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原始仏典コミュの増支部経典 二集 1

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(『南伝大蔵経17 増支部経典1』大蔵出版 P71−84  に相当)




「   かの先生・阿羅漢・正覚者に帰依します




     増支部経典 二集




       第一の五十

    

     第一 刑罰品

   第一 罪
1.このように私は聞いた。
 あるとき先生はサーヴァッティのジェータ林、アナータピンディカの園に住んでいた。ときに先生は比丘たちに「比丘たちよ」と呼びかけた。比丘たちは「先生」と先生に応えた。先生はこう言った。
 比丘たちよ、これら二つの罪がある。何が二か。
 現世の罪と来世の罪である。
 比丘たちよ、何が現世の罪か。
 比丘たちよ、ここにある者は犯罪を犯す賊が王に捕らえさせられ、様々な刑罰を科されるのを見る。鞭でも打たれ、杖でも打たれ、棍棒でも打たれ、手も切断され、足も切断され、手足も切断され、耳も切断され、鼻も切断され、耳と鼻も切断され、酸粥の鍋の刑にもかけられ、貝殻で頭を剃らせる刑にもかけられ、ラーフ(蝕を起こすアスラ王)口の刑にかけられ、火の華鬘の刑にもかけられ、手を燃やす刑にもかけられ、引き摺りの刑にもかけられ、樹皮衣を着させられる刑にもかけられ、カモシカの皮を着させられる刑にもかけられ、鉤針で肉を釣る刑にもかけられ、肉を細切れに切り刻まれる刑にもかけられ、灰汁に漬けられる刑にもかけられ、横木にかけて回される刑にもかけられ、わらの椅子の刑にもかけられ、灼熱の油をも注がされ、犬にも噛まされて食わせられ、生きながら串刺しにもさせられ、刀で頭をも切断される。
 彼はこう思う。「このように悪い業を原因として犯罪を犯す賊は王に捕らえさせられ、様々な刑罰を科される。鞭でも打たれ、杖でも打たれ、棍棒でも打たれ、手も切断され、足も切断され、手足も切断され、耳も切断され、鼻も切断され、耳と鼻も切断され、酸粥の鍋の刑にもかけられ、貝殻で頭を剃らせる刑にもかけられ、ラーフ口の刑にかけられ、火の華鬘の刑にもかけられ、手を燃やす刑にもかけられ、引き摺りの刑にもかけられ、樹皮衣を着させられる刑にもかけられ、カモシカの皮を着させられる刑にもかけられ、鉤針で肉を釣る刑にもかけられ、肉を細切れに切り刻まれる刑にもかけられ、灰汁に漬けられる刑にもかけられ、横木にかけて回される刑にもかけられ、わらの椅子の刑にもかけられ、灼熱の油をも注がされ、犬にも噛まされて食わせられ、生きながら串刺しにもさせられ、刀で頭をも切断される。
 また、もし私がこのように悪業を作すならば、私も王に捕らえさせられ、このように様々な刑罰を科されるだろう。鞭でも打たれるだろうし、杖でも打たれるだろうし、棍棒でも打たれるだろうし、手も切断されるだろうし、足も切断されるだろうし、手足も切断されるだろうし、耳も切断されるだろうし、鼻も切断されるだろうし、耳と鼻も切断されるだろうし、酸粥の鍋の刑にもかけられるだろうし、貝殻で頭を剃らせる刑にもかけられるだろうし、ラーフ口の刑にかけられるだろうし、火の華鬘の刑にもかけられるだろうし、手を燃やす刑にもかけられるだろうし、引き摺りの刑にもかけられるだろうし、樹皮衣を着させられる刑にもかけられるだろうし、カモシカの皮を着させられる刑にもかけられるだろうし、鉤針で肉を釣る刑にもかけられるだろうし、肉を細切れに切り刻まれる刑にもかけられるだろうし、灰汁に漬けられる刑にもかけられるだろうし、横木にかけて回される刑にもかけられるだろうし、わらの椅子の刑にもかけられるだろうし、灼熱の油をも注がされるだろうし、犬にも噛まされて食わせられるだろうし、生きながら串刺しにもされるだろうし、刀で頭をも切断されるだろう」と。
 彼は現世の罪を恐れて、他者の物品を盗むことを行わない。
 比丘たちよ、これが現世の罪と言われる。
 比丘たちよ、何が来世の罪か。
 比丘たちよ、ここにある者はこう考える。
「身悪行には悪であり苦である報いが未来にあり、
 語悪行には悪であり苦である報いが未来にあり、
 意悪行には悪であり苦である報いが未来にある。
 またもし私が身体によって悪行を行じ、言葉によって悪行を行じ、意によって悪行を行じても、それによって私は身が壊れて死んだ後に苦処・悪趣・堕処・地獄に生じないとどうして言えるだろうか」と。
 彼は来世の罪を恐れて、身悪行を断ち身善行を修習し、語悪行を断ち語善行を修習し、意悪行を断ち意善行を修習し、自己の清浄を擁護する。
 比丘たちよ、これが来世の罪と言われる。
 比丘たちよ、これらが二つのである。
 比丘たちよ、それゆえこのように学ぶべきである。
 「私たちは現世の罪を恐れよう。
  私たちは来世の罪を恐れよう。
  私たちは罪を怖れ、罪に恐怖を見る者であろう」と。
 比丘たちよ、あなたたちは実にこのように学ぶべきである。
 比丘たちよ、罪を怖れ、罪に恐怖を見る者はこのように期待されるべきである。
 即ち、彼は一切の罪から脱するであろうと。


   第二 精勤
2.比丘たちよ、これら二つの世間において生じ難い精勤がある。何が二か。
 在家にして家の内に住する者の衣食住薬資具のための精勤と、家から家無きに出家した者の一切の執着対象の放棄[一切依定棄]のための精勤である。
 比丘たちよ、これらが二つの世間において生じ難い精勤である。
 比丘たちよ、これらの二つの精勤のうちこれが最高である。
 即ち、一切の執着対象の放棄のための精勤である。 
 比丘たちよ、それゆえこのように学ぶべきである。
 「私たちは一切の執着対象の放棄するための精勤を精勤しよう」と。
 比丘たちよ、あなたたちは実にこのように学ぶべきである。


   第三 煩悶
3.比丘たちよ、これら二つの煩悶する法がある。何が二か。
 比丘たちよ、ここにある者は身悪行を為し身善行を為さず、語悪行を為し語善行を為さず、意悪行を為し意善行を為さない。
 彼は「私は身悪行を為した」と煩悶し、「私は身善行を為していない」と煩悶する。
 「私は語悪行を為した」と煩悶し、「私は語善行を為していない」と煩悶する。
 「私は意悪行を為した」と煩悶し、「私は意善行を為していない」と煩悶する。
 比丘たちよ、これら二つの煩悶する法がある。


   第四 不煩悶
4.比丘たちよ、これら二つの煩悶しない法がある。何が二か。
 比丘たちよ、ここにある者は身善行を為し身悪行を為さず、語善行を為し語悪行を為さず、意善行を為し意悪行を為さない。
 彼は「私は身善行を為した」と煩悶せず、「私は身悪行を為していない」と煩悶しない。
 「私は語善行を為した」と煩悶せず、「私は語悪行を為していない」と煩悶しない。
 「私は意善行を為した」と煩悶せず、「私は意悪行を為していない」と煩悶しない。
 比丘たちよ、これら二つの煩悶しない法がある。


