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原始仏典コミュの因縁相応 「縁起」16 考察

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(続き 『南伝大蔵経13 相応部経典2』大蔵出版 P118−124 に相当)







     第六 苦品


   第一 考察

51.このように私は聞いた。
 あるとき先生はサーヴァッティのジェータ林、アナータピンディカの園に住んでいた。
 ときに先生は比丘たちに「比丘たちよ」と呼びかけた。その比丘たちは「先生」と先生に応えた。先生はこう言った。

 比丘たちよ、実にどのように比丘が考察しつつ考察すれば、正しく一切の苦しみを尽くすのか。
 先生、法は先生を根本とし、先生を導きとし、先生に帰依しています。
 そうです、先生。先生がこの説の義を明らかにしてください。
 先生から聞いて比丘たちは受け持つでしょう。
 比丘たちよ、それならば聞いてよく考えなさい。説こう。
 はい、先生。とその比丘たちは先生に応えた。先生はこう言った。

 比丘たちよ、ここに比丘は考察しつつ考察する。
「この世界には様々で多くの種類の苦しみと老死が生じている。
 この苦しみは何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか。
 何があるとき老死があるのか。
 何がないとき老死がないのか」
 彼は考察しつつこのように知る。
「この世界には様々で多くの種類の苦しみと老死が生じている。
 この苦しみは生を原因とし、生を生起とし、生から生じ、生から現れる。
 生があるとき老死がある。
 生がないとき老死がない」

 彼は老死をも知り、
 老死の生をも知り、
 老死の滅をも知り、
 老死の滅に行く道をも知り、
 その通りに修行もするがゆえに法に従って行う者[随法行者]である。
 比丘たちよ、ゆえにこう言われる。
「比丘は正しく一切の苦しみを尽くすために、老死を滅するために修行している」と。

 さらに考察しつつ考察する。
「ではこの生は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか。
 何があるとき生があるのか。
 何がないとき生がないのか」
 彼は考察しつつこのように知る。
「生は有を原因とし、有を生起とし、有から生じ、有から現れる。
 有があるとき生がある。
 有がないとき生がない」

 彼は生をも知り、
 生の生をも知り、
 生の滅をも知り、
 生の滅に行く道をも知り、
 その通りに修行もするがゆえに法に従って行う者である。
 比丘たちよ、ゆえにこう言われる。
「比丘は正しく一切の苦しみを尽くすために、生を滅するために修行している」と。

 さらに考察しつつ考察する。
「ではこの有は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか。
 何があるとき有があるのか。
 何がないとき有がないのか」
 彼は考察しつつこのように知る。
「有は取を原因とし、取を生起とし、取から生じ、取から現れる。
 取があるとき有がある。
 取がないとき有がない」

 彼は有をも知り、
 有の生をも知り、
 有の滅をも知り、
 有の滅に行く道をも知り、
 その通りに修行もするがゆえに法に従って行う者である。
 比丘たちよ、ゆえにこう言われる。
「比丘は正しく一切の苦しみを尽くすために、有を滅するために修行している」と。

 さらに考察しつつ考察する。
「ではこの取は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか。
 何があるとき取があるのか。
 何がないとき取がないのか」
 彼は考察しつつこのように知る。
「取は愛を原因とし、愛を生起とし、愛から生じ、愛から現れる。
 愛があるとき取がある。
 愛がないとき取がない」

 彼は取をも知り、
 取の生をも知り、
 取の滅をも知り、
 取の滅に行く道をも知り、
 その通りに修行もするがゆえに法に従って行う者である。
 比丘たちよ、ゆえにこう言われる。
「比丘は正しく一切の苦しみを尽くすために、取を滅するために修行している」と。

 さらに考察しつつ考察する。
「ではこの愛は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか。
 何があるとき愛があるのか。
 何がないとき愛がないのか」
 彼は考察しつつこのように知る。
「愛は受を原因とし、受を生起とし、受から生じ、受から現れる。
 受があるとき愛がある。
 受がないとき愛がない」

 彼は愛をも知り、
 愛の生をも知り、
 愛の滅をも知り、
 愛の滅に行く道をも知り、
 その通りに修行もするがゆえに法に従って行う者である。
 比丘たちよ、ゆえにこう言われる。
「比丘は正しく一切の苦しみを尽くすために、愛を滅するために修行している」と。

