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原始仏典コミュの因縁相応 「縁起」9 四十四知事

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(続き 『南伝大蔵経13 相応部経典2』大蔵出版 P82−86 に相当)






「   第三 知事[四十四智事]

33.サーヴァッティ・・・・・・
 比丘たちよ、あなたたちに四十四の知事を説こう。それを聞いてよく考えなさい。説こう。
「はい、先生」とその比丘たちは先生に応えた。先生はこう言った。
 
 比丘たちよ、何がこれら四十四の知の事か。

 老死という知、老死の生という知、老死の滅という知、老死の滅に行く道という知、
 生という知、生の生という知、生の滅という知、生の滅に行く道という知、
 有という知、有の生という知、有の滅という知、有の滅に行く道という知、
 取という知、取の生という知、取の滅という知、取の滅に行く道という知、
 愛という知、愛の生という知、愛の滅という知、愛の滅に行く道という知、
 受という知、受の生という知、受の滅という知、受の滅に行く道という知、
 触という知、触の生という知、触の滅という知、触の滅に行く道という知、
 六処という知、六処の生という知、六処の滅という知、六処の滅に行く道という知、
 名色という知、名色の生という知、名色の滅という知、名色の滅に行く道という知、
 識という知、識の生という知、識の滅という知、識の滅に行く道という知、
 行という知、行の生という知、行の滅という知、行の滅に行く道という知。
 比丘たちよ、これら四十四の知事がある。

 比丘たちよ、何が老死か。
 それぞれの生ける者たちがそれぞれの生ける者の部類において老い、老衰し、壊れ、白髪になり、皺が寄り、寿命が減少し、諸根が熟し切ること。
 これが老いと言われる。
 それぞれの生ける者たちがそれぞれの生ける者の部類において死に、死亡し、破壊し、消滅し、死し、死の時が来て、諸蘊が壊れて完全に放棄される。
 これが死と言われる。
 このようにこれが老いであり、またこれが死である。
 比丘たちよ、これが老死と言われる。
 生が生起すると老死が生起する。
 生が滅すると老死が滅する。
 この聖なる八支の道が老死を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、聖なる弟子はこのように老死を知り、
 このように老死の生を知り、
 このように老死の滅を知り、
 このように老死の滅に行く道を知る。
 これは法の知[法智、物事そのもの知]である。
 彼はこれらの法を見て、知り、時を要さず、得て、深く入り、過去と未来に導かれる。
 いかなる過去の沙門バラモンであっても老死を超知し、老死の生を超知し、老死の滅を超知し、老死の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知しただろう。
 たとえば現在の私のように。
 いかなる未来の沙門バラモンであっても老死を超知し、老死の生を超知し、老死の滅を超知し、老死の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知するだろう。
 たとえば現在の私のように。
 これは類の知[類智、類推による知]である。
 比丘たちよ、聖なる弟子には遍く清浄であり遍く浄化されたこれら二つの知[二智]がある。
 法の知と類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子はこう言われる。
 「見解を具足した」とも、
 「見ることを具足した」とも、
 「この正法に達した」とも、
 「この正法を見た」とも、
 「有学の知を成就した」とも、
 「有学の明を成就した」とも、
 「法の流れを具足した」とも、
 「聖なる解明する智慧がある」とも、
 「不死の扉を打って立つ」と。

 比丘たちよ、何が生か。
 それぞれの生ける者たちがそれぞれの生ける者の部類において生まれ、発生し、入胎し、生起し、生起され、諸蘊が出現し、入処を獲得する。
 比丘たちよ、これが生と言われる。
 有が生起すると生が生起する。
 有が滅すると生が滅する。
 この聖なる八支の道が生を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、聖なる弟子はこのように有を知り、
 このように生の生を知り、
 このように生の滅を知り、
 このように生の滅に行く道を知る。
 これは法の知である。
 彼はこれらの法を見て、知り、時を要さず、得て、深く入り、過去と未来に導かれる。
 いかなる過去の沙門バラモンであっても生を超知し、生の生を超知し、生の滅を超知し、生の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知しただろう。
 たとえば現在の私のように。
 いかなる未来の沙門バラモンであっても生を超知し、生の生を超知し、生の滅を超知し、生の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知するだろう。
 たとえば現在の私のように。
 これは類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子には遍く清浄であり遍く浄化されたこれら二つの知がある。
 法の知と類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子はこう言われる。
 「見解を具足した」とも、
 「見ることを具足した」とも、
 「この正法に達した」とも、
 「この正法を見た」とも、
 「有学の知を成就した」とも、
 「有学の明を成就した」とも、
 「法の流れを具足した」とも、
 「聖なる解明する智慧がある」とも、
 「不死の扉を打って立つ」と。 

