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原始仏典コミュの因縁相応 「縁起」12 五怖怨・四預流支・聖慧

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(続き 『南伝大蔵経13 相応部経典2』大蔵出版 P99−105 に相当)






「     第五 居士品

   第一 五つの怨まれることと恐怖[一]

41.サーヴァッティに住んでいた。
 ときにアナータピンディカ居士は先生を訪ねた。訪ねて先生に挨拶して一方に座った。一方に座ったアナータピンディカ居士に先生はこう言った。

 居士よ、聖なる弟子が五つの恐怖と怨まれることを静まらせ、四つの流れに達する支分[四預流支]を成就し、さらに聖なる理を智慧によって善く見て善く通達するならば、彼が欲するならば自らによって自らを記説するだろう。
「地獄は尽きた。畜生胎は尽きた。
 餓鬼境は尽きた。悪処・苦処・堕処は尽きた。
 私は流れに入った。堕ちない法である。
 決定した。正覚に趣く」と。

 何がこれら五つの恐怖と怨まれることを静まらせるということか。
 居士よ、生き物を殺す者は生き物を殺すことを縁として、
 現世においても恐怖と怨まれることが生じ、
 来世においても恐怖と怨まれることが生じ、
 心においても苦しみと憂いを感受するが、
 生き物を殺すことを離れることによってこのような恐怖と怨まれることを静めるのである。

 居士よ、盗む者は盗むことを縁として、
 現世においても恐怖と怨まれることが生じ、
 来世においても恐怖と怨まれることが生じ、
 心においても苦しみと憂いを感受するが、
 盗みを離れることによってこのような恐怖と怨まれることを静めるのである。

 居士よ、欲において邪行(不倫など)をする者は欲における邪行を縁として、
 現世においても恐怖と怨まれることが生じ、
 来世においても恐怖と怨まれることが生じ、
 心においても苦しみと憂いを感受するが、
 欲における邪行を離れることによってこのような恐怖と怨まれることを静めるのである。

 居士よ、偽りを語る者は偽りを語ることを縁として、
 現世においても恐怖と怨まれることが生じ、
 来世においても恐怖と怨まれることが生じ、
 心においても苦しみと憂いを感受するが、
 偽りを語ることを離れることによってこのような恐怖と怨まれることを静めるのである。

 居士よ、穀酒・果実酒・酔わせるものによる放逸処(通常でない意識状態)にある者は穀酒・果実酒・酔わせるものによる放逸処にあることを縁として、
 現世においても恐怖と怨まれることが生じ、
 来世においても恐怖と怨まれることが生じ、
 心においても苦しみと憂いを感受するが、
 穀酒・果実酒・酔わせるものによる放逸処にあることを離れることによってこのような恐怖と怨まれることを静めるのである。
 これが五つの恐怖と怨まれることを静まらせるということである。

 何がこれら四つの流れに達する支分の成就か。
 居士よ、ここに聖なる弟子はブッダへの疑いのない信心を成就している。
「このようにもかの先生・阿羅漢・正覚者・明知と行を具足した者・善きところへ達した者・世間に通達した者・無上の者・訓練すべき人を訓練する者・神々と人々の師・覚った者・先生である」と。
 ダンマへの疑いのない信心を成就している。
「先生によって善く説かれた法は、自ら見ることができ、時を要さないものであり、来たれ見よというものであり、導くものであり、認識する者が各自で知るべきものである」と。
 サンガへの疑いのない信心を成就している。
「先生の弟子サンガは善く修行する者たちである。 
 先生の弟子サンガは真っ直ぐに修行する者たちである。
 先生の弟子サンガは理にかなって修行する者たちである。
 先生の弟子サンガは正しく修行する者たちである。
 即ち、四人を対とする八人の人間である。 
 この先生の弟子サンガは招待すべきであり、饗応すべきであり、布施すべきであり、合掌を為すべきであり、世間における無上の福田である」と。
 聖者が愛した戒を成就する。
 欠けていず、切れていず、まだらでなく、染みがなく、清浄であり、識者が称賛し、執着せず、サマーディに転じるものである。
 これが四つの流れに達する支分を成就するということである。 

 何が聖なる理を智慧によって善く見て善く通達することか。
 居士よ、ここに聖なる弟子は縁によって生起することを善く根本に作意を為す。

 このようにこれがあるときこれがある。
 これが生じてこれが生じる。
 これがないときこれがない。 
 これが滅してこれが滅する。

 即ち、無明を縁として行がある。
 行を縁として識がある。
 識を縁として名色がある。
 名色を縁として六処がある。
 六処を縁として触がある。
 触を縁として受がある。
 受を縁として愛がある。
 愛を縁として取がある。
 取を縁として有がある。
 有を縁として生がある。
 生を縁として老死と悩み・号泣・苦痛・苦憂・苦悶が現れる。
 このようにして完全に苦しみのまとまりが生起する。

 しかし無明を残りなく離貪し滅することによって行が滅する。
 行の滅によって識が滅する。
 識の滅によって名色が滅する。 
 名色の滅によって六処が滅する。
 六処の滅によって触が滅する。
 触の滅によって受が滅する。
 受の滅によって愛が滅する。
 愛の滅によって取が滅する。
 取の滅によって有が滅する。
 有の滅によって生が滅する。
 生の滅によって老死と悩み・号泣・苦痛・苦憂・苦悶が滅する。
 このようにして完全に苦しみのまとまりが滅する。
 これが聖なる理を智慧によって善く見て善く通達するということである。

 居士よ、聖なる弟子がこれら五つの恐怖と怨まれることを静まらせ、これら四つの流れに達する支分を成就し、さらにこのように聖なる理を智慧によって善く見て善く通達するならば、彼が欲するならば自らによって自らを記説するだろう。
「地獄は尽きた。畜生胎は尽きた。
 餓鬼境は尽きた。悪処・苦処・堕処は尽きた。
 私は流れに入った。堕ちない法である。
 決定した。正覚に趣く」と。


 註 怨み ヴェーラ vera 怨み、怨心、敵意
   恐怖 バヤ bhaya 怖れ、怖畏、恐怖
   静まらす ヴーパサンタ vūpasanta 寂静、瞑想でも用いられる用語
   五つの恐怖と怨まれること パンチャ・バヤーニ・ヴェーラーニ 
      pañca〔五〕bhayāni〔恐怖〕verāni〔怨まれること〕
   四預流支 チャッターリ・ソーターパッティヤアンガーニ
      cattāri〔四〕sotā〔流れ〕pattiy〔達する〕aṅgāni〔支分〕
   聖なる理 アリヨー・ニャーヨー ariyo ñāyo
   善く見る ス〔善〕ディッタ〔見〕 sudiṭṭha  善見
   善く通達する スッ〔善〕パティヴィッダ〔通達〕 善通達
   盗み adinnādāna 与えられていないものを取ることだが盗みと訳す
   欲における邪行 kāmesu〔欲における〕micchācāra〔邪悪に行じる〕
       不倫・浮気など当人や関係者が傷つく性行為
   穀酒・果実酒・酔わせるものによる放逸処 surā〔穀酒〕-
    meraya〔果実酒〕majja〔酔わせるもの〕pamādaṭṭhāna〔放逸処〕
   疑いのない信心 アヴェッチャ〔疑いのない〕パサーダ〔信心〕
    avecca pasāda aveccaは「絶対、確かに、決定的」と訳されるが
    これを「ヴェーチキッチン vecikicchin 疑える」の否定と取る



   第二 五つの怨まれることと恐怖[二]

