば、そのときは捨に住し念じて自覚している。
 アーナンダ、また比丘は舌によって味を味わって可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じる。
 彼がもし「違逆において不違逆想に住そう」と望むならば、そのときは不違逆想に住する。
 もし「不違逆において違逆想に住そう」と望むならば、そのときは違逆想に住する。
 もし「違逆と不違逆において不違逆想に住そう」と望むならば、そのときは不違逆想に住する。
 もし「不違逆と違逆において違逆想に住そう」と望むならば、そのときは違逆想に住する。
 もし「違逆と不違逆のその両方を避けて捨に住し念じて自覚していよう」と望むならば、そのときは捨に住し念じて自覚している。
 アーナンダ、また比丘は身によって触れられるものに触れて可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じる。
 彼がもし「違逆において不違逆想に住そう」と望むならば、そのときは不違逆想に住する。
 もし「不違逆において違逆想に住そう」と望むならば、そのときは違逆想に住する。
 もし「違逆と不違逆において不違逆想に住そう」と望むならば、そのときは不違逆想に住する。
 もし「不違逆と違逆において違逆想に住そう」と望むならば、そのときは違逆想に住する。
 もし「違逆と不違逆のその両方を避けて捨に住し念じて自覚していよう」と望むならば、そのときは捨に住し念じて自覚している。
 アーナンダ、また比丘は意によって法を認識して可意が生じ、不可意が生じ、可意不可意が生じる。
 彼がもし「違逆において不違逆想に住そう」と望むならば、そのときは不違逆想に住する。
 もし「不違逆において違逆想に住そう」と望むならば、そのときは違逆想に住する。
 もし「違逆と不違逆において不違逆想に住そう」と望むならば、そのときは不違逆想に住する。
 もし「不違逆と違逆において違逆想に住そう」と望むならば、そのときは違逆想に住する。
 もし「違逆と不違逆のその両方を避けて捨に住し念じて自覚していよう」と望むならば、そのときは捨に住し念じて自覚している。
463.アーナンダ、このように私は聖者の律における無上の根の修習を説き、有学の行道を説き、聖者の修習された根を説いた。
 アーナンダ、師が弟子の利益を憐れんで憐れみを取ることによって為すべきところのもの、それを私はあなたたちに為した。
 アーナンダ、このような樹下がある。このような空家がある。
 アーナンダ、ジャーナしなさい。放逸になってはならない。後に後悔する者となってはならない。
 これが私の教えである。
 このように先生は言った。意を得た尊者アーナンダは先生が説いたことを喜んだ。


                   第十 根修習経  終


      第五 六処品  終


   その頌
    アナータピンディカとチャンナ、プンナとナンダカとラーフラ、
    六六と六処、ナガラヴィンダと清浄、
    根修習との五つの教誡。
 
   この品の頌
    神々と不断と、空無と分別、
    六処品が後分五十経として住する。

             後分五十経  終





      中部経典[マッジマ・ニカーヤ]  終



                            」


 『南伝大蔵経11下 中部経典4』大蔵出版 P433−439 に相当








 註 根の修習 インドリヤ・バーヴァナー indriya bhāvanā
   無上の根修習 アヌッタラ・インドリヤ・バーヴァナー anuttara indriya bhāvanā
   聖者の律 アリヤッサ・ヴィナヤ ariyassa vinaya 聖者の教え、聖なる教え
   可意 マナーパ manāpa 意にかなうこと、喜びの別名
   不可意 アマナーパ amanāpa 意にかなわないこと、不快感の別名
   有為 サンカタ saṅkhata 為されたもの、形成されたもの
   粗い オーラーリカ oḷārika
   縁によって生起したもの paticca samuppanna 縁起と同語
   捨 ウペッカー upekkhā 解釈が難しい語、「捨根は不苦不楽受」とある。
   滅する ニルッジャティ nirujjhati
   住する サンターティ saṇṭhāti
   速やかに sīgha
   急速に tuvaṭa
   容易に appakasira
   有学の行道 sekha paṭipadā セーカ・パティパダー 学ぶ者の修行道
   愧じる aṭṭīyati 悩むとあるがottappaの変形と見る。慚愧の愧。他への恥。
   慚じる harāyati 慚愧の慚。他者は関係なく自己嫌悪する。
   厭嫌する jigucchati 苦行として贅沢を避ける語としても使う。忌避。