 さらに考察しつつ考察する。
「ではこの受は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか。
 何があるとき受があるのか。
 何がないとき受がないのか」
 彼は考察しつつこのように知る。
「受は触を原因とし、触を生起とし、触から生じ、触から現れる。
 触があるとき受がある。
 触がないとき受がない」

 彼は触をも知り、
 触の生をも知り、
 触の滅をも知り、
 触の滅に行く道をも知り、
 その通りに修行もするがゆえに法に従って行う者である。
 比丘たちよ、ゆえにこう言われる。
「比丘は正しく一切の苦しみを尽くすために、触を滅するために修行している」と。

 さらに考察しつつ考察する。
「ではこの六処は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか。
 何があるとき六処があるのか。
 何がないとき六処がないのか」
 彼は考察しつつこのように知る。
「六処は名色を原因とし、名色を生起とし、名色から生じ、名色から現れる。
 名色があるとき六処がある。
 名色がないとき六処がない」

 彼は六処をも知り、
 六処の生をも知り、
 六処の滅をも知り、
 六処の滅に行く道をも知り、
 その通りに修行もするがゆえに法に従って行う者である。
 比丘たちよ、ゆえにこう言われる。
「比丘は正しく一切の苦しみを尽くすために、六処を滅するために修行している」と。

 さらに考察しつつ考察する。
「ではこの名色は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか。
 何があるとき名色があるのか。
 何がないとき名色がないのか」
 彼は考察しつつこのように知る。
「名色は識を原因とし、識を生起とし、識から生じ、識から現れる。
 識があるとき名色がある。
 識がないとき名色がない」

 彼は名色をも知り、
 名色の生をも知り、
 名色の滅をも知り、
 名色の滅に行く道をも知り、
 その通りに修行もするがゆえに法に従って行う者である。
 比丘たちよ、ゆえにこう言われる。
「比丘は正しく一切の苦しみを尽くすために、名色を滅するために修行している」と。

 さらに考察しつつ考察する。
「ではこの識は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか。
 何があるとき識があるのか。
 何がないとき識がないのか」
 彼は考察しつつこのように知る。
「識は行を原因とし、行を生起とし、行から生じ、行から現れる。
 行があるとき識がある。
 行がないとき識がない」

 彼は識をも知り、
 識の生をも知り、
 識の滅をも知り、
 識の滅に行く道をも知り、
 その通りに修行もするがゆえに法に従って行う者である。
 比丘たちよ、ゆえにこう言われる。
「比丘は正しく一切の苦しみを尽くすために、識を滅するために修行している」と。

 さらに考察しつつ考察する。
「ではこの行は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか。
 何があるとき行があるのか。
 何がないとき行がないのか」
 彼は考察しつつこのように知る。
「行は無明を原因とし、無明を生起とし、無明から生じ、無明から現れる。
 無明があるとき行がある。
 無明がないとき行がない」

 彼は行をも知り、
 行の生をも知り、
 行の滅をも知り、
 行の滅に行く道をも知り、
 その通りに修行もするがゆえに法に従って行う者である。
 比丘たちよ、ゆえにこう言われる。
「比丘は正しく一切の苦しみを尽くすために、行を滅するために修行している」と。


 比丘たちよ、無明に行く人間がもし福の行を行じるならば、その識は福に達する。
 もし非福の行を行じるならば、その識は非福に達する。
 もし不動の行を行じるならば、その識は不動に達する。

 比丘たちよ、比丘が無明を断ち、明を生じさせるならば、彼は無明を離貪し、明を生じさせるゆえに、福行を行じることもなく、非福行を行じることもなく、不動行を行じることもない。
 行じることもなく、意思することもないゆえに、世間のいかなるものをも取らない。
 取らないから怖れない。
 怖れないからこの自己は涅槃する。
「生は尽きた。梵行は完成した。
 為すべきことを為した。
 さらにこのようになることはない」と知る。 

