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原始仏典コミュの因縁相応 「縁起」3

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(続き 『南伝大蔵経13 相応部経典2』大蔵出版 P25−36 に相当)





「   第六 法を説く者

16.サーヴァッティ・・・・・・
 ときに一人の比丘が先生を訪ねた。訪ねて先生に敬礼して一方に座った。一方に座ってその比丘は先生にこう言った。
 先生、「法を説く者、法を説く者〔ダンマカティカ〕」と言われます。
 先生、何が法を説く者ですか。

 もし比丘が老死の厭患(えんげん。厭うこと)のため、離貪のため、滅のために法を説くならば、「法を説く比丘」と言われるのに十分である。
 もし比丘が老死の厭患のため、離貪のため、滅のために修行するならば、「法に従って法を修行する比丘」と言われるのに十分である。
 もし比丘が老死を厭患し、離貪し、滅し、取ることなく解脱するならば、「現世において涅槃に達した比丘」と言われるのに十分である。
 
 もし比丘が生の厭患のため、離貪のため、滅のために法を説くならば、「法を説く比丘」と言われるのに十分である。
 もし比丘が生の厭患のため、離貪のため、滅のために修行するならば、「法に従って法を修行する比丘」と言われるのに十分である。
 もし比丘が生を厭患し、離貪し、滅し、取ることなく離脱するならば、「現世において涅槃に達した比丘」と言われるのに十分である。
 
 もし比丘が有の厭患のため・・・・・・
 もし比丘が取の厭患のため・・・・・・
 もし比丘が愛の厭患のため・・・・・・
 もし比丘が受の厭患のため・・・・・・
 もし比丘が触の厭患のため・・・・・・
 もし比丘が六処の厭患のため・・・・・・
 もし比丘が名色の厭患のため・・・・・・
 もし比丘が識の厭患のため・・・・・・

 もし比丘が行の厭患のため、離貪のため、滅のために法を説くならば、「法を説く比丘」と言われるのに十分である。
 もし比丘が行の厭患のため、離貪のため、滅のために修行するならば、「法に従って法を修行する比丘」と言われるのに十分である。
 もし比丘が行を厭患し、離貪し、滅し、取ることなく離脱するならば、「現世において涅槃に達した比丘」と言われるのに十分である。
 
 もし比丘が無明の厭患のため、離貪のため、滅のために法を説くならば、「法を説く比丘」と言われるのに十分である。
 もし比丘が無明の厭患のため、離貪のため、滅のために修行するならば、「法に従って法を修行する比丘」と言われるのに十分である。
 もし比丘が無明を厭患し、離貪し、滅し、取ることなく離脱するならば、「現世において涅槃に達した比丘」と言われるのに十分である。



   第七 アチェーラ・カッサパ

17.このように私は聞いた。
 あるとき先生はラージャガハのヴェール林、カランダカニヴァーパ(リスの飼養所)に住んでいた。ときに先生は午前に着衣して鉢と衣を持って、ラージャガハに食事のために入った。アチェーラ・カッサパは先生が遠くから来るのを見た。見て先生を訪ねた。訪ねて先生と互いに挨拶した。挨拶して記憶すべき話を交わして一方に立った。一方に立ってアチェーラ・カッサパは先生にこう言った。

 私はゴータマさんに質問し何かしらそれについて説いて欲しいと思います。
 もしゴータマさんが許されるならば質問したら解答していただきたい。
 カッサパ、今は質問する時ではない。すでに街中に入っている。

 再びアチェーラ・カッサパは先生にこう言った。
 私はゴータマさんに質問し何かしらそれについて説いて欲しいと思います。
 もしゴータマさんが許されるならば質問したら解答していただきたい。
 カッサパ、今は質問する時ではない。すでに街中に入っている。

 三たびアチェーラ・カッサパは先生にこう言った。
 私はゴータマさんに質問し何かしらそれについて説いて欲しいと思います。
 もしゴータマさんが許されるならば質問したら解答していただきたい。
 カッサパ、今は質問する時ではない。すでに街中に入っている。

 このように言うとアチェーラ・カッサパは先生にこう言った。

 私はゴータマさんに多くを質問しようと欲するのではありません。
 カッサパ、それならば質問を述べなさい。

 ゴータマさん、苦は自らが作るのですか。
 カッサパ、そうではない。
 ゴータマさん、では苦は他者が作るのですか。
 カッサパ、そうではない。
 ゴータマさん、では苦は自らも作り他者も作るのですか。
 カッサパ、そうではない。
 ゴータマさん、では苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じるのですか。
 カッサパ、そうではない。と先生は言った。
 ゴータマさん、では苦は存在しないのですか。
 カッサパ、苦は存在しないのではない。
 カッサパ、苦は存在する。
 ではゴータマさんは苦を知らず、見ないのですか。
 カッサパ、私は苦を知らず、見ないのではない。
 カッサパ、私は苦を知っている。
 カッサパ、私は苦を見ている。

「ゴータマさん、苦は自らが作るのですか」と質問したときは「カッサパ、そうではない」と言います。
「ゴータマさん、では苦は他者が作るのですか」と質問したときは「カッサパ、そうではない」と言います。
「ゴータマさん、では苦は自らも作り他者も作るのですか」と質問したときは「カッサパ、そうではない」と言います。
「ゴータマさん、では苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じるのですか」と質問したときは「カッサパ、そうではない」と言います。
「ゴータマさん、では苦は存在しないのですか」と質問したときは「カッサパ、苦は存在しないのではない。カッサパ、苦は存在する」と言います。
「ではゴータマさんは苦を知らず、見ないのですか」と質問したときは「カッサパ、私は苦を知らず、見ないのではない。カッサパ、私は苦を知っている。カッサパ、私は苦を見ている」と言います。
 先生、それならば先生は私に苦を示してください。
 先生、それならば先生は私に苦を説いてください。

 カッサパ、最初にあった「苦は自らが作る」ということは「その人が感受するものはその人が作る」という常住論に到ることになる。
 カッサパ、感受に征服されることになる「苦は他者が作る」ということは「その人が感受するものはその人とは別の人が作る」という断滅論に到ることになる。
 カッサパ、この二つの極端を離れた中によって如来は法を説く。

 無明を縁として行がある。
 行を縁として識がある。
 識を縁として名色がある。
 名色を縁として六処がある。
 六処を縁として触がある。
 触を縁として受がある。
 受を縁として愛がある。
 愛を縁として取がある。
 取を縁として有がある。
 有を縁として生がある。
 生を縁として老死と悩み・号泣・苦痛・苦憂・苦悶が現れる。
 このようにして完全に苦しみのまとまりが生起する。

 しかし無明を残りなく離貪し滅することによって行が滅する。
 行の滅によって識が滅する。
 識の滅によって名色が滅する。 
 名色の滅によって六処が滅する。
 六処の滅によって触が滅する。
 触の滅によって受が滅する。
 受の滅によって愛が滅する。
 愛の滅によって取が滅する。
 取の滅によって有が滅する。
 有の滅によって生が滅する。
 生の滅によって老死と悩み・号泣・苦痛・苦憂・苦悶が滅する。
 このようにして完全に苦しみのまとまりが滅する。

 このように言うとアチェーラ・カッサパは先生にこう言った。
 先生、素晴らしい。先生、素晴らしい。
 先生、たとえば倒れた者を起こすように、あるいは覆われたものを開くように、あるいは迷うものに道を教えるように、あるいは「目ある者は色を見るだろう」と暗闇で油の灯火を差し出すように、このようにゴータマさんは様々な方法によって法を明らかにしました。
 先生、この私はゴータマさんとダンマと比丘サンガに帰依します。
 先生、どうか私に先生の面前で出家を得させてください。具足を得させてください。

 カッサパ、以前に他〔の教え〕に住していた者がこの法と律において出家することを希望し、具足することを希望するならば、彼は四ヶ月別住する。四ヶ月を過ぎて比丘として出家し具足することを希望するならば比丘となる。しかし私は人によっては違いがあることを認める。
 先生、もし以前に他に住していた者がこの法と律において出家することを希望し、具足することを希望するならば、彼は四ヶ月別住し、四ヶ月を過ぎて比丘として出家し具足することを希望するならば比丘となるのであれば、私は四年別住します。四年を過ぎて比丘として出家し具足することを希望し比丘になります。
 アチェーラ・カッサパは先生の面前で出家することを得、具足することを得た。そして具足して間もなく尊者カッサパは一人で引きこもって不放逸に熱心に精勤して住し、久しからずして良家の子が正しく家から家無きに出家するところのその無上の義である梵行の完成を現世において自ら超知し実証し具足して住した。
「生まれることは尽きた。
 梵行は完成した。
 為すべきことは為した。
 さらにこのようになることはない」と悟った。
 そして尊者カッサパは阿羅漢の一人となった。



   第八 ティンバルカ

18.サーヴァッティに住んでいた。
 ときに遍歴者ティンバルカは先生を訪ねた。訪ねて先生と互いに挨拶した。挨拶して記憶すべき会話を交わして一方に座った。一方に座った遍歴者ティンバルカは先生にこう言った。
 ゴータマさん、楽苦は自らが作るのですか。
 ティンバルカ、そうではない。
 ゴータマさん、では楽苦は他者が作るのですか。
 ティンバルカ、そうではない。
 ゴータマさん、では楽苦は自らも作り他者も作るのですか。
 ティンバルカ、そうではない。
 ゴータマさん、では楽苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じるのですか。
 ティンバルカ、そうではない。
 ゴータマさん、では楽苦は存在しないのですか。
 ティンバルカ、楽苦は存在しないのではない。
 ティンバルカ、楽苦は存在する。
 ではゴータマさんは楽苦を知らず、見ないのですか。
 ティンバルカ、私は楽苦を知らず、見ないのではない。
 ティンバルカ、私は楽苦を知っている。
 ティンバルカ、私は楽苦を見ている。

「ゴータマさん、楽苦は自らが作るのですか」と質問したときは「ティンバルカ、そうではない」と言います。
「ゴータマさん、では楽苦は他者が作るのですか」と質問したときは「ティンバルカ、そうではない」と言います。
「ゴータマさん、では楽苦は自らも作り他者も作るのですか」と質問したときは「ティンバルカ、そうではない」と言います。
「ゴータマさん、では楽苦は自らが作るのでもなく他者が作るのでもなく原因なく生じるのですか」と質問したときは「ティンバルカ、そうではない」と言います。
「ゴータマさん、では楽苦は存在しないのですか」と質問したときは「ティンバルカ、楽苦は存在しないのではない。ティンバルカ、楽苦は存在する」と言います。
「ではゴータマさんは楽苦を知らず、見ないのですか」と質問したときは「ティンバルカ、私は楽苦を知らず、見ないのではない。ティンバルカ、私は楽苦を知っている。ティンバルカ、私は楽苦を見ている」と言います。
 先生、それならば先生は私に苦を示してください。
 先生、それならば先生は私に苦を説いてください。

 ティンバルカ、最初にあった「楽苦は自らが作る」ということは「感受は感受する彼そのものである」ということであり、私はこのようには言わない。
 ティンバルカ、感受に征服されることになる「楽苦は他者が作る」ということは「感受そのものと感受する人は別々である」ということであり、私はこのようには言わない。
 ティンバルカ、この二つの極端を離れた中によって如来は法を説く。

 無明を縁として行がある。
 行を縁として識がある。
 識を縁として名色がある。
 名色を縁として六処がある。
 六処を縁として触がある。
 触を縁として受がある。
 受を縁として愛がある。
 愛を縁として取がある。
 取を縁として有がある。
 有を縁として生がある。
 生を縁として老死と悩み・号泣・苦痛・苦憂・苦悶が現れる。
 このようにして完全に苦しみのまとまりが生起する。

 しかし無明を残りなく離貪し滅することによって行が滅する。
 行の滅によって識が滅する。
 識の滅によって名色が滅する。 
 名色の滅によって六処が滅する。
 六処の滅によって触が滅する。
 触の滅によって受が滅する。
 受の滅によって愛が滅する。
 愛の滅によって取が滅する。
 取の滅によって有が滅する。
 有の滅によって生が滅する。
 生の滅によって老死と悩み・号泣・苦痛・苦憂・苦悶が滅する。
 このようにして完全に苦しみのまとまりが滅する。

