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原始仏典コミュのジャンブカーダカ相応 

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(『南伝大蔵経15 相応部経典4』大蔵出版 P389−404 に相当)


相応部経典>六処篇




     第四 ジャンブカーダカ相応

   第一 涅槃所問
314.あるとき尊者サーリプッタはマガダのナーラカ村に住んでいた。そのとき遍歴者ジャンブカーダカ(ジャンブ[野バラ、又はジャンブ果]を食べる者)は尊者サーリプッタを訪ねた。訪ねて尊者サーリプッタと互いに挨拶した。挨拶して記憶すべき話を交わして一方に座った。一方に座った遍歴者ジャンブカーダカは尊者サーリプッタにこう言った。
 友サーリプッタ、「涅槃、涅槃(ニッバーナ、ニッバーナ)」と言われる。友よ、何が涅槃か。
 友よ、貪りが尽き、瞋りが尽き、癡かさが尽きること。これが涅槃と言われる。
 友よ、この涅槃を実証する道があるのか。修行道があるのか。
 友よ、この涅槃を実証する道がある。修行道がある。 
 友よ、何がこの涅槃を実証する道なのか。修行道なのか。
 友よ、この聖なる八支の道はこの涅槃を実証する。即ち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。友よ、この道、この修行道がこの涅槃を実証する。
 友よ、この涅槃を実証する道は善である。修行道は善である。友サーリプッタ、また不放逸となるのに十分なものである。

(聖なる八支の道:アリヨー[聖]アッタンギコー[八支]マッゴー[道]、八正道)


   第二 阿羅漢性所問
315.友サーリプッタ、「阿羅漢性、阿羅漢性(アラハッタ、阿羅漢位、阿羅漢果)」と言われる。友よ、何が阿羅漢性か。
 友よ、貪りが尽き、瞋りが尽き、癡かさが尽きること。これが阿羅漢性と言われる。
 友よ、この阿羅漢性を実証する道があるのか。修行道があるのか。
 友よ、この阿羅漢性を実証する道がある。修行道がある。 
 友よ、何がこの阿羅漢性を実証する道なのか。修行道なのか。
 友よ、この聖なる八支の道はこの阿羅漢性を実証する。即ち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。友よ、この道、この修行道がこの阿羅漢性を実証する。
 友よ、この阿羅漢性を実証する道は善である。修行道は善である。友サーリプッタ、また不放逸となるのに十分なものである。


   第三 法語者所問
316.友サーリプッタ、誰が世間において「法を説く者」なのか。誰が世間において「善く修行する者」なのか。誰が世間において「善到者」なのか。
 友よ、貪りを断つために法を説き、瞋りを断つために法を説き、癡かさを断つために法を説く者、彼は世間において「法を説く者」(ダンマヴァーディン)である。
 友よ、貪りを断つために行道し、瞋りを断つために行道し、癡かさを断つために行道する者、彼は世間において「善く修行する者」(スッパティパンナ)である。
 友よ、貪りを断ち、根を切断し、ターラの本と作し、存在しないものと作し、未来に生じない法となっており、瞋りを断ち、根を切断し、ターラの本と作し、存在しないものと作し、未来に生じない法となっており、癡かさを断ち、根を切断し、ターラの本と作し、存在しないものと作し、未来に生じない法となっている者、彼は世間において「善到者」(スガタ)である。
 友よ、この貪・瞋・癡を断つための道があるのか。修行道があるのか。
 友よ、この貪・瞋・癡を断つための道がある。修行道がある。
 友よ、何がこの貪・瞋・癡を断つための道なのか。修行道なのか。
 友よ、この聖なる八支の道はこの貪・瞋・癡を断つ。即ち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。友よ、この道、この修行道がこの貪・瞋・癡を断つ。
 友よ、この貪・瞋・癡を断つための道は善である。修行道は善である。友サーリプッタ、また不放逸となるのに十分なものである。

(善到者:スガタ sugata 如来十号の一つ、善[ス]いところへ行った者[ガタ]、古くは「善逝」)


