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原始仏典コミュの四無量心7 女性も男性も修習すべし

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増支部経典>十集>第二十一

「   第九 業所生身
219.比丘たちよ、意思し為し積んだ業が感受されずに終滅するとは私は説かない。それは現世においても転生してもその後においても方法においてもである。
 比丘たちよ、また意思し為し積んだ業が感受されずに苦の寂静を作すとも私は説かない。

 比丘たちよ、かの聖弟子はこのように貪求を去り、瞋恚を去り、愚痴でなく、自覚して念じ、慈倶行の思いを一方に遍満して住する。そのように第二、そのように第三、そのように第四。こうして上下、横、世間の一切に対し一切処において一切の者に慈倶行の思いを広大に、偉大に、無量に、無怨に、無悩害に、遍満して住する。
 彼はこのように知る。「以前に私のこの心は少量であり修習されていなかった。しかし今では私のこの心は無量であり善修習されている。またいかなる有量の業であるところのもの、それはここに住さない、それはここにとどまらない」。
 比丘たちよ、どう思うか。彼が幼い子供の頃から慈心解脱を修習してきたとするならば、悪業を為すだろうか。
 大徳、それはありません。
 では、悪業を為さないのに苦に触れるだろうか。
 大徳、それはありません。
 大徳、悪業を為さないのにどうして苦が触れるでしょうか。
 比丘たちよ、女性も男性もこの慈心解脱を修習しなさい。
 比丘たちよ、女性も男性もこの身体を取って行ってはならない。
 比丘たちよ、これは心の障碍であり死である。
 彼はこのように知る。「私が業によって生じたこの身体によって為したいかなる以前の悪業であっても、その一切はここに感受され、それが従って来ないようにしよう」。
 比丘たちよ、このように慈心解脱を修習すれば不還性に転じる。ただし、智慧ある比丘はより上の解脱に通達する。

 比丘たちよ、かの聖弟子はこのように貪求を去り、瞋恚を去り、愚痴でなく、自覚して念じ、悲倶行の思いを一方に遍満して住する。そのように第二、そのように第三、そのように第四。こうして上下、横、世間の一切に対し一切処において一切の者に悲倶行の思いを広大に、偉大に、無量に、無怨に、無悩害に、遍満して住する。
 彼はこのように知る。「以前に私のこの心は少量であり修習されていなかった。しかし今では私のこの心は無量であり善修習されている。またいかなる有量の業であるところのもの、それはここに住さない、それはここにとどまらない」。
 比丘たちよ、どう思うか。彼が幼い子供の頃から悲心解脱を修習してきたとするならば、悪業を為すだろうか。
 大徳、それはありません。
 では、悪業を為さないのに苦に触れるだろうか。
 大徳、それはありません。
 大徳、悪業を為さないのにどうして苦が触れるでしょうか。
 比丘たちよ、女性も男性もこの悲心解脱を修習しなさい。
 比丘たちよ、女性も男性もこの身体を取って行ってはならない。
 比丘たちよ、これは心の障碍であり死である。
 彼はこのように知る。「私が業によって生じたこの身体によって為したいかなる以前の悪業であっても、その一切はここに感受され、それが従って来ないようにしよう」。
 比丘たちよ、このように悲心解脱を修習すれば不還性に転じる。ただし、智慧ある比丘はより上の解脱に通達する。

 比丘たちよ、かの聖弟子はこのように貪求を去り、瞋恚を去り、愚痴でなく、自覚して念じ、喜倶行の思いを一方に遍満して住する。そのように第二、そのように第三、そのように第四。こうして上下、横、世間の一切に対し一切処において一切の者に喜倶行の思いを広大に、偉大に、無量に、無怨に、無悩害に、遍満して住する。
 彼はこのように知る。「以前に私のこの心は少量であり修習されていなかった。しかし今では私のこの心は無量であり善修習されている。またいかなる有量の業であるところのもの、それはここに住さない、それはここにとどまらない」。
 比丘たちよ、どう思うか。彼が幼い子供の頃から喜心解脱を修習してきたとするならば、悪業を為すだろうか。
 大徳、それはありません。
 では、悪業を為さないのに苦に触れるだろうか。
 大徳、それはありません。
 大徳、悪業を為さないのにどうして苦が触れるでしょうか。
 比丘たちよ、女性も男性もこの喜心解脱を修習しなさい。
 比丘たちよ、女性も男性もこの身体を取って行ってはならない。
 比丘たちよ、これは心の障碍であり死である。
 彼はこのように知る。「私が業によって生じたこの身体によって為したいかなる以前の悪業であっても、その一切はここに感受され、それが従って来ないようにしよう」。
 比丘たちよ、このように喜心解脱を修習すれば不還性に転じる。ただし、智慧ある比丘はより上の解脱に通達する。

 比丘たちよ、かの聖弟子はこのように貪求を去り、瞋恚を去り、愚痴でなく、自覚して念じ、捨倶行の思いを一方に遍満して住する。そのように第二、そのように第三、そのように第四。こうして上下、横、世間の一切に対し一切処において一切の者に捨倶行の思いを広大に、偉大に、無量に、無怨に、無悩害に、遍満して住する。
 彼はこのように知る。「以前に私のこの心は少量であり修習されていなかった。しかし今では私のこの心は無量であり善修習されている。またいかなる有量の業であるところのもの、それはここに住さない、それはここにとどまらない」。
 比丘たちよ、どう思うか。彼が幼い子供の頃から捨心解脱を修習してきたとするならば、悪業を為すだろうか。
 大徳、それはありません。
 では、悪業を為さないのに苦に触れるだろうか。
 大徳、それはありません。
 大徳、悪業を為さないのにどうして苦が触れるでしょうか。
 比丘たちよ、女性も男性もこの捨心解脱を修習しなさい。
 比丘たちよ、女性も男性もこの身体を取って行ってはならない。
 比丘たちよ、これは心の障碍であり死である。
 彼はこのように知る。「私が業によって生じたこの身体によって為したいかなる以前の悪業であっても、その一切はここに感受され、それが従って来ないようにしよう」。
 比丘たちよ、このように捨心解脱を修習すれば不還性に転じる。ただし、智慧ある比丘はより上の解脱に通達する」

   『南伝大蔵経22下 増支部経典7』大蔵出版 P260−262 に相当





「比丘たちよ、これは心の障碍であり死である」の記述は南伝では「此は可死にして心を因とす」となっています。パーリ語原文は「Cittantaro ayaṃ, bhikkhave , macco.」。これを僕は「心のCitta 障碍antaro これはayaṃ, 比丘たちよbhikkhave , 死であるmacco.」と取りました。

「有情は必ず自分の業を全て残らず相続しなければならない」というのが正しい業の報いの見方だと思います。法則に例外はありませんから。「自分は自分の業を全て残らず相続する」という考え方を受け入れると自分の過去の悪業に対して痛烈な後悔が生じてきます。懺悔の念が生じても謝る相手はもういないので仕方ありません。また謝ることは善行の一つではありますが、それは新たな善業の形成であり、過去の悪業は謝罪を受け入れてもらえたとしても必ず自分が相続することになります。自分が他者に与えたような感受を自分も感受することによってその業は終わります。修行が足りないとその苦しみに耐え切ることができずに、その苦しみの体験を原因としてまた悪業を犯してしまうことになるので、自制が必要です。悪業の報いはしばしば他者によって苦しみを与えられるという形で還ってくるので、怒りや恨みや復讐を再度生み出しがちだからです。病気もまた辛く、自分がいっぱいいっぱいだと他者に対して不愉快なことを言いがちになります。本当に恐るべきは「罪」です。

