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原始仏典コミュの第七 ラーフラ相応 4

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(『南伝大蔵経13』大蔵出版 P372から)
 

「   第六 想
一 このように私は聞いた。あるとき、世尊はサーヴァッティのジェータ林、アナータピンディカ園に住していた。
二 そのとき、具寿ラーフラは世尊のところに詣った。詣って世尊に問訊し、一方に座った。
三 一方に座った具寿ラーフラに世尊はこう言った。
四 ラーフラ、これをどう思うか。
 色想は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
五 声想は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
六 香想は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
七 味想は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
八 触想は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
九 法想は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
一〇 ラーフラ、このように見て有聞の聖弟子は色想をも嫌悪し、声想をも嫌悪し、香想をも嫌悪し、味想をも嫌悪し、触想をも嫌悪し、法想をも嫌悪する。
一一 嫌悪して離貪する。離貪して解脱する。解脱して「私は解脱した」という智がある。「生は尽きた。梵行には住した。作すべきことを作した。さらにこの状態にならず」と知る。


   第七 思
一 このように私は聞いた。あるとき、世尊はサーヴァッティのジェータ林、アナータピンディカ園に住していた。
二 そのとき、具寿ラーフラは世尊のところに詣った。詣って世尊に問訊し、一方に座った。
三 一方に座った具寿ラーフラに世尊はこう言った。
四 ラーフラ、これをどう思うか。
 色思は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
五 声思は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
六 香思は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
七 味思は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
八 触思は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
九 法思は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
一〇 ラーフラ、このように見て有聞の聖弟子は色思をも嫌悪し、声思をも嫌悪し、香思をも嫌悪し、味思をも嫌悪し、触思をも嫌悪し、法思をも嫌悪する。
一一 嫌悪して離貪する。離貪して解脱する。解脱して「私は解脱した」という智がある。「生は尽きた。梵行には住した。作すべきことを作した。さらにこの状態にならず」と知る。


   第八 愛
一 このように私は聞いた。あるとき、世尊はサーヴァッティのジェータ林、アナータピンディカ園に住していた。
二 そのとき、具寿ラーフラは世尊のところに詣った。詣って世尊に問訊し、一方に座った。
三 一方に座った具寿ラーフラに世尊はこう言った。
四 ラーフラ、これをどう思うか。
 色愛は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
五 声愛は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
六 香愛は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
七 味愛は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
八 触愛は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
九 法愛は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
一〇 ラーフラ、このように見て有聞の聖弟子は色愛をも嫌悪し、声愛をも嫌悪し、香愛をも嫌悪し、味愛をも嫌悪し、触愛をも嫌悪し、法愛をも嫌悪する。
一一 嫌悪して離貪する。離貪して解脱する。解脱して「私は解脱した」という智がある。「生は尽きた。梵行には住した。作すべきことを作した。さらにこの状態にならず」と知る。


   第九 界
一 このように私は聞いた。あるとき、世尊はサーヴァッティのジェータ林、アナータピンディカ園に住していた。
二 そのとき、具寿ラーフラは世尊のところに詣った。詣って世尊に問訊し、一方に座った。
三 一方に座った具寿ラーフラに世尊はこう言った。
四 ラーフラ、これをどう思うか。
 地界は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
五 水界は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
六 火界は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
七 風界は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
八 空界は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
九 識界は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
一〇 ラーフラ、このように見て有聞の聖弟子は地界をも嫌悪し、水界をも嫌悪し、火界をも嫌悪し、風界をも嫌悪し、空界をも嫌悪し、識界をも嫌悪する。
一一 嫌悪して離貪する。離貪して解脱する。解脱して「私は解脱した」という智がある。「生は尽きた。梵行には住した。作すべきことを作した。さらにこの状態にならず」と知る。


   第十 蘊
一 このように私は聞いた。あるとき、世尊はサーヴァッティのジェータ林、アナータピンディカ園に住していた。
二 そのとき、具寿ラーフラは世尊のところに詣った。詣って世尊に問訊し、一方に座った。
三 一方に座った具寿ラーフラに世尊はこう言った。
四 ラーフラ、これをどう思うか。
 色は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
五 受は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
六 想は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
七 行は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
八 識は常なのか、無常なのか。
 大徳、無常です。
 無常であるものは苦なのか、楽なのか。
 大徳、苦です。
 無常であり、苦であり、変化する法を「これは私のものである。これは私である。これは私の本質である」と認めるのは正しいだろうか。
 大徳、そうではありません。
九 ラーフラ、このように見て有聞の聖弟子は色をも嫌悪し、受をも嫌悪し、想をも嫌悪し、行をも嫌悪し、識をも嫌悪する。
一〇 嫌悪して離貪する。離貪して解脱する。解脱して「私は解脱した」という智がある。「生は尽きた。梵行には住した。作すべきことを作した。さらにこの状態にならず」と知る。