 比丘たちよ、何が有か。
 比丘たちよ、これら三つの有がある。欲のある存在・物質のある存在・物質のない存在。
 比丘たちよ、これが有と言われる。
 取が生起すると有が生起する。
 取が滅すると有が滅する。
 この聖なる八支の道が有を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、聖なる弟子はこのように有を知り、
 このように有の生を知り、
 このように有の滅を知り、
 このように有の滅に行く道を知る。
 これは法の知である。
 彼はこれらの法を見て、知り、時を要さず、得て、深く入り、過去と未来に導かれる。
 いかなる過去の沙門バラモンであっても有を超知し、有の生を超知し、有の滅を超知し、有の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知しただろう。
 たとえば現在の私のように。
 いかなる未来の沙門バラモンであっても有を超知し、有の生を超知し、有の滅を超知し、有の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知するだろう。
 たとえば現在の私のように。
 これは類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子には遍く清浄であり遍く浄化されたこれら二つの知がある。
 法の知と類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子はこう言われる。
 「見解を具足した」とも、
 「見ることを具足した」とも、
 「この正法に達した」とも、
 「この正法を見た」とも、
 「有学の知を成就した」とも、
 「有学の明を成就した」とも、
 「法の流れを具足した」とも、
 「聖なる解明する智慧がある」とも、
 「不死の扉を打って立つ」と。 

 比丘たちよ、何が取か。
 比丘たちよ、これら四つの取がある。欲への執着・見解への執着・戒や禁止事項への執着・自分を語ることへの執着。
 比丘たちよ、これが取と言われる。
 愛が生起すると取が生起する。
 愛が滅すると取が滅する。
 この聖なる八支の道が取を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、聖なる弟子はこのように取を知り、
 このように取の生を知り、
 このように取の滅を知り、
 このように取の滅に行く道を知る。
 これは法の知である。
 彼はこれらの法を見て、知り、時を要さず、得て、深く入り、過去と未来に導かれる。
 いかなる過去の沙門バラモンであっても取を超知し、取の生を超知し、取の滅を超知し、取の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知しただろう。
 たとえば現在の私のように。
 いかなる未来の沙門バラモンであっても取を超知し、取の生を超知し、取の滅を超知し、取の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知するだろう。
 たとえば現在の私のように。
 これは類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子には遍く清浄であり遍く浄化されたこれら二つの知がある。
 法の知と類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子はこう言われる。
 「見解を具足した」とも、
 「見ることを具足した」とも、
 「この正法に達した」とも、
 「この正法を見た」とも、
 「有学の知を成就した」とも、
 「有学の明を成就した」とも、
 「法の流れを具足した」とも、
 「聖なる解明する智慧がある」とも、
 「不死の扉を打って立つ」と。 

 比丘たちよ、何が愛か。
 比丘たちよ、これら六つの愛がある。色への渇愛・声への渇愛・香への渇愛・味への渇愛・触れられるものへの渇愛・法への渇愛。
 比丘たちよ、これが愛と言われる。
 受が生起すると愛が生起する。
 受が滅すると愛が滅する。
 この聖なる八支の道が愛を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、聖なる弟子はこのように愛を知り、
 このように愛の生を知り、
 このように愛の滅を知り、
 このように愛の滅に行く道を知る。
 これは法の知である。
 彼はこれらの法を見て、知り、時を要さず、得て、深く入り、過去と未来に導かれる。
 いかなる過去の沙門バラモンであっても愛を超知し、愛の生を超知し、愛の滅を超知し、愛の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知しただろう。
 たとえば現在の私のように。
 いかなる未来の沙門バラモンであっても愛を超知し、愛の生を超知し、愛の滅を超知し、愛の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知するだろう。
 たとえば現在の私のように。
 これは類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子には遍く清浄であり遍く浄化されたこれら二つの知がある。
 法の知と類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子はこう言われる。
 「見解を具足した」とも、
 「見ることを具足した」とも、
 「この正法に達した」とも、
 「この正法を見た」とも、
 「有学の知を成就した」とも、
 「有学の明を成就した」とも、
 「法の流れを具足した」とも、
 「聖なる解明する智慧がある」とも、
 「不死の扉を打って立つ」と。 

