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原始仏典コミュの偉大なる果報 布施と慈心

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小部経典>如是語>一集

「   第六 布施
26.これを先生は言い、阿羅漢は言ったと私は聞いた。
 比丘たちよ、もし生ける者たちが布施を分け与えることの報いを私が知っているようにこれを知っているならば、与えずに食べることなく、また彼らは吝嗇の垢に心が占領されて住することもないだろう。たとえそれが最後の一握り最後の一口であっても、もしそれを受け取る者がいるならば、彼らがそれを分け与えずに食べることはないだろう。
 比丘たちよ、それゆえに生ける者たちは布施を分け与えることの報いを私が知っているようにこれを知っていないからこそ、与えずして食べ、また彼らは吝嗇の垢に心が占領されて住するのである。
 この義を先生は語った。そしてこう言った。
   偉大な仙人が言った通りに これをもし生ける者たちが知っていたならば 
   分け与えることの報いに 偉大な果報があることを
   吝嗇の垢を調伏し 心は清浄となろう
   時に聖者に与えよう その施は偉大な果報がある
   多くの人々にも食を与えよう 布施されるべき者に布施をして
   人としてここより没して 布施する者は天界に行く
   彼はさらに天界に行ったそこで 欲において欲者は喜ぶ 
   分け与えることの報いを 吝嗇のない者は経験する
 この義も先生は言ったと、私はこう聞いた。


   第七 慈修習
27.これを先生は言い、阿羅漢は言ったと私は聞いた。
 比丘たちよ、いかなる形ある福業事であってもその一切は慈心解脱の十六分の一にも値しない。慈心解脱はそれらを超越して輝いているのであり、また光っているのであり、また照らしているのである。
 比丘たちよ、たとえばいかなる星の色の輝きであってもその一切は月の輝きの十六分の一にも値しない。月の輝きはそれらを超越して輝いているのであり、また光っているのであり、また照らしていいるのである。
 比丘たちよ、このようにいかなる形ある福業事であってもその一切は慈心解脱の十六分の一にも値しない。慈心解脱はそれらを超越して輝いているのであり、また光っているのであり、また照らしているのである。
 比丘たちよ、たとえば雨期の最後の月、秋が来るときは雲一つない天に太陽は空高く昇り、一切の虚空の闇を晴らし、輝き、光り、照らす。
 比丘たちよ、このようにいかなる形ある福業事であってもその一切は慈心解脱の十六分の一にも値しない。慈心解脱はそれらを超越して輝いているのであり、また光っているのであり、また照らしているのである。
 比丘たちよ、たとえば夜の明け方のとき、明けの明星は輝き、光り、照らす。
 比丘たちよ、このようにいかなる形ある福業事であってもその一切は慈心解脱の十六分の一にも値しない。慈心解脱はそれらを超越して輝いているのであり、また光っているのであり、また照らしているのである。
 この義を先生は語った。そしてこう言った。
   慈しみを修習し 無量に念じる者は
   結は薄くなり 執着対象が尽きることを見る
   もし一つの命ある者にでも悪心なく 
   慈しみがあるならばそれによって彼は善人なのである
   また一切の命ある者を憐れむ思いがあるならば 
   莫大な福を為す聖者なのである
   生ける者たちが群れなす地を治める 王仙は祭祀をしつつ遊行した
   馬の供儀・人の供儀 シャム棒の投擲祭・ソーマ祭・閂祭(をした彼でも)
   慈心を善く修習した者の 十六分の一にも値しない
   一切の星の群れに対する月の輝きのように 
   殺すことなく殺させることなく 征服することなく没収することなく
   一切衆生を慈しむ彼は いかなる者にも怨まれることがない
 この義も先生は言ったと、私はこう聞いた。」

     『南伝大蔵経23 小部経典1』大蔵出版 P264−267  に相当


有依福業事:オーパディカーニ・プンニャキリヤヴァットゥーニ、opadhikāni puññakiriyavatthūni、依[形・物]のあるopadhikāni 福puñña為すkiriya事vatthūni

コメント(3)

すばらしいです!
ありがとうございます^^
この箇所、すごく意義深いですよね。
久しぶりに読んでみて、改めてそう思いました。
如是語のこの二つの箇所は小部経典なのですが、とてもよい内容だと思います。


正しき神々への祭祀を執り行って多くの存在者に利益を与えることは善いことだと思います。今で言うと古くから伝わる神社仏閣や教会の祭祀を正しく行なうことに相当するかも知れません。しかしこの記述の通りに慈心を正しく善く修習する者が、そのような祭祀者とは比較にならないほどの福を為す聖者であるとすれば、それは見過ごせない重要なことです。検証するに値することです。

慈心、特に一切衆生に及ぶ慈無量心に毎日の生活の中でどれだけの時間と労力を割くべきか、考慮されるに値することだと思います。在家出家に関係なく。


もし原始仏典の記述通りの福の報いが慈心にあるとすれば、多分本当に聖楽(三悪根絶の自覚楽)と天楽(四禅の楽)以外の幸福は大抵は手に入ることになると思います。梵楽も俗世的な欲楽も全ては慈心だけで獲得され維持されることになると思います。そのためにも自分なりに慈心を検証していくことは大事だと思います。もし原始仏典が嘘だとすれば、慈心は単なる脳内妄想に過ぎないことになりますから。

僕個人の経験則としては正確な威力の測定はまだできませんが、確実に慈心はある、という信はかなり確立されてきています。半年ちょっと毎日やった人間の感想としてはそうです。福の報いとして慈心の効果も時間差で徐々に生じてきている感はあります。だからある程度の自信をもってぜひとも実験的にやってみてくださいとは僕の口から嘘やはったりではなく言えます。僕の勘違いでなければ慈心はやはりあると思います。

慈心を修し続けていれば、街を歩く人たちやテレビに出る人たちやネット上の色々な人たちを自然に優しい気持ちで見れるようになっていくのではないかと思います。優しい眼差しを向けることと付き合っても利益がない人たちと親しくすることとはまた別のことですから、双方に利益が生じない人たちとは付き合ったり口をきく必要はないとは思いますが。慈心を修すれば修するほど逆に一人のほうが気楽だったりします。みんなあまり優しくないので。優しさがない言葉をあまり聞きたくなくなっていくような気がします。


慈心を原因として派生する福徳と美徳と利益は実に多岐に渡ると思います。もう少し、慈心でゴリ押ししていったときに僕の財政状態と精神状態、人間関係や人生全体や果ては死後の行き先がどうなっていくのか見て行きたいと思っています。もっと子供の頃から慈心を知って実践していたかったと思います。

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