   第十一 使[随眠]
一 このように私は聞いた。あるとき、世尊はサーヴァッティのジェータ林、アナータピンディカ園に住していた。
二 そのとき、具寿ラーフラは世尊のところに詣った。詣って世尊に問訊し、一方に座った。一方に座った具寿ラーフラに世尊はこう言った。
三 大徳、どのように知り、どのように見れば、この有識身、および外の一切相において我と作すこと・我所(私のもの)と作すこと・慢随眠が有ることがないのですか。
四 ラーフラ、いかなる色の過去未来現在・内外・粗細・劣勝・遠近であっても、一切の色を「これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない」とこのように事実の通りに正しい智慧によって見る。
 いかなる受の過去未来現在・内外・粗細・劣勝・遠近であっても、一切の受を「これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない」とこのように事実の通りに正しい智慧によって見る。
 いかなる想の過去未来現在・内外・粗細・劣勝・遠近であっても、一切の想を「これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない」とこのように事実の通りに正しい智慧によって見る。
 いかなる行の過去未来現在・内外・粗細・劣勝・遠近であっても、一切の行を「これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない」とこのように事実の通りに正しい智慧によって見る。
 いかなる識の過去未来現在・内外・粗細・劣勝・遠近であっても、一切の識を「これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない」とこのように事実の通りに正しい智慧によって見る。
五 ラーフラ、このように知り、このように見れば、この有識身、および外の一切相において我と作すこと・我所と作すこと・慢随眠が有ることはない。


   第十二 遠離
一 サーヴァッティ・・・。
二 そのとき、具寿ラーフラは世尊のところに詣った。詣って世尊に問訊し、一方に座った。一方に座った具寿ラーフラは世尊にこう言った。
三 大徳、どのように知り、どのように見れば、この有識身、および外の一切相において我と作すこと・我所と作すこと・慢を去り、慢の種類を超越し、寂静にして善解脱するのですか。
四 ラーフラ、いかなる色の過去未来現在・内外・粗細・劣勝・遠近であっても、一切の色を「これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない」とこのように事実の通りに正しい智慧によって見て、無取にして解脱する。
 いかなる受の過去未来現在・内外・粗細・劣勝・遠近であっても、一切の受を「これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない」とこのように事実の通りに正しい智慧によって見て、無取にして解脱する。
 いかなる想の過去未来現在・内外・粗細・劣勝・遠近であっても、一切の想を「これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない」とこのように事実の通りに正しい智慧によって見て、無取にして解脱する。
 いかなる行の過去未来現在・内外・粗細・劣勝・遠近であっても、一切の行を「これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない」とこのように事実の通りに正しい智慧によって見て、無取にして解脱する。
 いかなる識の過去未来現在・内外・粗細・劣勝・遠近であっても、一切の識を「これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない」とこのように事実の通りに正しい智慧によって見て、無取にして解脱する。
五 ラーフラ、このように知り、このように見れば、この有識身、および外の一切相において我と作すこと・我所と作すこと・慢を去り、慢の種類を超越し、寂静にして善解脱する。

   かの頌に曰く
 眼と色と識と 触と受に於けると
 想と思と愛と 界と蘊とによりてこれらの十なり」

   『南伝大蔵経13 相応部経典2』大蔵出版   P372–376   
 
       
                   ラーフラ相応  完


有識身:saviññāṇake kāye、有識の身
一切相:sabbanimittesu
我と作すこと:ahaṅkāra
我所と作すこと:mamaṅkāra
慢随眠:mānānusayā
去る:apagata
慢の種類:mānasaṃ vidhā、慢の次第、三慢、私は優れている、私は等しい、私は劣っている
超越:samatikkantaṃ
寂静にして善解脱する:santaṃ suvimutta’’

過去未来現在:atītānāgatapaccuppannaṃ
内外:ajjhattaṃ vā bahiddhā vā
粗細:oḷārikaṃ vā sukhumaṃ vā
劣勝:hīnaṃ vā paṇītaṃ vā
遠近:yaṃ dūre santike vā
「これは私ではない。これは私のものではない。これは私の我ではない」:‘netaṃ mama, nesohamasmi, na meso attā’ti
事実の通りに:yathābhūtaṃ
正しい智慧によって:sammappaññāya
見て:disvā
無取にして解脱する:anupādā vimutto hoti’’.

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