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原始仏典コミュの錬金術に関する記述 1

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原始仏典における錬金術関連の記述として最重要の記述を三つ引用します。この三つが全原始仏典中で最も詳細な記述であり、他にこれよりもさらに詳細な記述は見当たりません。同内容の記述が別経として重複して繰り返されるだけです。




   
     1.洗浄法   三悪行・三悪尋・三尋・法尋・非定
     2.溶解法   三相作意(定相・励相・捨相)
     3.精錬法   五蓋  (欲望・怒り・眠気・躁鬱・疑)








1.洗浄法  三悪行・三悪尋・三尋・法尋・非定
2.溶解法  三相作意(定相・励相・捨相)


   増支部経典>三集

「   第十 塵垢洗浄者

102.比丘たちよ、黄金には粗い石と礫(れき)の粗い汚れがある。
 これらを塵垢を洗浄する者や塵垢を洗浄する者の内弟子は桶に入れて洗い、よく洗い、洗い切る。
 これらを断ちこれらを除くと黄金には細かい石と粗い砂の中ほどの汚れがある。
 これらを塵垢を洗浄する者や塵垢を洗浄する者の内弟子は桶に入れて洗い、よく洗い、洗い切る。
 これらを断ちこれらを除くと黄金には細かい砂と黒い粉の細かな汚れがある。 
 これらを塵垢を洗浄する者や塵垢を洗浄する者の内弟子は桶に入れて洗い、よく洗い、洗い切る。
 これらを断ちこれらを除くとついには(砂)金が残る。
 これらを金細工師や金細工師の内弟子はその黄金をかまどに投げ入れて(ふいごで火を)吹き、よく吹き、吹き切る。
 その黄金が吹かれ、よく吹かれ、吹き切られても、除去されず貯えられず純粋にならないならば、柔軟にもならず、作業にも適さず、輝きもせず、壊れやすもあり、正しく作業されるに十分なものともならない。
 比丘たちよ、しかしその金細工師や金細工師の内弟子がその黄金を吹き、よく吹き、吹き切ることによってその時は来る。
 その黄金は吹かれ、よく吹かれ、吹き切られ、除去され貯えられ純粋となり、柔軟にもなり、作業にも適し、輝きもし、壊れやすくもなく、正しく作業されるに十分なものともなる。
 その時は指輪でも耳飾りでも首飾りでも黄金の髪飾りでも、いずれの装飾品を希望しても、その目的に応じる。

 比丘たちよ、このように心を御する比丘には身体による悪行・言葉による悪行・心による悪行[三悪行]という粗い汚れがある。
 これらを心ある生まれの良い比丘は断ち、制御し、除去し、存在しないものとする。
 これらを断ちこれらを除くと心を御する比丘には欲の考え・怒りの考え・害する考え[三悪尋]という中ほどの汚れがある。
 これらを心ある生まれの良い比丘は断ち、制御し、除去し、存在しないものとする。
 これらを断ちこれらを除くと心を御する比丘には親族の考え・国土の考え・不名誉に関する考えという細かな汚れがある。
 これらを心ある生まれの良い比丘は断ち、制御し、除去し、存在しないものとする。
 これらを断ちこれらを除くと心を御する比丘にはついには法の考えが残る。
 比丘たちよ、彼のサマーディ(精神統一)は、寂静でもなく、優れているのでもなく、静止させることによって一境性を獲得しているのでもなく、有行による抑圧によって除いて得たものである。
 比丘たちよ、しかし彼のサマーディがその心を内に住させ落ちつかせ一境となりサマーディするその時は来る。
 彼のサマーディは寂静であり、優れており、静止させることによって一境性を獲得したものであり、有行による抑圧によって除いて得たものではない。
 その時はそれぞれのことにおいて実証可能であるところに達しているならば何であれ、超知によって実証すべき法へ心を引発するならば、それを超知によって実証することができる。

 彼がもし「様々な神通の類いを実現しよう。
 一(つの身)であっても多となろう。多であっても一となろう。存在を明らかにし、存在を隠し、たとえば虚空におけるように垣を通り抜け、壁を通り抜け、山を通り抜け、とらわれないように行き、たとえば水におけるように地に浮き沈みし、たとえば地におけるように水に沈まずに歩き、たとえば翼のある鳥のように虚空を結跏趺坐して行こう。このような大神通このような大威力あるこれら月と太陽までをも手で触ってなで、またブラフマーの世界にまでも身体で自在に行こう」と願うならば、それぞれのことにおいて実証可能であるところに達しているならばそれができる。

 彼がもし「人間を超越した清浄な神々の耳界によって神々と人々の両方の声を二つとも間近で聞こう」と願うならば、それぞれのことにおいて実証可能であるところに達しているならばそれができる。

 彼がもし「他の生ける者・他の人の心を心によって捉えて知ろう。
 貪りがある心ならば『貪りがある心だ』と知り、
 貪りを離れた心ならば『貪りを離れた心だ』と知り、
 怒りがある心ならば『怒りがある心だ』と知り、
 怒りを離れた心ならば『怒りを離れた心だ』と知り、
 愚かさがある心ならば『愚かさがある心だ』と知り、
 愚かさを離れた心ならば『愚かさを離れた心だ』と知り、
 収斂した心ならば『収斂した心だ』と知り、 
 散乱した心ならば『散乱した心だ』と知り、
 大きな心ならば『大きな心だ』と知り、 
 大きくない心ならば『大きくない心だ』と知り、
 向上する心ならば『向上する心だ』と知り、
 向上しない心ならば『向上しない心だ』と知り、
 集中した心ならば『集中した心だ』と知り、
 集中しない心ならば『集中しない心だ』と知り、
 解脱した心ならば『解脱した心だ』と知り、
 解脱していない心ならば『解脱していない心だ』と知ろう」と願うならば、それぞれのことにおいて実証可能であるところに達しているならばそれができる。

 彼がもし「様々な過去の住を思い出そう。
 即ち、一つの生も、二つの生も、三つの生も、四つの生も、五つの生も、十の生も、二十の生も、三十の生も、四十の生も、五十の生も、百の生も、千の生も、十万の生も、多くの生成する劫も、多くの破壊する劫も、多くの生成破壊する劫も。
 そこで私はこのような名前であり、このような家柄であり、このような容姿であり、このような食を取り、このような楽と苦を感受し、このような寿命であり、私はそこで死んであそこに生まれた。
 そこで私はこのような名前であり、このような家柄であり、このような容姿であり、このような食を取り、このような楽と苦を感受し、このような寿命であり、私はそこで死んでここに生まれた。
 このように多くの過去の住を行ないと境遇を伴って思い出そう」と願うならば、それぞれのことにおいて実証可能であるところに達しているならばそれができる。

 彼がもし「人間を超越した清浄な天眼によって生ける者たちを見よう。
 生ける者たちが業によって達した通りに、死に生まれ、劣り優れ、美しくなり醜くなり、善きところ悪いところへ行くさまを知ろう。
 実にこれらの生ける者たちは身悪行を成就し、語悪行を成就し、意悪行を成就し、聖者を誹謗し、邪見に住し、邪見の業を取り、彼らは身体が破れた死後に苦処・悪趣・堕処・地獄に転生する。
 しかしこれらの生ける者たちは身善行を成就し、語善行を成就し、意善行を成就し、聖者を誹謗せず、正見に住し、正見の業を取り、彼らは身体が破れた死後に善趣・天界に転生する。
 このように人間を超越した清浄な神々の眼によって生ける者たちを見よう。
 生ける者たちが業によって達した通りに、死に生まれ、劣り優れ、美しくなり醜くなり、善きところ悪いところへ行くさまを知ろう」と願うならば、それぞれのことにおいて実証可能であるところに達しているならばそれができる。

 彼がもし「漏を尽くして無漏の心解脱・慧解脱を現世において自ら超知し実証し具足して住そう」と願うならば、それぞれのことにおいて実証可能であるところに達しているならばそれができる。




   第十一 相[ニミッタ]

103.比丘たちよ、心を御する比丘は三つの相を時に応じて作意すべきである。
 時に応じて定相(サマーディ・ニミッタ)を作意すべきである。
 時に応じて策励相(パッガハ・ニミッタ。努力、精進の意)を作意すべきである。
 時に応じて捨相(ウペッカー・ニミッタ)を作意すべきである。
 比丘たちよ、もし心を御する比丘が一向に定相を作意するならば、その心が懈怠に転じるという処がある。
 比丘たちよ、もし心を御する比丘が一向に策励相を作意するならば、その心が浮つくこと(掉挙)に転じるという処がある。
 比丘たちよ、もし心を御する比丘が一向に捨相を作意するならば、その心が漏を尽くすために正しくサマーディしないという処がある。
 しかし比丘たちよ、心を御する比丘が時に応じて定相を作意し、時に応じて策励相を作意し、時に応じて捨相を作意するならば、その心は柔軟にもなり、作業に適するようにもなり、壊れやすくもなく、漏を尽くすために正しくサマーディする。

 比丘たちよ、たとえば金細工師や金細工師の内弟子がかまどを造り、かまどを造ってかまどに火をつけ、かまどに火をつけてハサミで黄金を取ってかまどに投げ入れ、かまどに投げ入れて時に応じて吹き、時に応じて水を振り掛け、時に応じて中を見る。
 比丘たちよ、もし金細工師や金細工師の内弟子がその黄金を一向に吹くならば、その黄金が焼え尽きるという処がある。
 比丘たちよ、もし金細工師や金細工師の内弟子がその黄金に一向に水を振り掛けるならば、その黄金の火が消えるという処がある。
 比丘たちよ、もし金細工師や金細工師の内弟子がその黄金を一向に中を見るならば、その黄金は正しく成熟しないという処がある。
 しかし比丘たちよ、金細工師や金細工師の内弟子がその黄金を時に応じて吹き、時に応じて水を振り掛け、時におうじて中を見るならば、その黄金は柔軟にもなり、作業に適するようにもなり、輝きもし、壊れやすくもなく、正しく作業されるに十分なものとなる。
 その時は指輪でも耳飾りでも首飾りでも黄金の髪飾りでも、いずれの装飾品を希望しても、その目的に応じる。

 比丘たちよ、このように心を御する比丘は三つの相を時に応じて作意すべきである。
 時に応じて定相を作意すべきである。
 時に応じて策励相を作意すべきである。
 時に応じて捨相を作意すべきである。
 比丘たちよ、もし心を御する比丘が一向に定相を作意するならば、その心が懈怠に転じるという処がある。
 比丘たちよ、もし心を御する比丘が一向に策励相を作意するならば、その心が浮つくこと(掉挙)に転じるという処がある。
 比丘たちよ、もし心を御する比丘が一向に捨相を作意するならば、その心が漏を尽くすために正しくサマーディしないという処がある。
 しかし比丘たちよ、心を御する比丘が時に応じて定相を作意し、時に応じて策励相を作意し、時に応じて捨相を作意するならば、その心は柔軟にもなり、作業に適するようにもなり、壊れやすくもなく、漏を尽くすために正しくサマーディする。
 その時はそれぞれのことにおいて実証可能であるところに達しているならば何であれ、超知によって実証すべき法へ心を引発するならば、それを超知によって実証することができる。

 彼がもし「様々な神通の類いを実現しよう。
 一であっても多となろう。多であっても一となろう。存在を明らかにし、存在を隠し、たとえば虚空におけるように垣を通り抜け、壁を通り抜け、山を通り抜け、とらわれないように行き、たとえば水におけるように地に浮き沈みし、たとえば地におけるように水に沈まずに歩き、たとえば翼のある鳥のように虚空を結跏趺坐して行こう。このような大神通このような大威力あるこれら月と太陽までをも手で触ってなで、またブラフマーの世界にまでも身体で自在に行こう」と願うならば、それぞれのことにおいて実証可能であるところに達しているならばそれができる。

