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原始仏典コミュの計算できないほど無量の福のまとまり

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衣服・食事・座具寝具・薬資具の寄付を受けた人が四無量心に住するとき、寄付した人にも莫大な福が生じるという教え。




増支部経典>四集

「   第一品 福の流れ

   第一 福の流れ

51.サーヴァッティ因。
 比丘たちよ、これら四つは福に流れ、善に流れ、楽の食となり、好ましいものとなり、楽の報いとなり、天世に転じるものとなり、欲せられるもの・愛されるもの・意にかなうもの・利益・楽に転じる。何が四か。

 比丘たちよ、彼の衣服を比丘が受用し無量の心のサマーディを具足して住するときは、彼に無量の福が流れ、善が流れ、楽の食となり、好ましいものとなり、楽の報いとなり、天世に転じるものであり、欲せられるもの・愛されるもの・意にかなうもの・利益・楽に転じる。
 比丘たちよ、彼の食物を比丘が受用し無量の心のサマーディを具足して住するときは、彼に無量の福が流れ、善が流れ、楽の食となり、好ましいものとなり、楽の報いとなり、天世に転じるものであり、欲せられるもの・愛されるもの・意にかなうもの・利益・楽に転じる。
 比丘たちよ、彼の座臥具を比丘が受用し無量の心のサマーディを具足して住するときは、彼に無量の福が流れ、善が流れ、楽の食となり、好ましいものとなり、楽の報いとなり、天世に転じるものであり、欲せられるもの・愛されるもの・意にかなうもの・利益・楽に転じる。
 比丘たちよ、彼の薬資具を比丘が受用し無量の心のサマーディを具足して住するときは、彼に無量の福が流れ、善が流れ、楽の食となり、好ましいものとなり、楽の報いとなり、天世に転じるものであり、欲せられるもの・愛されるもの・意にかなうもの・利益・楽に転じる。

 比丘たちよ、これら四つは福に流れ、善に流れ、楽の食となり、好ましいものとなり、楽の報いとなり、天世に転じるものとなり、欲せられるもの・愛されるもの・意にかなうもの・利益・楽に転じる。

 比丘たちよ、またこれら四つの福の流れ、善の流れを成就する聖なる弟子の福の量を把握するのは容易ではない。
「これだけのものが、福に流れ、善に流れ、楽の食となり、好ましいものとなり、楽の報いとなり、天世に転じるものとなり、欲せられるもの・愛されるもの・意にかなうもの・利益・楽に転じる」と。
 そこにおいては「計算できないほど無量の大なる福のまとまり」という計算に行くだけである。
 比丘たちよ、たとえば大海の水の量を把握するのは容易ではない。
「これだけのアールハカ(水の単位:一升)の水がある。
 これだけの百アールハカの水がある。
 これだけの千アールハカの水がある。
 これだけの十万アールハカの水がある」と。
 そこにおいては「計算できないほど無量の大なる水のまとまり」という計算に行くだけである。
 比丘たちよ、このようにこれら四つの福の流れ、善の流れを成就する聖なる弟子の福の量を把握するのは容易ではない。
「これだけのものが、福に流れ、善に流れ、楽の食となり、好ましいものとなり、楽の報いとなり、天世に転じるものとなり、欲せられるもの・愛されるもの・意にかなうもの・利益・楽に転じる」と。
 そこにおいては「計算できないほど無量の大なる福のまとまり」という計算に行くだけである。

  大海は 無量に流れ
  多くの恐るべき 財宝と装飾品とを蔵している
  人々が会衆や集団に近づくように
  多くの川もまた海に近づく

  このように人々は食物を与え衣服を与え
  より良い座具と寝具を与えて
  福の流れは賢者に近づく
  川が海に流れるように


 註 無量の心のサマーディ appamāṇaṃ cetosamādhiṃ
       アッパマーナ〔無量〕・チェートー〔心〕・サマーディ
       普通は四無量心を指す。他の例は無量聡明憶念三摩地のみ。
   福の流れ プンニャ〔福〕・アビサンダ〔流れ〕 puññābhisandā
   善の流れ クサラ〔善〕・アビサンダ〔流れ〕 kusalābhisandā
   楽の食  スカ〔楽〕・アーハーラ〔食〕 sukhassāhārā
   好ましいもの ソーヴァッギカ sovaggikā ヴァッギが好ましい、愛すべき
   楽の報い  スカ・ヴィパーカ〔報い〕 sukhavipākā
   天世に転じる サッガ〔天世〕・サンヴァッタニカ〔転じる〕 saggasaṃvattanikā
   欲せられるもの イッタ iṭṭhāya
   愛されるもの  カンタ kantāya
   意にかなうもの マナーパ manāpāya
   利益   ヒタ hitāya
   転じる  サンヴァッタティ saṃvattanti
   計算できないほど無量の  asaṅkhyeyyo appameyyo
   大なる福のまとまり マハー・プンニャ・カンダ mahā puñña khandha」

(『南伝大蔵経18 増支部経典2』大蔵出版 P97−99)





パーリ語原文の文脈の意味が取りづらいのですが、偈の部分から「この経は布施を賞賛している」ということは明らかです。後半の「聖なる弟子の福の量を把握するのは容易ではない」という教えについてはこれが「布施者」について言っているのか「四無量心修習者」について言っているのかわからないかも知れませんが、これは「布施者」について言っているのだと思います。この教えは四つの福の流れの教えであり、つまり「寄付品が無量心修習の一原因として寄与することによって結果的に莫大な福が報いとして流れ込む」という教えだからです。

この経の主役は徹頭徹尾、寄付者であって、修行者ではありません。ですから、この教えは「流れに入った者でなくとも自分が寄付した人が四無量心を行なうならば莫大な福の報いが自分に来る」という教えです。四無量心を行なう人に寄付をすれば、無量の福があるということです。

布施を賞賛する経ですが、これを応用して理解すると利益が多いです。

つまり、前回、無職の方への慈心のすすめを書きましたが、それと同様で、「無職の人が四無量心を行なうならば、この無職の人に衣食住を提供する家族と社会に莫大な福が生じる」ということです。この件についてよく熟慮し続けると利益が多いと思います。

 「この慈心を原因として何が生じるのか。
  この慈心を原因として生じた利益の分だけ
  その報いを自分は相続するだろう。
  この慈心を原因として生じなかった利益は
  自分は相続しないだろう。
  この慈心を原因として世間にどのような影響があるのか。
  以上は慈心をしてから後の因果連鎖についてだ。
  では慈心にいたるまでの因果連鎖はどうか。
  何が原因で自分は慈心を修することになるのか。
  慈心という修行法を聞いて、読んで知る。
  その意義を考察して信じる。
  修するためには衣食住があって生きている必要がある。
  後は信じて時間と労力を惜しまず念じればそれで修習になる。
  慈心を修するために必要なこれらを自分に提供した者たち、
  彼らに自分が慈心を修した結果の福の報いの流れが行くだろう。
  それならば世話になっている家族と世間に莫大な福徳が生じるように
  徹底的に慈心を修そう。
  そうすれば家族と世間への恩返しにもなり、
  同時に来世にあっては慈心をマスターすれば梵天の楽しみが手に入り、
  マスターできなくとも欲楽を楽しみ、人に愛され賞賛されるだろう。
  それは楽しい。
  しかし一切行は無常ゆえにいずれは無執着の不死を目指そう。
  しかし不死になるとしても慈心を修習すれば優雅沙門への道が開ける。
  阿羅漢であっても衣食住を手に入れることが難しい者がいる。
  なぜか。慈心を修していないからだ。
  解脱の境地に優劣はないが外的環境に優劣はある。
  ゆえに優雅沙門は最上と説かれる。
  それならば阿羅漢になるとしても慈心は無駄ではなく有益なのだ。
  まして慈心は多修命令をされるほど有意義だと信じれる。
  よし、慈心を修して修行環境を整えつつ楽しみながら修行しよう。
  そうすれば容姿も良くなるし」


慈心はまずはあまり真剣にやらずに、軽い気持ちで「長続きすることを最優先して、とりあえず慣れることを目標とする」ぐらいでいいと思います。一気に頑張り過ぎて三日坊主になるよりもその方がいいと思います。それはピアノの練習やスポーツの練習と同じだと思います。

「一人の人に慈しみがあるだけでも彼は善人である。
 いわんや多くの人を慈しむならばどう言おうか」

というような記述もあります。俗的な用語と原始仏教の教えを結びつけると利益が多いです。

「慈心を修する者こそがかっこいいのだ。
 慈心を修する人こそが可愛い。
 慈心を修する人こそがモテる。
 慈心を修する人こそがいい男なんだ。
 慈心を修する人こそがいい女なんだ。
 慈心を修する人こそが仕事ができる人間なんだ。
 なぜなら全ての仕事は人を幸せにするゆえにお金が得られるものだから。
 慈心を修する人こそがセレブなんだ。
 なぜなら地位と名誉というものはどれだけ多くの人を幸せにすることによって
 その人々の心を掴んだかということに依存するものだから。
 慈心を修すれば実に多くの人間の心を獲得できる。それは楽しい。無常ではあるが。
 慈心を修する人こそが家族・親族の間でもっとも輝く。
 慈心を修すれば修するほど、それが習慣になる。
 慈心が習慣になれば「幸せになれ、幸せになれ」という思考回路が
 よく使用され、よく惹起され、よく再開される。
 そのときの表情はよい。
 そのときの声質はよい。
 そのときの立ち居振る舞いはよい。
 こうして見苦しくない身体の所作、
 聞き苦しくない声、
 中身を覗かれても汚くない心が出来上がるだろう。
 それこそ美しい心と身体だ。
 ついでに三毒の一つの怒りも減少する。
 思うに真の優しさというものは
 智慧に裏付けられたゴリ押し無量の慈心であると感じる。
 この慈心を徹底的に修行して
 幸せにしてあげたいと思う人を三秒で幸せにすることが
 できるほどの慈心力を獲得できたら
 より一層毎日が楽しくなるに違いない」

など考えても利益があると思います。


慈心を一日に0.3秒でも修するならば、その人は生きる価値がある人だと僕は信じています。

コメント(4)

素晴らしいですね。僕も両親の肩を揉んだりしたほうが四摂事の三番目の利行として良いと思うのですが、どうも照れくさくてできていないのが現状です。「ああしてあげればよかったな」と思うときはそう思う分だけ申し訳程度に慈心を修しています。慈心は遠隔でこっそりできるのも便利なところですよね。

eさんのように慈心を修する人が世界に増えることは本当に素晴らしいことです。慈心の成果も経験則でよく感じているようで、よく修していらっしゃるようです。素晴らしいです。
おぉ、四無量心を修する人にお布施するだけで、無量の福の流れになるのですか!
とてもありがたく、うれしいです^^
改めて読んでみるとこの教えは色々な人への布施に応用が効きそうです。服飾に携わる人を援助すれば、服飾に関する福の報いを特に期待できそうですし、食に携わる人を援助すれば食に関する福の報いを期待できそうです。世間の様々な有給無給の行ないのうち、四無量心は人々の心に善い影響を無量に与える点では最上ですから、無量の福が期待できるのだと思います。逆に様々な仕事をするそれぞれの人の仕事を妨害する悪業を行なった場合、どのような悪業の報いになりそうなのか考えると色々と反省できそうです。

慈心を修することによって自分だけでなく、自分に布施してくれる家族や友人にも福が流れ込むようですから、この教えはみんなで幸せになれるとてもいい教えですね。

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