 比丘たちよ、何が受か。
 比丘たちよ、これら六つの受がある。眼で触れることによって生じる感受・耳で触れることによって生じる感受・鼻で触れることによって生じる感受・舌で触れることによって生じる感受・身で触れることによって生じる感受・意で触れることによって生じる感受。
 比丘たちよ、これが受と言われる。
 触が生起すると受が生起する。
 触が滅すると受が滅する。
 この聖なる八支の道が受を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、聖なる弟子はこのように受を知り、
 このように受の生を知り、
 このように受の滅を知り、
 このように受の滅に行く道を知る。
 これは法の知である。
 彼はこれらの法を見て、知り、時を要さず、得て、深く入り、過去と未来に導かれる。
 いかなる過去の沙門バラモンであっても受を超知し、受の生を超知し、受の滅を超知し、受の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知しただろう。
 たとえば現在の私のように。
 いかなる未来の沙門バラモンであっても受を超知し、受の生を超知し、受の滅を超知し、受の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知するだろう。
 たとえば現在の私のように。
 これは類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子には遍く清浄であり遍く浄化されたこれら二つの知がある。
 法の知と類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子はこう言われる。
 「見解を具足した」とも、
 「見ることを具足した」とも、
 「この正法に達した」とも、
 「この正法を見た」とも、
 「有学の知を成就した」とも、
 「有学の明を成就した」とも、
 「法の流れを具足した」とも、
 「聖なる解明する智慧がある」とも、
 「不死の扉を打って立つ」と。 

 比丘たちよ、何が触か。
 比丘たちよ、これら六つの触がある。眼で触れること・耳で触れること・鼻で触れること・舌で触れること・身で触れること・意で触れること。
 比丘たちよ、これが触と言われる。
 六処が生起すると触が生起する。
 六処が滅すると触が滅する。
 この聖なる八支の道が触を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、聖なる弟子はこのように触を知り、
 このように触の生を知り、
 このように触の滅を知り、
 このように触の滅に行く道を知る。
 これは法の知である。
 彼はこれらの法を見て、知り、時を要さず、得て、深く入り、過去と未来に導かれる。
 いかなる過去の沙門バラモンであっても触を超知し、触の生を超知し、触の滅を超知し、触の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知しただろう。
 たとえば現在の私のように。
 いかなる未来の沙門バラモンであっても触を超知し、触の生を超知し、触の滅を超知し、触の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知するだろう。
 たとえば現在の私のように。
 これは類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子には遍く清浄であり遍く浄化されたこれら二つの知がある。
 法の知と類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子はこう言われる。
 「見解を具足した」とも、
 「見ることを具足した」とも、
 「この正法に達した」とも、
 「この正法を見た」とも、
 「有学の知を成就した」とも、
 「有学の明を成就した」とも、
 「法の流れを具足した」とも、
 「聖なる解明する智慧がある」とも、
 「不死の扉を打って立つ」と。 

 比丘たちよ、何が六処か。
 眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処。
 比丘たちよ、これが六処と言われる。 
 名色が生起すると六処が生起する。
 名色が滅すると六処が滅する。
 この聖なる八支の道が六処を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、聖なる弟子はこのように六処を知り、
 このように六処の生を知り、
 このように六処の滅を知り、
 このように六処の滅に行く道を知る。
 これは法の知である。
 彼はこれらの法を見て、知り、時を要さず、得て、深く入り、過去と未来に導かれる。
 いかなる過去の沙門バラモンであっても六処を超知し、六処の生を超知し、六処の滅を超知し、六処の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知しただろう。
 たとえば現在の私のように。
 いかなる未来の沙門バラモンであっても六処を超知し、六処の生を超知し、六処の滅を超知し、六処の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知するだろう。
 たとえば現在の私のように。
 これは類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子には遍く清浄であり遍く浄化されたこれら二つの知がある。
 法の知と類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子はこう言われる。
 「見解を具足した」とも、
 「見ることを具足した」とも、
 「この正法に達した」とも、
 「この正法を見た」とも、
 「有学の知を成就した」とも、
 「有学の明を成就した」とも、
 「法の流れを具足した」とも、
 「聖なる解明する智慧がある」とも、
 「不死の扉を打って立つ」と。 

