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原始仏典コミュの因縁相応 「縁起」2

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(続き 『南伝大蔵経13 相応部経典2』大蔵出版 P12−25 に相当)





「   第五 シキン

5.比丘たちよ、シキン先生・阿羅漢・正覚者は以前に正しい覚りを正しく覚っていなかったボーディサッタであったときにこう思った。
「実にこの世界は生まれることと老いることと死ぬことと没することと再生することという苦難に陥っている。
 そしてこの苦しみ・老死からの脱出を知らない。
 いったいどこにおいてこの苦しみ・老死からの脱出が知られるのだろうか」。
 比丘たちよ、そこでシキン・ボーディサッタはこう思った。
「何があるときに老死があるのか。何を縁として老死があるのか」。
 ・・・・・・
 比丘たちよ、「生起だ、生起だ」と・・・・・・
 比丘たちよ、「滅だ。滅だ」とシキン・ボーディサッタに以前に聞いたことのない法への眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光が生じた。



   第六 ヴェッサブー

6.比丘たちよ、ヴェッサブー先生・阿羅漢・正覚者は以前に正しい覚りを正しく覚っていなかったボーディサッタであったときにこう思った。
「実にこの世界は生まれることと老いることと死ぬことと没することと再生することという苦難に陥っている。
 そしてこの苦しみ・老死からの脱出を知らない。
 いったいどこにおいてこの苦しみ・老死からの脱出が知られるのだろうか」。
 比丘たちよ、そこでヴェッサブー・ボーディサッタはこう思った。
「何があるときに老死があるのか。何を縁として老死があるのか」。
 ・・・・・・
 比丘たちよ、「生起だ、生起だ」と・・・・・・
 比丘たちよ、「滅だ。滅だ」とヴェッサブー・ボーディサッタに以前に聞いたことのない法への眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光が生じた。



   第七 カクサンダ

7.比丘たちよ、カクサンダ先生・阿羅漢・正覚者は以前に正しい覚りを正しく覚っていなかったボーディサッタであったときにこう思った。
「実にこの世界は生まれることと老いることと死ぬことと没することと再生することという苦難に陥っている。
 そしてこの苦しみ・老死からの脱出を知らない。
 いったいどこにおいてこの苦しみ・老死からの脱出が知られるのだろうか」。
 比丘たちよ、そこでカクサンダ・ボーディサッタはこう思った。
「何があるときに老死があるのか。何を縁として老死があるのか」。
 ・・・・・・
 比丘たちよ、「生起だ、生起だ」と・・・・・・
 比丘たちよ、「滅だ。滅だ」とカクサンダ・ボーディサッタに以前に聞いたことのない法への眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光が生じた。



   第八 コーナーガマナ

8.比丘たちよ、コーナーガマナ先生・阿羅漢・正覚者は以前に正しい覚りを正しく覚っていなかったボーディサッタであったときにこう思った。
「実にこの世界は生まれることと老いることと死ぬことと没することと再生することという苦難に陥っている。
 そしてこの苦しみ・老死からの脱出を知らない。
 いったいどこにおいてこの苦しみ・老死からの脱出が知られるのだろうか」。
 比丘たちよ、そこでコーナーガマナ・ボーディサッタはこう思った。
「何があるときに老死があるのか。何を縁として老死があるのか」。
 ・・・・・・
 比丘たちよ、「生起だ、生起だ」と・・・・・・
 比丘たちよ、「滅だ。滅だ」とコーナーガマナ・ボーディサッタに以前に聞いたことのない法への眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光が生じた。



