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原始仏典コミュの見相応  「成見の原因」1

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(『南伝大蔵経14 相応部経典3』大蔵出版 P320−331 に相当)



相応部経典>犍度篇





      第三 見相応[ディッティ・サンユッタ]


     第一 預流品

   第一 風
206.あるとき先生はサーヴァッティのジェータ林に住んでいた。先生はこう言った。
 比丘たちよ、何が存在し何を取り何に住することによってこのような見解が生じるのか。
「風は吹かず、川は流れず、妊娠して出産せず、太陽と月は出たり没することなく、石柱が立つように住する」と。
 先生、私たちは先生を法の根とし、先生を眼とし、先生に帰依しています。
 先生、そうです。先生がこの説の義を明らかにしてください。先生から聞いて比丘たちは受持するでしょう。
 比丘たちよ、それならば聞いて善く考えなさい。説こう。「はい、先生」とその比丘たちは先生に応えた。先生はこう言った。

 比丘たちよ、色(形あるもの)が存在し、色を取り(執着すること)、色に住することによってこのような見解が生じる。
「風は吹かず、川は流れず、妊娠して出産せず、太陽と月は出たり没することなく、石柱が立つように住する」と。
 比丘たちよ、受(感じること)が存在し、受を取り、受に住することによってこのような見解が生じる。
「風は吹かず、川は流れず、妊娠して出産せず、太陽と月は出たり没することなく、石柱が立つように住する」と。
 比丘たちよ、想(思うこと)が存在し、想を取り、想に住することによってこのような見解が生じる。
「風は吹かず、川は流れず、妊娠して出産せず、太陽と月は出たり没することなく、石柱が立つように住する」と。
 比丘たちよ、行(為すこと)が存在し、行を取り、行に住することによってこのような見解が生じる。
「風は吹かず、川は流れず、妊娠して出産せず、太陽と月は出たり没することなく、石柱が立つように住する」と。
 比丘たちよ、識(認識すること)が存在し、識を取り、識に住することによってこのような見解が生じる。
「風は吹かず、川は流れず、妊娠して出産せず、太陽と月は出たり没することなく、石柱が立つように住する」と。

 比丘たちよ、これをどう思うか。色は永遠[常 nicca]か永遠ではない[無常 anicca]か。
 先生、永遠ではありません。
 では永遠でないものは苦か楽か。
 先生、苦です。
 では永遠でなく苦であり変化する法であるもの、それを取ることがないのにこのような見解が生じるだろうか。
「風は吹かず、川は流れず、妊娠して出産せず、太陽と月は出たり没することなく、石柱が立つように住する」と。
 いいえ、それはありません、先生。

 比丘たちよ、これをどう思うか。受は永遠か永遠ではないか。
 先生、永遠ではありません。
 では永遠でないものは苦か楽か。
 先生、苦です。
 では永遠でなく苦であり変化する法であるもの、それを取ることがないのにこのような見解が生じるだろうか。
「風は吹かず、川は流れず、妊娠して出産せず、太陽と月は出たり没することなく、石柱が立つように住する」と。
 いいえ、それはありません、先生。

 比丘たちよ、これをどう思うか。想は永遠か永遠ではないか。
 先生、永遠ではありません。
 では永遠でないものは苦か楽か。
 先生、苦です。
 では永遠でなく苦であり変化する法であるもの、それを取ることがないのにこのような見解が生じるだろうか。
「風は吹かず、川は流れず、妊娠して出産せず、太陽と月は出たり没することなく、石柱が立つように住する」と。
 いいえ、それはありません、先生。

 比丘たちよ、これをどう思うか。行は永遠か永遠ではないか。
 先生、永遠ではありません。
 では永遠でないものは苦か楽か。
 先生、苦です。
 では永遠でなく苦であり変化する法であるもの、それを取ることがないのにこのような見解が生じるだろうか。
「風は吹かず、川は流れず、妊娠して出産せず、太陽と月は出たり没することなく、石柱が立つように住する」と。
 いいえ、それはありません、先生。

 比丘たちよ、これをどう思うか。識は永遠か永遠ではないか。
 先生、永遠ではありません。
 では永遠でないものは苦か楽か。
 先生、苦です。
 では永遠でなく苦であり変化する法であるもの、それを取ることがないのにこのような見解が生じるだろうか。
「風は吹かず、川は流れず、妊娠して出産せず、太陽と月は出たり没することなく、石柱が立つように住する」と。
 いいえ、それはありません、先生。

 ここに見たもの、聞いたもの、思ったもの、認識したもの、得たもの、求めたもの、意によって伺ったもの、これらは永遠か永遠ではないか。
 先生、永遠ではありません。
 では永遠でないものは苦か楽か。
 先生、苦です。
 では永遠でなく苦であり変化する法であるもの、それを取ることがないのにこのような見解が生じるだろうか。
「風は吹かず、川は流れず、妊娠して出産せず、太陽と月は出たり没することなく、石柱が立つように住する」と。
 いいえ、それはありません、先生。

 比丘たちよ、聖なる弟子がこれら六つの処において疑いを断ち、
 苦においても疑いを断ち、
 苦集においても疑いを断ち、
 苦滅においても疑いを断ち、
 苦滅に行く修行道においても疑いを立つならば、
 比丘たちよ、こう言われる。
 「聖なる弟子は流れに入った。
  堕落しない法である。
  決定した。正覚に趣く」と。


   第二 これは私のものである
207.サーヴァッティ因。
 比丘たちよ、何が存在し何を取り何に住することによってこのような見解が生じるのか。
「これは私のものである。これは私である。これは私の我である」と。
 先生、私たちは先生を法の根とし、先生を眼とし、先生に帰依しています。
 先生、そうです。先生がこの説の義を明らかにしてください。先生から聞いて比丘たちは受持するでしょう。
 比丘たちよ、それならば聞いて善く考えなさい。説こう。「はい、先生」とその比丘たちは先生に応えた。先生はこう言った。

 比丘たちよ、色が存在し、色を取り、色に住することによってこのような見解が生じる。
「これは私のものである。これは私である。これは私の我である」と。
 比丘たちよ、受が存在し、受を取り、受に住することによってこのような見解が生じる。
「これは私のものである。これは私である。これは私の我である」と。
 比丘たちよ、想が存在し、想を取り、想に住することによってこのような見解が生じる。
「これは私のものである。これは私である。これは私の我である」と。
 比丘たちよ、行が存在し、行を取り、行に住することによってこのような見解が生じる。
「これは私のものである。これは私である。これは私の我である」と。
 比丘たちよ、識が存在し、識を取り、識に住することによってこのような見解が生じる。
「これは私のものである。これは私である。これは私の我である」と。

 比丘たちよ、これをどう思うか。色は永遠か永遠ではないか。
 先生、永遠ではありません。
 では永遠でないものは苦か楽か。
 先生、苦です。
 では永遠でなく苦であり変化する法であるもの、それを取ることがないのにこのような見解が生じるだろうか。
「これは私のものである。これは私である。これは私の我である」と。
 いいえ、それはありません、先生。

 比丘たちよ、これをどう思うか。受は永遠か永遠ではないか。
 先生、永遠ではありません。
 では永遠でないものは苦か楽か。
 先生、苦です。
 では永遠でなく苦であり変化する法であるもの、それを取ることがないのにこのような見解が生じるだろうか。
「これは私のものである。これは私である。これは私の我である」と。
 いいえ、それはありません、先生。

 比丘たちよ、これをどう思うか。想は永遠か永遠ではないか。
 先生、永遠ではありません。
 では永遠でないものは苦か楽か。
 先生、苦です。
 では永遠でなく苦であり変化する法であるもの、それを取ることがないのにこのような見解が生じるだろうか。
「これは私のものである。これは私である。これは私の我である」と。
 いいえ、それはありません、先生。

 比丘たちよ、これをどう思うか。行は永遠か永遠ではないか。
 先生、永遠ではありません。
 では永遠でないものは苦か楽か。
 先生、苦です。
 では永遠でなく苦であり変化する法であるもの、それを取ることがないのにこのような見解が生じるだろうか。
「これは私のものである。これは私である。これは私の我である」と。
 いいえ、それはありません、先生。

 比丘たちよ、これをどう思うか。識は永遠か永遠ではないか。
 先生、永遠ではありません。
 では永遠でないものは苦か楽か。
 先生、苦です。
 では永遠でなく苦であり変化する法であるもの、それを取ることがないのにこのような見解が生じるだろうか。
「これは私のものである。これは私である。これは私の我である」と。
 いいえ、それはありません、先生。

