ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

原始仏典コミュの因縁相応 「縁起」5

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
(続き 『南伝大蔵経13 相応部経典2』大蔵出版 P42−54 に相当)




「   第三 依拠

23.サーヴァッティに住んでいた。・・・・・・
 比丘たちよ、知り見ることによって漏が尽きると私は言うのであり、知らず見ずしてではない。
 比丘たちよ、何を知り何を見ることによって漏が尽きるのか。
 これが色である。これが色の生である。これが色の滅である。
 これが受である。これが受の生である。これが受の滅である。
 これが想である。これが想の生である。これが想の滅である。
 これが行である。これが行の生である。これが行の滅である。
 これが識である。これが識の生である。これが識の滅である。
 比丘たちよ、このように知りこのように見ることによって漏が尽きるのである。

 比丘たちよ、それが尽きたことを尽きたと知ること[尽知]、それもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が尽きたと知ることの依拠なのか。
「解脱である」と言うべきである。
 比丘たちよ、解脱にもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が解脱の依拠なのか。
「離貪である」と言うべきである。
 比丘たちよ、離貪にもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が離貪の依拠なのか。
「厭患である」と言うべきである。
 比丘たちよ、厭患にもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が厭患の依拠なのか。
「事実の通りに知り見ること[如実知見]である」と言うべきである。
 比丘たちよ、事実の通りに知り見ることにもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が事実の通りに知り見ることの依拠なのか。
「三摩地[サマーディ。精神統一]である」と言うべきである。
 比丘たちよ、三摩地にもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が三摩地の依拠なのか。
「楽である」と言うべきである。
 比丘たちよ、楽にもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が楽の依拠なのか。
「静止[軽安]である」と言うべきである。
 比丘たちよ、静止にもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が静止の依拠なのか。
「喜である」と言うべきである。
 比丘たちよ、喜にもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が喜の依拠なのか。
「意を得ること[悦]である」と言うべきである。
 比丘たちよ、意を得ることにもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では意を得ることの依拠なのか。
「信である」と言うべきである。
 比丘たちよ、信にもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が信の依拠なのか。
「苦である」と言うべきである。
 比丘たちよ、苦にもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が苦の依拠なのか。
「生である」と言うべきである。
 比丘たちよ、生にもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が生の依拠なのか。
「有である」と言うべきである。
 比丘たちよ、有にもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が有の依拠なのか。
「取である」と言うべきである。
 比丘たちよ、取にもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が取の依拠なのか。
「愛である」と言うべきである。
 比丘たちよ、愛にもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が愛の依拠なのか。
「受である」と言うべきである。
 比丘たちよ、受にもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が受の依拠なのか。
「触である」と言うべきである。
 比丘たちよ、触にもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が触の依拠なのか。
「六処である」と言うべきである。
 比丘たちよ、六処にもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が六処の依拠なのか。
「名色である」と言うべきである。
 比丘たちよ、名色にもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が名色の依拠なのか。
「識である」と言うべきである。
 比丘たちよ、識にもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が識の依拠なのか。
「行である」と言うべきである。
 比丘たちよ、行にもまた依拠が有ると私は言うのであり、依拠が無いのではない。
 比丘たちよ、では何が行の依拠なのか。
「無明である」と言うべきである。

 比丘たちよ、このように無明を依拠として行があり、
 行を依拠として識があり、
 識を依拠として名色があり、
 名色を依拠として六処があり、
 六処を依拠として触があり、
 触を依拠として受があり、
 受を依拠として愛があり、
 愛を依拠として取があり、 
 取を依拠として有があり、
 有を依拠として生があり、
 生を依拠として苦があり、
 苦を依拠として信があり、
 信を依拠として意を得ることがあり、
 意を得ることを依拠として喜があり、
 喜を依拠として静止があり、
 静止を依拠として楽があり、
 楽を依拠として三摩地があり、
 三摩地を依拠として如実知見があり、
 如実知見を依拠として厭患があり、
 厭患を依拠として離貪があり、
 離貪を依拠として離脱があり、
 離脱を依拠として尽きたことを知ることがある。

 比丘たちよ、たとえば山頂に雨雲の神が雨を降らすとき、その水は低いところに流れながら、山や谷を満たす。
 山や谷を満たして小さい池を満たす。
 小さい池を満たして大きい池を満たす。
 大きい池を満たして小さい川を満たす。
 小さい川を満たして大きい川を満たす。
 大きい川を満たして大海を満たす。

