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原始仏典コミュの中部経典 第37経 小愛尽経 (全訳)

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ゴータマ自身による教えの略説。全訳。






(『南伝大蔵経9 中部経典1』大蔵出版 P438−445 に相当)




・中部経典 第37経 小愛尽経[チュッラ・タンハーサンカヤ・スッタ]

「   第七 渇愛を尽くすことの小さい経[小愛尽経]

390.このように私は聞いた。
 あるとき先生はサーヴァッティの東の園、ミガーラマートゥの城[高殿]に住んでいた。
 ときに神々の王サッカは先生を訪ねた。訪ねて先生に敬礼して一方に立った。一方に立って神々の王サッカは先生にこう言った。
 「先生、略して言うならばどのようにして比丘は渇愛を尽くして解脱し[愛尽解脱]、究極に達し、究極の安穏と結合し、究極の梵行者となり、究極を完成させ、神々と人々の最勝者となるのですか」
 「神々の王よ、ここに比丘はこのように聞く。
 『一切の法は住するのに十分ではない』と。
 神々の王よ、このように比丘が『一切の法は住するのに十分ではない』と聞くならば、彼は一切の法を超知する。
 一切の法を超知して、一切の法を遍知する。
 一切の法を遍知して、楽や苦や不苦不楽のいかなる感受を感受しても、彼はそれらの感受に無常を見て住し、離貪を見て住し、滅を見て住し、放棄を見て住する。
 彼はそれらの感受に無常を見て住し、離貪を見て住し、滅を見て住し、放棄を見て住して、世界のいかなるものにも執着しない。
 執着せず、怖れない。
 怖れず、自ら般涅槃する。
 『生まれることは尽きた。
 梵行は完成した。為すべきことは為した。
 さらにこのようになることはない』と知る。
 神々の王よ、略して言えばこのように比丘は渇愛を尽くして解脱し、究極に達し、究極の安穏と結合し、究極の梵行者となり、究極を完成させ、神々と人々の最勝者となるのだ」
 ときに神々の王サッカは先生が説いたことを喜び歓喜して先生に敬礼して右回りしてそこで消えた。

391.そのとき尊者マハーモッガーラナは先生の近くに座っていた。ときに尊者マハーモッガーラナはこう思った。
 「あのヤッカは先生が説いたことを理解して喜んだのだろうか。あるいはそうではないのか。よし、私はこのことについてあのヤッカを知ろう」。
 ときに尊者マハーモッガーラナは、たとえば力ある者が曲げた腕を伸ばし、伸ばした腕を曲げるように東園のミガーラマートゥの城に消えて三十三天に現れた。
 そのとき神々の王サッカはある白蓮[プンダリーカ]の庭園において天の五百の楽器を備えて全身に奉仕されていた。
 神々の王サッカは尊者マハーモッガーラナが遠くから来るのを見た。見てその天の五百の楽器を止めさせて尊者マハーモッガーラナを訪ねた。訪ねて尊者マハーモッガーラナにこう言った。
 「来なさい、モッガーラナ君。よく来た、モッガーラナ君。
  久しいな、モッガーラナ君。ここにこうして来てくれた。
  座りなさい、モッガーラナ君。ここに席を設けた」
 尊者マハーモッガーラナは設けられた席に座った。神々の王サッカも他の下座を取って一方に座った。一方に座った神々の王サッカに尊者マハーモッガーラナはこう言った。
 「コーシャ、どのように先生は愛尽解脱を省略して説いたのか。私にもこの話を分けて聞かせてもらえれば幸いだ」