 彼がもし「人間を超越した清浄な神々の耳界によって神々と人々の両方の声を二つとも間近で聞こう」と願うならば、それぞれのことにおいて実証可能であるところに達しているならばそれができる。

 彼がもし「他の生ける者・他の人の心を心によって捉えて知ろう。
 貪りがある心ならば『貪りがある心だ』と知り、
 貪りを離れた心ならば『貪りを離れた心だ』と知り、
 怒りがある心ならば『怒りがある心だ』と知り、
 怒りを離れた心ならば『怒りを離れた心だ』と知り、
 愚かさがある心ならば『愚かさがある心だ』と知り、
 愚かさを離れた心ならば『愚かさを離れた心だ』と知り、
 収斂した心ならば『収斂した心だ』と知り、 
 散乱した心ならば『散乱した心だ』と知り、
 大きな心ならば『大きな心だ』と知り、 
 大きくない心ならば『大きくない心だ』と知り、
 向上する心ならば『向上する心だ』と知り、
 向上しない心ならば『向上しない心だ』と知り、
 集中した心ならば『集中した心だ』と知り、
 集中しない心ならば『集中しない心だ』と知り、
 解脱した心ならば『解脱した心だ』と知り、
 解脱していない心ならば『解脱していない心だ』と知ろう」と願うならば、それぞれのことにおいて実証可能であるところに達しているならばそれができる。

 彼がもし「様々な過去の住を思い出そう。
 即ち、一つの生も、二つの生も、三つの生も、四つの生も、五つの生も、十の生も、二十の生も、三十の生も、四十の生も、五十の生も、百の生も、千の生も、十万の生も、多くの生成する劫も、多くの破壊する劫も、多くの生成破壊する劫も。
 そこで私はこのような名前であり、このような家柄であり、このような容姿であり、このような食を取り、このような楽と苦を感受し、このような寿命であり、私はそこで死んであそこに生まれた。
 そこで私はこのような名前であり、このような家柄であり、このような容姿であり、このような食を取り、このような楽と苦を感受し、このような寿命であり、私はそこで死んでここに生まれた。
 このように多くの過去の住を行ないと境遇を伴って思い出そう」と願うならば、それぞれのことにおいて実証可能であるところに達しているならばそれができる。

 彼がもし「人間を超越した清浄な天眼によって生ける者たちを見よう。
 生ける者たちが業によって達した通りに、死に生まれ、劣り優れ、美しくなり醜くなり、善きところ悪いところへ行くさまを知ろう。
 実にこれらの生ける者たちは身悪行を成就し、語悪行を成就し、意悪行を成就し、聖者を誹謗し、邪見に住し、邪見の業を取り、彼らは身体が破れた死後に苦処・悪趣・堕処・地獄に転生する。
 しかしこれらの生ける者たちは身善行を成就し、語善行を成就し、意善行を成就し、聖者を誹謗せず、正見に住し、正見の業を取り、彼らは身体が破れた死後に善趣・天界に転生する。
 このように人間を超越した清浄な神々の眼によって生ける者たちを見よう。
 生ける者たちが業によって達した通りに、死に生まれ、劣り優れ、美しくなり醜くなり、善きところ悪いところへ行くさまを知ろう」と願うならば、それぞれのことにおいて実証可能であるところに達しているならばそれができる。

 彼がもし「漏を尽くして無漏の心解脱・慧解脱を現世において自ら超知し実証し具足して住そう」と願うならば、それぞれのことにおいて実証可能であるところに達しているならばそれができる。 (経終わる)」

   『南伝大蔵経17 増支部経典1』大蔵出版 P416−424  に相当







(続く)

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