 比丘たちよ、このように無明を依拠として行があり、
 行を依拠として識があり、
 識を依拠として名色があり、
 名色を依拠として六処があり、
 六処を依拠として触があり、
 触を依拠として受があり、
 受を依拠として愛があり、
 愛を依拠として取があり、 
 取を依拠として有があり、
 有を依拠として生があり、
 生を依拠として苦があり、
 苦を依拠として信があり、
 信を依拠として意を得ることがあり、
 意を得ることを依拠として喜があり、
 喜を依拠として静止があり、
 静止を依拠として楽があり、
 楽を依拠として三摩地があり、
 三摩地を依拠として如実知見があり、
 如実知見を依拠として厭患があり、
 厭患を依拠として離貪があり、
 離貪を依拠として離脱があり、
 離脱を依拠として尽きたことを知ることがある。



   第四 他に住する者

24.ラージャガハのヴェール林に住んでいた。ときに尊者サーリプッタは午前に着衣して鉢と衣を取って、ラージャガハに乞食のために入った。ときに尊者サーリプッタはこう思った。
「ラージャガハで乞食を行なうにはまだ早過ぎる。
 私は他〔の教え〕に住する者たち・遍歴者たちの園を訪ねてはどうだろうか」。
 ときに尊者サーリプッタは他に住する者たち・遍歴者たちの園を訪ねた。訪ねてその他に住する者たち・遍歴者たちと互いに挨拶した。挨拶して記憶すべき会話を交わして一方に座った。一方に座った尊者サーリプッタにその他に住する者たち・遍歴者たちはこう言った。

 友サーリプッタ、ある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作ると設定する。
 友サーリプッタ、またある沙門バラモンは業論者であり、苦は他者が作ると設定する。
 友サーリプッタ、またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らも作り他者も作ると設定する。
 友サーリプッタ、またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じると設定する。
 友サーリプッタ、ここにおいて沙門ゴータマは何を説き何を示すのか。
 私たちはどのように解答すれば私たちが沙門ゴータマから聞いたことを語ることになるのか。
 また私たちは沙門ゴータマを事実でないことによって誹謗することにはならないか。
 また私たちは法を法のままに解答していることになるのか。
 またいかなる同法者にして叱責する者によって非難される処に陥らないのか。

 友よ、先生は苦は縁によって生起すると説く。何が縁か。
 接触が縁である。
 このように説くならば先生から聞いたことを語ることになり、
 また先生を事実でないことによって誹謗することにはならず、
 また法を法のままに解答していることになり、
 またいかなる同法者にして叱責する者によって非難される処に陥らない。

 友よ、しかしある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作ると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は他者が作ると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らも作り他者も作ると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。

 友よ、しかしある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作ると設定するが、彼らは接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。(『南伝』には「接触なくして感受するだろう」)
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は他者が作ると設定するが、彼らも接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らも作り他者も作ると設定するが、彼らも接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じると設定するが、彼も接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 
 尊者アーナンダは尊者サーリプッタとその他に住する者たち・遍歴者たちのこの会話を聞いた。ときに尊者アーナンダはラージャガハで乞食を行じ、食後に乞食から帰ってきて先生を訪ねた。訪ねて先生に敬礼して一方に座った。一方に座って尊者アーナンダは尊者サーリプッタと他に住する者たち・遍歴者たちの会話のその一切を先生に告げた。

 そうなのだ、そうなのだ、アーナンダ。サーリプッタは正しい解答[記説]を解答した。
 アーナンダ、苦は縁によって生起すると私は言う。何が縁か。
 接触が縁である。
 このように説くならば私から聞いたことを語ることになり、
 また私を事実でないことによって誹謗することにはならず、
 また法を法のままに解答していることになり、
 またいかなる同法者にして叱責する者によって非難される処に陥らない。

 アーナンダ、ある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作ると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は他者が作ると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らも作り他者も作ると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。

 アーナンダ、しかしある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作ると設定するが、彼らは接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は他者が作ると設定するが、彼らも接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らも作り他者も作ると設定するが、彼らも接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じると設定するが、彼も接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。

 アーナンダ、あるとき私はこのラージャガハのヴェール林、カランダカニヴァーパに住んでいた。
 アーナンダ、ときに私は午前に着衣して鉢と衣を取って、ラージャガハに乞食のために入った。
 アーナンダ、ときに私はこう思った。
「ラージャガハで乞食を行なうにはまだ早過ぎる。
 私は他に住する者たち・遍歴者たちの園を訪ねてはどうだろうか」。
 アーナンダ、そこで私は他に住する者たち・遍歴者たちの園を訪ねた。訪ねてその他に住する者たち・遍歴者たちと互いに挨拶した。挨拶して記憶すべき会話を交わして一方に座った。一方に座った私にその他に住する者たち・遍歴者たちはこう言った。
 
 友ゴータマ、ある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作ると設定する。
 友ゴータマ、またある沙門バラモンは業論者であり、苦は他者が作ると設定する。
 友ゴータマ、またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らも作り他者も作ると設定する。
 友ゴータマ、またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じると設定する。
 友ゴータマ、ここにおいて尊者ゴータマは何を説き何を示すのか。
 私たちはどのように解答すれば私たちが尊者ゴータマから聞いたことを語ることになるのか。
 また私たちは尊者ゴータマを事実でないことによって誹謗することにはならないか。
 また私たちは法を法のままに解答していることになるのか。
 またいかなる同法者にして叱責する者によって非難される処に陥らないのか。