392.「モッガーラナ君、私たちには多くの為すことがあり、多くの為すべきことがある。私にも為すべきことがあるし、三十三天にも為すべきことがあるだろうから。
 モッガーラナ君、しかし善く聞かれ、善く据えられ、善く作意が為され、善く受持されたところのもの、それは速やかに失われることはないものだ。
 モッガーラナ君、以前に神々とアスラの戦争で軍を起こしたことがあった。
 モッガーラナ君、その戦いで神々は勝ち、アスラは負けた。
 モッガーラナ君、私はその戦いに勝利し、戦勝し、凱旋してヴェージャヤンタという名の城を築いた。
 モッガーラナ君、ヴェージャヤンタ城には百の塔がある。
 一つの塔にはそれぞれ七七百の建物がある。(700か707か770か不明)
 一つの建物にはそれぞれ七七人の天女がいる。(77人か14人か7人か不明)
 一人の天女にはそれぞれ七七人の侍女がいる。(77人か14人か7人か不明)
 モッガーラナ君、あなたは楽しむべきヴェージャヤンタ城を見たいと欲するか」
 こう言われた尊者マハーモッガーラナは沈黙して承諾した。

393.ときに神々の王サッカと大王ヴェッサヴァナは尊者マハーモッガーラナの後ろに侍して、ヴェージャヤンタ城を訪ねた。神々の王サッカの侍女たちは尊者マハーモッガーラナが遠くから来るのを見た。見て愧じて慚じてそれぞれの部屋に入った。たとえば嫁が舅(しゅうと)を見て愧じて慚じるように、神々の王サッカの侍女たちは尊者マハーモッガーラナを見て愧じて慚じてそれぞれの部屋に入った。
 ときに神々の王サッカと大王ヴェッサヴァナと尊者マハーモッガーラナはヴェージャヤンタ城を巡って歩き回った。
 「ここも見てくれ、モッガーラナ君。楽しむべきヴェージャヤンタ城を。
 ここも見てくれ、モッガーラナ君。楽しむべきヴェージャヤンタ城を」と。
 「これは尊者コーシャの輝きだ。あなたが以前に為した福の通りに[輝いているのだ]。
 人々もまた何か楽しむべきものを見るとこのように言う。
 『実に三十三天のように輝いている』と。
 それはこの尊者コーシャの輝きなのだ。あなたが以前に為した福の通りに」
 ときに尊者マハーモッガーラナはこう思った。
 「このヤッカはあまりにも放逸に住している。よし、私はこのヤッカを恐怖させてやろう」。
 ときに尊者マハーモッガーラナは神通行を行じてヴェージャヤンタ城を足の親指によって揺らし震わせ震動させた。
 ときに神々の王サッカと大王ヴェッサヴァナと三十三天の神々は不思議であり得ないという心を起こした。
 「ああ不思議だ、君。ああ有り得ない、君。沙門の大神通・大威力は。実に天の城を足の親指によって揺らし震わせ震動させた」
 ときに尊者マハーモッガーラナは神々の王サッカが恐怖し身の毛がよだったのを知って神々の王サッカにこう言った。
 「コーシャ、どのように先生は愛尽解脱を省略して説いたのか。私にもこの話を分けて聞かせてもらえれば幸いだ」

394.「モッガーラナ君、ここに私は先生を訪ねた。訪ねて先生に敬礼して一方に立った。
 モッガーラナ君、一方に立って私は先生にこう言った。
 『先生、略して言うならばどのようにして比丘は渇愛を尽くして解脱し愛尽解脱、究極に達し、究極の安穏と結合し、究極の梵行者となり、究極を完成させ、神々と人々の最勝者となるのですか』
 モッガーラナ君、このように言われて先生は私にこう言った。
 『神々の王よ、ここに比丘はこのように聞く。
 「一切の法は住するのに十分ではない」と。
 神々の王よ、このように比丘が「一切の法は住するのに十分ではない」と聞くならば、彼は一切の法を超知する。
 一切の法を超知して、一切の法を遍知する。
 一切の法を遍知して、楽や苦や不苦不楽のいかなる感受を感受しても、彼はそれらの感受に無常を見て住し、離貪を見て住し、滅を見て住し、放棄を見て住する。
 彼はそれらの感受に無常を見て住し、離貪を見て住し、滅を見て住し、放棄を見て住して、世界のいかなるものにも執着しない。
 執着せず、怖れない。
 怖れず、自ら般涅槃する。
 「生まれることは尽きた。
 梵行は完成した。為すべきことは為した。
 さらにこのようになることはない」と知る。
 神々の王よ、略して言えばこのように比丘は渇愛を尽くして解脱し、究極に達し、究極の安穏と結合し、究極の梵行者となり、究極を完成させ、神々と人々の最勝者となるのだ』
 モッガーラナ君、このように先生は私に愛尽解脱を省略して説いたのだ」

