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原始仏典コミュの正式な修行法 「四無量心」

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正式な四無量心の修習法の原文。ホラ貝のたとえと業の解説付き。





・長部経典>第13経「三明経」[テーヴィッジャ・スッタ]


「彼は慈[メッター mettā]を伴って行じる心を一方に遍満して住する。
 そのように第二も。そのように第三も。そのように第四も。
 こうして上下に、横に、一切の領域に、一切処に、一切の者に、世界中に、慈を伴って行じる心を広く、大きく、無量に、怨みなく、怒りなく、遍満して住する。
 ヴァーセッタ、たとえば力あるホラ貝吹きは容易に四方に知らせる。
 ヴァーセッタ、このように慈心解脱(慈しみへと心が離脱すること)を修習するならば、有量の作された業は彼のところに住することはなく、彼のところに留まることはない。
 ヴァーセッタ、これもブラフマーの仲間になる道である。

 彼は悲[カルナー karuṇā]を伴って行じる心を一方に遍満して住する。
 そのように第二も。そのように第三も。そのように第四も。
 こうして上下に、横に、一切の領域に、一切処に、一切の者に、世界中に、悲を伴って行じる心を広く、大きく、無量に、怨みなく、怒りなく、遍満して住する。
 ヴァーセッタ、たとえば力あるホラ貝吹きは容易に四方に知らせる。
 ヴァーセッタ、このように悲心解脱(哀れみへと心が離脱すること)を修習するならば、有量の作された業は彼のところに住することはなく、彼のところに留まることはない。
 ヴァーセッタ、これもブラフマーの仲間になる道である。

 彼は喜[ムディター muditā]を伴って行じる心を一方に遍満して住する。
 そのように第二も。そのように第三も。そのように第四も。
 こうして上下に、横に、一切の領域に、一切処に、一切の者に、世界中に、喜を伴って行じる心を広く、大きく、無量に、怨みなく、怒りなく、遍満して住する。
 ヴァーセッタ、たとえば力あるホラ貝吹きは容易に四方に知らせる。
 ヴァーセッタ、このように喜心解脱(喜びへと心が離脱すること)を修習するならば、有量の作された業は彼のところに住することはなく、彼のところに留まることはない。
 ヴァーセッタ、これもブラフマーの仲間になる道である。

 彼は捨[ウペッカー upekkhā]を伴って行じる心を一方に遍満して住する。
 そのように第二も。そのように第三も。そのように第四も。
 こうして上下に、横に、一切の領域に、一切処に、一切の者に、世界中に、捨を伴って行じる心を広く、大きく、無量に、怨みなく、怒りなく、遍満して住する。
 ヴァーセッタ、たとえば力あるホラ貝吹きは容易に四方に知らせる。
 ヴァーセッタ、このように捨心解脱(捨へと心が離脱すること)を修習するならば、有量の作された業は彼のところに住することはなく、彼のところに留まることはない。
 ヴァーセッタ、これもブラフマーの仲間になる道である。 」

  『南伝大蔵経6 長部経典1』大蔵出版 P356−357 に相当





 註 伴って行じる saha〔伴って〕gatena〔行く〕
   心   cettasā
   遍満  pharitvā
   住する viharati サーヴァッティに住んでいたに同じ
   上下  uddhamadho
   横   tiriyaṃ
   一切の領域 sabbadhi
   一切処   sabbattatāya
   一切の者  sabbāvantaṃ
   世界中   lokaṃ
   広く    vipulena
   大きく   maha〔大に〕ggatena〔行く〕
   無量    appamāṇena
   怨みなく  averena
   怒りなく  abyāpajjena
   心解脱   cetovimuttiyā 心が離脱すること
   有量の為された業 pamāṇa〔有量〕kataṃ〔為された〕 kammaṃ〔業〕
   彼のところに住することはない 
    na〔ない〕 taṃ〔彼の〕 tatrā〔ところ〕vasissati〔住する〕
   彼のところに留まることはない
    na〔ない〕 taṃ〔彼の〕 tatrā〔ところ〕vatiṭṭhati〔住する〕
   ブラフマー brahmānaṃ   梵
   仲間    sahabyatāya  共住、親しくなる、友誼
   道     maggo.」





 ・四無量心        
 0 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=38871429&comm_id=951429
 1 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=32182557&comm_id=951429
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 6 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=33643596&comm_id=951429
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 10 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42124861&comm_id=951429





[原文との対照]

「彼は慈を伴って行じる心を一方に遍満して住する。
 ‘‘So mettāsahagatena cetasā ekaṃ disaṃ pharitvā viharati .
 そのように第二も。そのように第三も。そのように第四も。
 Tathā dutiyaṃ. Tathā tatiyaṃ. Tathā catutthaṃ.
 こうして上下に、横に、一切の領域に、一切処に、一切の者に、世界中に、慈を伴って行じる心を広く、大きく、無量に、怨みなく、怒りなく、遍満して住する。
 Iti uddhamadho tiriyaṃ sabbadhi sabbattatāya sabbāvantaṃ lokaṃ mettāsahagatena cetasā vipulena mahaggatena appamāṇena averena abyāpajjena pharitvā viharati.