 比丘たちよ、何が名色か。
 受・想・思い・触・作意。
 これが名と言われる。
 四大存在と四大存在を取る色。
 これが色と言われる。
 このようにこれが名であり、またこれが色である。
 比丘たちよ、これが名色と言われる。
 識が生起すると名色が生起する。
 識が滅すると名色が滅する。
 この聖なる八支の道が名色を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、聖なる弟子はこのように名色を知り、
 このように名色の生を知り、
 このように名色の滅を知り、
 このように名色の滅に行く道を知る。
 これは法の知である。
 彼はこれらの法を見て、知り、時を要さず、得て、深く入り、過去と未来に導かれる。
 いかなる過去の沙門バラモンであっても名色を超知し、名色の生を超知し、名色の滅を超知し、名色の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知しただろう。
 たとえば現在の私のように。
 いかなる未来の沙門バラモンであっても名色を超知し、名色の生を超知し、名色の滅を超知し、名色の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知するだろう。
 たとえば現在の私のように。
 これは類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子には遍く清浄であり遍く浄化されたこれら二つの知がある。
 法の知と類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子はこう言われる。
 「見解を具足した」とも、
 「見ることを具足した」とも、
 「この正法に達した」とも、
 「この正法を見た」とも、
 「有学の知を成就した」とも、
 「有学の明を成就した」とも、
 「法の流れを具足した」とも、
 「聖なる解明する智慧がある」とも、
 「不死の扉を打って立つ」と。 

 比丘たちよ、何が識か。
 比丘たちよ、これら六つの識が身体にある。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
 比丘たちよ、これが識と言われる。
 行が生起すると識が生起する。
 行が滅すると識が滅する。
 この聖なる八支の道が識を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、聖なる弟子はこのように識を知り、
 このように識の生を知り、
 このように識の滅を知り、
 このように識の滅に行く道を知る。
 これは法の知である。
 彼はこれらの法を見て、知り、時を要さず、得て、深く入り、過去と未来に導かれる。
 いかなる過去の沙門バラモンであっても識を超知し、識の生を超知し、識の滅を超知し、識の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知しただろう。
 たとえば現在の私のように。
 いかなる未来の沙門バラモンであっても識を超知し、識の生を超知し、識の滅を超知し、識の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知するだろう。
 たとえば現在の私のように。
 これは類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子には遍く清浄であり遍く浄化されたこれら二つの知がある。
 法の知と類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子はこう言われる。
 「見解を具足した」とも、
 「見ることを具足した」とも、
 「この正法に達した」とも、
 「この正法を見た」とも、
 「有学の知を成就した」とも、
 「有学の明を成就した」とも、
 「法の流れを具足した」とも、
 「聖なる解明する智慧がある」とも、
 「不死の扉を打って立つ」と。 

 比丘たちよ、何が行か。
 比丘たちよ、これら三つの行がある。身体の行ない・言葉の行ない・心の行ない。
 比丘たちよ、これが行と言われる。
 無明が生起すると行が生起する。
 無明が滅すると行が滅する。
 この聖なる八支の道が行を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、聖なる弟子はこのように行を知り、
 このように行の生を知り、
 このように行の滅を知り、
 このように行の滅に行く道を知る。
 これは法の知である。
 彼はこれらの法を見て、知り、時を要さず、得て、深く入り、過去と未来に導かれる。
 いかなる過去の沙門バラモンであっても行を超知し、行の生を超知し、行の滅を超知し、行の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知しただろう。
 たとえば現在の私のように。
 いかなる未来の沙門バラモンであっても行を超知し、行の生を超知し、行の滅を超知し、行の滅に行く道を超知し、彼らの一切はこのように超知するだろう。
 たとえば現在の私のように。
 これは類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子には遍く清浄であり遍く浄化されたこれら二つの知がある。
 法の知と類の知である。
 比丘たちよ、聖なる弟子はこう言われる。
 「見解を具足した」とも、
 「見ることを具足した」とも、
 「この正法に達した」とも、
 「この正法を見た」とも、
 「有学の知を成就した」とも、
 「有学の明を成就した」とも、
 「法の流れを具足した」とも、
 「聖なる解明する智慧がある」とも、
 「不死の扉を打って立つ」と。 

 註 四十四知事 catucattārīsaṃ〔四十四〕ñāṇa〔知〕vatthūni〔事〕
   法の知  ダンメー・ニャーナム dhamme ñāṇaṃ 法智
   類の知  アンヴァイェー・ニャーナム anvaye ñāṇaṃ 類智   
   超知した アッバンニャー abbhaññā 超知するの過去形
   遍く清浄な パリスッダ parisuddha
   遍く浄化された パリヨーダーナ pariyodātā」




(『南伝大蔵経13 相応部経典2』大蔵出版 P82−86 に相当)




   続く

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