   第五 通達
5.比丘たちよ、私は二つの法に通達した。
 善法において満足しないことと、精勤を退転しないことである。
 比丘たちよ、私は不退転に精勤した。
「むしろ皮と腱と骨が残ることなく、身体の血肉が乾ききるとしても、人間の力によって、人間の精進によって、人間の努力によって得るべきものを得るまでは、精進を止めないだろう」と。
 比丘たちよ、その私は不放逸によって正覚に達し、不放逸によって無上の安穏との結合に達した。
 比丘たちよ、あなたたちも不退転に精勤しなさい。
 「むしろ皮と腱と骨が残ることなく、身体の血肉が乾ききるとしても、人間の力によって、人間の精進によって、人間の努力によって得るべきものを得るまでは、精進を止めないだろう」と。
 比丘たちよ、あなたたちも久しからずして、善利のために良家の子たちが正しく家から家なきに出家したその無上の梵行の完成を現世において自ら超知し実証し具足して住するだろう。
 比丘たちよ、それゆえこのように学ぶべきである。
 「私たちは不退転に精勤しよう。むしろ皮と腱と骨が残ることなく、身体の血肉が乾ききるとしても、人間の力によって、人間の精進によって、人間の努力によって得るべきものを得るまでは、精進を止めないだろう」と。
 比丘たちよ、あなたたちは実にこのように学ぶべきである。


   第六 結
6.比丘たちよ、これら二つの法がある。何が二か。
 結を起こすべき法において味を見ることと、結を起こすべき法において厭患を見ることである。
 比丘たちよ、結を起こすべき法において味を見て住する者は貪を断たず、瞋を断たず、癡を断たない。
 貪を断たず、瞋を断たず、癡を断たなければ、生・老・死・愁・悲・苦・憂・悩から脱さない。
 彼は苦から脱さないと私は言う。
 比丘たちよ、結を起こすべき法において厭患を見て住する者は貪を断ち、瞋を断ち、癡を断つ。
 貪を断ち、瞋を断ち、癡を断てば、生・老・死・愁・悲・苦・憂・悩から脱する。
 彼は苦から脱すると私は言う。
 比丘たちよ、これら二つの法がある。


   第七 黒
7.比丘たちよ、これら二つの黒い法がある。何が二か。
 無慚と無愧。
 比丘たちよ、これら二つの黒い法がある。


   第八 白
8.比丘たちよ、これら二つの白い法がある。
 慚と愧。
 比丘たちよ、これら二つの白い法がある。


   第九 行
9.比丘たちよ、これら二つの白い法は世を護る。何が二か。
 慚と愧。
 比丘たちよ、これら二つの白い法が世を護らなければ、ここに母、あるいは叔母、あるいはアーチャリヤの妻、あるいは尊敬すべき人の妻が知られない。世は山羊・羊や鶏・豚や犬・狼のような混乱に行くだろう。
 比丘たちよ、それゆえにもこれら二つの白い法が世を護るがゆえに、ここに母、あるいは叔母、あるいはアーチャリヤの妻、あるいは尊敬すべき人の妻が知られる。


   第十 雨期
10.比丘たちよ、これら二つの雨期がある。何が二か。
 前と後。
 比丘たちよ、これら二つの雨期がある。


  この頌に曰く
    罪と精勤と二つの煩悶、通達の五つ。
    結と黒、白と行と雨期の品。




     第二品 争論品
11.比丘たちよ、これら二つの力がある。何が二か。
 思考力と修習力である。
 比丘たちよ、何が思考力か。
 比丘たちよ、ここにある者がこう思考する。
「身悪行には現世と未来においても悪の報いがあり、語悪行には現世と未来においても悪の報いがあり、意悪行には現世と未来においても悪の報いがある」と。
 彼はこう思考して身悪行を断ち身善行を修習し、語悪行を断ち語善行を修習し、意悪行を断ち意善行を修習し、自己の清浄を擁護する。
 比丘たちよ、これが思考力と言われる。
 比丘たちよ、修習力とは何か。
 比丘たちよ、これらのうちのこの修習力は有学の力である。
 比丘たちよ、有学の力は貪を断ち、瞋を断ち、癡を断つことに行く。
 貪を断ち、瞋を断ち、癡を断つゆえに、彼は不善を作さず、悪を習わない。
 比丘たちよ、これが修習力と言われる。
 比丘たちよ、これら二つの力がある。

