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原始仏典コミュの四無量心3

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・五安穏住   慈の身語意・戒・見
・五怨恨調伏
・四蛇王族
・色界四禅天と浄居天





・五安穏住  
「   百五
一 比丘たちよ、五つの安穏住がある。何が五か。
 比丘たちよ、ここに比丘が慈しみある身業を陰に日向に同梵行者に行なう。
 慈しみある語業を陰に日向に同梵行者に行なう。
 慈しみある意業を陰に日向に同梵行者に行なう。
 諸々の戒にして、破られず、穿たれず、雑でなく、汚れず、清浄で、智者が称賛する、執着するところがない、三摩地を生じる、このような戒において陰に日向に同梵行者と同じくして住する。
 諸々の見にして、聖であり、出離となり、それを起こすものを正しく苦尽に至らせる、このような見において陰に日向に同梵行者と同じくして住する。 
 比丘たちよ、これが五つの安穏住である」
   増支部経典>五集>第十一 安穏住品 『南伝大蔵経19』大蔵出版 P182–183





・五嫌恨調伏 
「     第十七 嫌恨品
   百六十一
一 比丘たちよ、五つの嫌恨調伏がある。比丘の生じた嫌恨はすべてこの中においてまさに除去されるべきである。何が五か。
二 およそ人に対して嫌恨が起きたならば、その人に対してまさに慈が修習されるべきである。このようにしてかの人に対する嫌恨はまさに除去されるべきである。
三 およそ人に対して嫌恨が起きたならば、その人に対してまさに悲が修習されるべきである。このようにしてかの人に対する嫌恨はまさに除去されるべきである。
四 およそ人に対して嫌恨が起きたならば、その人に対してまさに捨が修習されるべきである。このようにしてかの人に対する嫌恨はまさに除去されるべきである。
五 およそ人に対して嫌恨が起きたならば、その人に対してまさに無念無作為に到達されるべきである。このようにしてかの人に対する嫌恨はまさに除去されるべきである。
六 およそ人に対して嫌恨が起きたならば、その人に対してまさに業は彼のものであると確立されるべきである。
「この尊者の業は自身のものである。業を領有する。業を起原とする。業を親族とする。業を帰趣とする。善あるいは悪のいずれの業を作るとしても、彼はまさにその業が与えるものを受けるだろう」と。
 このようにしてかの人に対する嫌恨はまさに除去されるべきである。
 比丘たちよ、この五つの嫌恨調伏がある。比丘の生じた嫌恨はすべてこの中においてまさに除去されるべきである」
   増支部経典>五集>第十七 嫌恨品 『南伝大蔵経19』大蔵出版 P259–260






・四蛇王族
「   六十七
一 あるとき、先生はサーヴァッティのジェータ林、アナータピンディカの園に住していた。そのときサーヴァッティのある比丘が蛇に咬まれて死んだ。そこで多くの比丘たちは先生のいるところに訪ねた。訪ねて先生に敬礼して一方に座った。一方に座った比丘たちは先生に言った。
二 先生、このサーヴァッティにある比丘がいて、蛇に咬まれて死にました。
 比丘たちよ、かの比丘は確かに、慈心をもって四つの蛇王族を遍満しなかったであろう。
 比丘たちよ、もしかの比丘が、慈心をもって四つの蛇王族を遍満したならば、比丘たちよ、かの比丘は蛇に咬まれて死ななかったであろう。

 何が四か。
 ヴィルーパッカ蛇王族、エーラーパタ蛇王族、チャプヤープッタ蛇王族、カンハーゴータマカ蛇王族である。
 比丘たちよ、かの比丘は確かに、慈心をもって四つの蛇王族を遍満しなかったであろう。
 比丘たちよ、もしかの比丘が、慈心をもって四つの蛇王族を遍満したならば、比丘たちよ、かの比丘は蛇に咬まれて死ななかったであろう。
 比丘たちよ、私は自らを防ぐために、自らを守るために、自らを救うために、この四の蛇王族を慈心によって遍満することを許可する。
三  ヴィルーパッカを我慈しみ エーラーパタを我慈しみ
   チャプヤープッタを我慈しみ カンハーゴータマカを我慈しむ
   無足を我慈しみ  二足を我慈しみ
   四足を我慈しみ  多足を我慈しむ
   無足は我を害うな 二足は我を害うな
   四足は我を害うな 多足は我を害うな
   一切有情一切生物 一切全部の存在者
   一切吉祥を見   誰にも悪は来たらざれ
   ブッダは無量である ダンマは無量である
   サンガは無量である 這うもの、蛇、蠍、百足、蜘蛛、トカゲ、ネズミは有量である
   私は守護を作した  私は救済を作した
   有情は還り去れ   私は先生に帰命する 私は七人の正覚者に帰命する」
   増支部経典>四集>(7)第二 適切業品 
   『南伝大蔵経18』大蔵出版 P124–127