 ときに尊者マハーモッガーラナは神々の王サッカが説いたことを喜んで歓喜し、たとえば力ある者が曲げた腕を伸ばし、伸ばした腕を曲げるように、三十三天に消えて東園のミガーラマートゥの城に現れた。
 ときに神々の王サッカの侍女たちは尊者マハーモッガーラナが去って久しからずして神々の王サッカにこう言った。
 「君、彼はあなたの先生であり師なのですか」。
 「君、彼は私の先生ではなく師ではない。彼は私の同梵行者である尊者マハーモッガーラナだ」。
 「君、彼はこのような大神通、このような大威力を得ています。それでは彼の先生であり師である方はどれほどのことでしょう」。

395.ときに尊者マハーモッガーラナは先生を訪ねた。訪ねて先生に敬礼して一方に座った。一方に座った尊者マハーモッガーラナは先生にこう言った。
 「先生、先生は有名なある偉大なるサッカであるヤッカに省略して愛尽解脱を説いたことを知りますか」
 「モッガーラナ、私はここに神々の王サッカが私を訪ねたことを知る。訪ねて私に敬礼して一方に立った。
 モッガーラナ、一方に立って神々の王サッカは私にこう言った。
 『先生、略して言うならばどのようにして比丘は渇愛を尽くして解脱し愛尽解脱、究極に達し、究極の安穏と結合し、究極の梵行者となり、究極を完成させ、神々と人々の最勝者となるのですか』
 モッガーラナ、このように言われて私は神々の王サッカにこう言った。
 『神々の王よ、ここに比丘はこのように聞く。
 「一切の法は住するのに十分ではない」と。
 神々の王よ、このように比丘が「一切の法は住するのに十分ではない」と聞くならば、彼は一切の法を超知する。
 一切の法を超知して、一切の法を遍知する。
 一切の法を遍知して、楽や苦や不苦不楽のいかなる感受を感受しても、彼はそれらの感受に無常を見て住し、離貪を見て住し、滅を見て住し、放棄を見て住する。
 彼はそれらの感受に無常を見て住し、離貪を見て住し、滅を見て住し、放棄を見て住して、世界のいかなるものにも執着しない。
 執着せず、怖れない。
 怖れず、自ら般涅槃する。
 「生まれることは尽きた。
 梵行は完成した。為すべきことは為した。
 さらにこのようになることはない」と知る。
 神々の王よ、略して言えばこのように比丘は渇愛を尽くして解脱し、究極に達し、究極の安穏と結合し、究極の梵行者となり、究極を完成させ、神々と人々の最勝者となるのだ』
 モッガーラナ、このように私は神々の王サッカに愛尽解脱を省略して説いたのだ」
 このように先生は言った。意を得た尊者マハーモッガーラナは先生が説いたことを喜んだ。

                  第七 小愛尽経 終」


   『南伝大蔵経9 中部経典1』大蔵出版 P438−445 に相当











 註 愛尽解脱 タンハー・サンカヤ・ヴィムッタ taṇhā saṅkhaya vimutta
         渇愛が尽きることへと離脱すること
   究極に達する accanta niṭṭho
   究極の安穏との結合 accanta yogakkhemī
   究極の梵行者 accanta brahmacārī
   究極の完成  accanta pariyosāno
   最勝者 seṭṭho
   十分ではない nālam alaṃの否定 
          alaṃは適当なる、当然の、十分に、満足して
   執着する abhinivesa 執持、現貪、執着
     nivesa 住居、住著
     nibesana 居住、住処
     nibesanā 住著、執着
     niveseti 入らせる、住立させる、確立させる
   超知する abhijānāti abhiññā
   遍知する parijānāti pariññā
   執着しない na upādiyati 十二縁起の一つである取
   怖れない paritassati 震える、怖れる、戦慄、恐怖












「一切の法は住するのに十分ではない」

‘sabbe dhammā nālaṃ abhinivesāyā’ti.