 ヴァーセッタ、たとえば力あるホラ貝吹きは容易に四方に知らせる。
 ‘‘Seyyathāpi, vāseṭṭha, balavā saṅkhadhamo appakasireneva catuddisā viññāpeyya;
 ヴァーセッタ、このように慈心解脱を修習するならば、有量の作された業は彼のところに住することはなく、彼のところに留まることはない。
evameva kho, vāseṭṭha, evaṃ bhāvitāya mettāya cetovimuttiyā yaṃ pamāṇakataṃ kammaṃ na taṃ tatrāvasissati, na taṃ tatrāvatiṭṭhati.
 ヴァーセッタ、これもブラフマーの仲間になる道である。
 Ayampi kho, vāseṭṭha, brahmānaṃ sahabyatāya maggo.」








[パーリ語原文]


「‘‘So mettāsahagatena cetasā ekaṃ disaṃ pharitvā viharati .
Tathā dutiyaṃ. Tathā tatiyaṃ. Tathā catutthaṃ.
Iti uddhamadho tiriyaṃ sabbadhi sabbattatāya sabbāvantaṃ lokaṃ mettāsahagatena cetasā vipulena mahaggatena appamāṇena averena abyāpajjena pharitvā viharati.
ホラ貝
‘‘Seyyathāpi, vāseṭṭha, balavā saṅkhadhamo appakasireneva catuddisā viññāpeyya;  
evameva kho, vāseṭṭha, evaṃ bhāvitāya mettāya cetovimuttiyā yaṃ pamāṇakataṃ kammaṃ na taṃ tatrāvasissati, na taṃ tatrāvatiṭṭhati.
Ayampi kho, vāseṭṭha, brahmānaṃ sahabyatāya maggo.




‘‘Puna caparaṃ, vāseṭṭha, bhikkhu karuṇāsahagatena cetasā…pe…

muditāsahagatena cetasā…pe…

upekkhāsahagatena cetasā ekaṃ disaṃ pharitvā viharati.
Tathā dutiyaṃ. Tathā tatiyaṃ. Tathā catutthaṃ.
Iti uddhamadho tiriyaṃ sabbadhi sabbattatāya sabbāvantaṃ lokaṃ upekkhāsahagatena cetasā vipulena mahaggatena appamāṇena averena abyāpajjena pharitvā viharati.
ホラ貝
‘‘Seyyathāpi , vāseṭṭha, balavā saṅkhadhamo appakasireneva catuddisā viññāpeyya. Evameva kho, vāseṭṭha, evaṃ bhāvitāya upekkhāya cetovimuttiyā yaṃ pamāṇakataṃ kammaṃ na taṃ tatrāvasissati, na taṃ tatrāvatiṭṭhati. Ayaṃ kho, vāseṭṭha, brahmānaṃ sahabyatāya maggo.」

コメント(30)

こんにちは、klousですわーい(嬉しい顔)

相を使っての慈心修習で気付いたのですが、ペコちゃんさんは慈心の終わり方はどうされていますか?

私は慈心の相を集中・拡大していって、いきなりぱっと止めて眼を開けることに何か抵抗がありまして、ですから、慈心の相から徐々にゆっくり集中をはずしてゆっくり目を開けています。

ただ、そこで拡大していった慈心の相を小さく元に戻していくことも必要なのかな?と最近疑問に感じてきました。

どうでしょう??
僕はそのときの気分でいきなりやめてしまいます。僕は定力が弱い方なので、途中で集中が阻害されて雑念で慈心を行なっていない状態の自分に気付くことがよくあります。それでも自覚の繰り返しで減ってはきていますが、まだ安定しきってはいません。そのときはパッと慈心が途切れてしまっていると思います。

原始仏教の修行は身体の行ないや言葉の行ないではないので、「自覚」によってしか確認できない修行です。そこが特徴であり、最重要のところですが、修行ができているかどうかを点検するのは自分しかいないということです。

慈心や念身、その他、戒を含めた一切の修行でもそうですが、それは全て「ある想・あるヴィジョンを原因として何が結果されるか」という普段の念・自覚とそれに伴うヴィパッサナーによってのみ自分で自覚し確認できる領域です。

大抵の修行方法への疑問は「自分の想の状態が自覚できていないこと」が原因だと思います。後は「その想を原因として何が結果されるか」を超知・考察すれば、修行方法に対して自分自身で自ら評価を下すことができます。ただ、この知識は生ける者が清浄となる原因に関する知識に直結していますから、「洞察し難い」と言われているものの一つですが、しかしこのような根本作意によってのみ自立的に人に依存せずに自分で疑蓋を断って明に転じることができるのだと思います。


ただ修行は自由なものですので、色々ご自身で試してみるのはとてもよいことだと思います。色々な実験と観察を繰り返して、それぞれの効果を測定して修行方法を確定していく、自然科学的な態度がよいと思います。顕微鏡が光学から電子・走査型などさらに微細な領域を測定できる装置が開発されることに伴ってさらに科学が進歩してきたように、自覚を徹底的に鍛えることによって微細な想と尋を測定可能になり、飛躍的に進歩できるようになるのではないかと僕は考えています。