 




・色界四禅天と浄居天
「   百二十五
一 比丘たちよ、これらの四の人がいて世の中に存在する。何が四か。
 比丘たちよ、世に一類の人がいて、慈倶行の心をもって一方に遍満して住する。同じく第二、第三、第四に。このように上下、横、遍く一切処において、一切世界に、慈倶行の、広く、大いなる、無量である、無怨である、無悩害である心をもって遍満して住する。
 彼はこれを味わい、これを欲求し、またこれによって幸福に到達する。これに住し、これに志向し、これに多く住し、退歩せず、死して後に梵身の神々の同類として再生する。
 比丘たちよ、梵身の神々の寿命は一劫である。そこの凡夫は寿命のある限り住し終わって、その天の寿命の全部を過ごし終わって、地獄にも行き、畜生にも行き、餓鬼にも行く。しかし、世尊の弟子はそこにおいて寿命のある限り住し終わって、即ちその有において般涅槃する。
 比丘たちよ、これは有聞の聖弟子と無聞の凡夫との差別、特相、差異である。即ち、行き先と再生があることである。
二 また比丘たちよ、世に一類の人がいて、悲倶行の心をもって一方に遍満して住する。同じく第二、第三、第四に。このように上下、横、遍く一切処において、一切世界に、悲倶行の、広く、大いなる、無量である、無怨である、無悩害である心をもって遍満して住する。
 彼はこれを味わい、これを欲求し、またこれによって幸福に到達する。これに住し、これに志向し、これに多く住し、退歩せず、死して後に極光の神々の同類として再生する。
 比丘たちよ、極光天の寿命は二劫である。そこの凡夫は寿命のある限り住し終わって、その天の寿命の全部を過ごし終わって、地獄にも行き、畜生にも行き、餓鬼にも行く。しかし、世尊の弟子はそこにおいて寿命のある限り住し終わって、即ちその有において般涅槃する。
 比丘たちよ、これは有聞の聖弟子と無聞の凡夫との差別、特相、差異である。即ち、行き先と再生があることである。
三 また比丘たちよ、世に一類の人がいて、喜倶行の心をもって一方に遍満して住する。同じく第二、第三、第四に。このように上下、横、遍く一切処において、一切世界に、喜倶行の、広く、大いなる、無量である、無怨である、無悩害である心をもって遍満して住する。
 彼はこれを味わい、これを欲求し、またこれによって幸福に到達する。これに住し、これに志向し、これに多く住し、退歩せず、死して後に遍浄の神々の同類として再生する。
 比丘たちよ、遍浄天の寿命は四劫である。そこの凡夫は寿命のある限り住し終わって、その天の寿命の全部を過ごし終わって、地獄にも行き、畜生にも行き、餓鬼にも行く。しかし、世尊の弟子はそこにおいて寿命のある限り住し終わって、即ちその有において般涅槃する。
 比丘たちよ、これは有聞の聖弟子と無聞の凡夫との差別、特相、差異である。即ち、行き先と再生があることである。
四 また比丘たちよ、世に一類の人がいて、捨倶行の心をもって一方に遍満して住する。同じく第二、第三、第四に。このように上下、横、遍く一切処において、一切世界に、捨倶行の、広く、大いなる、無量である、無怨である、無悩害である心をもって遍満して住する。
 彼はこれを味わい、これを欲求し、またこれによって幸福に到達する。これに住し、これに志向し、これに多く住し、退歩せず、死して後に広果の神々の同類として再生する。
 比丘たちよ、広果天の寿命は五百劫である。そこの凡夫は寿命のある限り住し終わって、その天の寿命の全部を過ごし終わって、地獄にも行き、畜生にも行き、餓鬼にも行く。しかし、世尊の弟子はそこにおいて寿命のある限り住し終わって、即ちその有において般涅槃する。
 比丘たちよ、これは有聞の聖弟子と無聞の凡夫との差別、特相、差異である。即ち、行き先と再生があることである。
 比丘たちよ、これらの四の人がいて世の中に存在する。

   百二十六
一 比丘たちよ、これらの四の人がいて世の中に存在する。何が四か。
 比丘たちよ、世に一類の人がいて、慈倶行の心をもって一方に遍満して住する。同じく第二、第三、第四に。このように上下、横、遍く一切処において、一切世界に、慈倶行の、広く、大いなる、無量である、無怨である、無悩害である心をもって遍満して住する。
 彼はそこにある色に行き、受に行き、想に行き、行に行き、識に行くところであるそれらの法を、無常である、苦である、病である、腫物である、矢である、痛である、悩である、敵である、壊である、空である、無我であると認める。彼は身が破れ死して後、浄居の神々の同類として再生する。
 比丘たちよ、この再生は凡夫と共通のものではない。
二 比丘たちよ、世に一類の人がいて、悲倶行の心をもって一方に遍満して住する。同じく第二、第三、第四に。このように上下、横、遍く一切処において、一切世界に、悲倶行の、広く、大いなる、無量である、無怨である、無悩害である心をもって遍満して住する。
 彼はそこにある色に行き、受に行き、想に行き、行に行き、識に行くところであるそれらの法を、無常である、苦である、病である、腫物である、矢である、痛である、悩である、敵である、壊である、空である、無我であると認める。彼は身が破れ死して後、浄居の神々の同類として再生する。
 比丘たちよ、この再生は凡夫と共通のものではない。
三 比丘たちよ、世に一類の人がいて、喜倶行の心をもって一方に遍満して住する。同じく第二、第三、第四に。このように上下、横、遍く一切処において、一切世界に、喜倶行の、広く、大いなる、無量である、無怨である、無悩害である心をもって遍満して住する。
 彼はそこにある色に行き、受に行き、想に行き、行に行き、識に行くところであるそれらの法を、無常である、苦である、病である、腫物である、矢である、痛である、悩である、敵である、壊である、空である、無我であると認める。彼は身が破れ死して後、浄居の神々の同類として再生する。
 比丘たちよ、この再生は凡夫と共通のものではない。
四 比丘たちよ、世に一類の人がいて、捨倶行の心をもって一方に遍満して住する。同じく第二、第三、第四に。このように上下、横、遍く一切処において、一切世界に、捨倶行の、広く、大いなる、無量である、無怨である、無悩害である心をもって遍満して住する。
 彼はそこにある色に行き、受に行き、想に行き、行に行き、識に行くところであるそれらの法を、無常である、苦である、病である、腫物である、矢である、痛である、悩である、敵である、壊である、空である、無我であると認める。彼は身が破れ死して後、浄居の神々の同類として再生する。
 比丘たちよ、この再生は凡夫と共通のものではない」
   増支部経典>四集>(13)第三 怖畏品 『南伝大蔵経18』大蔵出版 P226–229








安穏住:パースヴィハーラ、phāsuvihāra、パース(phāsu、安楽な、安穏な、愉快な)ヴィハーラ(住)

嫌恨:アーガータ、āghāta、瞋害、瞋怒、害心、嫌恨、僕は「悪意」だと考えています。
嫌恨調伏:āghātapaṭivinaya、パティヴィナヤ(調伏、制圧、駆逐)、嫌恨の除去。
慈:メッター、mettā
悲:カルナー、karuṇā
捨:ウペッカー、upekkhā
無念無作為:ア サティ・ア マナシカーラ、asati amanasikāra、アで否定形、
彼が作した業:カンマッサカタ、kammassakata、カンマ(業)サ(①彼は、それは②共に、有する、同じ③自己、自ら④六)カタ(なされた、為作せる、行作の)引用元には「業は己がものである」と訳されています。
確立:アディッタハティ、adhiṭṭhahati、確立する、決意する、執持する

蛇王族:アヒラージャクラ、ahirājakula、アヒ(ahi、蛇)ラージャ(rāja、王)クラ(kula、家、良家、族性)

ヴィルーパッカ:virūpakkha、四天王の一である広目天、「醜い眼の蛇王族」ヴィルーパ(virūpa、醜い、醜異の、異様の)とアッキ(akkhi、眼)
エーラーパタ:erāpatha、辞書にはエーラーヴァナ(Erāvana)竜王と書いてあります。エーラ(eḷa、聾)とありますが、スペルが違いますがこのように受け取れば眼と耳ということでヴィルーパッカとの共通点はあります。パタ(patha、道、路)。
チャビャープッタ:chabyāputta、南伝の振り仮名ではチャプヤープッタ、語義不明です。チャは六か。プッタは子、子息、男児。
カンハーゴータマカ:kaṇhāgotamaka、カンハー(黒い)ゴー(go、牛、牝牛)タマ(tama、最上級の語尾)。ゴータマカ(gotamaka、ゴータマ派)、「黒き最上の牛の一派である蛇王族」

味わう:アッサーデーティ、assādeti
欲求する:ニカーメーティ、nikāmeti、欲求する、希求する、
幸福:ヴィッティ、vitti、財富、幸福、喜悦、ヴィッタ(vitta、財産、富;喜んだ、幸福な)
到達する:アーパッジャティ、āpajjati、来る、会う、遭遇する、到達する
住する:チティ、ṭhiti、住、止住、定立
志向する:アディムッタ、adhimutta、信解した、勝解した、志向した、心を向けた
多く住する:バフラヴィハーラ、bahulavihāra、
梵身:ブラフマカーイカ、brahmakāyika、梵の身体
浄居:スッダーヴァーサ、suddhāvāsa、スッダ(suddha、浄い、清浄の、純粋の)ヴァーサ(vāsa、①衣料、着た②住;住処、家;状態③芳香、香料)浄居天

コメント(2)

上の五安穏住に得たものを同梵行者と分け合う施を加えれば、六和合法となります。同梵行者ではないですが、家族に対して陰に陽に慈しみある三行を為すことは、家族であるがゆえにとても難しいですが、しかし利益が多いと思います。家庭を天国にできるならば、確実に死後は天国に転生するのではないかと思います。

四蛇王族へ慈心を修する記述は正式な慈無量心とは別のやり方である「対象指定の慈心」の良い例でもあります。その次の記述は無聞にして四無量の人・有聞にして四無量の人・五蘊の無常他を見て四無量の人の三者三様の未来の差異が説かれていて、浄居天の神々に関する数少ない記述の一つとなっていますので覚えておくと便利だと思います。

五つの恨みの制御法について書いてありますが僕は「彼の悪業は彼が相続する。自分は自分の業を相続する。だから自分は彼を傷付けないようにしよう。彼がこちらを傷付けようとするとき回避の努力はするけれども、回避し切れずに生じた苦受を原因としてあちらを傷付けないように。それはそれとして回避の努力は続けていこう」というふうに五番目の憎悪の制御法を特に修します。これら慈・悲・捨・無念無作為・業報の五つの方法全てに通達したほうがより自在で素晴らしいと思います。


最近、「人の不幸を喜ぶこと」と「人の幸せを妬まないこと」の二つはとても大事だと感じています。僕もまだ悪徳の芽がぴこっと出て来て焦って芽を摘む段階ですが。特に友人の不幸を喜び、友人の幸せを悪く思うのは善くない傾向だと思います。友人の不幸や結婚などの慶事があったときなど、それを知ったときの反応でその人の本性が垣間見える気がします。

残念な心の持ち主を見るのは残念なことです。しかし、そのような心となるにいたったその必然性、その原因を辿り見ることによって「この人の心は美徳から遠くかけ離れている」という不快をもたらす違逆想を滅しつつ、そのような人との付き合いからどのようにして利益を引き出すか、あるいは遠ざかるのか、あるいは長い眼で見て鞭は使わずに繰り返しの説法によって教育していくのか、それらを考察して、自分に利益ある結果を出す原因を作り出すことに集中すること、それは僕にはまだまだ難しいことです。


彼岸の中日は過ぎましたが、ペータ(餓鬼)の供養として墓参りや布施の一環として仏壇に色々なものを供えるのも在家の五献供の一つとして功徳が多いと思います。ときに応じて布施をする。また喜ばしからずや、だと思います。
五安穏住である三慈行と同聖戒と同聖見。この件に関連して最上の安穏住は漏尽の倶分解脱であり、それより上の安穏住はないとアーナンダにゴータマが説法している別の箇所があったと思います。