‘一切のsabbe 法はdhammā 十分ではないnālaṃ 住するのにabhinivesāyā’ti.







1.「一切法は住するのに十分ではない」と聞く。
2.一切法を超知する。
3.一切法を遍知する。
4.彼はいかなる感受であっても感受に無常・離貪・滅・放棄を見て住する。
5.世界のいかなるものにも執着しない。
6.恐怖しない。
7.涅槃して輪廻超越を自覚する。完了。



六神通のことを別名「六超知」とも言います。勝智とも訳されます。
「超知」は七文句の定型文の「厭患・離貪・滅・寂静・超知・正覚・涅槃」の第五です。

「遍知」の定義は原始仏典上では「貪が尽き瞋が尽き癡が尽きること」です。三悪根が根絶されるまで超知を繰り返すことになるということだと思います。

感受については「いかなる感受も苦である」ということが因縁相応でサーリプッタとの問答で語られています。

この記述から「涅槃とは恐怖がないことを指す」ということも言えると思います。怖れるという単語の「パリタッサティ paritassati」を「悩む」とする訳者もいますが、用例から見ると恐怖が適切だと思います。無取般涅槃しているゴータマも下痢や四衆によって悩まされていますから。




「一切法は住するのに十分ではない」 → 無常だから住すれば苦になる







教えの略説としては「一切法は住するに十分ではないから、愛尽解脱して無執着となるべき」ということでよいと思います。

先の雨雲の娘コーカナダーの略説との相違は、コーカナダーが三悪行の悪を断ち、五欲の悪を断ち、念じて自覚して苦因を断つという順序と段階に着目した略説でしたが、ゴータマの略説は一切法への超知・遍知・無取というふうにダイレクトに智慧を説いています。


この愛尽解脱の義は雨雲の娘コーカナダーが説いた略説の最後の段、「苦しみと不利益を伴うことに親しむな」ということの解説となります。「苦しみと不利益を伴うことに親しむな。つまり一切法は住するに十分ではないから執着してはならない。遍知して解脱すべし」ということだと思います。


この愛尽解脱の略説はコーカナダーの略説と絡めて覚えておくと便利です。



  「悪を為すな
   身体でも言葉でも心でも
   全世界のいかなる者にも
   
   欲を断て
   念じて自覚しておれ
   苦しみと不利益を伴うことに親しむな
 
  → 一切法は住するに十分ではないゆえに遍知して執着せずに解脱せよ」





[重要文の原文]

‘‘Idha, devānaminda, bhikkhuno sutaṃ hoti –

‘sabbe dhammā nālaṃ abhinivesāyā’ti.
Evañcetaṃ, devānaminda, bhikkhuno sutaṃ hoti – ‘sabbe dhammā nālaṃ abhinivesāyā’ti.
So sabbaṃ dhammaṃ abhijānāti;
sabbaṃ dhammaṃ abhiññāya sabbaṃ dhammaṃ parijānāti;
sabbaṃ dhammaṃ pariññāya yaṃ kiñci vedanaṃ vedeti – sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā, so tāsu vedanāsu aniccānupassī viharati, virāgānupassī viharati, nirodhānupassī viharati, paṭinissaggānupassī viharati.
So tāsu vedanāsu aniccānupassī viharanto, virāgānupassī viharanto, nirodhānupassī viharanto, paṭinissaggānupassī viharanto na kiñci loke upādiyati.
Anupādiyaṃ na paritassati, aparitassaṃ paccattaññeva parinibbāyati –
‘khīṇā jāti, vusitaṃ brahmacariyaṃ, kataṃ karaṇīyaṃ, nāparaṃ itthattāyā’ti pajānāti.

Ettāvatā kho, devānaminda, bhikkhu saṃkhittena taṇhāsaṅkhayavimutto hoti accantaniṭṭho accantayogakkhemī accantabrahmacārī accantapariyosāno seṭṭho devamanussāna’’nti.

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重要部分訳として作成しましたが、全訳しました。

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