   第九 カッサパ

9.比丘たちよ、カッサパ先生・阿羅漢・正覚者は以前に正しい覚りを正しく覚っていなかったボーディサッタであったときにこう思った。
「実にこの世界は生まれることと老いることと死ぬことと没することと再生することという苦難に陥っている。
 そしてこの苦しみ・老死からの脱出を知らない。
 いったいどこにおいてこの苦しみ・老死からの脱出が知られるのだろうか」。
 比丘たちよ、そこでカッサパ・ボーディサッタはこう思った。
「何があるときに老死があるのか。何を縁として老死があるのか」。
 ・・・・・・
 比丘たちよ、「生起だ、生起だ」と・・・・・・
 比丘たちよ、「滅だ。滅だ」とカッサパ・ボーディサッタに以前に聞いたことのない法への眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光が生じた。



   第十 ゴータマ

10.比丘たちよ、以前に私が正しい覚りを正しく覚っていなかったボーディサッタであったときにこう思った。
「実にこの世界は生まれることと老いることと死ぬことと没することと再生することという苦難に陥っている。
 そしてこの苦しみ・老死からの脱出を知らない。
 いったいどこにおいてこの苦しみ・老死からの脱出が知られるのだろうか」。
 比丘たちよ、そこで私はこう思った。
「何があるときに老死があるのか。何を縁として老死があるのか」。
 比丘たちよ、そこで私は根本に作意して智慧によって理解した。
 ・・・・・・
 比丘たちよ、「生起だ、生起だ」と私に以前に聞いたことのない法への眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光が生じた。
 ・・・・・・
 比丘たちよ、「滅だ。滅だ」と私に以前に聞いたことのない法への眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光が生じた。

                    ブッダ品

  その頌
   説示と広説と道、
   ヴィパッシンとシキンとヴェッサブー、
   カクサンダとコーナーガマナとカッサパ、
   マハーサキャムニのゴータマと。




     第二 食品


   第一 食

11.このように私は聞いた。
 あるとき先生はサーヴァッティのジェータ林、アナータピンディカの園に住んでいた。ときに先生は比丘たちに「比丘たちよ」と呼びかけた。その比丘たちは「先生」と先生に応えた。先生はこう言った。
 比丘たちよ、これら四つの食[四食]は存在する者たちや生ける者たちを住させ、現れさせ、捕らえる。何が四か。
 大小の飯食、第二に触、第三に意思、第四に識。
 比丘たちよ、これら四つの食は存在する者たちや生ける者たちを住させ、現れさせ、捕らえる。

 比丘たちよ、これら四つの食は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか。
 これら四つの食は渇愛を原因とし、渇愛を生起とし、渇愛から生じ、渇愛から現れる。
 比丘たちよ、ではこの渇愛は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか。
 渇愛は感受を原因とし、感受を生起とし、感受から生じ、感受から現れる。
 比丘たちよ、ではこの感受は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか。
 感受は触を原因とし、触を生起とし、触から生じ、触から現れる。
 比丘たちよ、ではこの触は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか。
 触は六処を原因とし、六処を生起とし、六処から生じ、六処から現れる。
 比丘たちよ、ではこの六処は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか。
 六処は名色を原因とし、名色を生起とし、名色から生じ、名色から現れる。
 比丘たちよ、ではこの名色は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか。
 名色は識を原因とし、識を生起とし、識から生じ、識から現れる。
 比丘たちよ、ではこの識は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか。
 識は行を原因とし、行を生起とし、行から生じ、行から現れる。
 比丘たちよ、ではこの行は何を原因とし、何を生起とし、何から生じ、何から現れるのか。
 行は無明を原因とし、無明を生起とし、無明から生じ、無明から現れる。

 比丘たちよ、このようにして無明を縁として行がある。
 行を縁として識がある。
 識を縁として名色がある。
 名色を縁として六処がある。
 六処を縁として触がある。
 触を縁として受がある。
 受を縁として愛がある。
 愛を縁として取がある。
 取を縁として有がある。
 有を縁として生がある。
 生を縁として老死と悩み・号泣・苦痛・苦憂・苦悶が現れる。
 このようにして完全に苦しみのまとまりが生起する。

 しかし無明を残りなく離貪し滅することによって行が滅する。
 行の滅によって識が滅する。
 識の滅によって名色が滅する。 
 名色の滅によって六処が滅する。
 六処の滅によって触が滅する。
 触の滅によって受が滅する。
 受の滅によって愛が滅する。
 愛の滅によって取が滅する。
 取の滅によって有が滅する。
 有の滅によって生が滅する。
 生の滅によって老死と悩み・号泣・苦痛・苦憂・苦悶が滅する。
 このようにして完全に苦しみのまとまりが滅する。



   第二 モーリヤ・パッグナ

12.サーヴァッティに住んでいた。・・・・・・
 比丘たちよ、これら四つの食は存在する者たちや生ける者たちを住させ、現れさせ、捕らえる。何が四か。
 大小の飯食、第二に触、第三に意思、第四に識。
 比丘たちよ、これら四つの食は存在する者たちや生ける者たちを住させ、現れさせ、捕らえる。

 このように言うと尊者モーリヤ・パッグナは先生にこう言った。
 先生、誰が識食を食べるのですか。
 先生は言った。
 適切な問いではない。「食べる」とは私は言わない。
「食べる」と私が言うならば「先生、誰が食べるのですか」という問いは適切である。
 しかし私はこのようには言わない。このように言わない私にはこのように問うべきである。
「先生、何が識食ですか」と。
 この問いは適切である。そうすれば適切な解答がある。
「識食は未来にさらなる有へと転じる縁であり、それゆえその存在者には六処があり、六処を縁とする触がある」。

 先生、誰が触れるのですか。
 先生は言った。
 適切な問いではない。「触れる」とは私は言わない。
「触れる」と私が言うならば「先生、誰が触れるのですか」という問いは適切である。
 しかし私はこのようには言わない。このように言わない私にはこのように問うべきである。
「先生、何を縁として触があるのですか」と。
 この問いは適切である。そうすれば適切な解答がある。
「六処を縁として触があり、触を縁として受がある」。

 先生、誰が感受するのですか。
 先生は言った。
 適切な問いではない。「感受する」とは私は言わない。
「感受する」と私が言うならば「先生、誰が感受するのですか」という問いは適切である。
 しかし私はこのようには言わない。このように言わない私にはこのように問うべきである。
「先生、何を縁として感受があるのですか」と。
 この問いは適切である。そうすれば適切な解答がある。
「触を縁として感受があり、感受を縁として渇愛がある」。

 先生、誰が渇くのですか。
 先生は言った。
 適切な問いではない。「渇く」とは私は言わない。
「渇く」と私が言うならば「先生、誰が渇くのですか」という問いは適切である。
 しかし私はこのようには言わない。このように言わない私にはこのように問うべきである。
「先生、何を縁として渇愛があるのですか」と。
 この問いは適切である。そうすれば適切な解答がある。
「感受を縁として渇愛があり、渇愛を縁として取がある」。

 先生、誰が取るのですか。
 先生は言った。
 適切な問いではない。「取る」とは私は言わない。
「取る」と私が言うならば「先生、誰が取るのですか」という問いは適切である。
 しかし私はこのようには言わない。このように言わない私にはこのように問うべきである。
「先生、何を縁として取があるのですか」と。
 この問いは適切である。そうすれば適切な解答がある。
「渇愛を縁として取があり、取を縁として有がある。
 有を縁として生があり、生を縁として老死と悩み・号泣・苦痛・苦憂・苦悶が現れる。
 このようにして完全に苦しみのまとまりが生起する」。

 パッグナ、この六つの触処を残り無く離貪し滅することによって触が滅する。
 触の滅によって感受が滅する。
 感受の滅によって渇愛が滅する。
 渇愛の滅によって取が滅する。
 取の滅によって有が滅する。
 有の滅によって生が滅する。
 生の滅によって老死と悩み・号泣・苦痛・苦憂・苦悶が滅する。
 このようにして完全に苦しみのまとまりが滅する。



   第三 沙門バラモン[一]

13.サーヴァッティに住んでいた。・・・・・・
 比丘たちよ、いかなる沙門バラモンであっても
 老死を知らず、老死の集[生起]を知らず、老死の滅を知らず、老死の滅に行く道を知らず、
 生を知らず、生の集を知らず、生の滅を知らず、生の滅に行く道を知らず、
 有を知らず、有の集を知らず、有の滅を知らず、有の滅に行く道を知らず、
 取を知らず、取の集を知らず、取の滅を知らず、取の滅に行く道を知らず、
 愛を知らず、愛の集を知らず、愛の滅を知らず、愛の滅に行く道を知らず、
 受を知らず、受の集を知らず、受の滅を知らず、受の滅に行く道を知らず、
 触を知らず、触の集を知らず、触の滅を知らず、触の滅に行く道を知らず、
 六処を知らず、六処の集を知らず、六処の滅を知らず、六処の滅に行く道を知らず、
 名色を知らず、名色の集を知らず、名色の滅を知らず、名色の滅に行く道を知らず、
 識を知らず、識の集を知らず、識の滅を知らず、識の滅に行く道を知らず、
 行を知らず、行の集を知らず、行の滅を知らず、行の滅に行く道を知らないならば、
 比丘たちよ、私はその沙門バラモンを沙門としては沙門と認めず、バラモンとしてはバラモンと認めない。
 またその尊者が沙門の義・バラモンの義を現世において自ら超知し実証し具足して住するということもない。

 しかし比丘たちよ、いかなる沙門バラモンであっても
 老死を知り、老死の集を知り、老死の滅を知り、老死の滅に行く道を知り、
 生を知り、生の集を知り、生の滅を知り、生の滅に行く道を知り、
 有を知り、有の集を知り、有の滅を知り、有の滅に行く道を知り、
 取を知り、取の集を知り、取の滅を知り、取の滅に行く道を知り、
 愛を知り、愛の集を知り、愛の滅を知り、愛の滅に行く道を知り、
 受を知り、受の集を知り、受の滅を知り、受の滅に行く道を知り、
 触を知り、触の集を知り、触の滅を知り、触の滅に行く道を知り、
 六処を知り、六処の集を知り、六処の滅を知り、六処の滅に行く道を知り、
 名色を知り、名色の集を知り、名色の滅を知り、名色の滅に行く道を知り、
 識を知り、識の集を知り、識の滅を知り、識の滅に行く道を知り、
 行を知り、行の集を知り、行の滅を知り、行の滅に行く道を知るならば、
 比丘たちよ、私はその沙門バラモンを沙門としては沙門と認め、バラモンとしてはバラモンと認める。
 またその尊者が沙門の義・バラモンの義を現世において自ら超知し実証し具足して住するということもある。



   第四 沙門バラモン[ニ]

14.サーヴァッティに住んでいた。・・・・・・
 比丘たちよ、いかなる沙門バラモンであっても
 これらの法を知らず、
 これらの法の集を知らず、
 これらの法の滅を知らず、
 これらの法の滅に行く道を知らないならば、
〔比丘たちよ、私はその沙門バラモンを沙門としては沙門と認めず、バラモンとしてはバラモンと認めない。
 またその尊者が沙門の義・バラモンの義を現世において自ら超知し実証し具足して住するということもない。〕
 では何の法を知らず、
 何の法の集を知らず、
 何の法の滅を知らず、
 何の法の滅に行く道を知らないのか。