   第四 何のために
317.友サーリプッタ、何のために沙門ゴータマの梵行に住するのか。
 友よ、苦しみを遍知(知り尽くす)するために世尊の梵行に住する。
 友よ、この苦しみを遍知する道があるのか。修行道があるのか。
 友よ、この苦しみを遍知する道がある。修行道がある。
 友よ、何がこの苦しみを遍知する道なのか。修行道なのか。
 友よ、この聖なる八支の道はこの苦しみを遍知する。即ち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。友よ、この道、この修行道がこの苦しみを遍知する。
 友よ、この苦しみを遍知するための道は善である。修行道は善である。友サーリプッタ、また不放逸となるのに十分なものである。


   第五 安息
318.友サーリプッタ、「安息に達する、安息に達する」(アッサーサ、出る息、パッサーサは入る息、転じて安心、安息)と言われる。何を安息に達するとなすのか。
 友よ、比丘が六つの触の入処の集起と滅没と味わいと患いと出離を事実の通りに知って無取解脱(無執着解脱)しているならば、友よ、「安息に達している」となす。
 友よ、この安息を実証する道があるのか。修行道があるのか。
 友よ、この安息を実証する道がある。修行道がある。
 友よ、何がこの安息を実証する道なのか。修行道なのか。
 友よ、この聖なる八支の道は安息を実証する。即ち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。友よ、この道、この修行道が安息を実証する。
 友よ、この安息を実証するための道は善である。修行道は善である。友サーリプッタ、また不放逸となるのに十分なものである。


   第六 最高の安息
319.友サーリプッタ、「最高の安息に達する、最高の安息に達する」(パラマッサーサ、パラムは最高最上最勝、最高安息、最上安息)と言われる。何を最高の安息に達するとなすのか。
 友よ、比丘が六つの触の入処の集起と滅没と味わいと患いと出離を事実の通りに知って無取解脱しているならば、友よ、「最高の安息に達している」となす。
 友よ、この最高の安息を実証する道があるのか。修行道があるのか。
 友よ、この最高の安息を実証する道がある。修行道がある。
 友よ、何がこの最高の安息を実証する道なのか。修行道なのか。
 友よ、この聖なる八支の道は最高の安息を実証する。即ち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。友よ、この道、この修行道が最高の安息を実証する。
 友よ、この最高の安息を実証するための道は善である。修行道は善である。友サーリプッタ、また不放逸となるのに十分なものである。


   第七 受所問
320.友サーリプッタ、「受、受(ヴェーダナー)」と言われる。友よ、何が受か。
 友よ、楽の受・苦の受・不苦不楽の受。これらが三つの受である。
 友よ、この三受を遍知する道があるのか。修行道があるのか。
 友よ、この三受を遍知する道がある。修行道がある。
 友よ、何がこの三受を遍知する道なのか。修行道なのか。
 友よ、この聖なる八支の道は三受を遍知する。即ち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。友よ、この道、この修行道が三受を遍知する。
 友よ、この最高の安息を実証するための道は善である。修行道は善である。友サーリプッタ、また不放逸となるのに十分なものである。


   第八 漏所問
321.友サーリプッタ、「漏、漏(アーサヴァ)」と言われる。友よ、何が漏か。
 友よ、欲漏・有漏・無明漏。これらが三つの漏である。
 友よ、この三漏を断つ道があるのか。修行道があるのか。
 友よ、この三漏を断つ道がある。修行道がある。
 友よ、何がこの三漏を断つ道なのか。修行道なのか。
 友よ、この聖なる八支の道は三漏を断つ。即ち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。友よ、この道、この修行道が三漏を断つ。
 友よ、この三漏を断つための道は善である。修行道は善である。友サーリプッタ、また不放逸となるのに十分なものである。


   第九 無明所問
322.友サーリプッタ、「無明、無明(アヴィッジャー)」と言われる。友よ、何が無明か。
 友よ、苦しみを悟っていないこと、苦しみの集起を悟っていないこと、苦しみの滅尽を悟っていないこと、苦しみの滅尽に行く道跡を悟っていないこと、これが無明と言われる。
 友よ、この無明を断つ道があるのか。修行道があるのか。
 友よ、この無明を断つ道がある。修行道がある。
 友よ、何がこの無明を断つ道なのか。修行道なのか。
 友よ、この聖なる八支の道は無明を断つ。即ち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。友よ、この道、この修行道が無明を断つ。
 友よ、この無明を断つための道は善である。修行道は善である。友サーリプッタ、また不放逸となるのに十分なものである。


   第十 愛所問
323.友サーリプッタ、「渇愛、渇愛(タンハー)」と言われる。友よ、何が渇愛か。
 友よ、欲愛・有愛・無有愛、これらが三つの渇愛である。
 友よ、この渇愛を断つ道があるのか。修行道があるのか。
 友よ、この渇愛を断つ道がある。修行道がある。
 友よ、何がこの渇愛を断つ道なのか。修行道なのか。
 友よ、この聖なる八支の道は渇愛を断つ。即ち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。友よ、この道、この修行道が渇愛を断つ。
 友よ、この渇愛を断つための道は善である。修行道は善である。友サーリプッタ、また不放逸となるのに十分なものである。


   第十一 暴流所問
324.友サーリプッタ、「暴流、暴流(オーガ)」と言われる。友よ、何が暴流か。
 友よ、四つの暴流がある。欲の暴流・有の暴流・見の暴流・無明の暴流である。友よ、これらが四つの暴流である。
 友よ、この暴流を断つ道があるのか。修行道があるのか。
 友よ、この暴流を断つ道がある。修行道がある。
 友よ、何がこの暴流を断つ道なのか。修行道なのか。
 友よ、この聖なる八支の道は暴流を断つ。即ち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。友よ、この道、この修行道が暴流を断つ。
 友よ、この暴流を断つための道は善である。修行道は善である。友サーリプッタ、また不放逸となるのに十分なものである。


   第十二 取所問
325.友サーリプッタ、「取、取(ウパーダーナ、取ること、転じて離さないこと、即ち執着すること)」と言われる。友よ、何が取か。
 友よ、四つの取がある。欲取・有取・戒禁取・我語取である。友よ、これらが四つの取である。
 友よ、この取を断つ道があるのか。修行道があるのか。
 友よ、この取を断つ道がある。修行道がある。
 友よ、何がこの取を断つ道なのか。修行道なのか。
 友よ、この聖なる八支の道は取を断つ。即ち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。友よ、この道、この修行道が取を断つ。
 友よ、この取を断つための道は善である。修行道は善である。友サーリプッタ、また不放逸となるのに十分なものである。


   第十三 有所問
326.友サーリプッタ、「有、有(バヴァ、存在すること、有ること)」と言われる。友よ、何が有か。
 友よ、三つの有がある。欲有・色有・無色有。友よ、これらが三つの有である。
 友よ、この有を断つ道があるのか。修行道があるのか。
 友よ、この有を断つ道がある。修行道がある。
 友よ、何がこの有を断つ道なのか。修行道なのか。
 友よ、この聖なる八支の道は有を断つ。即ち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。友よ、この道、この修行道が有を断つ。
 友よ、この有を断つための道は善である。修行道は善である。友サーリプッタ、また不放逸となるのに十分なものである。


   第十四 苦所問
327.友サーリプッタ、「苦、苦(ドゥッカ)」と言われる。友よ、何が苦か。
 友よ、三つの苦性(ドゥッカター)がある。苦における苦性・行における苦性・変化することにおける苦性。友よ、これらが三つの苦性である。
 友よ、この苦性を断つ道があるのか。修行道があるのか。
 友よ、この苦性を断つ道がある。修行道がある。
 友よ、何がこの苦性を断つ道なのか。修行道なのか。
 友よ、この聖なる八支の道は苦性を断つ。即ち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。友よ、この道、この修行道が苦性を断つ。
 友よ、この苦性を断つための道は善である。修行道は善である。友サーリプッタ、また不放逸となるのに十分なものである。