 1.聖者の律における無上の根の修習

 六根で六境を識する → 可意不可意が生じる → 瞬時に捨す

  眼・・・瞬きするように一瞬で捨に達し住する
  耳・・・指を弾くように一瞬で捨に達し住する
  鼻・・・葉が水を弾くように一瞬で捨に達し住する
  舌・・・唾を吐くように一瞬で捨に達し住する
  身・・・腕を曲げ伸ばしするように一瞬で捨に達し住する
  意・・・鉄板の水が蒸発するように一瞬で捨に達し住する

   捨は寂静であり、優れており、そこにおいては
   一切行は静止し、一切の執着対象は放棄され
   渇愛は滅尽、離貪し、滅し、涅槃する。



 2.有学の行道

 六根で六境を識する → 可意不可意が生じる → 捨せないが恥じて頑張る


 3.聖者の修習された根

 六根で六境を識する → 可意不可意が生じる → 望むがままに住する

  違逆・・・・・・・不違逆想にも住せる
  不違逆・・・・・・違逆想にも住せる
  違逆と不違逆・・・不違逆想にも住せる
  不違逆と違逆・・・違逆想にも住せる
  違逆と不違逆・・・両方を避けて念じて自覚して捨にも住せる


 

根の修習にも差異があり、個性があると思います。違逆想に住するのが得意な人もいれば、不違逆想に住するのが得意な人もいると思います。これらのうち、捨住こそが最上無上であると説くのが聖者の律における無上の根の修習です。四念処マスターであるアヌルッダはこの違逆想・不違逆想・捨住において自在を得ていることを説いています。四念処を修習するがゆえなりと。また3の記述は「聖なる無漏無依の神通」と同じ記述です。

この経の根修習は三学(戒→根防護→食量知→覚醒→自覚→満足→断蓋→四禅→二智→六通)のうち、二番目の根防御の究極形態だと思います。苦因という悪を生じないようにすればいい、それが無害と根防御という二本立てです。それが三学の最初の二つである戒と根防御です。戒は内から外界に出る悪を制御し、根防御は外界から内に入って来る悪を制御します。苦因が生じないならば苦は生じない、これが修行の完成です。後は好きに暮らします。

根防御は瞑想の準備事項であるかのように思われますが、初禅もその上の瞑想も意根の防御に他ならず、また四諦知においても六処において苦があるか、六処を防御できず漏が生じて苦因が生じていないか、苦因を六根防御によって滅したか、苦因を防御するための八支が見えているか自分にあるかという知と密接に関わっています。

僕は「さらに上の防御、さらに上の防御」とひたすら繰り返し念じて、防御力を高め続けています。お風呂に入って熱過ぎるときや外が寒くて震ってしまうときなどの極度な苦痛や極度な快楽が生じるときは「さらに上の防御、さらに上の防御」とひたすら念じて繰り返しています。こうすればさらに心の防御力が上がって快感や不快感に打ち勝って暮らせるだろうと考えて。快感や不快感に勝てばそれだけ勝手に起動する雑念の思考ルーチンのスイッチも入りにくくなり、心学慧学に利すると思います。

ゲームでも防御力がマックスならば無敵であり全てがノーダメージとなります。心の防御力がマックスであるならば、無常・苦・無我も何のその、全宇宙にいかなる変化が起きても心は完全に不動であり、自分の意志のままに心を転じ、外界と内界の変化から完全に超越して暮らすことができます。