 老死を知らず、老死の集を知らず、老死の滅を知らず、老死の滅に行く道を知らず、
 生を知らず、生の集を知らず、生の滅を知らず、生の滅に行く道を知らず、
 有を知らず、有の集を知らず、有の滅を知らず、有の滅に行く道を知らず、
 取を知らず、取の集を知らず、取の滅を知らず、取の滅に行く道を知らず、
 愛を知らず、愛の集を知らず、愛の滅を知らず、愛の滅に行く道を知らず、
 受を知らず、受の集を知らず、受の滅を知らず、受の滅に行く道を知らず、
 触を知らず、触の集を知らず、触の滅を知らず、触の滅に行く道を知らず、
 六処を知らず、六処の集を知らず、六処の滅を知らず、六処の滅に行く道を知らず、
 名色を知らず、名色の集を知らず、名色の滅を知らず、名色の滅に行く道を知らず、
 識を知らず、識の集を知らず、識の滅を知らず、識の滅に行く道を知らず、
 行を知らず、行の集を知らず、行の滅を知らず、行の滅に行く道を知らない。
 これらの法を知らず、
 これらの法の集を知らず、
 これらの法の滅を知らず、
 これらの法の滅に行く道を知らないならば、
 比丘たちよ、私はその沙門バラモンを沙門としては沙門と認めず、バラモンとしてはバラモンと認めない。
 またその尊者が沙門の義・バラモンの義を現世において自ら超知し実証し具足して住するということもない。

 しかし比丘たちよ、いかなる沙門バラモンであっても
 これらの法を知り、
 これらの法の集を知り、
 これらの法の滅を知り、
 これらの法の滅に行く道を知るならば、
〔比丘たちよ、私はその沙門バラモンを沙門としては沙門と認め、バラモンとしてはバラモンと認める。
 またその尊者が沙門の義・バラモンの義を現世において自ら超知し実証し具足して住するということもある。〕
 では何の法を知り、
 何の法の集を知り、
 何の法の滅を知り、
 何の法の滅に行く道を知るのか。

 老死を知り、老死の集を知り、老死の滅を知り、老死の滅に行く道を知り、
 生を知り、生の集を知り、生の滅を知り、生の滅に行く道を知り、
 有を知り、有の集を知り、有の滅を知り、有の滅に行く道を知り、
 取を知り、取の集を知り、取の滅を知り、取の滅に行く道を知り、
 愛を知り、愛の集を知り、愛の滅を知り、愛の滅に行く道を知り、
 受を知り、受の集を知り、受の滅を知り、受の滅に行く道を知り、
 触を知り、触の集を知り、触の滅を知り、触の滅に行く道を知り、
 六処を知り、六処の集を知り、六処の滅を知り、六処の滅に行く道を知り、
 名色を知り、名色の集を知り、名色の滅を知り、名色の滅に行く道を知り、
 識を知り、識の集を知り、識の滅を知り、識の滅に行く道を知り、
 行を知り、行の集を知り、行の滅を知り、行の滅に行く道を知る。
 これらの法を知り、
 これらの法の集を知り、
 これらの法の滅を知り、
 これらの法の滅に行く道を知るならば、
 比丘たちよ、私はその沙門バラモンを沙門としては沙門と認め、バラモンとしてはバラモンと認める。
 またその尊者が沙門の義・バラモンの義を現世において自ら超知し実証し具足して住するということもある。



   第五 カッチャーナ・ゴッタ

15.サーヴァッティに住んでいた。
 そこで尊者カッチャーナ・ゴッタ(カッチャーナ姓[家]の者)は先生を訪ねた。訪ねて先生に挨拶して一方に座った。一方に座って尊者カッチャーナ・ゴッタは先生にこう言った。
 先生、「正見、正見」と言われます。
 先生、何が正見ですか。
 カッチャーナ、実にこの世界の大多数の者は二つのものに依拠している。
 有るということと無いということである。
 カッチャーナ、世界の集を事実の通りに正しい智慧によって見るならば、「世界は無い」ということは彼にはない。
 カッチャーナ、世界の滅を事実の通りに正しい智慧によって見るならば、「世界は有る」ということは彼にはない。
 カッチャーナ、実にこの世界の大多数の者は執着し、固執し、束縛されている。
 しかし「私の我」とみなすこの執着・心が堅持すること・固執・随眠に、近づかず、取らず、堅持しないこと。
 そして苦が生じれば「生じた」と、苦が滅すれば「滅した」という知が疑わずに迷わずに他者を縁とすることなくそこにおいてあること。
 カッチャーナ、実にこれが正見である。