この記述から四無量心を善く修習すると「悪業の報いが速やかにやってくる」ということが推察できます。恐ろしい事ですが、いずれ借金を払わなければいけないので仕方ありません。また「悪業を為さなければ苦が触れることはない」と書いてあります。それによって考えられるのは、個人存在がいつから始まるのかはわかりませんが、はじめは苦しみを感受することはあまりないのだと思います。苦が少ないので楽が多い。しかし無明は始めからあるので、楽に執着し苦を厭い、それを原因として何らかの悪業を為す。その悪業の報いが還ってくると相変わらず無明なので過ちに気づかずに「自分はこれを苦しんだのだから、他者もこの苦しみを感受して当然だろう」として、再度悪業を為します。この繰り返しが雪だるま式に膨れ上がってそれぞれの人の個性を形づくっているのだと思います。たとえば「親にされたあの嫌なことを、実は自分も人に対してしている。あるいは子供に対してしている」という自分に気づくと思います。自分にとって一番嫌なことを身近な人に繰り返し行ない続けているという事実に気づけば、人格上におけるかなりの進歩が期待されます。




9. Karajakāyasuttaṃ
219. ‘‘Nāhaṃ, bhikkhave, sañcetanikānaṃ kammānaṃ katānaṃ upacitānaṃ appaṭisaṃveditvā byantībhāvaṃ vadāmi, tañca kho diṭṭheva dhamme upapajje vā apare vā pariyāye. Na tvevāhaṃ, bhikkhave, sañcetanikānaṃ kammānaṃ katānaṃ upacitānaṃ appaṭisaṃveditvā dukkhassantakiriyaṃ vadāmi.
‘‘Sa kho so, bhikkhave, ariyasāvako evaṃ vigatābhijjho vigatabyāpādo asammūḷho sampajāno paṭissato mettāsahagatena cetasā ekaṃ disaṃ pharitvā viharati tathā dutiyaṃ tathā tatiyaṃ tathā catutthaṃ [catutthiṃ (?)]. Iti uddhamadho tiriyaṃ sabbadhi sabbattatāya sabbāvantaṃ lokaṃ mettāsahagatena cetasā vipulena mahaggatena appamāṇena averena abyāpajjena pharitvā viharati.
‘‘So evaṃ pajānāti – ‘pubbe kho me idaṃ cittaṃ parittaṃ ahosi abhāvitaṃ, etarahi pana me idaṃ cittaṃ appamāṇaṃ subhāvitaṃ. Yaṃ kho pana kiñci pamāṇakataṃ kammaṃ, na taṃ tatrāvasissati na taṃ tatrāvatiṭṭhatī’ti .
‘‘Taṃ kiṃ maññatha, bhikkhave, daharatagge ce so ayaṃ [ce ayaṃ (syā.)] kumāro mettaṃ cetovimuttiṃ bhāveyya, api nu kho [api nu so (?)] pāpakammaṃ kareyyā’’ti? ‘‘No hetaṃ, bhante’’.
‘‘Akarontaṃ kho pana pāpakammaṃ api nu kho dukkhaṃ phuseyyā’’ti? ‘‘No hetaṃ, bhante. Akarontañhi, bhante, pāpakammaṃ kuto dukkhaṃ phusissatī’’ti!
‘‘Bhāvetabbā kho panāyaṃ, bhikkhave, mettācetovimutti itthiyā vā purisena vā. Itthiyā vā, bhikkhave, purisassa vā nāyaṃ kāyo ādāya gamanīyo. Cittantaro ayaṃ, bhikkhave , macco. So evaṃ pajānāti – ‘yaṃ kho me idaṃ kiñci pubbe iminā karajakāyena pāpakammaṃ kataṃ, sabbaṃ taṃ idha vedanīyaṃ; na taṃ anugaṃ bhavissatī’ti. Evaṃ bhāvitā kho, bhikkhave, mettā cetovimutti anāgāmitāya saṃvattati, idha paññassa bhikkhuno uttari [uttariṃ (sī. syā. pī.)] vimuttiṃ appaṭivijjhato.
‘‘Karuṇāsahagatena cetasā… muditāsahagatena cetasā… upekkhāsahagatena cetasā ekaṃ disaṃ pharitvā viharati tathā dutiyaṃ tathā tatiyaṃ tathā catutthaṃ. Iti uddhamadho tiriyaṃ sabbadhi sabbattatāya sabbāvantaṃ lokaṃ upekkhāsahagatena cetasā vipulena mahaggatena appamāṇena averena abyāpajjena pharitvā viharati.
‘‘So evaṃ pajānāti – ‘pubbe kho me idaṃ cittaṃ parittaṃ ahosi abhāvitaṃ, etarahi pana me idaṃ cittaṃ appamāṇaṃ subhāvitaṃ. Yaṃ kho pana kiñci pamāṇakataṃ kammaṃ , na taṃ tatrāvasissati na taṃ tatrāvatiṭṭhatī’ti.
‘‘Taṃ kiṃ maññatha, bhikkhave, daharatagge ce so ayaṃ kumāro upekkhaṃ cetovimuttiṃ bhāveyya, api nu kho pāpakammaṃ kareyyā’’ti? ‘‘No hetaṃ, bhante’’.
‘‘Akarontaṃ kho pana pāpakammaṃ api nu kho dukkhaṃ phuseyyā’’ti? ‘‘No hetaṃ, bhante. Akarontañhi, bhante, pāpakammaṃ kuto dukkhaṃ phusissatī’’ti!
‘‘Bhāvetabbā kho panāyaṃ, bhikkhave, upekkhā cetovimutti itthiyā vā purisena vā. Itthiyā vā, bhikkhave, purisassa vā nāyaṃ kāyo ādāya gamanīyo. Cittantaro ayaṃ, bhikkhave, macco. So evaṃ pajānāti – ‘yaṃ kho me idaṃ kiñci pubbe iminā karajakāyena pāpakammaṃ kataṃ, sabbaṃ taṃ idha vedanīyaṃ; na taṃ anugaṃ bhavissatī’ti. Evaṃ bhāvitā kho, bhikkhave, upekkhā cetovimutti anāgāmitāya saṃvattati, idha paññassa bhikkhuno uttari vimuttiṃ appaṭivijjhato’’ti. Navamaṃ.

