ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

原始仏典コミュの「全ては過去の業の報い」という邪見

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「全ては過去の業の報い」という考えは完全に邪見であることを明らかに説く経典。




(『南伝大蔵経15 相応部経典4』大蔵出版 P354−356 に相当) 


相応部経典>4 六処篇>第二 受相応


「     第三 百八法門品

   第一 シーヴァカ

269.あるとき先生はラージャガハのヴェール林、カランダカニヴァーパに住んでいた。そこで遍歴者モーリヤ・シーヴァカは先生を訪ねた。訪ねて先生と互いに挨拶した。挨拶して記憶すべき会話を交わして一方に座った。一方に座って遍歴者モーリヤ・シーヴァカは先生にこう言った。

 ゴータマさん、ある沙門バラモンはこのように説き、このような見ます。
「いかなる者であってもここに人間が感受する楽・苦・不苦不楽の一切の感受は過去に為したことを原因とする」と。
 ゴータマさんはこれについてどう言いますか。

 シーヴァカ、ここに胆汁によって起きる感受が生じることもある。
 シーヴァカ、この胆汁によって起きる感受が生じることがあるということは、自分でもそれを知ることができる。
 シーヴァカ、またこの胆汁によって起きる感受が生じることがあるということは、世間においてもそれは真実として認められている。
 シーヴァカ、そうであるのに、その沙門バラモンはこのように説き、このように見る。
「いかなる者であってもここに人間が感受する楽・苦・不苦不楽の一切の感受は過去に為したことを原因とする」と。
 このようであるならば、自分でもそれを知ることができるということにおいても間違っており、
 世間においてもそれは真実として認められているということにおいても間違っている。
 それゆえに、その沙門バラモンは邪悪であると私は言う。

 シーヴァカ、ここに粘液によって起きる感受が生じることもある。
 シーヴァカ、この粘液によって起きる感受が生じることがあるということは、自分でもそれを知ることができる。
 シーヴァカ、またこの粘液によって起きる感受が生じることがあるということは、世間においてもそれは真実として認められている。
 シーヴァカ、そうであるのに、その沙門バラモンはこのように説き、このように見る。
「いかなる者であってもここに人間が感受する楽・苦・不苦不楽の一切の感受は過去に為したことを原因とする」と。
 このようであるならば、自分でもそれを知ることができるということにおいても間違っており、
 世間においてもそれは真実として認められているということにおいても間違っている。
 それゆえに、その沙門バラモンは邪悪であると私は言う。

 シーヴァカ、ここに風によって起きる感受が生じることもある。
 シーヴァカ、この風によって起きる感受が生じることがあるということは、自分でもそれを知ることができる。
 シーヴァカ、またこの風によって起きる感受が生じることがあるということは、世間においてもそれは真実として認められている。
 シーヴァカ、そうであるのに、その沙門バラモンはこのように説き、このように見る。
「いかなる者であってもここに人間が感受する楽・苦・不苦不楽の一切の感受は過去に為したことを原因とする」と。
 このようであるならば、自分でもそれを知ることができるということにおいても間違っており、
 世間においてもそれは真実として認められているということにおいても間違っている。
 それゆえに、その沙門バラモンは邪悪であると私は言う。

 シーヴァカ、ここに合成(胆汁・粘液などが組み合わさって)によって起きる感受が生じることもある。
 シーヴァカ、この合成によって起きる感受が生じることがあるということは、自分でもそれを知ることができる。
 シーヴァカ、またこの合成によって起きる感受が生じることがあるということは、世間においてもそれは真実として認められている。
 シーヴァカ、そうであるのに、その沙門バラモンはこのように説き、このように見る。
「いかなる者であってもここに人間が感受する楽・苦・不苦不楽の一切の感受は過去に為したことを原因とする」と。
 このようであるならば、自分でもそれを知ることができるということにおいても間違っており、
 世間においてもそれは真実として認められているということにおいても間違っている。
 それゆえに、その沙門バラモンは邪悪であると私は言う。

 シーヴァカ、ここに気候の変化によって起きる感受が生じることもある。
 シーヴァカ、この気候の変化によって起きる感受が生じることがあるということは、自分でもそれを知ることができる。
 シーヴァカ、またこの気候の変化によって起きる感受が生じることがあるということは、世間においてもそれは真実として認められている。
 シーヴァカ、そうであるのに、その沙門バラモンはこのように説き、このように見る。
「いかなる者であってもここに人間が感受する楽・苦・不苦不楽の一切の感受は過去に為したことを原因とする」と。
 このようであるならば、自分でもそれを知ることができるということにおいても間違っており、
 世間においてもそれは真実として認められているということにおいても間違っている。
 それゆえに、その沙門バラモンは邪悪であると私は言う。

