ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

原始仏典コミュの長部経典 第21経 「サッカの質問」 重要部分訳

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
長部21経の「サッカの質問」から、最重要の修行部分だけを取り出しました。パーティモッカ律儀の修行は「戒学」の詳細な解説です。また根律儀の修行は「心学の根防護」の詳細な解説です。他の有害の原因や戯論想類の滅に行く修行などこの経典独自の教えはどれも本質的なことであり、非常に重要な経典だと考えて訳出しました。





 1.有害の原因         有害←嫉妬吝嗇←愛憎←意欲←尋←戯論想類
 2.戯論想類の滅に行く修行   二つの喜憂捨 × 有尋有伺・無尋無伺
 3.パーティモッカ律儀の修行  二つの身行・語行・求
 4.根律儀の修行        二つの色声香味触法
 5.一切の沙門婆羅門      同一見解ではない理由は世に多界・種々界あるゆえ
                 愛尽解脱した者だけが究極の完成に達する






(『南伝大蔵経7 長部経典2』大蔵出版 P317−326  に相当)


長部経典>第21経 サッカの質問[サッカパンハ・スッタ]


「357.許しを得た神々の王サッカは先生にこの第一の質問をした。
 わが友よ、何に結ばれて、デーヴァ・人間・アスラ・ナーガ・ガンダッバ・他の様々な身である者たちは、「怨むことなく、罰することなく、敵対することなく、悩害することなく住して、怨まれないようにしよう」とこう彼らは思いながらも、しかし怨み、罰し、敵対し、悩害して住して、怨まれているのですか。
 このように神々の王サッカは先生に質問した。先生は質問されて解答した。
 神々の王よ、嫉妬と吝嗇に結ばれて、デーヴァ・人間・アスラ・ナーガ・ガンダッバ・他の様々な身である者たちは、「怨むことなく、罰することなく、敵対することなく、悩害することなく住して、怨まれないようにしよう」とこう彼らは思いながらも、しかし怨み、罰し、敵対し、悩害して住して、怨まれているのだ。
 このように先生は神々の王サッカの質問に解答した。意を得た神々の王サッカは先生が説いたことに喜び満足した。
 先生、その通りです。善きところに達した方、その通りです。先生の質問への解答を聞いて、この疑いを越え、迷いから離れました。

358.このように神々の王サッカは先生が説いたことに喜び満足して先生にさらに質問した。
 わが友よ、嫉妬と吝嗇は何を原因とし、何を集起とし、何から生じ、何から現れるのですか。
 何があるときに嫉妬と吝嗇があるのですか。
 何がないときに嫉妬と吝嗇がないのですか。
 神々の王よ、嫉妬と吝嗇は愛と憎しみを原因とし、愛と憎しみを集起とし、愛と憎しみから生じ、愛と憎しみから現れる。
 愛と憎しみがあるときに嫉妬と吝嗇がある。
 愛と憎しみがないときに嫉妬と吝嗇がない。
 わが友よ、愛と憎しみは何を原因とし、何を集起とし、何から生じ、何から現れるのですか。
 何があるときに愛と憎しみがあるのですか。
 何がないときに愛と憎しみがないのですか。
 神々の王よ、愛と憎しみは欲望[チャンダ chanda 意欲]を原因とし、欲望を集起とし、欲望から生じ、欲望から現れる。
 欲望があるときに愛と憎しみがある。
 欲望がないときに愛と憎しみがない。
 わが友よ、欲望は何を原因とし、何を集起とし、何から生じ、何から現れるのですか。
 何があるときに欲望があるのですか。
 何がないときに欲望がないのですか。
 神々の王よ、欲望は考えること[ヴィタッカ vitakka 尋]を原因とし、考えることを集起とし、考えることから生じ、考えることから現れる。
 考えることがあるときに欲望がある。
 考えることがないときに欲望がない。
 わが友よ、考えることは何を原因とし、何を集起とし、何から生じ、何から現れるのですか。
 何があるときに考えることがあるのですか。
 何がないときに考えることがないのですか。
 神々の王よ、考えることは戯論の想に数えられるもの[パパンチャ・サンニャー・サンカー papañca saññā saṅkhā]を原因とし、戯論の想に数えられるものを集起とし、戯論の想に数えられるものから生じ、戯論の想に数えられるものから現れる。
 戯論の想に数えられるものがあるときに考えることがある。
 戯論の想に数えられるものがないときに考えることがない。
 わが友よ、ではどのように修行すれば比丘は戯論の想に数えられるものを滅することに行く有効な修行道を修行することになるのですか。

359.神々の王よ、喜びには二つあると私は言う。
 親しむべきものと親しむべきでないものとである。
 神々の王よ、憂いには二つあると私は言う。
 親しむべきものと親しむべきでないものとである。
 神々の王よ、捨には二つあると私は言う。
 親しむべきものと親しむべきでないものとである。