12.比丘たちよ、これら二つの力がある。何が二か。
 思考力と修習力である。
 比丘たちよ、何が思考力か。
 比丘たちよ、ここにある者がこう思考する。
「身悪行には現世と未来においても悪の報いがあり、語悪行には現世と未来においても悪の報いがあり、意悪行には現世と未来においても悪の報いがある」と。
 彼はこう思考して身悪行を断ち身善行を修習し、語悪行を断ち語善行を修習し、意悪行を断ち意善行を修習し、自己の清浄を擁護する。
 比丘たちよ、これが思考力と言われる。
 比丘たちよ、修習力とは何か。
 比丘たちよ、ここに比丘は遠離に依止し、離貪に依止し、滅に依止し、放棄に行き着く念覚支を修習し、
 遠離に依止し、離貪に依止し、滅に依止し、放棄に行き着く法察覚支を修習し、
 遠離に依止し、離貪に依止し、滅に依止し、放棄に行き着く精進覚支を修習し、
 遠離に依止し、離貪に依止し、滅に依止し、放棄に行き着く喜覚支を修習し、
 遠離に依止し、離貪に依止し、滅に依止し、放棄に行き着く安静覚支を修習し、
 遠離に依止し、離貪に依止し、滅に依止し、放棄に行き着く捨覚支を修習する。
 比丘たちよ、これが修習力と言われる。
 比丘たちよ、これら二つの力がある。

 註 法察覚支:択法覚支、ダンマヴィチャヤ[dhamma vicaya]法を考察する
   安静覚支:軽安覚支、パッサッディ[passaddhi] 安静・静止


13.比丘たちよ、これら二つの力がある。何が二か。
 思考力と修習力である。
 比丘たちよ、何が思考力か。
 比丘たちよ、ここにある者がこう思考する。
「身悪行には現世と未来においても悪の報いがあり、語悪行には現世と未来においても悪の報いがあり、意悪行には現世と未来においても悪の報いがある」と。
 彼はこう思考して身悪行を断ち身善行を修習し、語悪行を断ち語善行を修習し、意悪行を断ち意善行を修習し、自己の清浄を擁護する。
 比丘たちよ、これが思考力と言われる。
 比丘たちよ、修習力とは何か。
 比丘たちよ、ここに比丘は欲を遠離し不善法を遠離し、有尋有伺であり、遠離によって生じる喜と楽がある第一の禅那を具足して住する。
 無尋無伺にして寂静であり、内に歓喜があり、心の一境性があり、無尋無伺の三摩地によって生じる喜と楽がある第二の禅那を具足して住する。
 喜を離貪することと捨に住することと念があり自覚があることと、身体によって楽を感受することとがあり、聖者たちが「捨す者・念じる者・楽に住する者」と説くところの第三の禅那を具足して住する。
 楽を断つことと苦を断つこととがあり、先に喜と憂は滅しており、不苦不楽であり、捨・念によって完全に清浄となっている第四の禅那を具足して住する。
 比丘たちよ、これが修習力と言われる。
 比丘たちよ、これら二つの力がある。

14.比丘たちよ、これら二つの如来による法の説示がある。何が二か。
 略と広。(省略して説くことと詳しく解説して説くこと)
 比丘たちよ、これら二つの如来による法の説示がある。

15.比丘たちよ、争論において罪を犯した比丘と叱責する比丘が善く自己について自ら観察しなければ、比丘たちよ、この争論は長く不快で煩わしくなることが期待され、また比丘たちは安穏に住さないだろう。
 比丘たちよ、争論において罪を犯した比丘と叱責する比丘が善く自己について自ら観察するならば、比丘たちよ、この争論は長く不快で煩わしくならないことが期待され、また比丘たちは安穏に住するだろう。
 比丘たちよ、何が罪を犯した比丘が善く自己について自ら観察するということなのか。
 比丘たちよ、ここに罪を犯した比丘はこう思考する。
「実に私は身によってこのような不善の罪を犯した。あの比丘は私が身によってこのような不善の罪を犯すのを見た。
 もし私が身によってこのような不善の罪を犯さなければ、あの比丘は私が身によってこのような罪を犯すのを見なかっただろう。
 しかし私は身によってこのような不善の罪を犯したがゆえに、あの比丘は私が身によってこのような不善の罪を犯すのを見た。
 そしてあの比丘は私が身によってこのような不善の罪を犯したことが意にかなわなかった。意にかなわなかったので、あの比丘は私に意にかなわない言葉を言った。
 あの比丘が意にかなわない言葉を私に言ったとき、私は意にかなわなかった。意にかなわなかったので私は他の人に告げた。こうしてそれは私が過失を犯したのであり、行き過ぎたのであり、私の財産を税金として支払うようなものだ」と。
 比丘たちよ、これが罪を犯した比丘が善く自己について自ら観察するということである。
 比丘たちよ、何が叱責する比丘が善く自己について自ら観察するということなのか。
 比丘たちよ、ここに叱責する比丘はこう思考する。
「実にこの比丘が身によってこのような不善の罪を犯した。私はこの比丘が身によってこのような不善の罪を犯すのを見た。
 もしこの比丘が身によってこのような不善の罪を犯さなければ、私はこの比丘が身によってこのような不善の罪を犯すのを見なかっただろう。
 しかしこの比丘は身によってこのような不善の罪を犯したがゆえに、私はこの比丘が身によってこのような不善の罪を犯すのを見た。
 そしてこの比丘が身によってこのような不善の罪を犯すのを見た私は意にかなわなかった。意にかなわなかったので、私はこの比丘に意にかなわない言葉を言った。
 私が意にかなわない言葉をこの比丘に言ったとき、彼は意にかなわなかった。意にかなわなかったので彼は他の人に告げた。こうしてそれは私が過失を犯したのであり、行き過ぎたのであり、私の財産を税金として支払うようなものだ」と。
 比丘たちよ、これが叱責する比丘が善く自己について自ら観察するということである。
 比丘たちよ、このように争論において罪を犯した比丘と叱責する比丘が善く自己について自ら観察しなければ、比丘たちよ、この争論は長く不快で煩わしくなることが期待され、また比丘たちは安穏に住さないだろう。
 比丘たちよ、このように争論において罪を犯した比丘と叱責する比丘が善く自己について自ら観察するならば、比丘たちよ、この争論は長く不快で煩わしくならないことが期待され、また比丘たちは安穏に住するだろう」




(『南伝大蔵経17 増支部経典1』大蔵出版 P71−84  に相当)


   続く

コメント(2)

僕が最近思ったことは、仕事や日常のストレス解消のため趣味等に時に浸ったりしている日々を過ごしている時、ふと原始経典(パーリ語仏典翻訳)を開けて読んでみると一瞬のうちに「自分の今持っているむさぼり感・貪欲・怒りetc」が掻き消されるということです。
これだけは今もっても不思議に感じる事です。如来の説法(パーリ経典)の理性さ、わかりやすさ、真実さを感じます。
そのように感じることは素晴らしいことだと思います。六念のうちの法念あるとき、心は貪瞋癡にとらわれずに真っ直ぐであり、義を得て法を得ることによる喜びが生じ、三摩地に転じると増支部経典の十一集にマハーナーマへの教えにあります。傾聴・熟読は法を記憶するもと、法を記憶することは法の意義を考察するための足場となります。信ある人の一つの証拠が多聞です。

ゴータマ・シッダッタへの信がなく、原始仏典への信がない人は、原始仏典を読んでも心は五蓋に捕われ、あら探しや自分の考えの正当化に使える箇所のみを探して読みます。そのときは、義を得ることはなく、自分のいつもの思考の流れのままにとどまり、智慧に転じることは少ないです。原始仏典を読んでも「善への信」が生じない人が多いことに僕は以前は驚いていましたが、その原因を幾分知った今では、無理からぬことだと思うようになりました。

ペースは遅いですが、少しずつ訳していきたいと考えています。

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