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原始仏典コミュのラーダ相応2

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(続き 『南伝大蔵経14 相応部経典3』大蔵出版 P306−313 に相当)





     第二品


   第一 魔

170.サーヴァッティ因。
 一方に座った尊者ラーダは先生にこう言った。
 先生、「魔、魔[マーラ、マーラ]」と言われます。
 先生、何が魔ですか。
 ラーダ、色は魔である。
 受は魔である。
 想は魔である。
 行は魔である。
 識は魔である。
 ラーダ、このように見て、聞くことのある聖なる弟子は色も忌避し、受も忌避し、想も忌避し、行も忌避し、識も忌避する。
 忌避して離貪する。離貪して離脱する。離脱して「私は離脱した」と知る。
 「生まれることは尽きた。
  梵行は完成した。為すべきことは為した。
  さらにこのようになることはない」と。



   第二 魔法

171.サーヴァッティ因。
 一方に座った尊者ラーダは先生にこう言った。
 先生、「魔の法、魔の法[マーラダンマ、マーラダンマ]」と言われます。
 先生、何が魔の法ですか。
 ラーダ、色は魔の法である。
 受は魔の法である。
 想は魔の法である。
 行は魔の法である。
 識は魔の法である。
 ラーダ、このように見て、聞くことのある聖なる弟子は色も忌避し、受も忌避し、想も忌避し、行も忌避し、識も忌避する。
 忌避して離貪する。離貪して離脱する。離脱して「私は離脱した」と知る。
 「生まれることは尽きた。
  梵行は完成した。為すべきことは為した。
  さらにこのようになることはない」と。



   第三 無常

172.サーヴァッティ因。
 一方に座った尊者ラーダは先生にこう言った。
 先生、「無常、無常[アニッチャ、アニッチャ]」と言われます。
 先生、何が無常ですか。
 ラーダ、色は無常である。
 受は無常である。
 想は無常である。
 行は無常である。
 識は無常である。
 ラーダ、このように見て、聞くことのある聖なる弟子は色も忌避し、受も忌避し、想も忌避し、行も忌避し、識も忌避する。
 忌避して離貪する。離貪して離脱する。離脱して「私は離脱した」と知る。
 「生まれることは尽きた。
  梵行は完成した。為すべきことは為した。
  さらにこのようになることはない」と。



   第四 無常法

173.サーヴァッティ因。
 一方に座った尊者ラーダは先生にこう言った。
 先生、「無常の法、無常の法[アニッチャダンマ、アニッチャダンマ]」と言われます。
 先生、何が無常の法ですか。
 ラーダ、色は無常の法である。
 受は無常の法である。
 想は無常の法である。
 行は無常の法である。
 識は無常の法である。
 ラーダ、このように見て、聞くことのある聖なる弟子は色も忌避し、受も忌避し、想も忌避し、行も忌避し、識も忌避する。
 忌避して離貪する。離貪して離脱する。離脱して「私は離脱した」と知る。
 「生まれることは尽きた。
  梵行は完成した。為すべきことは為した。
  さらにこのようになることはない」と。


   第五 苦
174.サーヴァッティ因。
 一方に座った尊者ラーダは先生にこう言った。
 先生、「苦、苦[ドゥッカ、ドゥッカ]」と言われます。
 先生、何が苦ですか。
 ラーダ、色は苦である。
 受は苦である。
 想は苦である。
 行は苦である。
 識は苦である。
 ラーダ、このように見て、聞くことのある聖なる弟子は色も忌避し、受も忌避し、想も忌避し、行も忌避し、識も忌避する。
 忌避して離貪する。離貪して離脱する。離脱して「私は離脱した」と知る。
 「生まれることは尽きた。
  梵行は完成した。為すべきことは為した。
  さらにこのようになることはない」と。



   第六 苦法

175.サーヴァッティ因。
 一方に座った尊者ラーダは先生にこう言った。
 先生、「苦の法、苦の法[ドゥッカダンマ、ドゥッカダンマ]」と言われます。
 先生、何が苦の法ですか。
 ラーダ、色は苦の法である。
 受は苦の法である。
 想は苦の法である。
 行は苦の法である。
 識は苦の法である。
 ラーダ、このように見て、聞くことのある聖なる弟子は色も忌避し、受も忌避し、想も忌避し、行も忌避し、識も忌避する。
 忌避して離貪する。離貪して離脱する。離脱して「私は離脱した」と知る。
 「生まれることは尽きた。
  梵行は完成した。為すべきことは為した。
  さらにこのようになることはない」と。



   第七 無我

176.サーヴァッティ因。
 一方に座った尊者ラーダは先生にこう言った。
 先生、「無我、無我[アナッタ、アナッタ]」と言われます。
 先生、何が無我ですか。
 ラーダ、色は無我である。
 受は無我である。
 想は無我である。
 行は無我である。
 識は無我である。
 ラーダ、このように見て、聞くことのある聖なる弟子は色も忌避し、受も忌避し、想も忌避し、行も忌避し、識も忌避する。
 忌避して離貪する。離貪して離脱する。離脱して「私は離脱した」と知る。
 「生まれることは尽きた。
  梵行は完成した。為すべきことは為した。
  さらにこのようになることはない」と。



   第八 無我法

177.サーヴァッティ因。
 一方に座った尊者ラーダは先生にこう言った。
 先生、「無我の法、無我の法[アナッタダンマ、アナッタダンマ]」と言われます。
 先生、何が無我の法ですか。
 ラーダ、色は無我の法である。
 受は無我の法である。
 想は無我の法である。
 行は無我の法である。
 識は無我の法である。
 ラーダ、このように見て、聞くことのある聖なる弟子は色も忌避し、受も忌避し、想も忌避し、行も忌避し、識も忌避する。
 忌避して離貪する。離貪して離脱する。離脱して「私は離脱した」と知る。
 「生まれることは尽きた。
  梵行は完成した。為すべきことは為した。
  さらにこのようになることはない」と。



   第九 尽法

178.サーヴァッティ因。
 一方に座った尊者ラーダは先生にこう言った。
 先生、「尽きる法、尽きる法[カヤダンマ、カヤダンマ]」と言われます。
 先生、何が尽きる法ですか。
 ラーダ、色は尽きる法である。
 受は尽きる法である。
 想は尽きる法である。
 行は尽きる法である。
 識は尽きる法である。
 ラーダ、このように見て、聞くことのある聖なる弟子は色も忌避し、受も忌避し、想も忌避し、行も忌避し、識も忌避する。
 忌避して離貪する。離貪して離脱する。離脱して「私は離脱した」と知る。
 「生まれることは尽きた。
  梵行は完成した。為すべきことは為した。
  さらにこのようになることはない」と。



   第十 壊法

179.サーヴァッティ因。
 一方に座った尊者ラーダは先生にこう言った。
 先生、「壊れる法、壊れる法[ヴァヤダンマ、ヴァヤダンマ]」と言われます。
 先生、何が壊れる法ですか。
 ラーダ、色は壊れる法である。
 受は壊れる法である。
 想は壊れる法である。
 行は壊れる法である。
 識は壊れる法である。
 ラーダ、このように見て、聞くことのある聖なる弟子は色も忌避し、受も忌避し、想も忌避し、行も忌避し、識も忌避する。
 忌避して離貪する。離貪して離脱する。離脱して「私は離脱した」と知る。
 「生まれることは尽きた。
  梵行は完成した。為すべきことは為した。
  さらにこのようになることはない」と。



   第十一 集法

180.サーヴァッティ因。
 一方に座った尊者ラーダは先生にこう言った。
 先生、「生起する法、生起する法[サムダヤダンマ、サムダヤダンマ]」と言われます。
 先生、何が生起する法ですか。
 ラーダ、色は生起する法である。
 受は生起する法である。
 想は生起する法である。
 行は生起する法である。
 識は生起する法である。
 ラーダ、このように見て、聞くことのある聖なる弟子は色も忌避し、受も忌避し、想も忌避し、行も忌避し、識も忌避する。
 忌避して離貪する。離貪して離脱する。離脱して「私は離脱した」と知る。
 「生まれることは尽きた。
  梵行は完成した。為すべきことは為した。
  さらにこのようになることはない」と。



   第十二 滅法

181.サーヴァッティ因。
 一方に座った尊者ラーダは先生にこう言った。
 先生、「滅する法、滅する法[ニローダダンマ、ニローダダンマ]」と言われます。
 先生、何が滅する法ですか。
 ラーダ、色は滅する法である。
 受は滅する法である。
 想は滅する法である。
 行は滅する法である。
 識は滅する法である。
 ラーダ、このように見て、聞くことのある聖なる弟子は色も忌避し、受も忌避し、想も忌避し、行も忌避し、識も忌避する。
 忌避して離貪する。離貪して離脱する。離脱して「私は離脱した」と知る。
 「生まれることは尽きた。
  梵行は完成した。為すべきことは為した。
  さらにこのようになることはない」と。

                      ラーダ相応 第二品

   その頌
    マーラとマーラダンマ、アニッチャと他の二つ目
    二つのドゥッカと言われ、無我とそれがもう一つ
    カヤ・ヴァヤ・サムダヤ、ニローダダンマの十二。


(『南伝大蔵経14 相応部経典3』大蔵出版 P306−313 に相当)


   続く

コメント(8)

「在家は悪くて出家は善い」という考えになると、そう感じるようになると思います。この考え方だと「在家は嫌だ。しかし出家も難しい」という葛藤に行き着くと思います。この葛藤は苦悩をもたらすので苦しみ続けることになります。


実際に「在家は悪で出家が善か」と考えてみるといいと思います。原始仏典にも「私は出家在家の悪行を賞賛しない。私は出家であっても在家であっても正しい行ないを賞賛する」という主旨のことが書いてあったと思います。

在家と出家の違いは五感の快楽に厳しくするか甘くするかの違いに過ぎません。在家も出家も同じ修行をしますから。ですから、現状が苦しいのは在家であることが原因なのではなく、何らかの自分の執着や力不足による現状打開ができないことが苦しみの原因です。出家した場合は、在家の義務がないという解放感はありますが、五感の快楽がないことと命の危険という苦しみがあります。どちらがマシかという問題になってきます。

在家の暮らしに意味がないのではなくて、努力しない生活であるならば在家出家問わず意味のない暮らしですし、努力がある生活であるならば在家でも出家でも有意義です。もっとも正しい努力・自分に利益をもたらす現実に効果がある努力というのが前提です。無努力が最悪で、次に五感の快楽を得るための努力で、次に無欲楽を得るための努力で、最上の努力は一切の執着対象の完全放棄のための努力です。



嫌悪にも非常に多くの種類がありますが、とりあえず「正しく見たから生じた嫌悪か」ということと「この嫌悪は正しい解放を結果したか」という二つの観点から嫌悪を判定するのがいいと思います。それ以外の嫌悪はたいてい「思い通りにならないから生じた嫌悪」でこれはありきたりな不快感なので、その嫌悪はできるかぎり努力に変えて昇華する必要があります。

原始仏教はいたずら在家を軽蔑したり、世間を否定したり、原始仏教を知らない人を見下すためにあるのではありません。原始仏教は在家出家を問わず美徳を獲得することと、世間に損害をもたらさずに利益をもたらすこと、原始仏教を知らない人を軽蔑せずに慈しみの眼をもって見ることを推奨するものです。

原始仏教を学んでいるからと言って金と地位と名誉と異性と美貌がある人を軽蔑したり、あるいはそれらがない自分を慰めたりしている人もいますが、それは浅薄な理解です。原始仏教はまず悪事をやめさせ、次いで五感の快楽を獲得させ、次いで無欲楽を獲得させ、最後には渇愛滅尽の楽を獲得させるものです。渇愛滅尽の楽も獲得せず、無欲楽の初禅も獲得せず、五感の快楽も獲得していない人が、五感の快楽などいらないと言ったところでやせ我慢にしかなりません。

ゴータマの教えに金持ちへの転生法、美しい容姿への転生法は現に多くあります。それらは無欲楽やさらに上の不死の楽への憧れを獲得できない人が少しでも楽を得るようにと設定されたものです。初禅の安楽を獲得してからはじめて「これは五感の快楽より優れている」と言えます。初禅も求めず不死も求めない人が「快楽はいらない」と言うならば「また一人哀れな人が増えた」と思われるだけです。
「在家としてどうあるべきか」というのは本当に重要な問題で僕もそれで常に悩んでいます。

目標が定まっていない場合も苦悩をもたらします。在家出家に関係なく定めることができる目標を設定するといいと思います。

僕が思ったのは、やはり在家であろうと出家であろうと「正命」の一字が守りたいラインだということです。誰も傷付けない仕事というのは得難いですが、そのような仕事によって生計を立てるというのがまず第一によい在家としての在り方だと思います。

正語・正業・正命によって悪事を行なわないならば、次は「五感の快楽」を十分に獲得することだと思います。五感の快楽を獲得するために四無量心や四摂事が有効ですから、一般の人よりも非常に優位に立っていると思います。僕は馬鹿の一つ覚えの慈心によって随分多くの人から親切な対応を受けるようになってきました。

現世で利益を得る方法に四つあって、「仕事具足(一生懸命働くこと)・守護具足(財産なくなるなと念じる)・善友具足(信戒聞施慧のある善き友人がいる)・等命具足(収入と支出のバランス)」というのがあります。お金を稼いで、お金を守って、お金を正しく運用して、善き友人の影響を受けるならば、それで現世は結構安泰だと思います。

来世で利益を得る四つの方法は、信・戒・施・慧です。信財が基礎、戒財で来世で悪いことなく、施財で来世で善いことがあり、慧財でいずれ不死になるということです。

無名さんは若いですから五感の快楽を獲得するために、金と地位と名誉と異性あたりに目標を定めて頑張るのもよいと思います。「快楽は無常」と念頭に置いていれば、汚れも減少します。

「五感の快楽、世俗の快楽の欠点はすでにもうよく見たんだ」と言えるならば、初禅を楽しめばいいと思います。初禅ばかりの暮らしもつまらないなと思うならば、まだまだ俗世の娯楽への愛着があると見て、欲しいものは全て手に入れればいいです。悪は為さずに。在家でも出家でも絶対に必要なものは「強靭な意志力」です。これがなければ、世間でも成功せず、不死も獲得できません。「強靭な意志力」が厳し過ぎるならば、せめて「長続きする努力」です。

大雑把ですが「欲楽・無欲楽・解脱楽」の三つが楽の大きな流れだと思います。最悪なのが、欲楽もない、望みも無い、努力もない、愚痴ばかり言って人生を諦めた状態、これが最悪の状態です。まずここから脱出するために、希望と努力とやる気と強靭な意志力をもって、五感の快楽を求めるべきです。五感の快楽はつまらないと思うならば、初禅への強い憧れをもって無欲楽を求めるべきです。無欲楽はもう得た、さらに上を求めるというならば、無色楽もよし、さらに上の渇愛滅尽の楽もよしだと思います。

「欲望は悪い。禁欲は善い」というのは正しいですが、しかし自分でそれを確認しないと「疑念と迷い」が頭の周りを飛び続けることになります。ですから「納得できないことは受け入れない。納得できるまで考察する」ことが大事だと思います。

いずれにしても在家出家の迷い、在家の目標設定の困難さなどは、「何が自分の利益になるのかまだはっきりとわかっていない状態」が原因です。これはヴィパッサナー(よく見ること)によって物事の本質を見極めれば、疑いの蓋いを剥ぎ、迷わずに生きて行けると思います。そういう僕もいつも先のことで悩んでいますが、慈心さえあれば存外、どこでもうまくやっていけると思ってます。僕は純粋に慈心という方法論を信じているだけです。天眼によって慈心の影響を確認したわけではありません。ただ経験的に慈心はやはり効果が高いと感じています。

悩むということは原始仏教を信じて自分の中に取り入れようとして今までの自分のやり方との摺り合わせをしている証拠だと思います。それだけでも、価値があることですから焦らず智慧によって考察していけば、さらに進歩すると思います。

後これは前にも書きましたが、「将来のことで悩むということは、まだ将来を決めるのに十分な情報が足りていない証拠だから、まずは情報収集に努力を傾けた方がよい」ということです。自分の手元に将来を決めるのに十分な情報が揃っているかどうかをまず確認してみてください。

「十分な情報が揃うまでは先のことは決めない」というのも暫定的な方針ですが、将来の方向性としては善いと思います。もっとも将来を決めたところで条件と情報内容に応じて、進路も変わって来てしまいますから後で「あんなに進路で悩んだあの苦しみは何だったんだ」ということは僕も経験させられました。

大学生が社会に出る前に、将来のことを決めさせようとする雰囲気は世間に強いものがありますから、無理もないとは思います。
熱が出ていて体調が悪くて寝ていて、今起きて読み直してみたのですが、何となく冷たい感じの書き込みになってしまったのを申し訳なく思っています。

別トピックで取り上げてもよいぐらい重要な問題ですが、僕自身も同じことで悩んでいるところもあるので、今の僕の実力では明確に解答し切ることができそうもありません。この問題に解答することはまだまだだいぶ先になりそうですが、在家の修行はおいおいまとめていってある程度まとまったら書きたいと思っています。

僕の個人的な事情で、精神状態が悪いときに書くべきではないなと反省しました。見苦しい点を許して読んでいただければと思います。
そう言っていただけて嬉しいです。

こういうことがないように今回と今までのことを合わせて反省して、もっと実力をつけていきたいと思います。

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