360.神々の王よ、「喜びには二つあると私は言う。親しむべきものと親しむべきでないものとである」とこのように言ったのは何を縁として言ったのか。
 そこで「実に私がこの喜びに親しむと悪法は増大し、善法は減少する」と知られる喜び、このような喜びは親しむべきではない。
 そこで「実に私がこの喜びに親しむと悪法は減少し、善法は増大する」と知られる喜び、このような喜びは親しむべきである。
 そこに有尋有伺のものと無尋無伺のものとがあり、無尋無伺の方が優れている。
 神々の王よ、「喜びには二つあると私は言う。親しむべきものと親しむべきでないものとである」とこのように言ったのはこれを縁として言ったのだ。

 神々の王よ、「憂いには二つあると私は言う。親しむべきものと親しむべきでないものとである」とこのように言ったのは何を縁として言ったのか。
 そこで「実に私がこの憂いに親しむと悪法は増大し、善法は減少する」と知られる憂い、このような憂いは親しむべきではない。
 そこで「実に私がこの憂いに親しむと悪法は減少し、善法は増大する」と知られる憂い、このような憂いは親しむべきである。
 そこに有尋有伺のものと無尋無伺のものとがあり、無尋無伺の方が優れている。
 神々の王よ、「憂いには二つあると私は言う。親しむべきものと親しむべきでないものとである」とこのように言ったのはこれを縁として言ったのだ。

 神々の王よ、「捨には二つあると私は言う。親しむべきものと親しむべきでないものとである」とこのように言ったのは何を縁として言ったのか。
 そこで「実に私がこの捨に親しむと悪法は増大し、善法は減少する」と知られる捨、このような捨は親しむべきではない。
 そこで「実に私がこの捨に親しむと悪法は減少し、善法は増大する」と知られる捨、このような捨は親しむべきである。
 そこに有尋有伺のものと無尋無伺のものとがあり、無尋無伺の方が優れている。
 神々の王よ、「捨には二つあると私は言う。親しむべきものと親しむべきでないものとである」とこのように言ったのはこれを縁として言ったのだ。

 神々の王よ、このように修行すれば比丘は戯論の想に数えられるものを滅することに行く有効な修行道を修行することになる。
 こう先生は神々の王サッカの質問に解答した。意を得た神々の王サッカは先生が説いたことに喜び満足した。
 先生、その通りです。善きところに達した方、その通りです。先生の質問への解答を聞いて、この疑いを越え、迷いから離れました。

364.このように神々の王サッカは先生が説いたことに喜び満足して先生にさらに質問した。
 わが友よ、ではどのように修行すれば比丘はパーティモッカ律儀を修行することになるのですか。
 神々の王よ、身体による行ないには二つあると私は言う。
 親しむべきものと親しむべきでないものとである。
 言葉による行ないには二つあると私は言う。
 親しむべきものと親しむべきでないものとである。
 欲求[パリイェーサナー pariyesanā 尋求]には二つあると私は言う。
 親しむべきものと親しむべきでないものとである。


 神々の王よ、「身体による行ないには二つあると私は言う。親しむべきものと親しむべきでないものとである」とこのように言ったのは何を縁として言ったのか。
 そこで「実に私がこの身体による行ないに親しむと悪法は増大し、善法は減少する」と知られる身体による行ない、このような身体による行ないは親しむべきではない。
 そこで「実に私がこの身体による行ないに親しむと悪法は減少し、善法は増大する」と知られる身体による行ない、このような身体による行ないは親しむべきである。
 神々の王よ、「身体による行ないには二つあると私は言う。親しむべきものと親しむべきでないものとである」とこのように言ったのはこれを縁として言ったのだ。

 神々の王よ、「言葉による行ないには二つあると私は言う。親しむべきものと親しむべきでないものとである」とこのように言ったのは何を縁として言ったのか。
 そこで「実に私がこの言葉による行ないに親しむと悪法は増大し、善法は減少する」と知られる言葉による行ない、このような言葉による行ないは親しむべきではない。
 そこで「実に私がこの言葉による行ないに親しむと悪法は減少し、善法は増大する」と知られる言葉による行ない、このような言葉による行ないは親しむべきである。
 神々の王よ、「言葉による行ないには二つあると私は言う。親しむべきものと親しむべきでないものとである」とこのように言ったのはこれを縁として言ったのだ。

 神々の王よ、「欲求には二つあると私は言う。親しむべきものと親しむべきでないものとである」とこのように言ったのは何を縁として言ったのか。
 そこで「実に私がこの欲求に親しむと悪法は増大し、善法は減少する」と知られる欲求、このような欲求は親しむべきではない。
 そこで「実に私がこの欲求に親しむと悪法は減少し、善法は増大する」と知られる欲求、このような欲求は親しむべきである。
 神々の王よ、「欲求には二つあると私は言う。親しむべきものと親しむべきでないものとである」とこのように言ったのはこれを縁として言ったのだ。

 神々の王よ、このように修行すれば比丘はパーティモッカ律儀を修行することになる。
 こう先生は神々の王サッカの質問に解答した。意を得た神々の王サッカは先生が説いたことに喜び満足した。
 先生、その通りです。善きところに達した方、その通りです。先生の質問への解答を聞いて、この疑いを越え、迷いから離れました。