四蛇王族に慈心を修して蛇から自分を守る教えはよく引用していますが、たまに読み返してもいいものだと思います。虫たちだけでなく悪人や悪霊や魔族に修してもいいと思います。「詐欺師も変態も凶暴な人も犯罪者も幸せになるように」と念じれば、少しは犯罪に巻き込まれることを防ぐ縁になると思います。慈心を多修すれば悪い霊的存在の影響を受けなくなるというのは別の箇所に書いてあります。この四蛇王族への慈心は対象指定の慈心も容認される根拠の一つです。



最近、慈心を修していると妙に悲しくなるなと思っていました。慈心対象の幸福や利益増大として「幸せになれよ〜」と念じていると、その想に続いて「何も不幸になることはないじゃないか」と思います。「何も破滅することはない」とも。そして現にそうなりつつある人々を見て悲しくなるのかとも思っていました。しかしそういった他者への慈悲に関連して「幸せになれなかった過去の自分」を僕自身が想起していることに気付きました。それで悲しくなっていたわけです。

慈心を修し続けていると心に変化が起きる段階が色々とあるような気がします。それこそレベルが一つアップしたと言っていいものなのかも知れませんが、突然慈心の威力分に相当した幸福感を伴う過去のことを思い出したり、他者の幸福を損害した自分の過去の悪行の罪を思い出したり、色々な内面的な変化があります。今回もそのようなものだと思います。

慈心を修していると悲しくなるのではなく、蓋をされていた悲しみが解き放たれる段階まで優しさと感受性が高まると、その悲しみに触れることができるようになるのだと思います。全ての執着を捨て切らない限りは、人の人生は辛くて悲しいことがいっぱいなはずなのに、人はあえて自分の悲しみに気付かないように思い出さないように暮らしています。もしも自分の悲しみに気付いてしまったら何もできなくなって生活が立ち行かなくなるので、一種の防衛本能としての抑圧なので必要なものでもあるのですが、まだ克服できる状態ではない残された課題であるとも言えます。

無量性を伴う慈心は心を無限に大きくし、速やかに心の度量を広げます。海のように広い心とか空のように広い心と言われるのは単なる比喩でも象徴でもなく、実際に海全体、空全体のヴィジョンに飛び込み、そこに至るまでヴィジョンを広げ続ける訓練を定期的に積めばその心を獲得すると思います。その状態で転生すれば、獲得する身体は海や空に匹敵するほど巨大なものになるということには道理があると思います。モッガーラナとともに修行していた比丘は大きな身体を持った神に転生したと書いてありました。田んぼ二つぐらいの大きさだったように思います。

心の広さと強さが心に生じる様々な感情の消化力と処理能力に寄与するのであれば、四無量や四念処の修習により心が大きくなり意志の力が強化すれば、解決できていなかった自分の心の問題が解決され始めます。それが克己の一環であり、その果てに一切執着の完全放棄たる涅槃があるのだと僕は考えています。

もっとも七年慈心を修したかつてのゴータマは色界第二天である光天に転生してから梵天に転生しています。慈心愛好家は普通ブラフマーに転生します。しかし慈心を特に究めるとアーバッサラに転生するようです。このことからも、慈心は悲心に至る一つの根拠にはなりますから、僕が慈心を修していて悲しくなるときがあるというのもそういう関連があるのかも知れません。でもまだ内観、心念処が足りてないので確言はできません。

自分に嫌なことをしてきた人間であっても「何も不幸になることはない。死ぬことはない。破滅することはない」と最近は思います。僕が許せないだけの暴虐な振る舞いを受けていないだけかも知れませんが。でも慈心を修することによってお世話になっている人や日本や世界の力になれるのなら、そういった貢献法を知っている自分が慈心を修するというのも悪くはないのかなと思います。結果的に未来に福と楽の報いもあると思えばなおさら。

あと最近は一日に一回「僕に罪を犯すことを許す。僕に損害を加えることを許す」と思うようにしています。最近はだいぶ怒らなくなりました。随分怒っていないと思います。苛立ちも随分減りました。


しかし慈心だけで生計を立てて行こうとするのは博打と言われても仕方がない面はあります。自分でも大きく出たなと思います。別に誰かにそう言われたのではなく家族との会話でそういう流れになったのですが、将来の不安分を慈心につぎ込みつつ様子を見てみたいと思います。

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