 シーヴァカ、ここに悪い姿勢によって起きる感受が生じることもある。
 シーヴァカ、この悪い姿勢によって起きる感受が生じることがあるということは、自分でもそれを知ることができる。
 シーヴァカ、またこの悪い姿勢によって起きる感受が生じることがあるということは、世間においてもそれは真実として認められている。
 シーヴァカ、そうであるのに、その沙門バラモンはこのように説き、このように見る。
「いかなる者であってもここに人間が感受する楽・苦・不苦不楽の一切の感受は過去に為したことを原因とする」と。
 このようであるならば、自分でもそれを知ることができるということにおいても間違っており、
 世間においてもそれは真実として認められているということにおいても間違っている。
 それゆえに、その沙門バラモンは邪悪であると私は言う。

 シーヴァカ、ここに発作によって起きる感受が生じることもある。
 シーヴァカ、この発作によって起きる感受が生じることがあるということは、自分でもそれを知ることができる。
 シーヴァカ、またこの発作によって起きる感受が生じることがあるということは、世間においてもそれは真実として認められている。
 シーヴァカ、そうであるのに、その沙門バラモンはこのように説き、このように見る。
「いかなる者であってもここに人間が感受する楽・苦・不苦不楽の一切の感受は過去に為したことを原因とする」と。
 このようであるならば、自分でもそれを知ることができるということにおいても間違っており、
 世間においてもそれは真実として認められているということにおいても間違っている。
 それゆえに、その沙門バラモンは邪悪であると私は言う。

 シーヴァカ、ここに業の報いによって起きる感受が生じることもある。
 シーヴァカ、この業の報いによって起きる感受が生じることがあるということは、自分でもそれを知ることができる。
 シーヴァカ、またこの業の報いによって起きる感受が生じることがあるということは、世間においてもそれは真実として認められている。
 シーヴァカ、そうであるのに、その沙門バラモンはこのように説き、このように見る。
「いかなる者であってもここに人間が感受する楽・苦・不苦不楽の一切の感受は過去に為したことを原因とする」と。
 このようであるならば、自分でもそれを知ることができるということにおいても間違っており、
 世間においてもそれは真実として認められているということにおいても間違っている。
 それゆえに、その沙門バラモンは邪悪であると私は言う。

 シーヴァカ、ここに胆汁によって起きる感受が生じることもある。
 シーヴァカ、この胆汁によって起きる感受が生じることがあるということは、自分でもそれを知ることができる。
 シーヴァカ、またこの胆汁によって起きる感受が生じることがあるということは、世間においてもそれは真実として認められている。
 シーヴァカ、そうであるのに、その沙門バラモンはこのように説き、このように見る。
「いかなる者であってもここに人間が感受する楽・苦・不苦不楽の一切の感受は過去に為したことを原因とする」と。
 このようであるならば、自分でもそれを知ることができるということにおいても間違っており、
 世間においてもそれは真実として認められているということにおいても間違っている。
 それゆえに、その沙門バラモンは邪悪であると私は言う。

 このように言うと遍歴者モーリヤ・シーヴァカは先生にこう言った。
 ゴータマさん、素晴らしい。
 ゴータマさん、素晴らしい。
 ゴータマさん、たとえば倒れた者を起こすように、あるは覆われたものを開くように、あるいは迷うものに道を教えるように、あるいは「目ある者は色を見るだろう」と暗闇で油の灯火を差し出すように、このようにゴータマさんは様々な方法によって法を明らかにしました。この私はゴータマさんとダンマと比丘サンガに帰依します。ゴータマさんは私を今日以後、命あるかぎり帰依する優婆塞とさせてください。

  胆汁・粘液・風と 合成と気候と
  悪い姿勢と発作  業の報いの八。」

(『南伝大蔵経15 相応部経典4』大蔵出版 P354−356 に相当) 




一部の人は「この苦しみも過去の業の報いだ。この楽しみも過去の業の報いだ。全部過去の業の報いだ」と言っている人がいますが、それは完全に間違っており邪見であることが明らかになっています。感受の中の一部に過去の業の報いがあるのであって、感受の全てが過去の業の報いではありません。この邪見の危険性は「どうせ過去の業の報いだから、今苦しくても努力しなくていいや」という無努力論に行き着くところです。このような考え方を取る人は、最終的に「自罰的傾向の持ち主」になり「自分が悪いんだ、自分が駄目なんだ」という考えにとらわれるようになります。この「全ては過去の業の報い」という邪見は、多くの不利益を生み出す危険な思想です。