それゆえにこそ、戒の次に根防御が来るのだと思います。根防御によって心を修めつつ、修められた心で四諦知を深めて行くならば現実に生じて滅することを繰り返すこの自らの内の苦因である貪り・渇愛・執着などの心の動き、それらは念じて自覚され、「これは悪である」と知れば速やかに捨て、「これは善である」と知れば速やかに増大する心の動きが必然的に生じるだろうと見ます。

この中部経典のラストを飾る根修習経は数少ない「空家の法門」の一つです。削減経は悪徳を全方位から徹底的に攻撃して敵軍の全滅を計ります。一方で根修習経は六つの敵軍が出入りする門の防備を固めることによって、漏法に対する完全永続的な結界構築を目指します。この六根防御については相応部の六処篇にも参考になる記述が多くあります。ただやはりこの「根修習経」だけでも修行内容としては十分な記述だと思います。それゆえにこその「空家の法門」です。





1.聖者の律における無上の根の修習

454. ‘‘Kathañcānanda, ariyassa vinaye anuttarā indriyabhāvanā hoti? Idhānanda, bhikkhuno cakkhunā rūpaṃ disvā uppajjati manāpaṃ, uppajjati amanāpaṃ, uppajjati manāpāmanāpaṃ. So evaṃ pajānāti – ‘uppannaṃ kho me idaṃ manāpaṃ, uppannaṃ amanāpaṃ, uppannaṃ manāpāmanāpaṃ . Tañca kho saṅkhataṃ oḷārikaṃ paṭiccasamuppannaṃ. Etaṃ santaṃ etaṃ paṇītaṃ yadidaṃ – upekkhā’ti. Tassa taṃ uppannaṃ manāpaṃ uppannaṃ amanāpaṃ uppannaṃ manāpāmanāpaṃ nirujjhati; upekkhā saṇṭhāti. Seyyathāpi, ānanda, cakkhumā puriso ummīletvā vā nimīleyya, nimīletvā vā ummīleyya; evameva kho, ānanda, yassa kassaci evaṃsīghaṃ evaṃtuvaṭaṃ evaṃappakasirena uppannaṃ manāpaṃ uppannaṃ amanāpaṃ uppannaṃ manāpāmanāpaṃ nirujjhati, upekkhā saṇṭhāti – ayaṃ vuccatānanda, ariyassa vinaye anuttarā indriyabhāvanā cakkhuviññeyyesu rūpesu.


2.有学の行道

460. ‘‘Kathañcānanda , sekho hoti pāṭipado? Idhānanda, bhikkhuno cakkhunā rūpaṃ disvā uppajjati manāpaṃ, uppajjati amanāpaṃ, uppajjati manāpāmanāpaṃ. So tena uppannena manāpena uppannena amanāpena uppannena manāpāmanāpena aṭṭīyati harāyati jigucchati. So tena uppannena manāpena uppannena amanāpena uppannena manāpāmanāpena aṭṭīyati harāyati jigucchati. Evaṃ kho, ānanda, sekho hoti pāṭipado.


3.聖者の修習された根

461. ‘‘Kathañcānanda, ariyo hoti bhāvitindriyo? Idhānanda, bhikkhuno cakkhunā rūpaṃ disvā uppajjati manāpaṃ, uppajjati amanāpaṃ, uppajjati manāpāmanāpaṃ. So sace ākaṅkhati – ‘paṭikūle appaṭikūlasaññī vihareyya’nti, appaṭikūlasaññī tattha viharati. Sace ākaṅkhati – ‘appaṭikūle paṭikūlasaññī vihareyya’nti, paṭikūlasaññī tattha viharati. Sace ākaṅkhati – ‘paṭikūle ca appaṭikūle ca appaṭikūlasaññī vihareyya’nti, appaṭikūlasaññī tattha viharati. Sace ākaṅkhati – ‘appaṭikūle ca paṭikūle ca paṭikūlasaññī vihareyya’nti, paṭikūlasaññī tattha viharati. Sace ākaṅkhati – ‘paṭikūlañca appaṭikūlañca tadubhayaṃ abhinivajjetvā upekkhako vihareyyaṃ sato sampajāno’ti, upekkhako tattha viharati sato sampajāno.