 カッチャーナ、「一切は有る」というこれは第一の極端である。
 「一切は無い」というこれは第二の極端である。
 カッチャーナ、これら二つの極端を離れた中によって如来は法を説く。

 無明を縁として行がある。
 行を縁として識がある。
 識を縁として名色がある。
 名色を縁として六処がある。
 六処を縁として触がある。
 触を縁として受がある。
 受を縁として愛がある。
 愛を縁として取がある。
 取を縁として有がある。
 有を縁として生がある。
 生を縁として老死と悩み・号泣・苦痛・苦憂・苦悶が現れる。
 このようにして完全に苦しみのまとまりが集起する。

 しかし無明を残りなく離貪し滅することによって行が滅する。
 行の滅によって識が滅する。
 識の滅によって名色が滅する。 
 名色の滅によって六処が滅する。
 六処の滅によって触が滅する。
 触の滅によって受が滅する。
 受の滅によって愛が滅する。
 愛の滅によって取が滅する。
 取の滅によって有が滅する。
 有の滅によって生が滅する。
 生の滅によって老死と悩み・号泣・苦痛・苦憂・苦悶が滅する。
 このようにして完全に苦しみのまとまりが滅する。」(続く)



(『南伝大蔵経13 相応部経典2』大蔵出版 P12−25 に相当)







 註 シキン Sikhin 頂点に立つ者・クジャク・光焔ある者
   ヴェッサブー Vessabhū 恐怖なき者[vesārajja 無畏]
   カクサンダ Kakusandha 王章ある者[kakudha〔王章〕と取った場合]
         頂点の和合者[kaku〔峰・頂上〕 + sandhātar〔調停者〕]
         最高の寂静者[kaku + santa〔寂静〕]
   コーナーガマナ Koṇāgamana 隅に行く者・最果てに行く者
           コーナ[koṇa]は①隅、②楽器の弓
   カッサパ Kassapa 農夫、耕す者[kassaka 農夫・耕作者]
   ゴータマ Gotama 最高の牛 go[牛、雌牛]tama[最上級の語尾]

   食  アーハーラ āhāra 食、食物、摂取するもの
   飯食 カバリンカーラ・アーハーラ 食べ物としての食
   意思 マノーサンチェータナー manosañcetanā 意によって思うこと

   「食べる」 アーハーレーティ āhāreti
   「触れる」 プサティ phusati
   「感受する」 ヴェーダヤティ vedayati
   「渇愛する」 タサティ tasati
   「取る」 ウパーディヤティ upādiyati
   解答   ヴェッヤーカラナ veyyākaraṇa 記説
   モーリヤ・パッグナ 結髪の〔moḷiya〕のパッグナ月〔phagguṇa 春〕

   「正見、正見」 「サンマーディッティ、サンマーディッティ」
   正見    サンマーディッティ sammādiṭṭhi
   執着する  ウパユパーダーナ upayupādāna
   固執する  アビニヴェーサ abhinivesa
   束縛される ヴィニバンダ vinibandha
   心が堅持していること cetaso adhiṭṭhāna
   随眠    アヌサヤ anusaya 潜在的な可能性
   「私の我」 アッター・メー attā〔我〕 me〔私の〕
   一切は有る サッバム・アッティー Sabbaṃ atthī.
   一切は無い サッバム・ナッティー Sabbaṃ natthī.
   中によって マッジェーナ majjhena
   カッチャーナ Kaccāna 語るに適する者・葦の人
          kacca ①泥沼・葦.②語るに適する

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