絵画で線と色彩の微妙な差異を認識することや、音楽の耳コピ、香を聞き分けることなどと同じだと思います。

原始仏教に限らず、聖者たち・賢者たち・神々・仙人たちにとってこの世界・この人生というものは最終的に「ヴィジョンの競技場」のようなものになっていくと思います。色と名しかありませんが、名としてのヴィジョンが色を規定し限定しているというのは原始仏典でも「世界は心に従う」と書いてある通りです。ヴィジョンの達人こそが賢者であり、ヴィジョンに通達するからこそ有漏のヴィジョンと無漏のヴィジョンを知り、無漏の倶分解脱を達成するということには道理があります。

自分のヴィジョンを知ることと作りたいヴィジョンを作れる力、この知とこの力があれば自在への道が開けると思います。
僕が「イメージ」という単語を使用しないのは、「イメージ」という単語はいささか漠然とし過ぎていて、「ある特定の対象への一般的な印象」という語感を含み過ぎているからです。一方「ヴィジョン」の方が「ある特定の静止的な表象内容」という語感があって用法としてはより適切だと思うからです。「想」というと少し古くさくて実感に欠けます。「想像」というと「恣意的な想像活動、およびその内容」という感じが強く、あまり包括的ではありません。


こういった話は自分が日頃から何を考えているか、また考えていないときでもどのようなヴィジョンが頭を飛び交っているかを自覚していない人にはわけのわからないことに聞こえるかも知れませんが、四念処を行なえば自覚力は高まりますので興味がある人は四念処をやっていただければご自身で確認できると思います。



僕としては「テキスト通りならば修行は自由」という方針です。様々な宗教・宗派を見るとある修行方法に限定することによってかえって排他的になっているのが見られます。限定すべきでない修行方法を限定することによって苦滅への道をせばめる、これは法にかなわず、現実に対応せず、効果も測定されておらず、不利益なことです。

また多くの宗派や指導者は「きちんとした指導者」や「ちゃんとしたところで学ぶこと」などを強調し過ぎており、初心者の人のやる気をそいでいます。一方できちんとした指導者やちゃんとしたところで学んだ人は、自分のその労力と成果を過大評価し、自分と同じようにきちんとした指導者やちゃんとしたところで学んでいない人を見下す傾向があります。「自分はあの人に学んだ。自分はあそこで学んだ」というのはちょっとした虎の威を借る狐の状態です。そうではなくて、どれだけの善法、どれだけの美徳、どれだけの五力があるかが修行者としては勝負だと思います。

自分の利益のためにプロがアマを騙すということは宗教に限らず全業界に浸透しており、人の善意はかえって経済活動に直結していないところの方に広く見られます。金と地位と名誉と異性は基本的に「罠」という考えは修行者・求道者の共通認識事項であり、常識だと思います。

仮に利得と名声を求めるにしても、プロがアマを騙すようなやり方で最高の利益と名声が得られるとは考えられません。利得への安直な道を取ることによってかえって真の名誉から遠ざかる、こういうことは偉大を求める人間にとって相応しいことではありません。


僕は「修行はこうでなければいけない。修行はこうであってはいけない」とはあまり言いたくはありません。「苦滅は善利。求めるもよし。求めないもよし。善法は善法であるから順序を問わずに獲得したい善法にまっしぐらに向かえばいい。戒でも定でも慧でも。根本的に一からを欲する人は戒を清らかにして、正見を獲得し、その上で四念処を修する。それだけ解脱すると言われている」と言うだけです。


慈心については「ホラ貝」のイメージが共通認識になりますから、それさえ一致を得ればいいと思います。いきなり「ボォー!」と吹こうと丁寧に小さい音から大きな音にして、ゆっくりとまた小さい音にして終わるというのでもまったく問題ないと思います。


特に知を求めての疑問・質問や善意にもとづいた意見交換などは法談に分類され、とても有意義なことで推奨されることだと思います。
なるほど!

この場合も四聖諦、因果関係の分析なのですね。
どこまでも四聖諦を念頭に置いて実践すれば、自ずと分かるのでしょうね。

ぺこちゃんさんのおかげで、また修行が飛躍的に進歩しそうです。


ほんとに凄い。
有難うございます<(_ _)>
最近「何が苦か」と念じていないので反省至極です。

でも参考になったようでよかったです。
お久しぶりです、ぺこちゃんさん。

慈心の瞑想を寝る前にやっているのですが、確かに寝起きは良いです。
しかし、瞑想のあとは目が冴えて寝付きがよくありません。
1〜2時間くらいかかるときがあります。

慈心の果報で寝付きがよいとありましたので、その果報を体験できていませんから、何かやり方が悪いのだろうか?と感じています。

私のやり方は、やはりホラ貝吹きをポイントにしていますが、
もっと現代的に例えると、ピカチュウが光るときのような感じでやっています。

つまり、身体の中心部に慈心のコアを作って、それをじっくり念じていく過程で勝手に拡大し、身体から放散されていくという感覚になってきています。

どこか改善すべき点はございますでしょうか?
よろしくお願いします<(_ _)>
慈心解脱の成果を得るには条件があることが原始仏典の記述からわかります。


増支部経典>十一集
「   十六 慈
 比丘たちよ、慈心解脱を習し、修習し、多く為し、乗物と為し、土地と為し、慣れ親しみ、積み上げ、善く正しく努力されたものとするならば、十一の功徳が期待される。何が十一か。
 楽に眠り、楽に覚め、悪夢を見ず、
 人に愛され、非人に愛され、神々に守護され、
 火・毒・剣を受けず、速やかに心は三摩地し、顔色は明朗清浄となり、
 痴呆にならずに臨終し、上に通達しなければ梵世に趣く。
 比丘たちよ、慈心解脱を習し、修習し、多く為し、乗物と為し、土地と為し、慣れ親しみ、積み上げ、善く正しく努力されたものとするならば、十一の功徳が期待される」


条件として「慈心解脱を習し、修習し、多く為し、乗物と為し、土地と為し、慣れ親しみ、積み上げ、善く正しく努力されたものとするならば」とあります。この記述は念身・慈心・寿命を延ばすための四神足など限られた修行方法にしか結びつけられないもので、「徹底的に徹底的に徹底的に修行して完全にマスターせよ」という意味だと僕は捉えています。特にこの「徹底多修命令」が下っているのは念身と慈心解脱の二つだけです。

確かに初めて慈心を三秒修した直後から、いきなり寝付きもよくなり、サマーディを獲得するスピードが早くなり、梵天と転生するに相応しい心を獲得するということはあり得ません。

しかし十分に慈心を修習しマスターしたならば、その安心感から寝付きもよくなり、サマーディを得るスピードも早くなり、梵天の心を獲得するということは道理としてあり得ることです。

このように考えると「やり方は間違っていない。ただ量が足りないだけだ」ということがわかると思います。klausさんのやり方は間違っていないと思います。ただ後、三ヶ月から一年ほど修行を続ければ、街を歩くときは人を見る目が全く違って来ると思いますし、慈心の十一功徳もいきなり獲得できるものではなく、だんだん獲得されてくるものだということがわかってくると思います。ステータスは徐々にアップするものでいきなりマックスになることはありませんから。

僕も恥ずかしながら寝付きはいい方ではありません。不安があればあるほど寝付きは悪くなるものですから。そのときは不安がある分だけは適当に慈心を修して「一瞬でも慈心を修すれば生きる価値があるんだ。教えを実践していることになるんだ。乳搾りの間でも慈心を修すれば精舎を布施したよりも多い功徳があると信じるんだ。ブッダを信じるんだ。後でその真偽は自分で確認できるだろう」と考えることにしています。

ピカチュウのイメージで大変結構だと思います。TVゲームの魔法のヴィジュアルのように圧倒的な光が四方八方に広がって包み込まれた分の幸福感が上がり続けるイメージです。

身体的な部位で言うと、僕はオーラが見えないので確証的なことは言えませんが、思考や想はおでこ・前頭葉のあたりに感じられるもので、慈心の兆しもまたそのあたりから発するものだと思います。ですから、仏像の光背やイコンでイエスの頭が光っているように、自分の頭部から慈心の光りが満ちあふれるように広がるイメージに定着してくるように思います。これは僕の感想に過ぎません。

klausさんは実際に実践していて、とても素晴らしいと思います。klausさんのように原始仏教の教えを実際に実践する人・実際に検証してみている人・実際に試している人が増えて行くことは世界にとって利益です。
実際に慈心を修してどこから慈心が生じるのか確認しようとしたのですが、起動は頭部にあるようにも思えますし、実質に生じ始めるのは胸からのような気もして、今の僕では確認できませんでした。

先に「慈心は頭部から」と書いたのはほとんど多くの思考が頭部にあるのを自覚の修行で確認済みでしたので、慈心もそうであろうとその類推からそう書いたのですが、実際には慈心を修することで全身にどのような影響が生じるのか確認しきれませんでした。自分で確認していないことを書くときは慎重さにも慎重さを要することであると反省しました。

やはり身体的部位は気にせずに修するのがいいと思います。テキストに書いてあること以外の修行方法の限定はやはりしない方が多くの人にとって利益があると思います。
有難うございます!

方法は間違いではないようですので安心しました。
これからはもっと量を増やしていこうと思います。

私も慈心についてはどこに起点があるのだろうと関心を持って実践していたのですが、私の場合は慈心特有の幸福感は胸に感じて、集中しているという感覚は頭部に感じました。
いつも、胸が柔らかく、頭部(前頭葉)が堅い感覚です。

とにかく、ペコちゃんさんの助言のように、ホラ貝の譬えに気をつけて、あとは先入観を持たず手段を限定しないようにしています。

慈心修習の時は、禅定を得るポイント(潤す→浸す→満たす)を利用するようになって、けっこう上手くいくようになりました。

でも、今振り返ってみると量がまだ不足していたのでしょう。
先日、2日間慈心修習を怠けたのですが、元に戻るまで2日かかりましたがく〜(落胆した顔)


また、修行への励みになりました。
有難うございます<(_ _)>
今思い出しましたが、慈心中に身体を念じるのは「慈倶行の念根」の修習に相当すると思います。ですから、これはより一層高度な修行法です。もし、慈心をしながら初禅を修習するならば、それは「慈倶行の定根」の修習に相当すると思います。これは増支部一集に弾指の教えとして書いてあります。

律蔵に小さい虫が死んだときに慈心を修していた比丘がそれに気付いたという記述があったと思いますし、日本の慈雲尊者の逸話でも水死しかけていた虫の存在を慈心中に知って弟子に助けに行かせたという話もあったと思います。

無量心解脱は四無量心にのみ与えられる修行名で、その意は「無量へと心が離脱すること」だと僕は理解しています。心を無量に広げることですから広げた分はそこへの知覚が生じることはあり得ることです。その場合、常に身体を意識しなければ慈心はできないというわけではないと思います。多分、むしろ心を広げた分が一時的な身体になるのだと思います。

四無色定ではありませんので、身体感覚が慈心中になくなることはないと思います。また四禅は念身のうちですから、四禅中は常に身体を意識することが推奨されますが、四無量にかぎっては念身は必要条件ではないと思います。

もちろん慈心の想いを自分の全身に満たせば、自分の幸福感は増大するので全然、安楽だとは思いますが、そのときは外界にはあまり慈心は生じてないと思います。結論としては、慈心をしながら念根を修習するかしないかの話になりそうです。ですから、間違いではないと思いますが、その方法に限定する必要はないと思います。

慈心の威力は求めれば求めるほどどんどん向上するものだと思います。如来の慈心と初めて慈心を修する人の慈心ではかなり差があると思います。「さらに上の慈心」を目指して努力すれば慈心の威力もあがると思います。
一応、載せておきます


・増支部 一集 5
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=34245764&comm_id=951429


「483.比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が第一禅那倶行の信根を修習するならば、こう言われる。
 比丘たちよ、「この比丘が禅那に住するのは空しくなく、師の教えを実行し、教誡を実行し、この国の食物を食べるのは無駄ではない」と。
 まして多く為す場合はどう言おうか。
484.・・・第一禅那倶行の精進根を修習するならば・・・
485.・・・第一禅那倶行の念根を修習するならば・・・
486.・・・第一禅那倶行の定根を修習するならば・・・
 ・・・・・・・・・
520.・・・第四禅那倶行の念力を修習するならば・・・
521.・・・第四禅那倶行の定力を修習するならば・・・
522.・・・第四禅那倶行の慧力を修習するならば・・・
523.比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が慈倶行の信根を修習するならば、こう言われる。
 比丘たちよ、「この比丘が禅那に住するのは空しくなく、師の教えを実行し、教誡を実行し、この国の食物を食べるのは無駄ではない」と。
 まして多く為す場合はどう言おうか。
524.・・・慈倶行の精進根を修習するならば・・・
525.・・・慈倶行の念根を修習するならば・・・
526.・・・慈倶行の定根を修習するならば・・・
527.・・・慈倶行の慧根を修習するならば・・・
528.・・・慈倶行の信力を修習するならば・・・
529.・・・慈倶行の精進力を修習するならば・・・
530.・・・慈倶行の念力を修習するならば・・・
531.・・・慈倶行の定力を修習するならば・・・
532.・・・慈倶行の慧力を修習するならば・・・
533.・・・悲倶行の信根を修習するならば・・・
534.・・・悲倶行の精進根を修習するならば・・・
535.・・・悲倶行の念根を修習するならば・・・
536.・・・悲倶行の定根を修習するならば・・・
537.・・・悲倶行の慧根を修習するならば・・・
538.・・・悲倶行の信力を修習するならば・・・
539.・・・悲倶行の精進力を修習するならば・・・
 ・・・・・・・・・・・・
561.・・・捨倶行の定力を修習するならば・・・
562.比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が捨倶行の慧力を修習するならば、こう言われる。
 比丘たちよ、「この比丘が禅那に住するのは空しくなく、師の教えを実行し、教誡を実行し、この国の食物を食べるのは無駄ではない」と。
 まして多く為す場合はどう言おうか。 」
なるほど、私は慈倶行の定根をやっていたのですね。

こうやって体系的な解説をもらうととてもすっきりします。
経典の引用も正確で助かります。

ぺこちゃんさんのアドバイスはいつも宝の山でして、感心しきりです。
有難うございます!
自分で確認もしないうちに書き込んでしまったりして至らないところが多々ありますが、僕にとっても有意義なやり取りになってとてもよかったと思います。こちらこそありがとうございます。
こんにちは。
ぺこちゃんさんの解説のおかげで、慈心修習では成長が止まっている感覚は無く、少しづつ前に進んでる実感があります。

最近、慈心の他に捨心を修習したいと思って、自己流で試したのですが(自分という実体は無い。他の生命との区別もない。皆同じ流動体で一体だ。)、やってるうちにそれがいいのかどうか「疑」がでてきまして、質問しています。

捨心修習の相とは具体的にどんなものなのでしょうか?

また、よろしくお願いします。
僕は「自他の区別もあり」また「内界と外界との区別もある。内界と外界との接触はあるが、接触が無常にして生じたり滅したりするがゆえにも内界と外界との区別はある」と思います。

ゴータマも「自己より愛しいものは存在しない」と言い切っています。これは自他の区別があるということを前提にして言っています。経典の文脈上でもコーサラ国王夫妻だったと思いますが、互いに相手よりも自分のほうが愛しいものということで王と王妃は一致を得ています。ですから「自他の区別はない」というのは経典上でも適切ではないし、現実にも対応していない考え方だと思います。また別の意味で「自他の区別はない」という文句が使われているにしてもあまりにも誤解を招く多義的な文句ですので、採用するには不適切な表現です。

あと「実体はない。実体はない」とか「空だ。空だ」という表現がありますが、誤解を招く多義的な表現ですのでこれは採用しません。多義的な文句は有尋有伺中においてブレのある想が生じるからです。ですから連想される想にブレを生じさせない表現、たとえば「無常だ。無我だ。こうして生じ、こうして滅する。それゆえにも無常だ。無我だ」と表現します。


捨についてですが、原始仏典では「捨」(ウペッカー)の解説がなく、さらに捨心解脱をあまり修習していないので僕もよくわかりません。

確か根相応において「捨根は不苦不楽受」と結びつけられていたので、不苦不楽の平静な心の状態、平常心をそのまま自分だけでなく外界にまで無量に広げるのだと思います。その念が自分に平静な精神状態を生み出し、外界の他者にも平静な精神状態を生み出す縁を与えると思います。その静止・心の安定から精神統一が生じ、日常の物事への知見が生じ、一部の人はそれを縁として正定 → 正知 → 邪見他の十邪法からの正解脱が生じ、自他ともに利益を獲得し、さらにそれによる業の報いを全て自分が相続する、というふうに現在は考えています。

慈心や悲心が「他者を志向する思いを無量に広げる」とすれば、喜心や捨心は「他者を志向するというよりは、特定の精神状態を他者をも含めて無量に広げる」というふうに僕は捉えています。捨心は「心頭滅却すれば火もまた涼し」というような動じない心、不動の心、平常心、六触処の接触内容を念じて自覚してそれに左右されない心の動き、心の力だと思います。あと「執着対象を捨て去る」という想も捨心を修するときに僕に生じてきます。執着を捨てた分は確かにその対象に対して心の楽受も心の苦受も生じず、心の不苦不楽受がその捨想との接触より生じるからです。もっともこの場合の無執着は「念じている間の一時的だけ」ですが。ですがこれを繰り返せば繰り返すほど恒常的に無執着になっていくと思います。

具体的に「何を捨てるか」とか「何から平静な気持ちなのか」という対象は規定しないと思います。ですから「全てを捨てる」のであり「全てにおいて平常心・不動心」なのだと思います。そして想はその一点に集中し、その他の想は滅するように志向し念じます。そのときはただ捨て去る心の働きだけが自分の心と知覚される内界と外界の全てを無量に満たすようになっていくと思います。

そういえば、原始仏典には捨心解脱は無所有処に達するというような記述があったことから、捨心をマスターすると必然的に五感の知覚を一時的に捨て、空無辺の想と識無辺の想を捨て「何も無い」という想だけがあるところにまで達するのだと思います。僕にはまだ想像できない境地です。

捨覚支との絡みもあります。また第三禅は「捨念楽住」です。まだ楽受があります。第四禅は「捨念遍浄」です。むしろ第四禅からアプローチしたほうがよかったかも知れません。「苦を滅し楽を滅し、喜びと憂いも滅するその心の働きが捨」と定義してよいかも知れません。そうすれば、第四禅が「捨念により遍く清らかとなっている状態」という定義にもかないます。

身体が苦しいときに心はその苦につられず不苦不楽であるというイメージ。
身体が気持ちいいときに心はその楽につられず不苦不楽であるというイメージ。
心が喜ぶときにその喜びを滅するイメージ。
心が苦しむときにその苦しみを滅するイメージ。

そのイメージ、その想が「捨」であると考えてよいのではないかと思います。その想を無量に広げる。それが無量の捨へと心が離脱すること、即ち捨無量心解脱だと思います。書きながらそう思いました。
やはりいつものように質問して良かったです。
ほんとに嬉しいです。
また進歩できそうです。

捨覚支との絡みも結構混乱していたところでした。
第四禅に至らないとやってはいけないのかな〜とか一人で思っていた点でして。
一応、やっていいものだと理解しました。

ほんとにありがとうございました。


ちなみに、1週間前くらいから、出入息念の修行中、呼吸が静かになり過ぎて止まりそうな気配が続いてまして、そのときからずっと(今も)額が張るというか、内側から何かがプッシュしているというか、変な感じです。
前頭葉に異変が起きたんでしょうか(笑)
瞑想中はいろいろ現象があるというので気にしていないですが。


念息の修行で呼吸が止まりそうになるという話は上座仏教でたまに耳にします。僕はここ数年、念身中に自然に念息に切り替わる以外は意図的に全く念息を修してないのでよくわからないのですが、その件は数息観を修行しておられる禅宗系の方や上座仏教の方に聞くとよいと思います。どのような立場であっても呼吸に意識を集中するということは僕は利益が多いと考えていますので、klausさんが出入息念を修行しておられるのは素晴らしいことだと思います。念息については、

 十六念息を円満 → 四念処を円満 → 七覚支を円満 → 明解脱を実証

という流れがありますし、ゴータマがまだ正覚していないとき長く念息に住したという記述もあります。僕はいつも頭がごちゃごちゃしているので思考を滅する念息(「尋伺を滅するために念息を修せよ」という記述があります)が苦手で・・・いつか欠点が長所になるくらい念息を修したいですが、まだ無害と慈心の修行もありますのでかなり後回しになりそうです。でも念息を瞑想カリキュラムの最初に持って来るのは原始仏典の記述から言ってもとても理にかなっています。僕は無害と慈心メインで念息を修していないので、それが理由で無駄な尋伺が頭の周囲を飛んでいるのだと思います。少し考えさせられることです。
僕は無量の慈心だけでなく対象を指定した慈心も修していますが、この対象指定の慈心は対象を指定しない無量の慈心よりも劣っているということは明記しておくべきことだと思って書いています。


対象指定の慈心としては蛇に噛まれないようになるための四蛇王族への慈心や、ゴータマ嫌いのアーナンダの友人がゴータマを母のように慕うような効果を発揮したゴータマによるその友人への慈心などが原始仏典に書いてあります。

しかし布施の経典においても書いてあるように、対象指定の布施よりもサンガ全体への布施が大利である以上、これは布施だけでなく利行としての慈心にも適応されるべき業の法則であると思います。

それゆえに僕は対象指定の慈心よりも、正式な四無量心であるホラ貝式の修習法が最大利であると考えています。そこに七覚支もあり、清浄解脱にも達すればなお善いとも思います。この場合は修習法の優劣ではなく境地の優劣になりますが。

僕が対象指定の慈心を行なうのは、慈心の効果の対照実験のためであり、防御のためであり、人間関係における戦略的な利益のためです。しかし、真の意味でブラフマー、マハーブラフマーの称号を獲得するに至るためには対象を指定しない全世界に無量に広げる慈心を多修することが不可欠であると考えています。


正式な四無量心であるホラ貝式の修習法をきっちり押さえておき、その価値を軽んじることがないのであれば、後は各自が好きに慈心を修すればよいのではないかと思います。喜んで慈心を修するならば、その業の報いが返ってきたときも嫌々でなく心から喜んで福を享受できると考えるからです。
最近は無量の慈心の30分をやらずに対象指定だけになってしまっています。その代わりに念身に注ぎ込んでいます。念身中に生じる漲る力の感覚は最高ですのでおすすめです。

慈心を日本全土に修するとき、この画像の黄色の部分の領海と青い部分の接続海域あたりも少し意識しています。海も大事ですから。排他的経済水域は意識していません。あと小笠原諸島なども飛び地ですので意識していません。択捉島から沖縄のほうまででやってます。日本と地球をそれぞれ15分ずつ毎日やるのをいずれ加えたいと思っています。

2010年の日本は予想より色々な面で穏和に過ぎて行っているようなのでよかったです。それでも善くないニュースはありますが、まだ随分マシな流れになっていると思っています。このまま大きなことがなく2010年が過ぎることを願っています。今年もあっという間に終わりそうです。暑いので身体に気をつけてください。
お役に立てているようで嬉しく思います。

テキストを援用すれば「ホラ貝式の慈心を日本と地球に向ける」というのが正しいのかも知れません。僕のやり方は普通に地図上の日本や地球をイメージして「幸せになれ〜」「幸せになるように」と念じるだけですが、当初はずっと「効果あるのかな」と疑問に思い続けながらも次第に習慣化して疑問に思わなくなったというか、そういうものなのかという感じで慣れてしまった感じです。

お店に入ってから少し慈心を店員さんに修すると、修さないときよりも少しこちらに優しいような気がします。こちらにいいイメージを持ってくれているような。それで効果があるなら、日本全体でも地球全体でもそれを薄めたような効果はあるだろうと思って僕は続けています。

だからはじめはペットや家族や友人やお店の人など身近な人に慈心を修して、修していない場合と比べての比較検討、対照実験をお勧めしたいです。これがしっかりできれば自然に対象を大きくしても継続と検証ができると思います。

あと100釜以上の布施はあり得ると思います。物よりも思いのほうが持続すると思うからです。身体の傷は癒えるのは早いけれど心の傷は癒えるのが遅いように。あるいは衣食住の財産は移り変わるのは早くても、人の文化や習俗は形を変えながらも長続きするように。物と思いを色々と比較してみるのは興味深いことだと思います。

原始仏典は大袈裟なところもあり、定型句など大雑把なところもありますから、鵜呑みは厳禁でいつでも自分で検証が大事だと思います。現実に対応していなかったら何の意味もないので。だから僕の言うことを鵜呑みするのもある意味危険だと思います。積極的に騙す意図はありませんが、実際よく間違えて謝罪・訂正していたりするので。

自分のペースでゆっくりとはじめは小さく実験と観察による検証を繰り返して行くのが安全第一で手堅い方法だと思います。自分で自分なりの実験計画を立ててみるのも面白いと思います。あと修行はこうでなければいけないと考えてしまうと堅苦しくてつまらなくなってしまうので、自由にやりたいように修行すればいいと思います。小さく実験していれば実験に失敗しても損失は小さいと思いますから、あまり自分に制約を課さないで楽しんで修行するのが長続きする秘訣だと思います。
>慈心が直接的に相手に飛んでいるのか、それとも慈心を持つ自分に相手が反応しているかということです。ぺこちゃんさんはそれについて考えたことはありますか?

