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原始仏典コミュの有余依涅槃界と無余依涅槃界

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小部経典>如是語>二集

「   第七 涅槃界[ニッバーナ・ダートゥ]
44.これを世尊は言い、阿羅漢は言ったと私は聞いた。
 比丘たちよ、これら二つの涅槃界がある。何が二か。
 有余依涅槃界と無余依涅槃界である。
 比丘たちよ、何が有余依の涅槃界か。
 比丘たちよ、ここに比丘は阿羅漢であり、漏が尽きており、完成しており、為すべき事を為し、重荷を下ろし、善利を得ており、有結を遍尽しており、正しく悟り、解脱している。彼の五根は住しており離れていないので、意にかなうことと意にかなわないことを経験し、楽苦を感受する。彼は貪りを尽くし、瞋りを尽くし、癡かさを尽くした者である。
 比丘たちよ、これが有余依涅槃界と言われる。
 比丘たちよ、何が無余依の涅槃界か。
 比丘たちよ、ここに比丘は阿羅漢であり、漏が尽きており、完成しており、為すべき事を為し、重荷を下ろし、善利を得ており、有結を遍尽しており、正しく悟り、解脱している。
 比丘たちよ、ここに一切の感受を喜ばない者は清涼となるだろう。
 比丘たちよ、これが無余依涅槃界と言われる。
 比丘たちよ、これら二つの涅槃界がある。
 この義を世尊は語った。そしてこう言った。
  これら二つの依止することなき涅槃界は 具眼者によって明らかにされた
  一つの界はここに現世において 有結を尽くした有余依である
  もう一つは後世において 一切の有を滅した無余依である
  この無為への道を悟り 解脱した心は有結を尽くし
  彼は法の精髄に達して尽を楽しみ 一切の有は彼において断たれている  
 この義も世尊は言ったと、私はこう聞いた。」

     『南伝大蔵経23 小部経典1』大蔵出版 P286−287   に相当



涅槃界:ニッバーナ・ダートゥ、nibbānadhātu
有余依涅槃界:サウパーディセーサ・ニッバーナ・ダートゥ、saupādisesa nibbānadhātu
無余依涅槃界:アヌパーディセーサ・ニッバーナ・ダートゥ、anupādisesa nibbānadhātu.


明記はされていませんが、有余依涅槃界が「五根がある」という記述から、生きている阿羅漢と肉体を捨てた阿羅漢の二の涅槃の境地についての解説だと思います。偈の部分における「現法(現世)」と「後世(未来)」という記述からも死ぬ前と死んだ後の話であるということがわかります。さらに偈のところに「有結を尽くした(がいまだ有に居る)有余依涅槃界」と「(有結も尽くしたし)一切の有を(も)滅した無余依涅槃界」という記述がありますので、より一層死ぬ前と死んだ後であることがわかると思います。

僕は現世において苦滅に達するとどこかで書いたかも知れませんが、この記述から見ると輪廻超越・不死・三毒根絶は確かに現世中に達成できますが、肉体がある限りは苦痛を感受しますので「一切の苦滅は肉体を捨ててから」ということになりそうです。僕の考察が甘かったで訂正いたします。僕が思うには無余依涅槃界は一方的に楽しいことしかないようで、素晴らしいところのように思います。一応念のために『南伝大蔵経』の有余依無余依の定義の部分をそのまま引用します。



「比丘衆よ、此等二の涅槃界あり。二とは何ぞ。
 比丘衆よ、有余依涅槃界とは何ぞ。
 比丘衆よ、此処に応供たる比丘は已に漏を尽し、[梵行]に住し、作すべき事を弁じ、重擔を捨て、自義を証し、有結を尽し、正しき智によりて解脱せり。彼の五根は安立し、それに傷はるることなきが故に喜びと喜びならざるとを経験し、楽しきと苦しきとを感ぜらる。彼は貪を滅し、瞋を滅し、癡を滅したるものなり。
 そを比丘衆よ、有余依涅槃界と説く。 
 然らば、比丘衆よ、無余依涅槃界とは何ぞ。
 比丘衆よ、此処に応供たる比丘は已に漏を尽し、[梵行]に住し、作すべき事を弁じ、重擔を捨て、自義を証し、有結を尽し、正しき智によりて解脱せり。
 比丘衆よ、此処にその一切の知覚せるものを喜ばざる者は清涼ならむ。
 そを比丘衆よ、無余依涅槃界と説く。
 比丘衆よ、これ二の涅槃界なりと。」
   『南伝大蔵経23 小部経典1』大蔵出版 P286







[パーリ語原文]


7. Nibbānadhātusuttaṃ

44. Vuttañhetaṃ bhagavatā, vuttamarahatāti me sutaṃ –

‘‘Dvemā, bhikkhave, nibbānadhātuyo. Katame dve? Saupādisesā ca nibbānadhātu, anupādisesā ca nibbānadhātu.

‘‘Katamā ca, bhikkhave, saupādisesā nibbānadhātu? Idha, bhikkhave, bhikkhu arahaṃ hoti khīṇāsavo vusitavā katakaraṇīyo ohitabhāro anuppattasadattho parikkhīṇabhavasaṃyojano sammadaññā vimutto. Tassa tiṭṭhanteva pañcindriyāni yesaṃ avighātattā [avigatattā (sī. aṭṭha.)] manāpāmanāpaṃ paccanubhoti, sukhadukkhaṃ paṭisaṃvedeti . Tassa yo rāgakkhayo, dosakkhayo, mohakkhayo – ayaṃ vuccati, bhikkhave, saupādisesā nibbānadhātu.

‘‘Katamā ca, bhikkhave, anupādisesā nibbānadhātu? Idha, bhikkhave, bhikkhu arahaṃ hoti khīṇāsavo vusitavā katakaraṇīyo ohitabhāro anuppattasadattho parikkhīṇabhavasaṃyojano sammadaññā vimutto. Tassa idheva, bhikkhave, sabbavedayitāni anabhinanditāni sīti bhavissanti [sītībhavissanti (?)]. Ayaṃ vuccati, bhikkhave, anupādisesā nibbānadhātu. Imā kho, bhikkhave, dve nibbānadhātuyo’’ti. Etamatthaṃ bhagavā avoca. Tatthetaṃ iti vuccati –

‘‘Duve imā cakkhumatā pakāsitā, nibbānadhātū anissitena tādinā;

Ekā hi dhātu idha diṭṭhadhammikā, saupādisesā bhavanettisaṅkhayā;

Anupādisesā pana samparāyikā, yamhi nirujjhanti bhavāni sabbaso.

‘‘Ye etadaññāya padaṃ asaṅkhataṃ, vimuttacittā bhavanettisaṅkhayā;

Te dhammasārādhigamā khaye ratā, pahaṃsu te sabbabhavāni tādino’’ti.

Ayampi attho vutto bhagavatā, iti me sutanti. Sattamaṃ.

コメント(3)

初めまして。この2つの涅槃は私の研究テーマなので、参考になりました!有り難うございます。
はじめまして、メサさん。それはちょうどよかったです。他にもあればまた紹介したいと思います。
ステキな解釈のシェアーをありがとうございます。

>無余依涅槃界は一方的に楽しいことしかないようで、素晴らしいところのように思います。
 
確かに、そのような状態であると言える状態なのでしょうね。

他方、同時に、この世界にいながら、感受を自在に調御出来、
◆「好ましく感じない感受」は、ゼロ状態にし(もちろん、この感受を楽しんでみることもできます)、
◆「好ましいと感じる感受」は、楽しんでみようと思えば感受して楽しみ、
かつ決して囚われない(今の瞬間だけで感受を楽しみ、決してカルマとして残さない)、
これらあらゆる状態も自在にできる状態でもあるかと。
(サマディの種類でいえば、「ニルビカルパ・サマディ」=「四六時中神意識状態」に該当するかもしれませんね)
なぜなら、せっかくこの地球地上世界を体験して楽しむために降誕してきたことを、既に理解している状態だからです。
ありがとうございます。

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