365.このように神々の王サッカは先生が説いたことに喜び満足して先生にさらに質問した。
 わが友よ、ではどのように修行すれば比丘は根律儀を修行することになるのですか。
 神々の王よ、眼によって認識される色には二つあると私は言う。
 親しむべきものと親しむべきでないものとである。
 耳によって認識される音には二つあると私は言う。
 親しむべきものと親しむべきでないものとである。
 鼻によって認識される香には二つあると私は言う。
 親しむべきものと親しむべきでないものとである。
 舌によって認識される味には二つあると私は言う。
 親しむべきものと親しむべきでないものとである。
 身によって認識される触れられるものには二つあると私は言う。
 親しむべきものと親しむべきでないものとである。
 意によって認識される法には二つあると私は言う。
 親しむべきものと親しむべきでないものとである。

 このように言われて神々の王サッカは先生にこう言った。

 先生、先生が省略して説いたこの義を私はこのように詳細に知ります。
 先生、眼によって認識される色で悪法が増大し善法が減少するような色、
 そのような眼で認識される色には親しむべきではありません。
 先生、しかし眼によって認識される色で悪法が減少し善法が増大するような色、
 そのような眼で認識される色には親しむべきです。
 先生、耳によって認識される声で悪法が増大し善法が減少するような声、
 そのような耳で認識される声には親しむべきではありません。
 先生、しかし耳によって認識される声で悪法が減少し善法が増大するような声、
 そのような耳で認識される声には親しむべきです。
 先生、鼻によって認識される香で悪法が増大し善法が減少するような香、
 そのような鼻で認識される香には親しむべきではありません。
 先生、しかし鼻によって認識される香で悪法が減少し善法が増大するような香、
 そのような鼻で認識される香には親しむべきです。
 先生、舌によって認識される味で悪法が増大し善法が減少するような味、
 そのような舌で認識される味には親しむべきではありません。
 先生、しかし舌によって認識される味で悪法が減少し善法が増大するような味、
 そのような舌で認識される味には親しむべきです。
 先生、身によって認識される所触で悪法が増大し善法が減少するような所触、
 そのような身で認識される所触には親しむべきではありません。
 先生、しかし身によって認識される所触で悪法が減少し善法が増大するような所触、
 そのような身で認識される所触には親しむべきです。
 先生、意によって認識される法で悪法が増大し善法が減少するような法、
 そのような意で認識される法には親しむべきではありません。
 先生、しかし意によって認識される法で悪法が減少し善法が増大するような法、
 そのような意で認識される法には親しむべきです。

 先生、先生が省略して説いたこの義を私はこのように詳細に知り、先生の質問への解答を聞いて、この疑いを越え、迷いから離れました。

366.このように神々の王サッカは先生が説いたことに喜び満足して先生にさらに質問した。
 わが友よ、一切の沙門婆羅門は同一の説・同一の戒・同一の意欲・同一の固執[ajjhosāna 執着、固執、固着]を持っているのですか。
 神々の王よ、一切の沙門婆羅門は同一の説・同一の戒・同一の意欲・同一の固執を持っているのではない。
 わが友よ、ではなぜ一切の沙門婆羅門は同一の説・同一の戒・同一の意欲・同一の固執を持っていないのですか。
 神々の王よ、世には多くの界・様々な界がある。
 その世にある多界・種々界におけるある界に生ける者たちは住著する。
 彼らはこのように強固に妄執し、住著して説く。
 「これが真実であり、他は愚かである」と。
 それゆえに一切の沙門婆羅門は同一の説・同一の戒・同一の意欲・同一の固執を持っているのではないのだ。

 わが友よ、では一切の沙門婆羅門には究極の目的・究極の安穏との結合・究極の梵行・究極の完成がありますか。
 神々の王よ、一切の沙門婆羅門に究極の目的・究極の安穏との結合・究極の梵行・究極の完成があるのではない。
 わが友よ、ではなぜ一切の沙門婆羅門に究極の目的・究極の安穏との結合・究極の梵行・究極の完成があるのではないのですか。
 神々の王よ、渇愛が尽きて解脱した比丘たち、彼らには究極の目的・究極の安穏との結合・究極の梵行・究極の完成がある。
 それゆえに一切の沙門婆羅門に究極の目的・究極の安穏との結合・究極の梵行・究極の完成があるのではないのだ。

 こう先生は神々の王サッカの質問に解答した。意を得た神々の王サッカは先生が説いたことに喜び満足した。
 先生、その通りです。善きところに達した方、その通りです。先生の質問への解答を聞いて、この疑いを越え、迷いから離れました。

367.このように神々の王サッカは先生が説いたことに喜び満足して先生にこう言った。
 先生、欲求[エージャー ejā 動、動着]は貪り、欲求は腫れ物、欲求は矢、欲求はこの人間を引き回しそこここの存在に転じさせます。 
 それゆえにこの人間は上や下に趣きます。
 先生、私はこの質問を外の他の沙門婆羅門に聞く機会さえ十分に得られませんでしたが、先生は私にそれを解答しました。
 また長い間随眠していた私の疑いと迷いの矢、それは先生によって抜かれました」



(『南伝大蔵経7 長部経典2』大蔵出版 P317−326  に相当)

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

原始仏典 更新情報

原始仏典のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング