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原始仏典コミュの因縁相応 「縁起」6

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(続き 『南伝大蔵経13 相応部経典2』大蔵出版 P54−62 に相当)




「   第五 ブーミジャ

25.サーヴァッティに住んでいた。
 ときに尊者ブーミジャは午前に黙想から起って尊者サーリプッタを訪ねた。訪ねて尊者サーリプッタと互いに挨拶した。挨拶して記憶すべき会話を交わして一方に座った。一方に座って尊者ブーミジャは尊者サーリプッタにこう言った。

 友サーリプッタ、ある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は自らが作ると設定する。
 友サーリプッタ、またある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は他者が作ると設定する。
 友サーリプッタ、またある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は自らも作り他者も作ると設定する。
 友サーリプッタ、またある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じると設定する。
 友サーリプッタ、ここにおいて先生は何を説き何を示すのか。
 私はどのように解答すれば私が先生から聞いたことを語ることになるのか。
 また私は先生を事実でないことによって誹謗することにはならないか。
 また私は法を法のままに解答していることになるのか。
 またいかなる同法者にして叱責する者によって非難される処に陥らないのか。

 友よ、先生は苦は縁によって生起すると説く。何が縁か。
 接触が縁である。
 このように説くならば先生から聞いたことを語ることになり、
 また先生を事実でないことによって誹謗することにはならず、
 また法を法のままに解答していることになり、
 またいかなる同法者にして叱責する者によって非難される処に陥らない。

 友よ、しかしある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は自らが作ると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。
 またある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は他者が作ると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。
 またある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は自らも作り他者も作ると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。
 またある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。

 友よ、しかしある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は自らが作ると設定するが、彼らは接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 またある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は他者が作ると設定するが、彼らも接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 またある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は自らも作り他者も作ると設定するが、彼らも接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 またある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じると設定するが、彼も接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 
 尊者アーナンダは尊者サーリプッタと尊者ブーミジャのこの会話を聞いた。ときに尊者アーナンダは先生を訪ねた。訪ねて先生に挨拶して一方に座った。一方に座って尊者アーナンダは尊者サーリプッタと尊者ブーミジャの会話のその一切を先生に告げた。

 そうなのだ、そうなのだ、アーナンダ。サーリプッタは正しい解答を解答した。
 アーナンダ、苦は縁によって生起すると私は言う。何が縁か。
 接触が縁である。
 このように説くならば私から聞いたことを語ることになり、
 また私を事実でないことによって誹謗することにはならず、
 また法を法のままに解答していることになり、
 またいかなる同法者にして叱責する者によって非難される処に陥らない。

 アーナンダ、ある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は自らが作ると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。
 またある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は他者が作ると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。
 またある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は自らも作り他者も作ると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。
 またある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。

 アーナンダ、しかしある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は自らが作ると設定するが、彼らは接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 またある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は他者が作ると設定するが、彼らも接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 またある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は自らも作り他者も作ると設定するが、彼らも接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 またある沙門バラモンは業論者であり、楽苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じると設定するが、彼も接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。

 アーナンダ、あるいは彼は自ら身行を行じて、それを縁として彼の内に楽苦が生じる。
 アーナンダ、あるいは他者が彼に身行を行じて、それを縁として彼の内に楽苦が生じる。
 アーナンダ、あるいは彼は自覚して身行を行じて、それを縁として彼の内に楽苦が生じる。
 アーナンダ、あるいは彼は無自覚に身行を行じて、それを縁として彼の内に楽苦が生じる。

 アーナンダ、あるいは彼は自ら語行を行じて、それを縁として彼の内に楽苦が生じる。
 アーナンダ、あるいは他者が彼に語行を行じて、それを縁として彼の内に楽苦が生じる。
 アーナンダ、あるいは彼は自覚して語行を行じて、それを縁として彼の内に楽苦が生じる。
 アーナンダ、あるいは彼は無自覚に語行を行じて、それを縁として彼の内に楽苦が生じる。

 アーナンダ、あるいは彼は自ら意行を行じて、それを縁として彼の内に楽苦が生じる。
 アーナンダ、あるいは他者が彼に意行を行じて、それを縁として彼の内に楽苦が生じる。
 アーナンダ、あるいは彼は自覚して意行を行じて、それを縁として彼の内に楽苦が生じる。
 アーナンダ、あるいは彼は無自覚に意行を行じて、それを縁として彼の内に楽苦が生じる。

 アーナンダ、これらの法において無明であれば陥ることになる。
 アーナンダ、しかし無明を残り無く離貪し滅するならば、
 彼の身を縁として彼の内に楽苦が生じることはない。
 彼の語を縁として彼の内に楽苦が生じることはない。
 彼の意を縁として彼の内に楽苦が生じることはない。
 田を縁として彼の内に楽苦が生じることはない。
 土地を縁として彼の内に楽苦が生じることはない。
 入処を縁として彼の内に楽苦が生じることはない。
 問題を縁として彼の内に楽苦が生じることはない。



   第六 ウパヴァーナ

26.サーヴァッティに住んでいた。
 ときに尊者ウパヴァーナは先生を訪ねた。訪ねて先生に敬礼して一方に座った。一方に座って尊者ウパヴァーナは先生にこう言った。

 先生、ある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作ると設定します。
 先生、またある沙門バラモンは業論者であり、苦は他者が作ると設定します。
 先生、またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らも作り他者も作ると設定します。
 先生、またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じると設定します。
 先生、ここにおいて先生は何を説き何を示しますか。
 私はどのように解答すれば私が先生から聞いたことを語ることになりますか。
 また私は先生を事実でないことによって誹謗することにはならないのですか。
 また私は法を法のままに解答していることになるのですか。
 またいかなる同法者にして叱責する者によって非難される処に陥らないのですか。

 ウパヴァーナ、私は苦は縁によって生起すると説く。何が縁か。
 接触が縁である。
 このように説くならば私から聞いたことを語ることになり、
 また私を事実でないことによって誹謗することにはならず、
 また法を法のままに解答していることになり、
 またいかなる同法者にして叱責する者によって非難される処に陥らない。

 ウパヴァーナ、しかしある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作ると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は他者が作ると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らも作り他者も作ると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。

 ウパヴァーナ、しかしある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作ると設定するが、彼らは接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は他者が作ると設定するが、彼らも接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らも作り他者も作ると設定するが、彼らも接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じると設定するが、彼も接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 


   第七 縁

27.サーヴァッティに住んでいた。

 比丘たちよ、無明を縁として行がある。
 行を縁として識がある。
 識を縁として名色がある。
 名色を縁として六処がある。
 六処を縁として触がある。
 触を縁として受がある。
 受を縁として愛がある。
 愛を縁として取がある。
 取を縁として有がある。
 有を縁として生がある。
 生を縁として老死と悩み・号泣・苦痛・苦憂・苦悶が現れる。
 このようにして完全に苦しみのまとまりが生起する。

 比丘たちよ、何が老死か。
 それぞれの生ける者たちがそれぞれの生ける者の部類において老い、老衰し、壊れ、白髪になり、皺が寄り、寿命が減少し、諸根が熟し切ること。
 これが老いと言われる。
 それぞれの生ける者たちがそれぞれの生ける者の部類において死に、死亡し、破壊し、消滅し、死し、死の時が来て、諸蘊が壊れて完全に放棄される。
 これが死と言われる。
 このようにこれが老いであり、またこれが死である。
 比丘たちよ、これが老死と言われる。
 生が生起すると老死が生起する。
 生が滅すると老死が滅する。
 この聖なる八支の道が老死を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、何が生か。
 それぞれの生ける者たちがそれぞれの生ける者の部類において生まれ、発生し、入胎し、生起し、生起され、諸蘊が出現し、入処(五感)を獲得する。
 比丘たちよ、これが生と言われる。
 有が生起すると生が生起する。
 有が滅すると生が滅する。
 この聖なる八支の道が生を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
 
 比丘たちよ、何が有か。
 比丘たちよ、これら三つの有がある。欲のある存在・物質のある存在・物質のない存在。
 比丘たちよ、これが有と言われる。
 取が生起すると有が生起する。
 取が滅すると有が滅する。
 この聖なる八支の道が有を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、何が取か。
 比丘たちよ、これら四つの取がある。欲への執着・見解への執着・戒や禁止事項への執着・自分を語ることへの執着。
 比丘たちよ、これが取と言われる。
 愛が生起すると取が生起する。
 愛が滅すると取が滅する。
 この聖なる八支の道が取を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、何が愛か。
 比丘たちよ、これら六つの愛がある。色への渇愛・声への渇愛・香への渇愛・味への渇愛・触れられるものへの渇愛・法(考えられるもの)への渇愛。
 比丘たちよ、これが愛と言われる。
 受が生起すると愛が生起する。
 受が滅すると愛が滅する。
 この聖なる八支の道が愛を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、何が受か。
 比丘たちよ、これら六つの受がある。眼で触れることによって生じる感受・耳で触れることによって生じる感受・鼻で触れることによって生じる感受・舌で触れることによって生じる感受・身で触れることによって生じる感受・意で触れることによって生じる感受。
 比丘たちよ、これが受と言われる。
 触が生起すると受が生起する。
 触が滅すると受が滅する。
 この聖なる八支の道が受を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、何が触か。
 比丘たちよ、これら六つの触がある。眼で触れること・耳で触れること・鼻で触れること・舌で触れること・身で触れること・意で触れること。
 比丘たちよ、これが触と言われる。
 六処が生起すると触が生起する。
 六処が滅すると触が滅する。
 この聖なる八支の道が触を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、何が六処か。
 眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処。
 比丘たちよ、これが六処と言われる。 
 名色が生起すると六処が生起する。
 名色が滅すると六処が滅する。
 この聖なる八支の道が六処を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、何が名色か。
 受・想・思い・触・作意。
 これが名と言われる。
 四大存在と四大存在を取る色。
 これが色と言われる。
 このようにこれが名であり、またこれが色である。
 比丘たちよ、これが名色と言われる。
 識が生起すると名色が生起する。
 識が滅すると名色が滅する。
 この聖なる八支の道が名色を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、何が識か。
 比丘たちよ、これら六つの識が身体にある。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識。
 比丘たちよ、これが識と言われる。
 行が生起すると識が生起する。
 行が滅すると識が滅する。
 この聖なる八支の道が識を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、何が行か。
 比丘たちよ、これら三つの行がある。身体の行ない・言葉の行ない・心の行ない。
 比丘たちよ、これが行と言われる。
 無明が生起すると行が生起する。
 無明が滅すると行が滅する。
 この聖なる八支の道が行を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、このように老死を知り、
 このように老死の集を知り、
 このように老死の滅を知り、
 このように老死の滅に行く道を知り、
 このように生を知り、
 このように生の集を知り、
 このように生の滅を知り、
 このように生の滅に行く道を知り、
 このように有を知り、
 このように有の集を知り、
 このように有の滅を知り、
 このように有の滅に行く道を知り、
 このように取を知り、
 このように取の集を知り、
 このように取の滅を知り、
 このように取の滅に行く道を知り、
 このように愛を知り、
 このように愛の集を知り、
 このように愛の滅を知り、
 このように愛の滅に行く道を知り、
 このように受を知り、
 このように受の集を知り、
 このように受の滅を知り、
 このように受の滅に行く道を知り、
 このように触を知り、
 このように触の集を知り、
 このように触の滅を知り、
 このように触の滅に行く道を知り、
 このように六処を知り、
 このように六処の集を知り、
 このように六処の滅を知り、
 このように六処の滅に行く道を知り、
 このように名色を知り、
 このように名色の集を知り、
 このように名色の滅を知り、
 このように名色の滅に行く道を知り、
 このように識を知り、
 このように識の集を知り、
 このように識の滅を知り、
 このように識の滅に行く道を知り、
 このように行を知り、
 このように行の集を知り、
 このように行の滅を知り、
 このように行の滅に行く道を知るならば、
 比丘たちよ、その比丘はこう言われる。
 「見解を具足した」とも、
 「見ることを具足した」とも、
 「この正法に達した」とも、
 「この正法を見た」とも、
 「有学の知を成就した」とも、
 「有学の明を成就した」とも、
 「法の流れを具足した」とも、
 「聖なる解明する智慧がある」とも、
 「不死の扉を打って立つ」と。」(続く)



(『南伝大蔵経13 相応部経典2』大蔵出版 P54−62 に相当)




 註 田 ケッタ khetta 田畑
   土地 ヴァットゥ vatthu 土地、基礎
   入処 アーヤタナ āyatana 六入処
   問題 アディカラナ adhikaraṇa 事、事件、問題、争論、論事
   ブーミジャ Bhūmija ブーミは大地、ジャは生じる、大地から生じた者の意
   ウパヴァーナ upavāṇa upavanaが小林、園林、林であることから
          小林さん、林さんの意か

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