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原始仏典コミュの因縁相応 「縁起」10 七十七知事

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(続き 『南伝大蔵経13 相応部経典2』大蔵出版 P86−88 に相当)





「   第四 知事[七十七智事]

34.サーヴァッティに住んでいた。・・・・・・
 比丘たちよ、あなたたちに七十七の知事を説こう。それを聞いてよく考えなさい。
「はい、先生」とその比丘たちは先生に応えた。先生はこう言った。

 比丘たちよ、何がこれら七十七の知事か。

 生を縁として老死があるという知、
 生がなければ老死がないという知、
 過去においても生を縁として老死があるという知、
 生がなければ老死がないという知、
 未来においても生を縁として老死があるという知、
 生がなければ老死がないという知、
 この法に住する知[法住智]もまた尽きる法・壊れる法・離貪する法・滅する法であるという知。

 有を縁として生があるという知、
 有がなければ生がないという知、
 過去においても有を縁として生があるという知、
 有がなければ生がないという知、
 未来においても有を縁として生があるという知、
 有がなければ生がないという知、
 この法に住する知もまた尽きる法・壊れる法・離貪する法・滅する法であるという知。

 取を縁として有があるという知、
 取がなければ有がないという知、
 過去においても取を縁として有があるという知、
 取がなければ有がないという知、
 未来においても取を縁として有があるという知、
 取がなければ有がないという知、
 この法に住する知もまた尽きる法・壊れる法・離貪する法・滅する法であるという知。

 愛を縁として取があるという知、
 愛がなければ取がないという知、
 過去においても愛を縁として取があるという知、
 愛がなければ取がないという知、
 未来においても愛を縁として取があるという知、
 愛がなければ取がないという知、
 この法に住する知もまた尽きる法・壊れる法・離貪する法・滅する法であるという知。

 受を縁として愛があるという知、
 受がなければ愛がないという知、
 過去においても受を縁として愛があるという知、
 受がなければ愛がないという知、
 未来においても受を縁として愛があるという知、
 受がなければ愛がないという知、
 この法に住する知もまた尽きる法・壊れる法・離貪する法・滅する法であるという知。

 触を縁として受があるという知、
 触がなければ受がないという知、
 過去においても触を縁として受があるという知、
 触がなければ受がないという知、
 未来においても触を縁として受があるという知、
 触がなければ受がないという知、
 この法に住する知もまた尽きる法・壊れる法・離貪する法・滅する法であるという知。

 六処を縁として触があるという知、
 六処がなければ触がないという知、
 過去においても六処を縁として触があるという知、
 六処がなければ触がないという知、
 未来においても六処を縁として触があるという知、
 六処がなければ触がないという知、
 この法に住する知もまた尽きる法・壊れる法・離貪する法・滅する法であるという知。

 名色を縁として六処があるという知、
 名色がなければ六処がないという知、
 過去においても名色を縁として六処があるという知、
 名色がなければ六処がないという知、
 未来においても名色を縁として六処があるという知、
 名色がなければ六処がないという知、
 この法に住する知もまた尽きる法・壊れる法・離貪する法・滅する法であるという知。

 識を縁として名色があるという知、
 識がなければ名色がないという知、
 過去においても識を縁として名色があるという知、
 識がなければ名色がないという知、
 未来においても識を縁として名色があるという知、
 識がなければ名色がないという知、
 この法に住する知もまた尽きる法・壊れる法・離貪する法・滅する法であるという知。

 行を縁として識があるという知、
 行がなければ識がないという知、
 過去においても行を縁として識があるという知、
 行がなければ識がないという知、
 未来においても行を縁として識があるという知、
 行がなければ識がないという知、
 この法に住する知もまた尽きる法・壊れる法・離貪する法・滅する法であるという知。

 無明を縁として行があるという知、
 無明がなければ行がないという知、
 過去においても無明を縁として行があるという知、
 無明がなければ行がないという知、
 未来においても無明を縁として行があるという知、
 無明がなければ行がないという知、
 この法に住する知もまた尽きる法・壊れる法・離貪する法・滅する法であるという知。

 比丘たちよ、これらが七十七の知事と言われる。

 註 七十七智事 sattasattari〔七十七〕ñāṇa〔知〕vatthūnī〔事〕
   法住智   ダンマ・チティ〔住する〕・ニャーナム〔知〕
   この法に住する知もまた尽法・壊法・離貪法・滅法であるという知。
    yampissa taṃ dhammaṭṭhitiñāṇaṃ tampi khayadhammaṃ
    vayadhammaṃ virāgadhammaṃ nirodhadhammanti ñāṇaṃ.