42.サーヴァッティに住んでいた。
 比丘たちよ、聖なる弟子が五つの恐怖と怨まれることを静まらせ、四つの流れに達する支分を成就し、さらに聖なる理を智慧によって善く見て善く通達するならば、彼が欲するならば自らによって自らを記説するだろう。
「地獄は尽きた。畜生胎は尽きた。
 餓鬼境は尽きた。悪処・苦処・堕処は尽きた。
 私は流れに入った。堕ちない法である。
 決定した。正覚に趣く」と。

 何がこれら五つの恐怖と怨まれることを静まらせるということか。
 比丘たちよ、生き物を殺す者は・・・・・・
 比丘たちよ、盗む者は・・・・・・
 比丘たちよ、欲において邪行をする者は・・・・・・
 比丘たちよ、偽りを語る者は・・・・・・
 比丘たちよ、穀酒・果実酒・酔わせるものによる放逸処(酩酊状態)にある者は穀酒・果実酒・酔わせるものによる放逸処にあることを縁として、
 現世においても恐怖と怨まれることが生じ、
 来世においても恐怖と怨まれることが生じ、
 心においても苦しみと憂いを感受するが、
 穀酒・果実酒・酔わせるものによる放逸処にあることを離れることによってこのような恐怖と怨まれることを静めるのである。
 これが五つの恐怖と怨まれることを静まらせるということである。

 何がこれら四つの流れに達する支分の成就か。
 比丘たちよ、ここに聖なる弟子はブッダへの疑いのない信心を成就している。
「このようにもかの先生・阿羅漢・正覚者・明知と行を具足した者・善きところへ達した者・世間に通達した者・無上の者・訓練すべき人を訓練する者・神々と人々の師・覚った者・先生である」と。
 ダンマへの疑いのない信心を成就している。
「先生によって善く説かれた法は、自ら見ることができ、時を要さないものであり、来たれ見よというものであり、導くものであり、認識する者が各自で知るべきものである」と。
 サンガへの疑いのない信心を成就している。
「先生の弟子サンガは善く修行する者たちである。 
 先生の弟子サンガは真っ直ぐに修行する者たちである。
 先生の弟子サンガは理にかなって修行する者たちである。
 先生の弟子サンガは正しく修行する者たちである。
 即ち、四人を対とする八人の人間である。 
 この先生の弟子サンガは招待すべきであり、饗応すべきであり、布施すべきであり、合掌を為すべきであり、世間における無上の福田である」と。
 聖者が愛した戒を成就する。
 欠けていず、切れていず、まだらでなく、染みがなく、清浄であり、識者が称賛し、執着せず、サマーディに転じるものである。
 これが四つの流れに達する支分を成就するということである。 

 何が聖なる理を智慧によって善く見て善く通達することか。
 比丘たちよ、ここに聖なる弟子は縁によって生起することを善く根本に作意を為す。

 このようにこれがあるときこれがある。
 これが生じてこれが生じる。
 これがないときこれがない。 
 これが滅してこれが滅する。

 即ち、無明を縁として行がある。
 行を縁として・・・・・・
 生を縁として老死と悩み・号泣・苦痛・苦憂・苦悶が現れる。
 このようにして完全に苦しみのまとまりが生起する。

 しかし無明を残りなく離貪し滅することによって行が滅する。
 行の滅によって・・・・・・
 生の滅によって老死と悩み・号泣・苦痛・苦憂・苦悶が滅する。
 このようにして完全に苦しみのまとまりが滅する。
 これが聖なる理を智慧によって善く見て善く通達するということである。

 比丘たちよ、聖なる弟子がこれら五つの恐怖と怨まれることを静まらせ、これら四つの流れに達する支分を成就し、さらにこのように聖なる理を智慧によって善く見て善く通達するならば、彼が欲するならば自らによって自らを記説するだろう。
「地獄は尽きた。畜生胎は尽きた。
 餓鬼境は尽きた。悪処・苦処・堕処は尽きた。
 私は流れに入った。堕ちない法である。
 決定した。正覚に趣く」と。



(『南伝大蔵経13 相応部経典2』大蔵出版 P99−105 に相当)



   続く

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