コメント(9)

晴れぺこちゃんさん
 
そうですね。
最近ではあまり見かけなくなりましたが、
以前は、「今生で体験することは、すべて過去生や過去の身・口・意で行ったカルマが原因で生じます」という旨を話す人をよく見かけました。
 
自分の先生の言葉や本で読んだことの受け売りかもしれませんが、
法則の1つ1つを自分で深く考察しない人の陥りやすい傾向かもしれませんね。
 
神が、最初に人間を創造なさったとき、その神の子には過去世や過去のカルマは存在していませんし、
神の子が創造した人間たち(神の子等)や、神の子等が創造した人間たちにも過去世や過去のカルマは存在しませんよね。
 
自分自身でその法則についていろいろな側面を考察してみる習慣を身につけることは、真理を求める者にとって必要な心構えなのでしょうね。

ありがとうございます。ハート達(複数ハート)
書き込みは嬉しいのですが、クリシュナさんの見解と原始仏教の見解との間には齟齬があります。クリシュナさん個人で原始仏教の見解との擦り合わせをしていただいてから書き込んでいただければ幸いです。
正直よく理解できませんでした。
>自分でもそれを知ることができるということにおいても間違っており
とありますが、感受を知ることができることと、感受は過去に為したことを原因とすることとどうつながるのが理解できませんでした。
過去になしたことを原因として感受がおこるとして、それを知ることができるとしても、知ることは感受が生じた後のことだし、あまり関係ないのでは?
と思いました。
>無名さん

僕もよく不幸に見舞われますがそのときは「これに類似する感受を他者に与える悪業を自分は行なっていないかどうか」と考えます。「行なっていない」となれば「これは仮に悪業の報いだとしてもそれはいずれ終わるだろう」と考えれますし、「行なっていてよくない」となれば「それをやめよう。二度としないようにしよう。そうすればこのような苦が悪業を原因として生じることはなくなるだろう」と考えます。このように考えれば、それが業の報いで生じた感受であろうとなかろうと全ては美徳の獲得のきっかけに転じることができるので、堅実で安心だと思います。



>かあむさん

この経典は「業の報いによる感受と業の報いによらない感受の二種類がある」ということを説いている経典です。

 業の報いによる感受   → 過去に自分が為したことを原因とする
             (殺して寿命縮んで苦受を受けるなど)

 業の報いによらない感受 → 過去に自分が為したことを原因としない
             (夏に暑くなって苦受を受けるなど
              蚊を殺したから暑くなったというわけではない)


双方ともに過去の原因があるから現在において感受があります。ただ過去の自分の業を原因とする感受か過去の自分の業を原因としない感受かの二種類は厳然としてあるということを説いているだけです。以上で理解していただければと思います。
晴れぺこちゃん
ごめんなさいね。

この経典の内容を読んだときに、直感的に頭に浮かんできた内容です。
おそらく、お釈迦様は、わたしにこのことも同時に伝えたかったのか、過去にわたしにはこのように教えてくださったのだろうと思われます。

ありがとうございます。ハート達(複数ハート)
 
晴れかあむさん
 
お釈迦様のこの法話は、訪問者シーヴァカさんの質問に対してお答えになった内容です。
お釈迦様とシーヴァカさんとのやりとりを、たまたま側で聞いていらっしゃったアーナンダさんかそれ以外の経典の編纂に携われた方が、経典編纂会議でそのことを思い出された内容ですよね。
 
修行者であったシーヴァカさんは、修行によって悪業を相当程度浄化なさっており、自分の身に起こったことが、
?本人の過去ないし過去世の業(カルマ)によって起こったトラブルなのか、
?本人の業に起因しないトラブルなのか、
少なくともある程度は「直覚」によって、瞬間的に判別できる状態になっていらしたものと思われます。
 
だから、シーヴァカさんの理解能力を直覚によって判別なさったお釈迦様は、シーヴァカさんがいちばん納得しやすい例えによって、お答えになったのです。
 
りんごもし、かあむさんや、わたしが、上のような質問をお釈迦様にしたとしたら、
それぞれの質問者にとっていちばん納得しやすい「別の例え」を用いて、説明なさっただろうと思われますね。
(たとえばわたしに対しては、上のわたしのコメントのような例えを用いられたでしょうね。)

ありがとうございます。ハート達(複数ハート)
 

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

原始仏典 更新情報

原始仏典のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング