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原始仏典コミュの煩悩相応 「心の汚れ」

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(『南伝大蔵経14 相応部経典3』大蔵出版 P374−379 に相当)


相応部経典>第3 犍度篇



     第六 煩悩相応[キレーサ・サンユッタ]

   第一 眼
322.サーヴァッティ因。
 比丘たちよ、眼への意欲・貪りは心の汚れである。
 耳への意欲・貪りは心の汚れである。
 鼻への意欲・貪りは心の汚れである。
 舌への意欲・貪りは心の汚れである。
 身への意欲・貪りは心の汚れである。
 意への意欲・貪りは心の汚れである。
 比丘たちよ、比丘がこれら六つの処における心の汚れを断つならば、心は無欲に傾く。
 無欲を遍く修習した心は業に耐え得るものとなり、諸法を超知し実証する。 

   第二 色
323.サーヴァッティ因。
 比丘たちよ、色への意欲・貪りは心の汚れである。
 声への意欲・貪りは心の汚れである。
 香への意欲・貪りは心の汚れである。
 味への意欲・貪りは心の汚れである。
 触への意欲・貪りは心の汚れである。
 法への意欲・貪りは心の汚れである。
 比丘たちよ、比丘がこれら六つの処における心の汚れを断つならば、心は無欲に傾く。
 無欲を遍く修習した心は業に耐え得るものとなり、諸法を超知し実証する。 
 
   第三 識
324.サーヴァッティ因。
 比丘たちよ、眼識への意欲・貪りは心の汚れである。
 耳識への意欲・貪りは心の汚れである。
 鼻識への意欲・貪りは心の汚れである。
 舌識への意欲・貪りは心の汚れである。
 身識への意欲・貪りは心の汚れである。
 意識への意欲・貪りは心の汚れである。
 比丘たちよ、比丘がこれら六つの処における心の汚れを断つならば、心は無欲に傾く。
 無欲を遍く修習した心は業に耐え得るものとなり、諸法を超知し実証する。 

   第四 触
325.サーヴァッティ因。
 比丘たちよ、眼触への意欲・貪りは心の汚れである。
 耳触への意欲・貪りは心の汚れである。
 鼻触への意欲・貪りは心の汚れである。
 舌触への意欲・貪りは心の汚れである。
 身触への意欲・貪りは心の汚れである。
 意触への意欲・貪りは心の汚れである。
 比丘たちよ、比丘がこれら六つの処における心の汚れを断つならば、心は無欲に傾く。
 無欲を遍く修習した心は業に耐え得るものとなり、諸法を超知し実証する。 

   第六 想
327.サーヴァッティ因。
 比丘たちよ、色想への意欲・貪りは心の汚れである。
 声想への意欲・貪りは心の汚れである。
 香想への意欲・貪りは心の汚れである。
 味想への意欲・貪りは心の汚れである。
 触想への意欲・貪りは心の汚れである。
 法想への意欲・貪りは心の汚れである。
 比丘たちよ、比丘がこれら六つの処における心の汚れを断つならば、心は無欲に傾く。
 無欲を遍く修習した心は業に耐え得るものとなり、諸法を超知し実証する。 

   第七 思
328.サーヴァッティ因。
 比丘たちよ、色思への意欲・貪りは心の汚れである。
 声思への意欲・貪りは心の汚れである。
 香思への意欲・貪りは心の汚れである。
 味思への意欲・貪りは心の汚れである。
 触思への意欲・貪りは心の汚れである。
 法思への意欲・貪りは心の汚れである。
 比丘たちよ、比丘がこれら六つの処における心の汚れを断つならば、心は無欲に傾く。
 無欲を遍く修習した心は業に耐え得るものとなり、諸法を超知し実証する。 

   第八 愛
329.サーヴァッティ因。
 比丘たちよ、色愛への意欲・貪りは心の汚れである。
 声愛への意欲・貪りは心の汚れである。
 香愛への意欲・貪りは心の汚れである。
 味愛への意欲・貪りは心の汚れである。
 触愛への意欲・貪りは心の汚れである。
 法愛への意欲・貪りは心の汚れである。
 比丘たちよ、比丘がこれら六つの処における心の汚れを断つならば、心は無欲に傾く。
 無欲を遍く修習した心は業に耐え得るものとなり、諸法を超知し実証する。 

   第九 界
330.サーヴァッティ因。
 比丘たちよ、地界への意欲・貪りは心の汚れである。
 水界への意欲・貪りは心の汚れである。
 火界への意欲・貪りは心の汚れである。
 風界への意欲・貪りは心の汚れである。
 空界への意欲・貪りは心の汚れである。
 識界への意欲・貪りは心の汚れである。
 比丘たちよ、比丘がこれら六つの処における心の汚れを断つならば、心は無欲に傾く。
 無欲を遍く修習した心は業に耐え得るものとなり、諸法を超知し実証する。 
  
   第十 蘊 
331.サーヴァッティ因。
 比丘たちよ、色への意欲・貪りは心の汚れである。
 受への意欲・貪りは心の汚れである。
 想への意欲・貪りは心の汚れである。
 行への意欲・貪りは心の汚れである。
 識への意欲・貪りは心の汚れである。
 比丘たちよ、比丘がこれら六つの処における心の汚れを断つならば、心は無欲に傾く。
 無欲を遍く修習した心は業に耐え得るものとなり、諸法を超知し実証する。 

                    煩悩相応  終

   その頌
    眼と色と識、触と受
    想と思と愛、界と蘊の十。


     『南伝大蔵経14 相応部経典3』大蔵出版 P374−379 に相当




汚れ:ウパッキレーサ upakkilesa 随煩悩、随染、小煩悩とも辞書にありますが、
                upa を「小」と見るのは適切でないと思います。
                キリッサティ[kilissati]染まる、汚れる、ぬれる
意欲・貪り:チャンダラーガ candarāga チャンダは善い意味と悪い意味の両方で使われますが、
                  ラーガは絶対悪としてのみ使用される単語です。
                  四正勤の定型文に「悪を断つためチャンダを生じさせる」とあります。
無欲:ネッカンマ nekkhamma 欲が無いこと。




1. Cakkhusuttaṃ

322. Sāvatthinidānaṃ .
‘‘Yo, bhikkhave, cakkhusmiṃ chandarāgo, cittasseso upakkileso.
Yo sotasmiṃ chandarāgo, cittasseso upakkileso.
Yo ghānasmiṃ chandarāgo, cittasseso upakkileso.
Yo jivhāya chandarāgo, cittasseso upakkileso.
Yo kāyasmiṃ chandarāgo, cittasseso upakkileso.
Yo manasmiṃ chandarāgo, cittasseso upakkileso.
Yato kho, bhikkhave, bhikkhuno imesu chasu ṭhānesu cetaso upakkileso pahīno hoti, nekkhammaninnañcassa cittaṃ hoti.
Nekkhammaparibhāvitaṃ cittaṃ kammaniyaṃ khāyati, abhiññā sacchikaraṇīyesu dhammesū’’ti.





     煩悩相応  完






 

コメント(1)

原始仏典でしばしば使用される語である「チャンダ・ラーガ」(chandarāga)。


ここでは僕は「意欲・貪り」というふうに類義語として並記していますが、「カーマッチャンダ」(kāmacchanda)の場合は「欲・意欲」というよりは「(五)欲への意欲」としたほうが意味が通ります。それでここも同様に「貪りへの意欲」「貪ろうと欲すること」と訳したほうが適切ではないかと思いました。また色々と参照して適切だと思えば編集しようと思います。



この煩悩相応の定型文。

「眼(耳鼻舌身意)への意欲・貪りは心の汚れである。
 比丘たちよ、比丘がこれら六つの処における心の汚れを断つならば、心は無欲に傾く。
 無欲を遍く修習した心は業に耐え得るものとなり、諸法を超知し実証する」

僕はネッカンマ(nekkhamma)を無欲と訳していますが、出離と訳す伝統もあります。僕は邪思の第一に「欲思」が来るのだから、正思のネッカンマは出離ではなく欲の否定として「無欲思」であろうと思ってそう訳しています。


この経の重要なところは「先に離貪を修習し、後に超知するという順序も可である」ということだと思います。

普通は三摩地 → 如実知見 → 厭患 → 離貪 → 解脱という順序です。
また如実知見 → 厭患 → 離貪 → 滅 → 寂静 → 超知 → 正覚 → 涅槃という流れもあります。

この経典では

 1.根境識触受想思愛界蘊への貪りを求める心の汚れを断つ。
 2.心は無欲に傾く。
 3.無欲を遍修した心は業(作業や仕事)に耐え得るものとなる。
 4.諸法を超知し実証する。

という順序です。離貪 → 三摩地 → 超知という流れです。


普通は「離貪のために如実知見し、如実知見のために三摩地する」という流れです。
ここでは「三摩地のために離貪する」という流れです。三摩地とは書いてありませんが、この「業に耐えるようになる」というのは四禅を繰り返し修習した際に生じる柔軟にして輝く心の状態ですので同義でよいと思います。

離貪は涅槃想である「一切行の静止、一切執着の放棄、渇愛の滅尽、離貪、滅、涅槃」の中に含まれていますが、この涅槃想の定型文のいずれの単語であっても、それを取ってその想念を持続するだけでも解脱すると思います。その修行の目的であるところの離貪、それをいきなり修習し、その後で三摩地して超知・正覚、そして智慧を完成して涅槃するという流れです。

離貪も三摩地もともに心学であるから問題ありません。離貪想というのがある以上、想は念と近いので、念力が優勢で定が苦手な人は離貪想などの十念十想から修習して心の静止を得てもいいでしょうし、定が得意な人は基本通りに四禅によって心を柔軟にしてから如実知見して離貪を得てもいいと思います。最近僕はダイレクトに無貪善根を鍛えることができるので、好んで離貪想を修習していますがすこぶる良い感じです。自分の心と実生活が全体的に軽くなる感じがして。


この経典通りに離貪想を修習する場合は、根境識触受想思愛界蘊の一つひとつに対して離貪想を関連付けて離貪想を重ねてこれらの対象に対して離貪想を持続させていくことになると思います。これら根境識触受想思愛界蘊の法は渇愛がとどまる処と同じです。そこに執着もありますから、自分が何にどれだけ執着しているかよく自覚する法念処の修習(六処への縛と五取蘊への)がここでも非常に有効であると思います。

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