 このように言うとティンバルカは先生にこう言った。
 先生、素晴らしい。先生、素晴らしい。
 先生、たとえば倒れた者を起こすように、あるいは覆われたものを開くように、あるいは迷うものに道を教えるように、あるいは「目ある者は色を見るだろう」と暗闇で油の灯火を差し出すように、このようにゴータマさんは様々な方法によって法を明らかにしました。
 先生、この私はゴータマさんとダンマと比丘サンガに帰依します。
 今日以後、ゴータマさんは私を命あるかぎり帰依する優婆塞とさせてください。



   第九 愚者と賢者

19.サーヴァッティに住んでいた。・・・・・・
 比丘たちよ、無明に覆われた愚者は渇愛に結ばれてこの身体を生起させる。
 この身体と外の名色の二つにより、この二つを縁として六処の接触があり、これら六つあるいはその一つの接触によって愚者は楽苦を感受する。
 比丘たちよ、無明に覆われた賢者は渇愛に結ばれてこの身体を生起させる。
 この身体と外の名色の二つにより、この二つを縁として六処の接触があり、これら六つあるいはその一つの接触によって賢者は楽苦を感受する。
 比丘たちよ、それならば賢者と愚者にはそれぞれの在り方においていかなる差異、いかなる違いがあるのか。
 先生、法は先生を根本とし、先生を導くものとし、先生に帰依しています。
 先生、そうです。先生がこの説の義を明らかにしてください。先生から聞いて比丘たちは受持するでしょう。
 比丘たちよ、それならば聞いてよく考えなさい。説こう。
「はい、先生」とその比丘たちは先生に応えた。先生はこう言った。

 比丘たちよ、無明に覆われた愚者もまた渇愛に結ばれているかぎりこの身体を生起させる。
 しかし愚者は無明を断たず、渇愛を遍く尽くさない。それはなぜか。
 比丘たちよ、愚者は梵行を行じて正しく苦を尽くさないからである。
 それゆえに愚者は身体が破れても身体を取る。
 彼は身体を取るゆえに生・老死・悩み・号泣・苦痛・苦憂・苦悶から遍く脱しない。
 彼は苦から遍く脱しないと私は言う。

 比丘たちよ、無明に覆われた賢者もまた渇愛に結ばれているかぎりこの身体を生起させる。
 しかし賢者は無明を断ち、渇愛を遍く尽くす。それはなぜか。
 比丘たちよ、賢者は梵行を行じて正しく苦を尽くすからである。
 それゆえに賢者は身体が破れても身体を取らない。
 彼は身体を取らないゆえに生・老死・悩み・号泣・苦痛・苦憂・苦悶から遍く脱する。
 彼は苦から遍く脱すると私は言う。

 比丘たちよ、賢者と愚者のそれぞれの在り方においてはこれが差異であり、これが違いなのである。
 即ち、梵行に住することである。」(続く)



(『南伝大蔵経13 相応部経典2』大蔵出版 P25−36 に相当)







 
 註 法を説く者 ダンマカティカ dhammakathika 説法者、法説者
   厭患  ニッビダー nibbidā 厭患、厭うこと、忌避すること
   離貪  ヴィラーガ virāga 貪りを離れること
   滅   ニローダ nirodha 滅すること
   無取  アヌパーダ anupāda 取ることなく、執着することなく
   離脱  ヴィムッティ vimutti 解脱する 脱する
   説法比丘 ダンマカティコー・ビックー dhammakathiko bhikkhū
   法に従って法を修行する比丘   法随法行比丘
    ダンマーヌダンマッパティパンノー・ビックー
    dhammānudhamma〔法随法〕ppaṭipanno〔修行する〕 bhikkhū
   現世において涅槃に達した比丘  現法涅槃比丘
    ディッタダンマニッバーナッパットー・ビックー
    diṭṭha〔現〕dhamma〔世〕nibbāna〔涅槃〕ppatto〔達〕 bhikkhū
   アチェーラ・カッサパ Acela kassapa 裸行するカッサパの意
   常住論 ヴァダム・サッサッタム vadaṃ sassataṃ 
   断滅論 ヴァダム・ウッチェーダム vadaṃ ucchedaṃ
   ティンバルカ Timbaruka ティンバルという樹の意
   愚か者 バーラ bāla 
   賢者  パンディタ paṇḍita
   遍く脱する パリムッチャティ parimuccati 解脱する
   梵行に住すること ブラフマチャリヤ・ヴァーサ brahmacariyavāsa

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