(苦苦[ドゥッカドゥッカター]・行苦[サンカーラドゥッカター]・壊苦[ヴィパリナーマドゥッカター])


   第十五 己身所問
328.友サーリプッタ、「自分の身体、自分の身体(サッカーヤ)」と言われる。友よ、何が自分の身体か。
 友よ、五つの執着のまとまり(五取蘊)が自分の身体であると先生は言う。即ち、色取蘊、受取蘊、想取蘊、行取蘊、識取蘊である。友よ、この五取蘊が自分の身体であると先生は言う。
 友よ、この自分の身体を遍知する道があるのか。修行道があるのか。
 友よ、この自分の身体を遍知する道がある。修行道がある。
 友よ、何がこの自分の身体を遍知する道なのか。修行道なのか。
 友よ、この聖なる八支の道は自分の身体を遍知する。即ち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。友よ、この道、この修行道が自分の身体を遍知する。
 友よ、この自分の身体を遍知するための道は善である。修行道は善である。友サーリプッタ、また不放逸となるのに十分なものである。

(サッカーヤ、有身、己身、以下の内容から「身体が有る」と理解するよりも「自分の身体」と理解する方がいいように思いますが、双方同じことです)


   第十六 難所問
329.友サーリプッタ、何がこの法・律においては難しいのか。
 友よ、出家することがこの法・律においては難しい。
 友よ、出家者においては何が難しいのか。
 友よ、出家者においては楽しむことが難しい。
 友よ、楽しむ者においては何が難しいのか。
 友よ、楽しむ者においては法のままに法を行道すること(法随法行)が難しい。
 友よ、法のままに法を行道する比丘はどれぐらい久しくして阿羅漢となるだろうか。
 友よ、久しからずして。(久しいの否定。長くかからずに。間もなく)

          ジャンブカーダカ相応 [畢]

   この頌に曰く
     ニッバーナとアラハッタ、ダンマヴァーディーと何のために、
     アッサーサとパラマッサーサ、ヴェーダナーとアーサヴァとアヴィッジャー、
     タンハーとオーガとウパーダーナ、バヴァとドゥッカとサッカーヤ、
     この法律において難しいこと。



      

     ジャンブカーダカ相応        完






     第五 サーマンダカ相応

    第一 サーマンダカ
330.あるとき尊者サーリプッタはヴァッジのウッカチェーラ、ガンガー川の岸辺に住んでいた。そのとき遍歴者サーマンダカは尊者サーリプッタを訪ねた。訪ねて尊者サーリプッタと互いに挨拶した。挨拶して記憶すべき話を交わして一方に座った。一方に座った遍歴者サーマンダカは尊者サーリプッタにこう言った。
 友サーリプッタ、「涅槃、涅槃」と言われる。友よ、何が涅槃か。
 友よ、貪りが尽き、瞋りが尽き、癡かさが尽きること。これが涅槃と言われる。
 友よ、この涅槃を実証する道があるのか。修行道があるのか。
 友よ、この涅槃を実証する道がある。修行道がある。 
 友よ、何がこの涅槃を実証する道なのか。修行道なのか。
 友よ、この聖なる八支の道はこの涅槃を実証する。即ち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。友よ、この道、この修行道がこの涅槃を実証する。
 友よ、この涅槃を実証する道は善である。修行道は善である。友サーリプッタ、また不放逸となるのに十分なものである。


(以下、阿羅漢性・説法者・何のために・安息・最高安息・受・漏・無明・渇愛・暴流・取・有・苦・己身・難しいこと、全て同文)


          サーマンダカ相応 [畢]

   この頌に曰く
     ニッバーナとアラハッタ、ダンマヴァーディーと何のために、
     アッサーサとパラマッサーサ、ヴェーダナーとアーサヴァとアヴィッジャー、
     タンハーとオーガとウパーダーナ、バヴァとドゥッカとサッカーヤ、
     この法律において難しいこと。




          サーマンダカ相応   完

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