これは両方だと思います。慈心の効果によりこちらにいい印象を抱く、また業報によりこちらが利益を得る、また慈心により心身が向上して結果的に魅力も向上するので慈心をこちらが修していない人たちでさえもこちらにいい印象を抱く、全てあると思います。同時に継続して検証が必要であるとも思います。


>自意識過剰なところがあって、他の人にどう思われているかが気になる

これは普通に誰にでもあることだと思います。認められたいなら認められるようになるために頑張る、愛されたいなら愛されるようになるために頑張る、そういう欲求が煩わしいならば無欲想を意図的に作り出して初禅に容易に入れるように定力を鍛える、あるいは相手にそう思われたい自分を追求しつつも初禅に努力しまた欲と禅那への執着も断つ努力をする、あるいは悩む自分をそのまま放置する、いずれの選択肢でも欲するままで良いと思います。

確かに互いの業とその結果について考察することは非常に有益ですので、継続してそれぞれの行為の結果について考察していくとどうしたらよいか見えて来ると思います。自分がしたこと、相手がしたこと、相手がしたことに反応したこととしての自分がしたこと、それらの結果などです。

一つの悩みは深い根を持つので、改善が見えて来るまでには数ヶ月から数年を目安に取り組むと良いと思います。短期で解決しようとすると嫌になってしまうので。「この問題はすぐには解決しないだろう」と事前に思っておくだけで少し気が楽になります。

手軽にできることとしてはやはり「自分は本当のところあの人のことをどう思っているのだろう」とか「人付き合いについての自分の本当の気持ち」というように、部分的な心念処を数十分でも修するだけで「もうこういう付き合いはやめよう」と自然に思えるようになる、というところはあるのでおすすめです。
今思ったのですが、自意識過剰というのは人が自分を悪く思っている、悪く言っているなどの意味だとするとまた別の解答になるかも知れません。相手の思いは相手の業というところなどから忖度して。
参考になったようでよかったです。夏に向けて充実した日々になるといいですね。
まだだいぶ先になると思いますが、四無量についてはまとまったら書こうと思います。
仏教に守護霊という用語はもちろんありませんが、守護霊に相当しそうな話はあります。ゴータマが悟って間もないときに二人の商人がゴータマに布施をしたのですが、その契機が先祖のヤッカであったと書いてあります。商人は先祖が、ゴータマは神々が守護している内容です。以下です(前世においてと書いてありますがヤッカの生前ということだと思います)。


「(四)
 時に先生は七日を過ぎて後、その三昧より起ち、ムチャリンダ樹の下から出てラーヂャーヤタナ樹のところに赴いた。赴いてラーヂャーヤタナ樹の下において一たび結跏趺坐したまま七日の間、解脱の楽を受けつつ坐した。
 この時、タプッサとバッリカの二人の商人がウッカラ村からこの地にいたる途中だった。時にタプッサとバッリカの二人の商人に(前世において)親族血縁であった一人の鬼神がいた。タプッサとバッリカの二人の商人に告げて言った。
「兄らよ、ここに先生ははじめて正覚を成じてラーヂャーヤタナ樹の下におられる、あなたたちはおもむいてパン・蜜丸を持って、かの先生に捧げなさい。長い間に利益と安楽を得るだろう」と。
 時にタプッサとバッリカの二人の商人はパン・蜜丸を持って先生のいるところに詣った。詣って先生を敬礼し終わって、一方に立った。一方に立ってタプッサとバッリカの二人の商人は先生に言った。
「先生、願わくば、わたしたちのためにパンとお菓子を受け、わたしたちが長い間にわって利益と安楽が得られるようにしてください」
 時に先生に考えが生じた。
「もろもろの如来は手には受けない、わたしはなんらかの(器)によってパン・菓子を受けるべきではないか」。
 時に四大王天がいて、先生の考えるところを心に知り、四方から四つの石鉢を先生に献上した。
 「先生、これをもってパンと菓子を受けてください」。
 先生はこの新しい石の鉢を受け、パンと菓子を受けて食べた。
 時にタプッサとバッリカの二人の商人は、先生がすでに鉢と手を洗ったのを見て、頭をもって先生の足に礼拝し、先生に言った。
「ここにわたしたちは、先生と教えとに帰依します。先生、わたしたちを優婆塞(うばそく、ウパーサカ、仕える者の意)として受け入れてください。今日よりはじめて命尽きるまで帰依します」と。
 彼らは世間においてはじめて二帰依を唱えた優婆塞であった。 」
 (http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=24991920&comm_id=951429)


他にも比丘の面倒を見る色々な神々が『ブッダ神々との対話』『ブッダ悪魔との対話』(岩波文庫)でも出て来ます。長部経典の「アーターナーターの護経」はそのまま神々からの守護を得るための文句です。一般で用いられる守護霊という用語の意味とは少し異なりますが、何らかの守護という点では仏教にもあるようです。

ゴータマとイエスの身長については専門家の方が詳しいと思います。二人の容姿は確かに気になりますが、知ることはすでに困難なのが残念です。

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