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原始仏典コミュの根相応 「五根・他」2

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(続き  『南伝大蔵経16下 相応部経典6』大蔵出版 P19−38  に相当)



「     第三 六根品

   第一 後有
491.比丘たちよ、これら五つの根がある。何が五か。
 信根、精進根、念根、定根、慧根である。
 比丘たちよ、これら五つの根がある。
 比丘たちよ、私がこれら五つの根の集起と滅没と味と過患と出離を事実の通りに悟っていないときは、比丘たちよ、私は天と魔と梵と沙門婆羅門、人々と神々と人間の世界において「無上の正しい覚りを覚った」とは宣言しなかった。
 しかし比丘たちよ、私がこれら五つの根の集起と滅没と味と過患と出離を事実の通りに悟ったがゆえに、比丘たちよ、私は天と魔と梵と沙門婆羅門、人々と神々と人間の世界において「無上の正しい覚りを覚った」と宣言した。さらにまた私に知と見が生じた。「私の解脱は不動である。これが最後の生である。今やさらなる有(再有、後有)はない」と。


   第二 命根
492.比丘たちよ、これら三つの根がある。何が三か。
 女根、男根、命根。
 比丘たちよ、これら三つの根がある。

(女根:Itthindriya、男根:purisindriya、命根:jīvitindriya)


   第三 知根
493.比丘たちよ、これら三つの根がある。何が三か。
 知っていないと知る根、知る根、知ったことを具える根。
 比丘たちよ、これら三つの根がある。

(未知当知根:anaññātaññassāmītindriya、巳知根:aññindriya、具知根:aññātāvindriya)


   第四 一種
494.比丘たちよ、これら五つの根がある。何が五か。
 信根、精進根、念根、定根、慧根である。
 比丘たちよ、これら五つの根がある。
 比丘たちよ、これら五つの根を完成し円満すれば、阿羅漢である。
 それより軟弱であれば、中般涅槃者である。
 それより軟弱であれば、損害般涅槃者である。
 それより軟弱であれば、無行般涅槃者である。
 それより軟弱であれば、有行般涅槃者である。
 それより軟弱であれば、アカニッタに行く者である。
 それより軟弱であれば、一来者である。
 それより軟弱であれば、一種子者である。
 それより軟弱であれば、家々者である。
 それより軟弱であれば、七回を最高とする者である。
 それより軟弱であれば、随法行者である。
 それより軟弱であれば、随信行者である。


(・一来者:サカダーガーミン、sakadāgāmin、サカタはサキッドsakidで「一度、一回」、アーガーミンは「来る者」、神になってからもう一度人間に転生する者だと僕は考えています
・一種子の者:エーカビージン、ekabījin、エーカは「一」、ビージは「種・種子」、神にならずに一度人間に転生する者だと僕は考えています
・家々の者:コーランコーラ、kolaṃkola、コーラはクラkulaで家・良家・家系、数回人間に転生する者だと僕は考えています
・七回を最高とする者:サッタッカットゥパラマ、sattakkhattuparama、サッタは「七」、カットゥは「回、度」、パラマは「最高、最上、第一」、最高でも七回人間に転生して涅槃する者だと僕は考えています)


   第五 清浄
495.比丘たちよ、これら六つの根がある。何が六か。
 眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根。
 比丘たちよ、これら六つの根がある。


   第六 預流
496.比丘たちよ、これら六つの根がある。何が六か。
 眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根。
 比丘たちよ、これら六つの根がある。
 比丘たちよ、聖なる弟子はこれら六つの根の集起と滅没と味と過患と出離を事実の通りに知るがゆえにこう言われる。
 比丘たちよ、「聖なる弟子は流れに入った、堕ちない法である、決定した、正覚に趣く」と。


   第七 阿羅漢
497.比丘たちよ、これら六つの根がある。何が六か。
 眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根。
 比丘たちよ、これら六つの根がある。
 比丘たちよ、聖なる弟子はこれら六つの根の集起と滅没と味と過患と出離を事実の通りに知り、無取解脱するゆえに、こう言われる。
 比丘たちよ、「比丘は阿羅漢である、漏が尽きた、完成した、作すべきことを作した、重荷を下ろした、善利に到達した、有結を遍尽した、正しく悟った、解脱した」と。


   第八 正覚
498.比丘たちよ、これら六つの根がある。何が六か。
 眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根。
 比丘たちよ、これら六つの根がある。
 比丘たちよ、私がこれら六つの根の集起と滅没と味と過患と出離を事実の通りに悟っていないときは、比丘たちよ、私は天と魔と梵と沙門婆羅門、人々と神々と人間の世界において「無上の正しい覚りを覚った」とは宣言しなかった。
 しかし比丘たちよ、私がこれら六つの根の集起と滅没と味と過患と出離を事実の通りに悟ったがゆえに、比丘たちよ、私は天と魔と梵と沙門婆羅門、人々と神々と人間の世界において「無上の正しい覚りを覚った」と宣言した。さらにまた私に知と見が生じた。「私の解脱は不動である。これが最後の生である。今やさらなる有はない」と。


   第九 沙門婆羅門[一]
499.比丘たちよ、これら六つの根がある。何が六か。
 眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根。
 比丘たちよ、これら六つの根がある。
 比丘たちよ、いかなる沙門婆羅門であっても、これら六つの根の集起と滅没と味と過患と出離を事実の通りに知らないならば、比丘たちよ、私はその沙門婆羅門は沙門たちの中で沙門とは見なさず、婆羅門たちの中で婆羅門とは見なさない。またその具寿たちが沙門の義・婆羅門の義を現世において自ら超知し、実証し、具足して住することはあり得ないとする。
 しかし比丘たちよ、いかなる沙門婆羅門であっても、これら六つの根の集起と滅没と味と過患と出離を事実の通りに知るならば、比丘たちよ、私はその沙門婆羅門は沙門たちの中で沙門と見なし、婆羅門たちの中で婆羅門と見なす。またその具寿たちが沙門の義・婆羅門の義を現世において自ら超知し、実証し、具足して住することはあり得るとする。


   第十 沙門婆羅門[二]
500. 比丘たちよ、いかなる沙門婆羅門であっても、
 眼根を知らず、眼根の集を知らず、眼根の滅を知らず、眼根の滅に行く道跡を知らず、
 耳根を知らず、耳根の集を知らず、耳根の滅を知らず、耳根の滅に行く道跡を知らず、
 鼻根を知らず、鼻根の集を知らず、鼻根の滅を知らず、鼻根の滅に行く道跡を知らず、
 舌根を知らず、舌根の集を知らず、舌根の滅を知らず、舌根の滅に行く道跡を知らず、
 身根を知らず、身根の集を知らず、身根の滅を知らず、身根の滅に行く道跡を知らず、
 意根を知らず、意根の集を知らず、意根の滅を知らず、意根の滅に行く道跡を知らないならば、
 比丘たちよ、私はその沙門婆羅門は沙門たちの中で沙門とは見なさず、婆羅門たちの中で婆羅門とは見なさない。またその具寿たちが沙門の義・婆羅門の義を現世において自ら超知し、実証し、具足して住することはあり得ないとする。
 しかし比丘たちよ、いかなる沙門婆羅門であっても、
 眼根を知り、眼根の集を知り、眼根の滅を知り、眼根の滅に行く道跡を知り、
 耳根を知り、耳根の集を知り、耳根の滅を知り、耳根の滅に行く道跡を知り、
 鼻根を知り、鼻根の集を知り、鼻根の滅を知り、鼻根の滅に行く道跡を知り、
 舌根を知り、舌根の集を知り、舌根の滅を知り、舌根の滅に行く道跡を知り、
 身根を知り、身根の集を知り、身根の滅を知り、身根の滅に行く道跡を知り、
 意根を知り、意根の集を知り、意根の滅を知り、意根の滅に行く道跡を知るならば、
 比丘たちよ、私はその沙門婆羅門は沙門たちの中で沙門と見なし、婆羅門たちの中で婆羅門と見なす。またその具寿たちが沙門の義・婆羅門の義を現世において自ら超知し、実証し、具足して住することはあり得るとする。

                 第三 六根品 [畢]

   この頌に曰く
      後有と命と悟、一種子と清浄、
      流れと阿羅漢と正覚、二つの沙門婆羅門。


     第四 楽根品

   第一 清浄
501.比丘たちよ、これら五つの根がある。何が五か。
 楽根、苦根、喜根、憂根、捨根。
 比丘たちよ、これら五つの根がある。


   第二 預流
502.比丘たちよ、これら五つの根がある。何が五か。
 楽根、苦根、喜根、憂根、捨根。
 比丘たちよ、これら五つの根がある。
 比丘たちよ、聖なる弟子はこれら五つの根の集起と滅没と味と過患と出離を事実の通りに知るがゆえに、こう言われる。
 比丘たちよ、「聖なる弟子は流れに入った、堕ちない法である、決定した、正覚に趣く」と。


   第三 阿羅漢
503.比丘たちよ、これら五つの根がある。何が五か。
 楽根、苦根、喜根、憂根、捨根。
 比丘たちよ、これら五つの根がある。
 比丘たちよ、聖なる弟子はこれら五つの根の集起と滅没と味と過患と出離を事実の通りに知り、無取解脱するゆえに、こう言われる。
 比丘たちよ、「比丘は阿羅漢である、漏が尽きた、完成した、作すべきことを作した、重荷を下ろした、善利に到達した、有結を遍尽した、正しく悟った、解脱した」と。


   第四 沙門婆羅門[一]
504.比丘たちよ、これら五つの根がある。何が五か。
 楽根、苦根、喜根、憂根、捨根。
 比丘たちよ、これら五つの根がある。
 比丘たちよ、いかなる沙門婆羅門であっても、この五つの根の集起と滅没と味と過患と出離を事実の通りに知らないならば、比丘たちよ、私はその沙門婆羅門は沙門たちの中で沙門とは見なさず、婆羅門たちの中で婆羅門とは見なさない。またその具寿たちが沙門の義・婆羅門の義を現世において自ら超知し、実証し、具足して住することはあり得ないとする。
 しかし比丘たちよ、いかなる沙門婆羅門であっても、この五つの根の集起と滅没と味と過患と出離を事実の通りに知るならば、比丘たちよ、私はその沙門婆羅門は沙門たちの中で沙門と見なし、婆羅門たちの中で婆羅門と見なす。またその具寿たちが沙門の義・婆羅門の義を現世において自ら超知し、実証し、具足して住することはあり得るとする。


   第五 沙門婆羅門[二]
505. 比丘たちよ、いかなる沙門婆羅門であっても、
 楽根を知らず、楽根の集を知らず、楽根の滅を知らず、楽根の滅に行く道跡を知らず、
 苦根を知らず、苦根の集を知らず、苦根の滅を知らず、苦根の滅に行く道跡を知らず、
 喜根を知らず、喜根の集を知らず、喜根の滅を知らず、喜根の滅に行く道跡を知らず、
 憂根を知らず、憂根の集を知らず、憂根の滅を知らず、憂根の滅に行く道跡を知らず、
 捨根を知らず、捨根の集を知らず、捨根の滅を知らず、捨根の滅に行く道跡を知らないならば、
 比丘たちよ、私はその沙門婆羅門は沙門たちの中で沙門とは見なさず、婆羅門たちの中で婆羅門とは見なさない。またその具寿たちが沙門の義・婆羅門の義を現世において自ら超知し、実証し、具足して住することはあり得ないとする。
 しかし比丘たちよ、いかなる沙門婆羅門であっても、
 楽根を知り、楽根の集を知り、楽根の滅を知り、楽根の滅に行く道跡を知り、
 苦根を知り、苦根の集を知り、苦根の滅を知り、苦根の滅に行く道跡を知り、
 喜根を知り、喜根の集を知り、喜根の滅を知り、喜根の滅に行く道跡を知り、
 憂根を知り、憂根の集を知り、憂根の滅を知り、憂根の滅に行く道跡を知り、
 捨根を知り、捨根の集を知り、捨根の滅を知り、捨根の滅に行く道跡を知るならば、
 比丘たちよ、私はその沙門婆羅門は沙門たちの中で沙門と見なし、婆羅門たちの中で婆羅門と見なす。またその具寿たちが沙門の義・婆羅門の義を現世において自ら超知し、実証し、具足して住することはあり得るとする。


   第六 広説[一]
506.比丘たちよ、これら五つの根がある。何が五か。
 楽根、苦根、喜根、憂根、捨根。
 比丘たちよ、何が楽根か。
 比丘たちよ、身の楽、身の悦、身の接触によって生じる楽・悦を感受すること。 
 比丘たちよ、これが楽根と言われる。
 比丘たちよ、何が苦根か。
 比丘たちよ、身の苦、身の不悦、身の接触によって生じる苦・不悦を感受すること。
 比丘たちよ、これが苦根と言われる。
 比丘たちよ、何が喜根か。
 比丘たちよ、心の楽、心の悦、心の接触によって生じる楽・悦を感受すること。 
 比丘たちよ、これが喜根と言われる。
 比丘たちよ、何が憂根か。
 比丘たちよ、心の苦、心の不悦、心の接触によって生じる苦・不悦を感受すること。
 比丘たちよ、これが憂根と言われる。
 比丘たちよ、何が捨根か。
 比丘たちよ、身または心の悦でもなく不悦でもないものを感受すること。
 比丘たちよ、これが捨根と言われる。
 比丘たちよ、これら五つの根がある。


   第七 広説[二]
507.比丘たちよ、これら五つの根がある。何が五か。
 楽根、苦根、喜根、憂根、捨根。
 比丘たちよ、何が楽根か。
 比丘たちよ、身の楽、身の悦、身の接触によって生じる楽・悦を感受すること。 
 比丘たちよ、これが楽根と言われる。
 比丘たちよ、何が苦根か。
 比丘たちよ、身の苦、身の不悦、身の接触によって生じる苦・不悦を感受すること。
 比丘たちよ、これが苦根と言われる。
 比丘たちよ、何が喜根か。
 比丘たちよ、心の楽、心の悦、心の接触によって生じる楽・悦を感受すること。 
 比丘たちよ、これが喜根と言われる。
 比丘たちよ、何が憂根か。
 比丘たちよ、心の苦、心の不悦、心の接触によって生じる苦・不悦を感受すること。
 比丘たちよ、これが憂根と言われる。
 比丘たちよ、何が捨根か。
 比丘たちよ、身または心の悦でもなく不悦でもないものを感受すること。
 比丘たちよ、これが捨根と言われる。
 比丘たちよ、このうち楽根と喜根、それは楽の感受であると見られるべきである。
 比丘たちよ、このうち苦根と憂根、それは苦の感受であると見られるべきである。
 比丘たちよ、このうち捨根、それは不苦不楽の感受であると見られる
 比丘たちよ、これら五つの根がある。


   第八 広説[三]
508.比丘たちよ、これら五つの根がある。何が五か。
 楽根、苦根、喜根、憂根、捨根。
 比丘たちよ、何が楽根か。
 比丘たちよ、身の楽、身の悦、身の接触によって生じる楽・悦を感受すること。 
 比丘たちよ、これが楽根と言われる。
 比丘たちよ、何が苦根か。
 比丘たちよ、身の苦、身の不悦、身の接触によって生じる苦・不悦を感受すること。
 比丘たちよ、これが苦根と言われる。
 比丘たちよ、何が喜根か。
 比丘たちよ、心の楽、心の悦、心の接触によって生じる楽・悦を感受すること。 
 比丘たちよ、これが喜根と言われる。
 比丘たちよ、何が憂根か。
 比丘たちよ、心の苦、心の不悦、心の接触によって生じる苦・不悦を感受すること。
 比丘たちよ、これが憂根と言われる。
 比丘たちよ、何が捨根か。
 比丘たちよ、身または心の悦でもなく不悦でもないものを感受すること。
 比丘たちよ、これが捨根と言われる。
 比丘たちよ、このうち楽根と喜根、それは楽の感受であると見られるべきである。
 比丘たちよ、このうち苦根と憂根、それは苦の感受であると見られるべきである。
 比丘たちよ、このうち捨根、それは不苦不楽の感受であると見られる
 比丘たちよ、このようにこれら五つの根は法門によって五にして三であり、三にして五である。


   第九 火切り
509.比丘たちよ、これら五つの根がある。何が五か。
 楽根、苦根、喜根、憂根、捨根。
 比丘たちよ、楽受の触を縁として楽根が生じる。彼は楽であるときは「私は楽である」と知る。この楽受の触が滅したときは「楽受の触を縁として生じた楽根であるこの受、それは滅してそれは寂静となった」と知る。
 比丘たちよ、苦受の触を縁として苦根が生じる。彼は苦であるときは「私は苦である」と知る。この苦受の触が滅したときは「苦受の触を縁として生じた苦根であるこの受、それは滅してそれは寂静となった」と知る。
 比丘たちよ、喜受の触を縁として喜根が生じる。彼は喜であるときは「私は喜である」と知る。この喜受の触が滅したときは「喜受の触を縁として生じた喜根であるこの受、それは滅してそれは寂静となった」と知る。
 比丘たちよ、憂受の触を縁として憂根が生じる。彼は憂であるときは「私は憂である」と知る。この憂受の触が滅したときは「憂受の触を縁として生じた憂根であるこの受、それは滅してそれは寂静となった」と知る。
 比丘たちよ、捨受の触を縁として捨根が生じる。彼は捨であるときは「私は捨である」と知る。この捨受の触が滅したときは「捨受の触を縁として生じた捨根であるこの受、それは滅してそれは寂静となった」と知る。
 比丘たちよ、たとえば二つの木を合わせて擦ると熱が生じ火が起きるが、これらの木を別々に離すとその熱は滅し寂静となる。
 比丘たちよ、このように楽受の触を縁として楽根は生じる。彼は楽であるときは「私は楽である」と知る。この楽受の触が滅したときは「楽受の触を縁として生じた楽根であるこの受、それは滅してそれは寂静となった」と知る。
 比丘たちよ、苦受の触を縁として苦根が生じる。彼は苦であるときは「私は苦である」と知る。この苦受の触が滅したときは「苦受の触を縁として生じた苦根であるこの受、それは滅してそれは寂静となった」と知る。
 比丘たちよ、喜受の触を縁として喜根が生じる。彼は喜であるときは「私は喜である」と知る。この喜受の触が滅したときは「喜受の触を縁として生じた喜根であるこの受、それは滅してそれは寂静となった」と知る。
 比丘たちよ、憂受の触を縁として憂根が生じる。彼は憂であるときは「私は憂である」と知る。この憂受の触が滅したときは「憂受の触を縁として生じた憂根であるこの受、それは滅してそれは寂静となった」と知る。
 比丘たちよ、捨受の触を縁として捨根が生じる。彼は捨であるときは「私は捨である」と知る。この捨受の触が滅したときは「捨受の触を縁として生じた捨根であるこの受、それは滅してそれは寂静となった」と知る。


   第十 生起
510.比丘たちよ、これら五つの根がある。何が五か。
 苦根、憂根、楽根、喜根、捨根。
 比丘たちよ、ここに比丘が不放逸に熱心に精勤して住すると苦根が生じる。彼はこのように知る。「実に私にこの苦根が生じた。そしてこれは有相であり、有因であり、有行であり、有縁である。また無相、無因、無行、無縁にして苦根が生じるというこの処は知られない」。彼は苦根をも知り、苦根の集起をも知り、苦根の滅をも知り、生じた苦根を残り無く滅するところをも知る。どこで生じた苦根は残り無く滅するのか。
 比丘たちよ、ここに比丘は欲を遠離し不善法を遠離し、有尋有伺であり遠離によって生じる喜楽がある第一禅那を具足して住する、ここで生じた苦根は残り無く滅する。 
 比丘たちよ、これが「比丘は苦根の滅を悟り、その義利に心を運ぶ」と言われる。
 比丘たちよ、またここに比丘が不放逸に熱心に精勤して住すると憂根が生じる。彼はこのように知る。「実に私にこの憂根が生じた。そしてこれは有相であり、有因であり、有行であり、有縁である。また無相、無因、無行、無縁にして憂根が生じるというこの処は知られない」。彼は憂根をも知り、憂根の集起をも知り、憂根の滅をも知り、生じた憂根を残り無く滅するところをも知る。どこで生じた憂根は残り無く滅するのか。
 比丘たちよ、ここに比丘は無尋無伺にして寂静し、内に歓喜し、心の一境性があり、無尋無伺の三摩地によって生じる喜楽がある第二禅那を具足して住する、ここで生じた憂根は残り無く滅する。 
 比丘たちよ、これが「比丘は憂根の滅を悟り、その義利に心を運ぶ」と言われる。
 比丘たちよ、またここに比丘が不放逸に熱心に精勤して住すると楽根が生じる。彼はこのように知る。「実に私にこの楽根が生じた。そしてこれは有相であり、有因であり、有行であり、有縁である。また無相、無因、無行、無縁にして楽根が生じるというこの処は知られない」。彼は楽根をも知り、楽根の集起をも知り、楽根の滅をも知り、生じた楽根を残り無く滅するところをも知る。どこで生じた楽根は残り無く滅するのか。
 比丘たちよ、ここに比丘は喜をも離貪し、また捨に住し、また念じて自覚し、身に楽をも感受し、聖者たちが「捨す者、念じる者、楽に住する者」と説くその第三禅那を具足して住する、ここで生じた楽根は残り無く滅する。 
 比丘たちよ、これが「比丘は楽根の滅を悟り、その義利に心を運ぶ」と言われる。
 比丘たちよ、またここに比丘が不放逸に熱心に精勤して住すると喜根が生じる。彼はこのように知る。「実に私にこの喜根が生じた。そしてこれは有相であり、有因であり、有行であり、有縁である。また無相、無因、無行、無縁にして喜根が生じるというこの処は知られない」。彼は喜根をも知り、喜根の集起をも知り、喜根の滅をも知り、生じた喜根を残り無く滅するところをも知る。どこで生じた喜根は残り無く滅するのか。
 比丘たちよ、ここに比丘は楽をも断ち苦をも断ち、以前に喜憂を滅没させていることにより、無苦無楽であり捨念遍浄である第四禅那を具足して住する、ここで生じた喜根は残り無く滅する。 
 比丘たちよ、これが「比丘は喜根の滅を悟り、その義利に心を運ぶ」と言われる。
 比丘たちよ、またここに比丘が不放逸に熱心に精勤して住すると捨根が生じる。彼はこのように知る。「実に私にこの捨根が生じた。そしてこれは有相であり、有因であり、有行であり、有縁である。また無相、無因、無行、無縁にして捨根が生じるというこの処は知られない」。彼は捨根をも知り、捨根の集起をも知り、捨根の滅をも知り、生じた捨根を残り無く滅するところをも知る。どこで生じた捨根は残り無く滅するのか。
 比丘たちよ、ここに比丘は一切の非想非非想処を超越し、想受滅を具足して住する、ここで生じた捨根は残り無く滅する。 
 比丘たちよ、これが「比丘は捨根の滅を悟り、その義利に心を運ぶ」と言われる。

                          第四 楽根品 

  この頌に曰く
    清浄と流れと阿羅漢と、二つの沙門婆羅門。
    三つの広説、火切りと生起。」

   『南伝大蔵経16下 相応部経典6』大蔵出版 P19−38   に相当



(続く)

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