コメント(2)

この経は少し意味が取りにくいのですが「とにかく男女ともに四無量を多修すれば善い。不還や阿羅漢にも近づく」ということだと思います。



最近思ったのは「嫌いな人間に慈心を修するとき」についてです。

僕もこちらに不利益を与える人間は嫌いですから、身体的にも精神的にも距離を取りたいと思います。付き合うと不利益になる人間とは付き合わないようにし、付き合うと利益になる人間とは付き合うようにするというのがお互いにとっていいことだと思います。「お互いにとって利益になる範囲内でのみ付き合う」ということが双方の利益となり、礼儀でもあり、正義でもあると僕は考えています。これは「親しむべきもの」と「親しむべきでないもの」というゴータマの教えにも関連してきます。個々人の長所が出て来る距離では親しんでもよいと思いますが、どちらか一方や両者の短所が出て来るほど過度に親しみ、馴れ合うのは、双方にとって不利益をもたらす領域に踏み入っていると思います。

ですが在家である限りは付き合うと不利益になる人間とも顔を合わせなければ、さらに自分の不利益になる場合があります。たとえば会社をやめざるを得なくなるとか不登校とか家出という不利益な選択をするしかない場合です。その場合は、まだ嫌いな人間とともに過ごすことがマシな選択なので誰もが嫌な人と会う苦しみに甘んじていると思います。

・・・とここまで書いて来たのですが「嫌いな人との付き合い」というテーマはあまりにも問題が大き過ぎますので、論点を「嫌いな人に慈心を修するとき」に戻すと、要するに嫌いな人に慈心を修するときは「この善業の報いは一滴残らず自分に返って来る」というこの考え、この想に依拠するのがとても有効ということです。

僕も苦手で付き合いたくない人間はいるので、なんとかそういう人との関係から自分の利益を引き出そうと思うのですが「この人間が幸せになれば自分もお裾分けしてもらえるだろう」と思って慈心を修しても「しかしお裾分けしてもらえない可能性もある」と思うと慈心を修する気も失せるものです。

ですから100%期待できる利益の想を生起させることによってのみ、それを原因として実際に慈心を修したくなるという意欲が結果されます。その想がやはり「この慈心を修するという善業は一滴残らず自分が相続するぞ」という考えです。「この善業の報いは一滴残らず自分に返って来る」と考えると嫌いな人にも慈心を修せます。

「業の報いは善人の命である」ということを僕は今まで書いて来ていますが、僕自身もいまだこの想を完全にマスターしたわけではありません。何度も何度も「善業も悪業も全て本人が相続する」と繰り返し思うことによって性格の一部に組み込んで行かないと十分ではありません。そして全ての悪行が自分から断たれたときにはじめて「自分は十分に業の報いという正見を修習した」と言えると思います。

とすると「善業も悪業も一滴残らず必ず本人が相続する」という繰り返し念じる修行も自分の修行カリキュラムに組み込めばより無害も堅固なものになります。「絶対に自他双方を傷付けてはいけない」というのは肉付けであり「善業も悪業も一滴残らず必ず本人が相続する」というのは骨格そのものです。鉄筋コンクリートの鉄筋とコンクリートの関係のようなものだと思います。

「なぜ自他を傷付けてはいけないのか」と問われれば「生ける者は自ら為した業を必ず相続するから」という理由が正しいと思います。ゆえに業の報いは善人の命です。もしも業の報いが存在しないなら、明らかに暴力と搾取を基本手段とし、自分以外の全存在を奴隷化・家畜化したほうが自分にとって利益になります。しかし業の報いがないことを確認していないのにその方法論を取ることは、もし業の報いがあったときに、それはあまりに危険すぎる方法なので、堅実に手堅く「業の報いはある」と仮定して生きていったほうがよいということは繰り返し書いていることです。


そこで嫌いな人間に慈心を修するときは「この善業の報いは一滴残らず自分が相続するぞ」と思って修するのがおすすめです。僕はその方法を取るのを好みますが、他にも嫌いな人間に慈心を修することを結果するような善想というのはあると思います。それらを探してみるのもまた善いことだと思います。
私も以前は、嫌いな人のことで随分悩まされました。もちろん、未だその全てを受け入れて、そして許し、その因縁を断ち切ることはできていません。しかし、この慈悲の瞑想に出会って、少しはその苦の因縁を断ち切ることができたように思っています。私の考え方も及ばずながらですが、一応発表しておきます。

テーラワーダ仏教協会の慈悲の瞑想
http://www.j-theravada.net/3-jihi.html

私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように

これを私は以下のように補足して考えています。

私の嫌いな人が本当の意味で幸せであるとき、彼は知恵に目覚めているはずである、だから、私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人の悩み苦しみごとが本当の意味でなくなるとき、彼は知恵に目覚めているはずである、だから、私の嫌いな人々の悩み苦しみごとがなくなりますように
私の嫌いな人の願いごとが本当の意味で叶うとき、彼は知恵に目覚めているはずである、だから、私の嫌いな人々の願いごとが叶いますように
私の嫌いな人にも悟りの光が現れるとき、彼は知恵に目覚めているはずである、だから、私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように

ところで、彼が知恵に目覚めているとき、彼は、嘘をつきません。彼は、軽率な行動をしません。彼は、怠惰でありません。彼は、強欲でありません。そして、私に害意を持ちません。だから、彼に知恵に目覚めてもらって、幸せであり、悩み苦しみごとをなくし、願いごとを叶え、悟りの光を現して欲しいのです。そうすれば、そもそも彼は私にとって嫌いな人ですらなくなります。

と考えるようにしています。

嘘をついて利益を得ると、彼は嘘がばれないように怯えて暮らさなければなりません。軽率な行動ばかりしていると、彼はいつか自分の体を傷つけることになります。怠惰であるとき、彼は皆から相手にされなくなります。強欲であるとき、彼は欲しいものを手に入れることで頭がいっぱいになって、他のことをすることができません。こんな生活は、とてもじゃないけど、幸せでもなんでもありません。ほんの少しでも冷静に考えることができれば、これらの結果は目に見えています。だから、知恵ある人は、嘘もつかないし、軽率な行動をしないし、怠惰ではないし、強欲ではありません。このように考えて、嫌いな人への慈心や悲心を持つようにしています。

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