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原始仏典コミュの重要概念の訳語の変更

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暫時的なもので決定ではありませんが、重要概念の訳を試しに変更しようと考えています。一来は結局、「一還」にはせずに「一来」のままにしています。「一来」という単語の印象はあまりにも強く変更するのには困難なものを感じたからです。



 

   1.ニッビダー nibbidā    「嫌悪」→「忌避」
   2.ヴィムッティ vimutti    「解脱」→「離脱」
   3.ニッサラナ nissaraṇa    「出離」→「脱出」
   4.アーディーナヴァ ādīnava 「過患」→「欠点」
   5.サムッパーダ samuppāda 「集起」→「生起」
   6.バガヴァント bhagavant  「大徳」→「先生」 別トピックの貼付







1.ニッビダー nibbidā

伝統的には「厭患」と訳されますが意味が判明でないために今まで「嫌悪」と訳していました。しかし、「嫌悪」の場合は感情的要素を即座に連想させる語感を持つために、「嫌悪感があれば離貪・解脱に近い」という誤解を生じさせる要因ともなっていました。これはこの訳語の欠点です。嫌悪には欲求不満の嫌悪と如実知見による対象への正しい振る舞いとしての嫌悪の二つがありますが、この二つが区別できない人にとってはこの嫌悪の語がかえって躓きの原因となることが否めません。

それで別の訳語を考えたところ「忌避」という単語が思い浮かびました。嫌悪と比較対象すると、「忌避」の方が感情的要因が少なく、「忌避対象を想定させる語感がある」ことに気づきました。忌避対象とは即ち、一切五蘊に他なりません。従って、ニッビダーの訳語にはこの忌避を採用します。そうすれば、人が「自分は忌避しているか、忌避していないか」という判断基準を内に設け、これを自己の内の法において内観することが法念処の一つとなり、利益があります。




2.ヴィムッティ vimutti

最重要単語であるヴィムッティは伝統的には「解脱」と訳されてきました。しかし、実際のところ「解脱」と聞いてその内容を現実に対応する実質的意味内容をイメージできる人はほとんどいません。仏教的な目標をイメージするよりもむしろ、あの事件を起こした教団を想起する人の方が多いと思います。

それで別の訳語を考えたところヴィ[vi]はヴィラーガの離貪と同様に、「離れる」という意味があり、ムッティ[mutti]自体に「脱する」という意味があることに着目し、「離脱」という語を提案したいと思います。

「解放」と訳した場合はどうしても「自由な」という語感が強くあり、「何かからの離脱」という「離脱対象」の想起に結びつきません。やはり「離脱」の方がより一層ヴィムッティの実質的内容に接近していると思います。

たとえば、「慈心解脱」[mettā ceto vimutti]は阿羅漢の解脱ではありませんが、解脱という単語が使われています。解脱の語が阿羅漢の境地とイコールであるという一般的なイメージがかえって慈心解脱などの原義をわかりにくくしています。

慈心解脱とは「慈しみの心への離脱」を意味しています。離脱場所として「慈心」、そこに飛び込む精神状態を言います。何から離脱するのかというと「瞋り」からです。「怒りから慈しみへと心が離脱すること」、これが慈心解脱の原義だと思います。他の四無量もこれに準じます。

七人の聖者分類である第三の「信解脱者」、これもまた信によって阿羅漢になった者という意味ではなく、信によって流れに入り凡夫状態を離脱したという意味です。「信によって(流れへと)離脱した者」、これが信解脱の原義だと思います。

八解脱もまた同様であり、八つの阿羅漢の解脱があるということではなく、八つの離脱場所があるということを示しています。欲するがままに八つの離脱場所へと心が離脱できるゆえに、阿羅漢であるならば紅蓮沙門の称号が得られるわけです。

また四無色のことを「寂静心解脱」と名付けるのも同様であり、それは「静寂の境地に心が離脱すること」を意味しています。色がない領域は完全に孤独な境地で自己の想のみしか患いがなく他の患いがないために、それは「静寂へと心が離脱している」と言われるに相応しいものです。

そして最後に、最高の離脱境として、無漏の心解脱・慧解脱が説かれます。それは即ち、「漏が無い境地に心が離脱すること・智慧が離脱すること」を意味しています。智慧によって離脱することも智慧が離脱していることも同じことではないかと考えています。凡夫は智慧が弱いために漏から離脱することができませんが、阿羅漢は智慧が強いために智慧によって漏を尽くして漏から離脱します。この場合、智慧によって離脱しています。また凡夫は智慧が劣っているゆえにその智慧自体が有漏であり漏から離脱していませんが、阿羅漢は智慧が優れているゆえにその智慧自体が無漏の思考をもっており、その智慧自体がすでに漏から離脱しています。

無取解脱もまた「執着しないことによって離脱する」のも間違っていないですが、むしろ「執着しない境地へと離脱する」ということの方が当たっていると思います。

「解脱」と一語の場合、離脱先も離脱対象も示されていません。それは即ち、一切からの離脱を意味しますので、普通、阿羅漢境を意味します。原始仏典では「離貪」や「滅」など動詞的なものだけで、その対象が示されていない場合が多々ありますが、それは即ちあらゆるもの一切を離貪し、滅し、脱するということを意味していることがほとんどです。

「離脱」というと聞き慣れないかも知れませんが、「解脱」よりもむしろ「離脱」の方が原始仏典における文脈を正しく捉えた訳語であると僕は考えています。この訳語の変更の第一の理由は「多くの人は解脱と聞いても具体的なことをほとんど何もイメージできないから」です。





3.ニッサラナ nissaraṇa

伝統的には「出離」ですが、意味が判然としません。因縁相応のヴィパッシンの箇所においては文脈上「苦・老死からの脱出」と明確に取れることから「脱出」という語がもっとも相応しいように思います。

味患離としては第三、集滅味患離としては第五、是集滅道味患離としては第七のニッサラナですが、そこでもまた脱出という語の方が実感があってよいと思います。脱出というのは、五感の欲楽と一切五蘊と一切世間からの脱出の意ですが、それを出離と訳すと意味が判然としなくなります。実際「出離」と聞いても大抵の人は何もイメージできません。

ニッサラナは「その対象からの貪りを去ること」が原始仏典上の定義です。離貪の義は即ち、離脱、それを特に一切五蘊などの対象と絡めたときの言葉がニッサラナ・脱出です。離脱・ヴィムッティという語は離脱先をイメージした語感が強いです。慈心への離脱・無色への離脱など。一方、脱出・ニッサラナという語は離脱対象をイメージした語感が強いです。五欲からの脱出・五蘊からの脱出です。

従って以降、ニッサラナは「脱出」と訳します。

(追記:ニッサラナのサラナは帰依のサラナの意味もあるかと思っています。「ニ」によって否定的な意味となり「帰依しない」、転じて「脱出」ではないかと考えています)





4.アーディーナヴァ ādīnava

伝統的には「過患」、「患い」と訳されますが、「欠点」の方がわかりやすいと思います。欠点を事実の通りに知り見ることによって、その対象を忌避・離貪・滅という流れです。実際に訳すときは今まで通り「患い」のままかも知れません。




5.サムッパーダ samuppāda

伝統的には「集起」ですが、「生起」「生」に変更します。ウッパーダ(生じる)もサムッパーダ(集起)もほとんど同義です。「sam」などの接頭語は日本語ではほとんど表現できない文法上の関係を表している気がします。これをあえていちいち別で訳すとかえって混乱します。





6.バガヴァント bhagavant

以前に「大徳」の訳語を「先生」に変更したという主旨トピックを書きましたが、その内容を訳語関連ということで以下に貼っておきます。



《トピックタイトル 訳語 「世尊・大徳」→「先生」に変更》

今後「大徳」とか「世尊」の語は「先生」という訳に変更したいと思いますので、その理由となった原典箇所を引用します。


長部経典>第16経 マハーパリニッバーナ・スッタ

「216.そこで世尊は尊者アーナンダに呼びかけた。
 アーナンダ、あるいはお前はこう思うかもしれない。
 「師が説くことはもうない。師はもういない」と。
 アーナンダ、このように見るべきではない。 
 アーナンダ、私が説いて設定した法[ダンマ]と律[ヴィナヤ]、それが私の死後にはあなたたちの師[サッター]となるのだ。
 アーナンダ、また現在比丘たちは互いに「友よ」と呼び合っているが、私の死後にはこのように呼び合ってはならない。
 アーナンダ、長老の比丘たちは若い比丘たちを名や姓や「友よ」という言葉によって呼びかけるべきである。若い比丘たちは長老の比丘たちを「大徳」とか「尊者」と呼びかけるべきである。」

   『ブッダ最後の旅』岩波文庫   P155−156  に相当
   『南伝大蔵経7 長部経典2』大蔵出版 P142  に相当





師 :サッター satthā
大徳:バンテー bhante 普段「大徳」と訳される
尊者:アーヤスマー āyasmā 具寿とも訳されるが誤訳。律蔵に詳細な定義あり
友よ:アーヴソー āvuso  同輩や後輩に使う語

この記述から「世尊」[バガヴァント bhagavant]やその呼びかける語形である「大徳」[バンテー 尊師よ]というのは、ブッダ以外の長老阿羅漢にも用いられる単語であることが明らかです。バガヴァントは如来十号にも含まれていますが、如来以外にも使われていることもまた事実で、大体「先生」という意味合いだと思います。

今回、この件が原典と原語によって明らかとなったので、以後は「大徳」や「世尊」とは訳さずに、今後は「先生」と訳したいと思います。春秋社の『原始仏典』では実際に「先生」と訳していた訳者の方もいたと思いますし、「大徳」「世尊」という単語は、初心者にとっつきにくい印象を与えるので、すでに古い言葉だとも思います。全体の訳も少しずつ直して行きたいと思います。

また「アーナンダ、このように見るべきではない」という箇所は未来受動分詞ですので「アーナンダ、このように見られるべきではない」という訳が正しいと思いますが、受動にこだわらずに訳していきたいと思います。原始仏典では全ての場合において受動性が強調されている文脈ではないことを確認していますし、初心者の方にわかりにくい表現になると思われるのでそのようにしたいと思っています。



[パーリ語原文]

Tathāgatapacchimavācā
216. Atha kho bhagavā āyasmantaṃ ānandaṃ āmantesi –
‘‘siyā kho panānanda, tumhākaṃ evamassa – ‘atītasatthukaṃ pāvacanaṃ, natthi no satthā’ti.
Na kho panetaṃ, ānanda, evaṃ daṭṭhabbaṃ.
Yo vo, ānanda, mayā dhammo ca vinayo ca desito paññatto, so vo mamaccayena satthā.
Yathā kho panānanda, etarahi bhikkhū aññamaññaṃ āvusovādena samudācaranti, na kho mamaccayena evaṃ samudācaritabbaṃ.
Theratarena, ānanda, bhikkhunā navakataro bhikkhu nāmena vā gottena vā āvusovādena vā samudācaritabbo. Navakatarena bhikkhunā therataro bhikkhu ‘bhante’ti vā ‘āyasmā’ti vā samudācaritabbo.
  
                 以上。

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