 ここに見たもの、聞いたもの、思ったもの、認識したもの、得たもの、求めたもの、意によって伺ったもの、これらは永遠か永遠ではないか。
 先生、永遠ではありません。
 では永遠でないものは苦か楽か。
 先生、苦です。
 では永遠でなく苦であり変化する法であるもの、それを取ることがないのにこのような見解が生じるだろうか。
「これは私のものである。これは私である。これは私の我である」と。
 いいえ、それはありません、先生。

 比丘たちよ、聖なる弟子がこれら六つの処において疑いを断ち、
 苦においても疑いを断ち、
 苦集においても疑いを断ち、
 苦滅においても疑いを断ち、
 苦滅に行く修行道においても疑いを立つならば、
 比丘たちよ、こう言われる。
 「聖なる弟子は流れに入った。
  堕落しない法である。
  決定した。正覚に趣く」と。


   第三 これは私である
208.サーヴァッティ因。
 比丘たちよ、何が存在し何を取り何に住することによってこのような見解が生じるのか。
「これは私である。これは世間である。この私たちは後にも存在するだろう。永遠であり不変であり恒久であり変化しない法である」と。
 先生、私たちは先生を法の根とし・・・先生はこう言った。

 比丘たちよ、色が存在し、色を取り・・・
 比丘たちよ、受が存在し、受を取り・・・
 比丘たちよ、想が存在し、想を取り・・・
 比丘たちよ、行が存在し、行を取り・・・
 比丘たちよ、識が存在し、識を取り、識に住することによってこのような見解が生じる。
「これは私である。これは世間である。この私たちは後にも存在するだろう。永遠であり不変であり恒久であり変化しない法である」と。

 ・・・色は永遠か永遠ではないか。
 ・・・受は永遠か永遠ではないか。
 ・・・想は永遠か永遠ではないか。
 ・・・行は永遠か永遠ではないか。
 ・・・識は永遠か永遠ではないか。
 ・・・所見・所聞・所思・所識・所得・所求・所意伺、これらは永遠か永遠ではないか。
 先生、永遠ではありません。
 では永遠でないものは苦か楽か。
 先生、苦です。
 では永遠でなく苦であり変化する法であるもの、それを取ることがないのにこのような見解が生じるだろうか。
「これは私である。これは世間である。この私たちは後にも存在するだろう。永遠であり不変であり恒久であり変化しない法である」と。
 いいえ、それはありません、先生。

 比丘たちよ、聖なる弟子がこれら六つの処において疑いを断ち、
 苦においても疑いを断ち、
 苦集においても疑いを断ち、
 苦滅においても疑いを断ち、
 苦滅に行く修行道においても疑いを立つならば、
 比丘たちよ、こう言われる。
 「聖なる弟子は流れに入った。
  堕落しない法である。
  決定した。正覚に趣く」と。


   第四 私の存在も無くなる
209.サーヴァッティ因。
 比丘たちよ、何が存在し何を取り何に住することによってこのような見解が生じるのか。
「もし存在するものは無くなり、また私の存在も無くなるならば、いずれ私は存在しなくなるだろう」と。
 先生、私たちは先生を法の根とし・・・先生はこう言った。

 比丘たちよ、色が存在し、色を取り・・・
 比丘たちよ、受が存在し、受を取り・・・
 比丘たちよ、想が存在し、想を取り・・・
 比丘たちよ、行が存在し、行を取り・・・
 比丘たちよ、識が存在し、識を取り、識に住することによってこのような見解が生じる。
「もし存在するものは無くなり、また私の存在も無くなるならば、いずれ私は存在しなくなるだろう」と。

 ・・・色は永遠か永遠ではないか。
 ・・・受は永遠か永遠ではないか。
 ・・・想は永遠か永遠ではないか。
 ・・・行は永遠か永遠ではないか。
 ・・・識は永遠か永遠ではないか。
 ・・・所見・所聞・所思・所識・所得・所求・所意伺、これらは永遠か永遠ではないか。
 先生、永遠ではありません。
 では永遠でないものは苦か楽か。
 先生、苦です。
 では永遠でなく苦であり変化する法であるもの、それを取ることがないのにこのような見解が生じるだろうか。
「もし存在するものは無くなり、また私の存在も無くなるならば、いずれ私は存在しなくなるだろう」と。
 いいえ、それはありません、先生。

 比丘たちよ、聖なる弟子がこれら六つの処において疑いを断ち、
 苦においても疑いを断ち、
 苦集においても疑いを断ち、
 苦滅においても疑いを断ち、
 苦滅に行く修行道においても疑いを立つならば、
 比丘たちよ、こう言われる。
 「聖なる弟子は流れに入った。
  堕落しない法である。
  決定した。正覚に趣く」と。


   第五 布施は存在しない
210.サーヴァッティ因。
 比丘たちよ、何が存在し何を取り何に住することによってこのような見解が生じるのか。
「布施は存在しない。祭祀は存在しない。供養は存在しない。
 善く為され悪く為された業の報いが結果することは存在しない。
 この世界は存在しない。他の世界は存在しない。
 母は存在しない。父は存在しない。化生の生ける者は存在しない。
 正しく行き正しく修行し、この世界と他の世界を自ら超知し実証し知らせる沙門婆羅門は世界に存在しない。
 四大より成るこの人間は死の時において地身は地に入り、水身は水に入り、火身は火に入り、風身は風に入り、諸根は虚空に転移する。
 四人が高い床に死者を載せて行く。火葬場まではその足跡が知られるが、灰色の骨となる。
 祭祀は言説に過ぎない。布施は愚か者の教説である。彼らが存在するという説は空疎で偽りで冗談である。
 愚か者も賢者も身が破れれば断滅し消滅し死後に存在することはない」と。
 先生、私たちは先生を法の根とし・・・先生はこう言った。

 比丘たちよ、色が存在し、色を取り・・・
 比丘たちよ、受が存在し、受を取り・・・
 比丘たちよ、想が存在し、想を取り・・・
 比丘たちよ、行が存在し、行を取り・・・
 比丘たちよ、識が存在し、識を取り、識に住することによってこのような見解が生じる。
「布施は存在しない。祭祀は存在しない。供養は存在しない。
 善く為され悪く為された業の報いが結果することは存在しない。
 この世界は存在しない。他の世界は存在しない。
 母は存在しない。父は存在しない。化生の生ける者は存在しない。
 正しく行き正しく修行し、この世界と他の世界を自ら超知し実証し知らせる沙門婆羅門は世界に存在しない。
 四大より成るこの人間は死の時において地身は地に入り、水身は水に入り、火身は火に入り、風身は風に入り、諸根は虚空に転移する。
 四人が高い床に死者を載せて行く。火葬場まではその足跡が知られるが、灰色の骨となる。
 祭祀は言説に過ぎない。布施は愚か者の教説である。彼らが存在するという説は空疎で偽りで冗談である。
 愚か者も賢者も身が破れれば断滅し消滅し死後に存在することはない」と。

 ・・・色は永遠か永遠ではないか。
 ・・・受は永遠か永遠ではないか。
 ・・・想は永遠か永遠ではないか。
 ・・・行は永遠か永遠ではないか。
 ・・・識は永遠か永遠ではないか。
 ・・・所見・所聞・所思・所識・所得・所求・所意伺、これらは永遠か永遠ではないか。
 先生、永遠ではありません。
 では永遠でないものは苦か楽か。
 先生、苦です。
 では永遠でなく苦であり変化する法であるもの、それを取ることがないのにこのような見解が生じるだろうか。
「布施は存在しない。祭祀は存在しない。供養は存在しない。
 善く為され悪く為された業の報いが結果することは存在しない。
 この世界は存在しない。他の世界は存在しない。
 母は存在しない。父は存在しない。化生の生ける者は存在しない。
 正しく行き正しく修行し、この世界と他の世界を自ら超知し実証し知らせる沙門婆羅門は世界に存在しない。
 四大より成るこの人間は死の時において地身は地に入り、水身は水に入り、火身は火に入り、風身は風に入り、諸根は虚空に転移する。
 四人が高い床に死者を載せて行く。火葬場まではその足跡が知られるが、灰色の骨となる。
 祭祀は言説に過ぎない。布施は愚か者の教説である。彼らが存在するという説は空疎で偽りで冗談である。
 愚か者も賢者も身が破れれば断滅し消滅し死後に存在することはない」と。
 いいえ、それはありません、先生。

 比丘たちよ、聖なる弟子がこれら六つの処において疑いを断ち、
 苦においても疑いを断ち、
 苦集においても疑いを断ち、
 苦滅においても疑いを断ち、
 苦滅に行く修行道においても疑いを立つならば、
 比丘たちよ、こう言われる。
 「聖なる弟子は流れに入った。
  堕落しない法である。
  決定した。正覚に趣く」と。




(続く 『南伝大蔵経14 相応部経典3』大蔵出版 P320−331 に相当)

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