コメント(16)

うーんさすがです。

これで解脱に向けて歩む…。
久しぶりの翻訳でしたが、お役に立てたようでよかったです。

また要望等がありましたら気軽に言ってください。
四無量心のうちの捨無量を修習しているようで素晴らしいです。四無量心の捨も、捨覚支の捨も、この記述における捨も全て同じ単語である「upekkhā」(ウペッカー)です。ですからeさんの修行は根防御の修行にリンクしており正しい実感だと思います。これは一石三鳥になるかも知れません。

四無量を行なう人は非常に少ないです。コミュニティを見ると多くの人が慈心等を修しているように思うかも知れませんが、実生活で周りの人を見るとほとんどの人が「優しい気持ちを意図的に作り出す」ということをしていない人ばかりだということに気付かれると思います。

別に勝ち負けや慢や出し抜くことを助長するつもりはありませんが、そのように四無量を修する人が周りにいないならば、四無量をわずかでも修しているその人が仲間内では最上の人間であるということです。あるいは最上になる素質を持っているということです。仲間内でもっとも優れた者となり、しかも劣っている仲間を見下さないならば、それは無罪です。優劣は事実です。優劣の事実を認識して且つ心を汚さなければ無罪です。そしてそれは可能です。もっとも様々な能力があるうちの梵力においてのみ優れているということなのですが、しかし梵性は善人として最重要の資質の内の一つですから、その他の能力や技術よりも遥かに優先されるべき力です。

四無量を修する自分がどれだけ希少価値の人間かということを自覚し、また四無量を修習することを原因としてどのような福が結果するかということを時に応じて考察すれば、ますます心は四無量に自然に向かうと思います。たまに家族や友人を対象に実験と観察を繰り返せばますます確信に到ると思います。

僕は一日にわずかでも四無量を行なう人であるならば、仕事をしている人でも主婦の人でも無職の人でも応援したいです。将来の生計が不安になるならば、その分だけ慈心を修すれば気持ちも安心して落ち着きます。検証を繰り返すことも安心感を増大しますのでおすすめです。
はじめまして

こちらのトピックで勉強させていただいています。大変ありがたい内容の掲載をありがとうございます。

根修習について教えていただきたいです。

掲載時に読んだときの感想ですが、このトピックを読ませていただいて、なんとなく般若経典に通ずるものがあるなぁと思いました。

それはさておいて、今ちょうど、歯痛を感じるようになったので、この根修習を試しています。そのときに、痛みを我慢するでもなく、痛みを感じないようにするでもなく、痛みを痛みと感じた上でそれを不快としない。ということかなぁと思っているのですが、それで良いのでしょうか。(一応誤解のないように詳しくしますと、痛みを我慢する→我慢しているということは不快感ということ、痛みを感じないようにする→例えばほかの事に熱中すると痛みを忘れることができる)受想行識まではどうすることもできないし、ありのままに受け取るべきかと思うので、その次の意をコントールすることかと思っているのですが、それでよろしいのでしょうか?
はじめまして、けいごさん。


僕も正確なことはまだ言えないのですが、けいごさんのおっしゃる通り「痛みを痛みと感じた上でそれを不快としない」ということでよいと思います。この場合は捨の修行になると思います。「痛みを感じるのを快感にする」ならば不違逆想の修行になると思います。

「痛みを我慢するでもなく」とありますが、我慢でいいと思います。「痛みを我慢する想」を無限に繰り返せば痛みを容易に我慢する能力が身に付くことが予期されるからです。この「痛みを我慢する想」が完全にゼロだと心は痛みにつれて感じる苦受のままに放置されます。条件反射的に心もそれを我慢しようとするでしょうから、それはそれで嫌でも修行になると思いますが。

「他のことに熱中して痛みを感じないようにする」場合は、根修習の想が存在していませんので防御力は上がりません。ただときには誤摩化すのも必要だと思います。根の修行は苦しいときしかできないものではなく、平時でもできますから。いつまでも痛みと向かい続けると精神が疲労して不機嫌になって三悪行を行ないかねませんので。

理想は「歯が痛くなくなればよい」ということだと思いますが、これは治療して自然治癒させるか、神通で治すしかないと思います。苦をもたらす接触があるとき必ず苦が生起します。しかしこの苦をもたらす接触が永遠でないということが救いです。

歯の苦しみの接触がいつ終わるかは状況によりますので、今回は心の苦しみの接触を滅するために「嫌じゃない」というような想や「何とも思わない」というような捨想を繰り返し繰り返し起こすことによって防御力を高めるのが推奨されます。

しかしこの防御力も一日で鍛え抜くこともできないので、どうしてもしばらくは歯も痛いし、心も悩まされるしということが続くと思います。ですので、ときには気分を紛らわして自分の気持ちよいように過ごされるのがよいと思います。元気になってからでも修行できるのが根修習ですので。

根修習の修行は楽受のときでも苦受のときでも不苦不楽受のときでもいつでも修行できます。今回は苦受が生じていますのでそれがよい修行の機会となっています。このとき根の修行をしない人も根の修行をする人も同様に歯痛の苦受を感受します。では何が差異となるかというと、根の修行をしない人は歯も痛いし防御力も向上せず、心の苦受を意図的に減少せずに放置の経過を辿りますが、根の修行をする人は歯は痛いけれど防御力は向上し、心の苦受は防御を実践しているうちは若干、減少します。

 痛いまま放置する → 防御力に変化なし
 痛いから誤摩化す → 防御力に変化なし
 痛いから修行する → 防御力が少し向上
 痛みをなくしたい → 今すぐは不可能

苦受をきっかけに行なう根防御は古今東西にある典型的な苦行の方法で、強靭な意志力によって身体の苦痛をねじ伏せるというところに意義があると思います。後はそのような防御力が実在するということを信じることと、「耐えるぞ。耐えるぞ」とか「これしきの痛み何でもない。何でもない」など自分の気に入った文句とヴィジョンを繰り返すことによってその防御力は向上するのだという、このことも信じれば実践するに足りると思います。

心の防御力もやはり筋トレと同じで、毎日毎日繰り返し繰り返しやらないと鍛えれないと思います。しかし時間をかけて鍛えた力はすぐには失われないのでそれが慰めになると思います。

「苦痛に慣れる」というのも無意識に行なっている根修習の一環だと思います。鬼ごっこをただ楽しくてやってる子供が知らない間に足が早くなっているようなものです。同程度の苦しみがしばらく持続する場合は最初が一番辛くて最後が一番楽になっていると思います。苦痛レベルに変化がないのに心の苦受が減少するのは、やはり自然に慣れるからだと思います。この過程を意図的に操作するのが根の修習です。


歯痛はとても痛いので本当にご愁傷さまですが、けいごさんに微力ながら悲心を修します。
追記ですが「誤摩化す」場合は、根本的な解決には至らない場合もあると思います。

怪我など放置していて治るものは誤摩化して気分を紛らわせれば知らない間に完治することもあると思いますが、心の傷や人間関係のストレスなどは誤摩化し続けて、蓋をし続けても、溜まり続けていつか爆発すると思います。「誤摩化す力」というのはある意味で捨力・定力と言えるかも知れません。その力はあって困るものではありませんが、因果連鎖上、誤摩化すだけでは根本的解決に至らないケースもあるということは覚えておいて損はないと思います。

やはり苦因は根本から断つことが必要ということだと思います。
ありがとうございます。ものすごく明晰な分析がいただけて非常に勉強になりました。

歯痛は強烈なのでその分サティもしやすいですし、自分の体を敢えて痛めつけることでもないので、ちょうど良いかなと思って試してみました。痛いのが銀歯で、冷たいのがしみる痛みが強烈に来るという感じなので、しばらく様子を見てみてから、虫歯のようだったら大人しく歯医者に行こうと思います。
本当にお大事に。良心的な歯医者にあたるといいですね。
今回の歯痛を通しての私なり研究成果です。興味があったらご覧下さい。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1420114599&owner_id=18836655

私は間違いないと思っていますが、仏典を典拠にしてしっかり確認をしていないので、単なる私の思い込みの可能性もあります。間違っていたらご指摘をしていただけるとありがたいです。
修行の成果が出ていて素晴らしいです。

根修習をしていない普通の人が五感による身の苦受を受けると、それに連動して心も苦受を感じます。そのとき心の苦受の原因の一つとして確かに身の苦受があるけれども、それは分離が可能であり、本当の心の苦受の原因は「身の苦受に反発する心の思い・想・ヴィジョン」であったということ、そして修習していない人は身の苦受と心の苦受を一緒くたにしてしまい分離して見切ることが困難であること、そしてその心の苦受は心の苦受原因である想を観察し見切ることによって捨に達することで心の苦受原因の減少と滅に至ること、それをけいごさんはあのように表現されたのだと思います。そして確かに受・想を完全に知り尽くして遍知すれば、そこに無漏の心解脱・慧解脱もあると思います。

またけいごさんが「我慢も大事だが、観察はもっと大事」という主旨のことを言っているのは正しいと思います。我慢とは違逆(不快なこと)に対して圧倒的な意志力による違逆想をもって対することによって苦痛と不快なことを克服するための根修習です。これはおっしゃる通りヴィパッサナーとは異なります。ヴィパッサナーとは自分が五感の接触によって生じる感受、その感受を原因として生じる心の想、その心の想との接触を原因として生じる心の感受、これらを分離してその因果連鎖を見切ることですが(できればそこにある五蘊の無常性・苦性・無我性も見切る)、これは念覚支に伴う択法覚支であり、連鎖して捨覚支を結果するので、感受の克服にもっとも寄与するものです。それを実体験からけいごさんはあのように言われたのだと思います。

一方で我慢は違逆想によって違逆も不違逆も徹底的に制圧することが可能ですが、捨を意図的に修習しないかぎりは無漏でなく有漏にとどまります。それゆえに「聖者の律における無上の根修習」とは一瞬のうちに捨に達する記述であるのだと思います。ゆえにヴィパッサナーとこの我慢とは異なる作業、異なる想、異なる行であり、観察・ヴィパッサナー・択法覚支は違逆想の修習よりも優れています。

しかし違逆想・非違逆想の修習も捨の修習同様にもちろん修習されるべきですが。それ(我慢も大事ということ)もけいごさんのおっしゃる通りです。歩行瞑想の成果が出ていて大変結構だと思います。歩行瞑想によって高められた念力・念覚支に伴う択法覚支としての観察とヴィパッサナー、それによって結果された歯痛という身体の苦受への捨、素晴らしいです。

僕は偉そうなこと書いていますが、痛いの、かゆいの、気持ち悪いの、寒いのが全て苦手で随分と防御力が低いので自分でも情けなくなります。だいたい風呂に入る前は寒過ぎて「ヒーッ」と心の中で叫んでいますし、風呂に入ると逆に熱過ぎて「ギャーッ」と叫んでいます。叫びながらも一応根修習の努力はしていますが。努力はしているのですが修行の成果が出る前に冬が終わりそうです。いや、もう来週には春らしくなりそうですから、修行の内容も考えないと。当分は無害と慈心を雪解け水みたいにチョロチョロ続けることになりそうですが。何はともあれ歯痛がおさまって良かったですね。

けいごさんのように自ら実践して検証するのは素晴らしいことです。
親切に教えていただき、ありがとうございます。私としても自信がもてました。

実は、私がぺこちゃんさんはすごいなと思った点に、何でも細かく明晰に、そして、とことんまで分析しようとする姿勢があります。今回も、当事者の私以上にものごとを分析してみえます。その姿勢を見習って、痛みと向かい合った結果、今回の観察をすることができました。もちろん、仏典に精通してみえる点とそのことに対する熱意も素晴らしいと思います。大変勉強になりました。ありがとうございます。
>けいごさん