   第五 無明を縁として[一]

35.サーヴァッティに住んでいた。・・・・・・
 比丘たちよ、無明を縁として行がある。
 行を縁として識がある。
 識を縁として名色がある。
 名色を縁として六処がある。
 六処を縁として触がある。
 触を縁として受がある。
 受を縁として愛がある。
 愛を縁として取がある。
 取を縁として有がある。
 有を縁として生がある。
 生を縁として老死と悩み・号泣・苦痛・苦憂・苦悶が現れる。
 このようにして完全に苦しみのまとまりが生起する。

 このように言うと一人の比丘が先生にこう言った。
 先生、何が老死ですか。またこの老死は誰のものですか。
 先生は言った。
 適切な問いではない。
 比丘よ、「何が老死ですか。またこの老死は誰のものですか」と言うこと。
 比丘よ、また「老死とこの老死ある者とは別々のものである」と言うこと。
 比丘よ、この両者は文は異なっているが同じ意味である。 
 比丘よ、「身体は命そのものである」という見解においては梵行に住することはない。
 比丘よ、「身体と命は別々のものである」という見解においても梵行に住することはない。
 比丘よ、これら二つの極端を離れた中によって如来は法を説く。
「生を縁として老死がある」と。

 先生、何が生ですか。またこの生は誰のものですか。
 先生は言った。
 適切な問いではない。
 比丘よ、「何が生ですか。またこの生は誰のものですか」と言うこと。
 比丘よ、また「生とこの生ある者とは別々のものである」と言うこと。
 比丘よ、この両者は文は異なっているが同じ意味である。 
 比丘よ、「身体は命そのものである」という見解においては梵行に住することはない。
 比丘よ、「身体と命は別々のものである」という見解においても梵行に住することはない。
 比丘よ、これら二つの極端を離れた中によって如来は法を説く。
「有を縁として生がある」と。

 先生、何が有ですか。またこの有は誰のものですか。
 先生は言った。
 適切な問いではない。
 比丘よ、「何が有ですか。またこの有は誰のものですか」と言うこと。
 比丘よ、また「有とこの有ある者とは別々のものである」と言うこと。
 比丘よ、この両者は文は異なっているが同じ意味である。 
 比丘よ、「身体は命そのものである」という見解においては梵行に住することはない。
 比丘よ、「身体と命は別々のものである」という見解においても梵行に住することはない。
 比丘よ、これら二つの極端を離れた中によって如来は法を説く。
「取を縁として有がある」と。

 先生、何が取ですか。またこの取は誰のものですか。
 先生は言った。
 適切な問いではない。
 比丘よ、「何が取ですか。またこの取は誰のものですか」と言うこと。
 比丘よ、また「取とこの取ある者とは別々のものである」と言うこと。
 比丘よ、この両者は文は異なっているが同じ意味である。 
 比丘よ、「身体は命そのものである」という見解においては梵行に住することはない。
 比丘よ、「身体と命は別々のものである」という見解においても梵行に住することはない。
 比丘よ、これら二つの極端を離れた中によって如来は法を説く。
「愛を縁として取がある」と。

 先生、何が愛ですか。またこの愛は誰のものですか。
 先生は言った。
 適切な問いではない。
 比丘よ、「何が愛ですか。またこの愛は誰のものですか」と言うこと。
 比丘よ、また「愛とこの愛ある者とは別々のものである」と言うこと。
 比丘よ、この両者は文は異なっているが同じ意味である。 
 比丘よ、「身体は命そのものである」という見解においては梵行に住することはない。
 比丘よ、「身体と命は別々のものである」という見解においても梵行に住することはない。
 比丘よ、これら二つの極端を離れた中によって如来は法を説く。
「受を縁として愛がある」と。

 先生、何が受ですか。またこの受は誰のものですか。
 先生は言った。
 適切な問いではない。
 比丘よ、「何が受ですか。またこの受は誰のものですか」と言うこと。
 比丘よ、また「受とこの受ある者とは別々のものである」と言うこと。
 比丘よ、この両者は文は異なっているが同じ意味である。 
 比丘よ、「身体は命そのものである」という見解においては梵行に住することはない。
 比丘よ、「身体と命は別々のものである」という見解においても梵行に住することはない。
 比丘よ、これら二つの極端を離れた中によって如来は法を説く。
「触を縁として受がある」と。

 先生、何が触ですか。またこの触は誰のものですか。
 先生は言った。
 適切な問いではない。
 比丘よ、「何が触ですか。またこの触は誰のものですか」と言うこと。
 比丘よ、また「触とこの触ある者とは別々のものである」と言うこと。
 比丘よ、この両者は文は異なっているが同じ意味である。 
 比丘よ、「身体は命そのものである」という見解においては梵行に住することはない。
 比丘よ、「身体と命は別々のものである」という見解においても梵行に住することはない。
 比丘よ、これら二つの極端を離れた中によって如来は法を説く。
「六処を縁として触がある」と。

 先生、何が六処ですか。またこの六処は誰のものですか。
 先生は言った。
 適切な問いではない。
 比丘よ、「何が六処ですか。またこの六処は誰のものですか」と言うこと。
 比丘よ、また「六処とこの六処ある者とは別々のものである」と言うこと。
 比丘よ、この両者は文は異なっているが同じ意味である。 
 比丘よ、「身体は命そのものである」という見解においては梵行に住することはない。
 比丘よ、「身体と命は別々のものである」という見解においても梵行に住することはない。
 比丘よ、これら二つの極端を離れた中によって如来は法を説く。
「名色を縁として六処がある」と。

 先生、何が名色ですか。またこの名色は誰のものですか。
 先生は言った。
 適切な問いではない。
 比丘よ、「何が名色ですか。またこの名色は誰のものですか」と言うこと。
 比丘よ、また「名色とこの名色ある者とは別々のものである」と言うこと。
 比丘よ、この両者は文は異なっているが同じ意味である。 
 比丘よ、「身体は命そのものである」という見解においては梵行に住することはない。
 比丘よ、「身体と命は別々のものである」という見解においても梵行に住することはない。
 比丘よ、これら二つの極端を離れた中によって如来は法を説く。
「識を縁として名色がある」と。

 先生、何が識ですか。またこの識は誰のものですか。
 先生は言った。
 適切な問いではない。
 比丘よ、「何が識ですか。またこの識は誰のものですか」と言うこと。
 比丘よ、また「識とこの識ある者とは別々のものである」と言うこと。
 比丘よ、この両者は文は異なっているが同じ意味である。 
 比丘よ、「身体は命そのものである」という見解においては梵行に住することはない。
 比丘よ、「身体と命は別々のものである」という見解においても梵行に住することはない。
 比丘よ、これら二つの極端を離れた中によって如来は法を説く。
「行を縁として識がある」と。

 先生、何が行ですか。またこの行は誰のものですか。
 先生は言った。
 適切な問いではない。
 比丘よ、「何が行ですか。またこの行は誰のものですか」と言うこと。
 比丘よ、また「行とこの行ある者とは別々のものである」と言うこと。
 比丘よ、この両者は文は異なっているが同じ意味である。 
 比丘よ、「身体は命そのものである」という見解においては梵行に住することはない。
 比丘よ、「身体と命は別々のものである」という見解においても梵行に住することはない。
 比丘よ、これら二つの極端を離れた中によって如来は法を説く。
「無明を縁として行がある」と。

 比丘よ、この無明を残り無く離貪し滅することによってこれらの曲がったもの・歪んだもの・混乱はいかなるものであれ、断たれ、ターラ樹の根を切断されたものと為され、存在しないものとなり、未来に生じない法となる。
 即ち、あるいは「何が老死か。この老死は誰のものか」ということ、
 あるいは「老死とこの老死ある者とは別々のものである」ということ、
 あるいは「身体は命そのものである」ということ、
 あるいは「身体と命は別々のものである」ということが。

 比丘よ、この無明を残り無く離貪し滅することによってこれらの曲がったもの・歪んだもの・混乱はいかなるものであれ、断たれ、ターラ樹の根を切断されたものと為され、存在しないものとなり、未来に生じない法となる。
 即ち、あるいは「何が有か。この有は誰のものか」ということ、
 あるいは「有とこの有ある者とは別々のものである」ということ、
 あるいは「身体は命そのものである」ということ、
 あるいは「身体と命は別々のものである」ということが。

 比丘よ、この無明を残り無く離貪し滅することによってこれらの曲がったもの・歪んだもの・混乱はいかなるものであれ、断たれ、ターラ樹の根を切断されたものと為され、存在しないものとなり、未来に生じない法となる。
 即ち、あるいは「何が生か。この生は誰のものか」ということ、
 あるいは「生とこの生ある者とは別々のものである」ということ、
 あるいは「身体は命そのものである」ということ、
 あるいは「身体と命は別々のものである」ということが。

 比丘よ、この無明を残り無く離貪し滅することによってこれらの曲がったもの・歪んだもの・混乱はいかなるものであれ、断たれ、ターラ樹の根を切断されたものと為され、存在しないものとなり、未来に生じない法となる。
 即ち、あるいは「何が有か。この有は誰のものか」・・・
 ・・・「何が取か。この取は誰のものか」・・・
 ・・・「何が愛か。この愛は誰のものか」・・・
 ・・・「何が受か。この受は誰のものか」・・・
 ・・・「何が触か。この触は誰のものか」・・・
 ・・・「何が六処か。この六処は誰のものか」・・・
 ・・・「何が名色か。この名色は誰のものか」・・・
 ・・・「何が識か。この識は誰のものか」・・・

 比丘よ、この無明を残り無く離貪し滅することによってこれらの曲がったもの・歪んだもの・混乱はいかなるものであれ、断たれ、ターラ樹の根を切断されたものと為され、存在しないものとなり、未来に生じない法となる。
 即ち、あるいは「何が行か。この行は誰のものか」ということ、
 あるいは「行とこの行ある者とは別々のものである」ということ、
 あるいは「身体は命そのものである」ということ、
 あるいは「身体と命は別々のものである」ということが。




 註 何が老死ですか katamaṃ jarāmaraṇaṃ ,
   またこの老死は誰のものですか kassa ca panidaṃ jarāmaraṇa’
   老死とこの老死ある者は別々のものである 
       ‘aññaṃ jarāmaraṇaṃ aññassa ca panidaṃ jarāmaraṇa’
   身体は命そのものである Taṃ jīvaṃ taṃ sarīranti
   身体と命は別々のものである Aññaṃ jīvaṃ aññaṃ sarīranti
   梵行に住すること brahmacariyavāso」




(『南伝大蔵経13 相応部経典2』大蔵出版 P86−88 に相当)



   続く

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