 もし彼が楽受を感受すれば、彼は「無常である」と知り、「執着すべきではない」と知り、「喜ぶべきではない」と知る。
 もし彼が苦受を感受すれば、彼は「無常である」と知り、「執着すべきではない」と知り、「喜ぶべきではない」と知る。
 もし彼が不苦不楽受を感受すれば、彼は「無常である」と知り、「執着すべきではない」と知り、「喜ぶべきではない」と知る。
 もし彼が楽受を感受すれば、彼は結ばれずに感受する。
 もし彼が苦受を感受すれば、彼は結ばれずに感受する。
 もし彼が不苦不楽受を感受すれば、彼は結ばれずに感受する。

 彼は身体がある限りの感受を感受するならば「私は身体がある限りの感受を感受している」と知る。
 命がある限りの感受を感受するならば「私は命がある限りの感受を感受している」と知る。
 身体が壊れて後は「命が尽きることによってここに一切の感受への喜びはなく冷たくなり、身体だけが残るだろう」と知る。
 比丘たちよ、たとえば人が焼き窯から熱い陶器を取り出して平らな地面に置くと、その熱はそこで寂静となり陶器として残る。
 比丘たちよ、このように比丘は身体がある限りの感受を感受するならば「私は身体がある限りの感受を感受している」と知る。
 命がある限りの感受を感受するならば「私は命がある限りの感受を感受している」と知る。
 身体が壊れて後は「命が尽きることによってここに一切の感受への喜びはなく冷たくなり、身体だけが残るだろう」と知る。

 比丘たちよ、これをどう思うか。
 漏を尽くした比丘もまた福行を行じたり、非福行を行じたり、不動行を行じることがあるだろうか。
 先生、それはありません。
 では一切の行が存在せず行が滅しているならば、識を設定することができるだろうか。
 先生、それはできません。
 では一切の識が存在せず識が滅しているならば、名色を設定することができるだろうか。
 先生、それはできません。
 では一切の名色が存在せず名色が滅しているならば、六処を設定することができるだろうか。
 先生、それはできません。
 では一切の六処が存在せず六処が滅しているならば、触を設定することができるだろうか。
 先生、それはできません。
 では一切の触が存在せず触が滅しているならば、受を設定することができるだろうか。
 先生、それはできません。
 では一切の受が存在せず受が滅しているならば、愛を設定することができるだろうか。
 先生、それはできません。
 では一切の愛が存在せず愛が滅しているならば、取を設定することができるだろうか。
 先生、それはできません。
 では一切の取が存在せず取が滅しているならば、有を設定することができるだろうか。
 先生、それはできません。
 では一切の有が存在せず有が滅しているならば、生を設定することができるだろうか。
 先生、それはできません。
 では一切の生が存在せず生が滅しているならば、老死を設定することができるだろうか。
 先生、それはできません。

 そうなのだ、そうなのだ、比丘たちよ。
 比丘たちよ、これはこのようであるのであって他のようであるのではない。
 比丘たちよ、この私を信じなさい。信頼しなさい。
 ここにおいて迷ってはならない。疑ってはならない。
 これは苦しみを終わらせるものなのである。


 註 考察  パリヴィーマンサー parivīmaṃsā
   福行  プンニャ・サンカーラ puñña saṅkhāra
   非福行 アプンニャ・サンカーラ apuñña saṅkhāra
   不動の行 アーネンジャ・サンカーラ āneñja saṅkhāra
        インジャナー〔iñjanā 動揺 動転〕の否定
   行じる  アビサンカローティ abhisaṅkharoti サンカーラする
   意思する アビサンチェーティ abhisañceteti 思念する
   怖れる  パリタッサティ paritassati 戦慄する、怖れる
   取る   ウパーディヤティ upādiyati 縁起の「取」に同じ
   この自己は  paccattaññeva
   涅槃する パリニッバーヤティ parinibbāyati
   執着する アッジョーサティ ajjhosati 固執する、執着する
   喜ぶ   アビナンダティ abhinandati
   結ばれずに visaṃyutta 離繋、離縛
   寂静となり ヴーパサメーティ vūpasameti 心身の寂静など瞑想語の一つ
   信頼する  アディムッチャティ adhimuccati 「勝解」 訳が難しい語」



(『南伝大蔵経13 相応部経典2』大蔵出版 P118−124 に相当)



   続く

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