最近は去年ほど原始仏典をあまり読んでいなくて。とりあえず原始仏教に関する最低限の情報は紹介したので、自分の修行と検証も大切にしていこうと思っています。「自分で確認していないことを広めるのはどうなのか」と思ったのもあります。無害や慈心や初禅はすでに経験則でほぼ確認していますし、四諦知からはじまる八正道のほうも理論上は大丈夫ですが、神通についてはまだ未検証の段階です。検証といいつつ体調不良を言い訳にあまり修行をやっていないのですが。けいごさんに触発されて僕も念身を久しぶりにしたくなりました。


>マイベストフレンドさん

僕の書き込みや翻訳は営利目的や商用でなく、善意で利用していただけるのであれば、好きにコピペしたり紹介したり配布したりして構いません。僕はお金を取ることは考えていませんので。お金を取っても堕落しないことは可能かも知れませんが、僕はまだ自信がないので。五欲は本当に甘くないと思います。僕の翻訳は遠慮なくご自由にプリントアウトしてください。
>ぺこちゃんさん

お体を悪くされていたのですか。なんとなく体調が優れないということでしたら、骨盤健康法を試してみてください。簡単な体操の割にはなかなか効きますし、塞ぎこむような気分も軽減されます。神通は一朝一夕、もとい一生でも身に付くものではないでしょうし、気を長くしないとならないかもしれないですね。私は、今までの生と次の生が間違いなくあると確信してから、良い意味でかなり気が長くなりました。お体の具合もよくなるといいですね。
心配していただいてありがたいです。

無害想をすると身体の歪みも治って一石二鳥なので、それで少なくとも春までは無害の修行をやろうと思っているんです。だいぶよくなってきましたので、きっと四月には新しい出発ができるのではないかと淡い期待をしています。今日は急に春めいたようで、でも「こんな体調では外に出れない」と思い、無駄にもやもやしました。

身体の歪みが気になる方にも「絶対に自分も他人も傷付けてはいけない」という無害想をおすすめしたいです。布団に入ってからなど静かにして「絶対に自分も他人も傷付けていけない」と念じていると身体の筋肉の一部が自然に力むのが感じられると思います。足がつるのは身体が歪みを治そうとする正しい反応だと思います。つったままにすると逆に楽になりますから。身体が歪んでいるというよりも筋繊維が変な風に違えているのだと僕は考えています。

業の報いももちろんあるとは思いますが、僕は性格が体質と体格を作っていると考えているので、無害想を十分繰り返し念じた欠点の少ない性格は、過不足のない体型と容姿を結果するのではないかと考えています。三十二相の獲得においても悪を為さないことが善き容姿の獲得の原因になっている記述は見いだされます。

その検証のためにも今は無害の修行をしています。もちろん病気の原因は内だけでなく外からも色々とあると思いますが、まずは内からということで。ただあんまり一気に無害想をやり過ぎると、次の日は全身筋肉痛でぼろぼろになりますので身体の声を聞きながらがいいと思います。そこは筋トレのし過ぎと同じだと思います。人によっては念じても身体がまったく反応しないかも知れませんが。僕は色々と身体の歪みを治す方法を試しましたが、やはり心の歪みを治すのが最速だと今では思っています。

あらゆる苦しみの滅にはならないので正統の四諦ではないですが、これもまた一種の四諦だと思います。身体の歪みという苦、身体の歪みの原因、その滅、身体の歪みを治す方法としての性格矯正。これを観察・ヴィパッサナーすると、僕の場合は超知というよりは類推ですが、やはり原因は「心の有り様」であると思います。その心の有り様の善なる部分を残して悪なる部分のみをこそぎ取るために無害想の修習が有効であると考えています。

けいごさんの指摘する骨盤健康法、すごくいいところを突いていると思いました。

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