 アーナンダ、こう言われて私はその他に住する者たち・遍歴者たちにこう言った。
 友よ、私は苦は縁によって生起すると説く。何が縁か。
 接触が縁である。
 このように説くならば私から聞いたことを語ることになり、
 また私を事実でないことによって誹謗することにはならず、
 また法を法のままに解答していることになり、
 またいかなる同法者にして叱責する者によって非難される処に陥らない。

 友よ、しかしある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作ると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は他者が作ると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らも作り他者も作ると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じると設定するが、彼らも接触が縁であるとする。

 友よ、しかしある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作ると設定するが、彼らは接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は他者が作ると設定するが、彼らも接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らも作り他者も作ると設定するが、彼らも接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。
 またある沙門バラモンは業論者であり、苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じると設定するが、彼も接触とは別に感受するだろうというこの処を知らない。

 〔アーナンダ曰く〕
 先生、希有です。先生、あり得ないことです。
 実に一句の中に一切の義が言われています。
 先生、もしこの義が解説されて説かれるならば、深くともその深いことは明らかとなるでしょう。
 アーナンダ、それならばその義を明らかにしなさい。

 先生、もし私にこのように質問されるとします。
「友アーナンダ、老死は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか」と。
 先生、私はこのように問われたならば、このように解答します。
「友よ、老死は生を原因とし、生を生起とし、生から生じ、生から現れる」と。
 先生、私はこのように問われたならば、このように解答します。

 先生、もし私にこのように質問されるとします。
「友アーナンダ、生は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか」と。
 先生、私はこのように問われたならば、このように解答します。
「友よ、生は有を原因とし、有を生起とし、有から生じ、有から現れる」と。
 先生、私はこのように問われたならば、このように解答します。

 先生、もし私にこのように質問されるとします。
「友アーナンダ、有は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか」と。
 先生、私はこのように問われたならば、このように解答します。
「友よ、有は取を原因とし、取を生起とし、取から生じ、取から現れる」と。
 先生、私はこのように問われたならば、このように解答します。

 先生、もし私にこのように質問されるとします。
「友アーナンダ、取は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか」と。
 先生、私はこのように問われたならば、このように解答します。
「友よ、取は愛を原因とし、愛を生起とし、愛から生じ、愛から現れる」と。
 先生、私はこのように問われたならば、このように解答します。

 先生、もし私にこのように質問されるとします。
「友アーナンダ、愛は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか」と。
 先生、私はこのように問われたならば、このように解答します。
「友よ、愛は受を原因とし、受を生起とし、受から生じ、受から現れる」と。
 先生、私はこのように問われたならば、このように解答します。

 先生、もし私にこのように質問されるとします。
「友アーナンダ、受は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか」と。
 先生、私はこのように問われたならば、このように解答します。
「友よ、受は触を原因とし、触を生起とし、触から生じ、触から現れる」と。
 先生、私はこのように問われたならば、このように解答します。

 先生、もし私にこのように質問されるとします。
「友アーナンダ、触は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか」と。
 先生、私はこのように問われたならば、このように解答します。
「友よ、触は六処を原因とし、六処を生起とし、六処から生じ、六処から現れる」と。
「友よ、六つの触処を残り無く離貪し滅するならば触は滅する。
 触が滅すると受が滅する。
 受が滅すると愛が滅する。
 愛が滅すると取が滅する。
 取が滅すると有が滅する。
 有が滅すると生が滅する。
 生が滅すると老死・悩み・号泣・苦痛・苦憂・苦悶が滅する。 
 このようにして完全に苦しみのまとまりが滅する」と。
 先生、私はこのように問われたならば、このように解答します。」(続く)



(『南伝大蔵経13 相応部経典2』大蔵出版 P42−54 に相当)






 註 依拠 ウパニサ upanisa    依、拠り所、基礎となるもの、縁、原因
   依拠がある サウパニサ saupanisa
   依拠がない アヌパニサ anupanisa
   事実の通りに知り見ること yathā〔通り〕bhūta〔事実〕ñāṇa〔知〕dassana〔見〕
   集中すること サマーディ samādhi 定、三昧、三摩地
   楽 スカ sukha よい感受
   静止すること パッサッディ passaddhi 軽安、安静
   喜び ピーティ pīti
   意を得ること パーモッジャ pāmojja 意を得ること、悦、満足
   信 サッダー saddhā 信じること
   苦 ドゥッカ dukkha 苦しみ
  

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

原始仏典 更新情報

原始仏典のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング