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原始仏典コミュの四無量心1

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慈心解脱と四無量心はとても重要な修行なので、これに関連した記述をまとめていきたいと思います。



・瞋の滅
・慈心  弾指の三
・慈住第一 サーマーヴァティー優婆夷
・四無量の弾指  四無量倶行の五根五力修習法
・梵の高床大床  天・梵・聖
・梵を得る    天・梵・不動・聖




・瞋の滅
「比丘たちよ、これほどにも生じていない瞋を生じず、生じた瞋を断つ法を私は他に一つも認めない。
 比丘たちよ、慈心解脱である。
 比丘たちよ、慈による心の解脱を根本に作意すれば、生じていない瞋は生じ、生じた瞋は断たれる」
 (以上、五蓋に関連した記述。瞋は三毒ではなく五蓋のビャーパーダvyāpādaの方)
     増支部経典>一集>第二 断蓋品 『南伝大蔵経17』大蔵出版 P5

「また諸子よ、何の因、何の縁があって生じていない瞋恚は生じず、生じた瞋恚は断たれるのか。
 慈の心解脱であると言われるべきである。
 彼は慈の心解脱を根本に作意するがゆえに生じていない瞋恚は生じず、生じた瞋恚は断たれる。
 諸子よ、この因、この縁があって生じていない瞋恚は生じず、生じた瞋恚は断たれる」
 (以上、三毒に関連した記述。瞋は五蓋ではなく三毒のドーサdosaの方)
     増支部経典>三集>第二 大品 『南伝大蔵経17』大蔵出版 P327





・慈心 弾指の三
「四 比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が慈心を実行するならば、こう言われる。
 比丘たちよ、『この比丘が禅那に住するのは空しくなく、師の教えを実行し、教誡を実行し、この国の食物を食べるのは無駄ではない』と。まして多く作す場合はどう言おうか。
五 比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が慈心を修習するならば、こう言われる。
 比丘たちよ、『この比丘が禅那に住するのは空しくなく、師の教えを実行し、教誡を実行し、この国の食物を食べるのは無駄ではない』と。まして多く作す場合はどう言おうか。
六 比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が慈心を作意するならば、こう言われる。
 比丘たちよ、『この比丘が禅那に住するのは空しくなく、師の教えを実行し、教誡を実行し、この国の食物を食べるのは無駄ではない』と。まして多く作す場合はどう言おうか」
     増支部経典>一集>第六 弾指品 『南伝大蔵経17』大蔵出版 P15



・慈住第一
「 ・・・慈に住する者の第一は、サーマーヴァティー(優婆夷)である」
     増支部経典>一集>第十四 是第一品 『南伝大蔵経17』大蔵出版 P37



・四無量の弾指 五根五力
「二 比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が慈心解脱を修習するならば、こう言われる。
 比丘たちよ、『この比丘が禅那に住するのは空しくなく、師の教えを実行し、教誡を実行し、この国の食物を食べるのは無駄ではない』と。まして多く作す場合はどう言おうか。 
 比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が悲心解脱を修習するならば、こう言われる。
 比丘たちよ、『この比丘が禅那に住するのは空しくなく、師の教えを実行し、教誡を実行し、この国の食物を食べるのは無駄ではない』と。まして多く作す場合はどう言おうか。 
 比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が喜心解脱を修習するならば、こう言われる。
 比丘たちよ、『この比丘が禅那に住するのは空しくなく、師の教えを実行し、教誡を実行し、この国の食物を食べるのは無駄ではない』と。まして多く作す場合はどう言おうか。 
 比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が捨心解脱を修習するならば、こう言われる。
 比丘たちよ、『この比丘が禅那に住するのは空しくなく、師の教えを実行し、教誡を実行し、この国の食物を食べるのは無駄ではない』と。まして多く作す場合はどう言おうか。

 ・・・・・・(三十七道品他の弾指の記述)・・・・・・

 比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が慈倶行の信根を修習するならば、こう言われる。
 比丘たちよ、『この比丘が禅那に住するのは空しくなく、師の教えを実行し、教誡を実行し、この国の食物を食べるのは無駄ではない』と。まして多く作す場合はどう言おうか。 
 比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が慈倶行の精進根を修習するならば、こう言われる。
 比丘たちよ、『この比丘が禅那に住するのは空しくなく、師の教えを実行し、教誡を実行し、この国の食物を食べるのは無駄ではない』と。まして多く作す場合はどう言おうか。 
 比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が慈倶行の念根を修習するならば・・・・・・
 比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が慈倶行の定根を修習するならば・・・・・・
 比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が慈倶行の慧根を修習するならば・・・・・・
 比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が慈倶行の信力を修習するならば・・・・・・
 比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が慈倶行の精進力を修習するならば・・・・・・
 比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が慈倶行の念力を修習するならば・・・・・・
 比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が慈倶行の定力を修習するならば・・・・・・
 比丘たちよ、指を弾く瞬間であっても、もしも比丘が慈倶行の慧力を修習するならば、こう言われる。
 比丘たちよ、『この比丘が禅那に住するのは空しくなく、師の教えを実行し、教誡を実行し、この国の食物を食べるのは無駄ではない』と。まして多く作す場合はどう言おうか。 

 ・・・悲倶行の信根・・・精進根・・・念根・・・定根・・・慧根・・・
 ・・・悲倶行の信力・・・精進力・・・念力・・・定力・・・慧力・・・
 ・・・喜倶行の信根・・・精進根・・・念根・・・定根・・・慧根・・・
 ・・・喜倶行の信力・・・精進力・・・念力・・・定力・・・慧力・・・
 ・・・捨倶行の信根・・・精進根・・・念根・・・定根・・・慧根・・・
 ・・・捨倶行の信力・・・精進力・・・念力・・・定力・・・慧力を修習するならば、こう言われる。
 比丘たちよ、『この比丘が禅那に住するのは空しくなく、師の教えを実行し、教誡を実行し、この国の食物を食べるのは無駄ではない』と。まして多く作す場合はどう言おうか」
     増支部経典>一集>第二十 静慮品 『南伝大蔵経17』大蔵出版 P57・64–65



・梵の高床大床
「   六十三
一 あるとき、世尊は大比丘衆とともにコーサラに遊行し、ヴェーナーガプラと名付けるコーサラにある婆羅門の村に入った。ヴェーナーガプラに住する婆羅門・家主らは聞いた。『沙門ゴータマはサキャ族より出家してヴェーナーガプラに着いた。またかの尊ゴータマ釈子には美しい称賛の声が揚がっている。いわく、かの世尊は阿羅漢・正等覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏陀・世尊である。彼はこの人々、および天・魔・梵天・沙門婆羅門・国王・庶民・有情に自ら了知し、悟り終わって教える。彼は初善・中善・後善、有義・有文、純一円満清浄、潔白である法を明らかにする。このような阿羅漢に会うことは幸いである』と。
二 そのときヴェーナーガプラに住する婆羅門・家主らは世尊のいるところに詣った。詣って一部の者は世尊に問訊して一方に座った。また一部の者は世尊と相互に挨拶を交わし、歓喜すべき記憶すべき談話を交わして一方に座った。また一部の者は世尊の方に合掌して一方に座った。また一部の者は名と姓を告げて一方に座った。また一部の者は沈黙して一方に座った。一方に座ったヴェーナーガプラに住するヴァッチャ姓の婆羅門は世尊に言った。
三 希有です、尊ゴータマ。未曾有です、尊ゴータマ。尊ゴータマ、尊ゴータマの諸根は極めて悦豫しています。外皮の色は極めて清く、極めて鮮やかです。
 尊ゴータマ、たとえば秋に浅黄色の棗が極めて清く、極めて鮮やかであるように、尊ゴータマの諸根は極めて悦豫しています。外皮の色は極めて清く、極めて鮮やかです。
 尊ゴータマ、たとえばターラ樹の円熟した実を茎から取ったとき、極めて清く、極めて鮮やかであるように、尊ゴータマの諸根は極めて悦豫しています。外皮の色は極めて清く、極めて鮮やかです。
 尊ゴータマ、たとえばジャンブー河の金が巧みな鍛冶師によって十分に精錬され、るつぼの中で溶かされ、十分に巧みな者によって作られた鉢が、紅色の絨毯に置かれて光り輝き遍く照らすように、尊ゴータマの諸根は極めて悦豫しています。外皮の色は極めて清く、極めて鮮やかです。
 尊ゴータマ、すべてあらゆる高床大床、たとえば、広大座、長椅子、長毛の細氈、雑色の毛布、白羊毛の褥、花を刺繍した毛布、綿を満たした敷物、獣類の形が描かれた羊毛布、両端に縁飾りのある羊毛布、一端にのみ縁飾りのある羊毛布、珠宝を散りばめた絹の褥、珠宝を散りばめた絹糸で織った褥、羊毛の大氈、象菌褥、馬菌褥、車菌褥、最勝羚羊皮の菌褥および外被い、両辺の丹枕。このような高床大床は、尊ゴータマは欲に応じて得られ、容易に得られ、多く得られます。
四 婆羅門、すべてあらゆる高床大床、たとえば、広大座・・・乃至・・・両辺の丹枕。これらは出家においては得難い。また得ても相応しくない。
 婆羅門、これら三つの高床大床は私が今欲に応じて得て、容易に得て、多く得るものである。何が三か。
 天の高床大床、梵の高床大床、聖の高床大床である。
 婆羅門、これら三つの高床大床は私が今欲に応じて得て、容易に得て、多く得るものである。
五 尊ゴータマ、何が尊ゴータマが今欲に応じて得て、容易に得て、多く得るという天の高床大床なのですか。
 婆羅門、今私はいかなる村、あるいは村落の近くに住むとしても、私は一日の午前に内衣を着て、衣鉢を持って、乞食のためにその村、あるいは村落に入る。私は昼に乞食から帰ってきてその林に赴く。私はそこにある草、あるいは葉を一カ所に集めて坐る。結跏趺坐して身を正しく定め、面前に対して念を起こす。
 私は欲を離れ、不善法を離れ、尋有り、伺有り、離より生じる喜楽がある初禅那を具足して住する。
 尋伺が寂静になるがゆえに内に等浄で心が一趣性である無尋無伺の定より生じる喜楽がある第二禅那を具足して住する。
 喜の貪を離れるがゆえに私は捨にして住し、また念あり正知して楽を身に領受する。諸聖者が捨にして念を具し、楽住であると言う第三禅那を具足して住する。
 楽を断ち、苦を断つがゆえに、また先にすでに喜と憂が滅しているがゆえに、不苦不楽、捨念清浄である第四禅那を具足して住する。
 婆羅門、私がこのようになって経行するならば、そのときの私の経行は天の経行である。
 婆羅門、私がこのようになって住するならば、そのときの私の住は天の住である。
 婆羅門、私がこのようになって坐するならば、そのときの私の坐は天の坐である。
 婆羅門、私がこのようになって臥するならば、そのときの私の臥は天の高床大床である。
 婆羅門、これが天の高床大床である。私は今それを欲に応じて得て、容易に得て、多く得る。
 尊ゴータマ、希有です。尊ゴータマ、未曾有です。尊ゴータマを除いて他に誰がまたこのような天の高床大床をよく欲に応じて得て、容易に得て、多く得る者がいるでしょうか。
六 尊ゴータマ、また何が尊ゴータマが今欲に応じて得て、容易に得て、多く得るという梵の高床大床なのですか。
 婆羅門、今私はいかなる村、あるいは村落の近くに住むとしても、私は一日の午前に内衣を着て、衣鉢を持って、乞食のためにその村、あるいは村落に入る。私は昼に乞食から帰ってきてその林に赴く。私はそこにある草、あるいは葉を一カ所に集めて坐る。結跏趺坐して身を正しく定め、面前に対して念を起こす。
 私は慈と倶行する心をもって一方に遍満して住する。第二、第三、第四もまた同じ。このように上下横あまねく一切処において一切世界に、慈と倶行する広く、大きな、無量で、怨みなく、悩害のない心をもって遍満して住する。
 悲と倶行する心をもって一方に・・・
 喜と倶行する心をもって一方に・・・
 捨と倶行する心をもって一方に遍満して住する。第二、第三、第四もまた同じ。このように上下横あまねく一切処において一切世界に、慈と倶行する広く、大きな、無量で、怨みなく、悩害のない心をもって遍満して住する。
 婆羅門、私がこのようになって経行するならば、そのときの私の経行は梵の経行である。
 婆羅門、私がこのようになって住するならば、そのときの私の住は梵の住である。
 婆羅門、私がこのようになって坐するならば、そのときの私の坐は梵の坐である。
 婆羅門、私がこのようになって臥するならば、そのときの私の臥は梵の高床大床である。
 婆羅門、これが梵の高床大床である。私は今それを欲に応じて得て、容易に得て、多く得る。
 尊ゴータマ、希有です。尊ゴータマ、未曾有です。尊ゴータマを除いて他に誰がまたこのような梵の高床大床をよく欲に応じて得て、容易に得て、多く得る者がいるでしょうか。
七 尊ゴータマ、また何が尊ゴータマが今欲に応じて得て、容易に得て、多く得るという聖の高床大床なのですか。
 婆羅門、今私はいかなる村、あるいは村落の近くに住むとしても、私は一日の午前に内衣を着て、衣鉢を持って、乞食のためにその村、あるいは村落に入る。私は昼に乞食から帰ってきてその林に赴く。私はそこにある草、あるいは葉を一カ所に集めて坐る。結跏趺坐して身を正しく定め、面前に対して念を起こす。
 私はこのように知る。私は貪を断った。根を切った。ターラ樹の頂を切ったように、さらに生じず、未来に生じることはない。
 私は瞋を断った。根を切った。ターラ樹の頂を切ったように、さらに生じず、未来に生じることはない。
 私は癡を断った。根を切った。ターラ樹の頂を切ったように、さらに生じず、未来に生じることはない。
 婆羅門、私がこのようになって経行するならば、そのときの私の経行は聖の経行である。
 婆羅門、私がこのようになって住するならば、そのときの私の住は聖の住である。
 婆羅門、私がこのようになって坐するならば、そのときの私の坐は聖の坐である。
 婆羅門、私がこのようになって臥するならば、そのときの私の臥は聖の高床大床である。
 婆羅門、これが聖の高床大床である。私は今それを欲に応じて得て、容易に得て、多く得る。
 尊ゴータマ、希有です。尊ゴータマ、未曾有です。尊ゴータマを除いて他に誰がまたこのような聖の高床大床をよく欲に応じて得て、容易に得て、多く得る者がいるでしょうか。
 尊ゴータマ、素晴らしい。尊ゴータマ、素晴らしい。たとえば倒れた者を起こすように、覆われたものを・・・・・・帰依します」
     増支部経典>第三集>第二 大品 『南伝大蔵経17』大蔵出版 P291–298




・梵を得る
「   百九十
一 あるとき、世尊はサーヴァッティの東園、ミガーラマートゥの高殿に住していた。そのとき、世尊は布薩の当日に比丘衆に囲まれて座っていた。ときに世尊はことごとく沈黙している比丘衆を見回して比丘衆に言った。
 比丘たちよ、この衆会は談話を離れている。この衆会には談話をする者はない。清浄で堅実に住している。世の中において見ることすらも得難い衆会である。比丘たちよ、この比丘衆はこのようである。
 比丘たちよ、この衆会はこのようである。応請、極応請、応施、応合掌、世の無上の福田である衆会である。比丘たちよ、この比丘衆はこのようである。
 比丘たちよ、この衆会はこのようである。衆会があり、会うためには若干の由旬を糧食を負って行く価値があるものである。比丘たちよ、この比丘衆はこのようである。
 比丘たちよ、この衆会はこのようである。比丘たちよ、この比丘衆はこのようである。
二 比丘たちよ、この比丘衆の中に比丘がいて、天を得て住する。
 比丘たちよ、この比丘衆の中に比丘がいて、梵を得て住する。
 比丘たちよ、この比丘衆の中に比丘がいて、不動を得て住する。
 比丘たちよ、この比丘衆の中に比丘がいて、聖を得て住する。
三 比丘たちよ、また何が比丘がいて天を得ているのか。
 比丘たちよ、世に比丘がいて、欲を離れ・・・初禅那を具足して住し・・・第二禅那を・・・第三禅那を・・・第四禅那を具足して住する。
 比丘たちよ、このようなものが比丘がいて天を得ているのである。
四 比丘たちよ、また何が比丘がいて梵を得ているのか。
 比丘たちよ、世に比丘がいて、慈倶行の・・・悲倶行の・・・喜倶行の・・・捨倶行の心をもって一方に遍満して住し、第二、第三、第四もまた同じ。このように上下横あまねく一切処において、一切世界に、捨と倶行する広く大きな、無量で、無怨で、無悩害の心をもって遍満して住する。
 比丘たちよ、このようなものが比丘がいて梵を得ているのである。
五 比丘たちよ、また何が比丘がいて不動を得ているのか。
 比丘たちよ、世に比丘がいて、一切色想を出過し、有対想、種々想を作意しないがゆえに「空は無辺である」と空無辺処を具足して住する。
 一切空無辺処を出過し、「識は無辺である」と識無辺処を具足して住する。
 一切識無辺処を出過し、「無所有である」と無所有処を具足して住する。
 一切無所有処を出過し、非想非非想処を具足して住する。
 比丘たちよ、このようなものが比丘がいて不動を得ているのである。
六 比丘たちよ、また何が比丘がいて聖を得ているのか。
 比丘たちよ、世に比丘がいて、「これは苦である」と如実に知り、「これは苦の原因である」と如実に知り、「これは苦の消滅である」と如実に知り、「これは苦の滅に趣く道である」と如実に知る。
 比丘たちよ、このようなものが比丘がいて聖を得ているのである」
     増支部経典>四集>(19)第五 大品 『南伝大蔵経18』大蔵出版 P321–324






瞋 :vyāpāda、ビャーパーダ、怒り

慈心:メッターチッタ、mettācitta、mettacittaでも可
実行:アーセーヴァティ、āsevati
修習:バーベーティ、bhāveti
作意:マナシ・カローティ、manasi karoti

慈住者:メッター・ヴィハーリーナ、 … Mettāvihārīnaṃ yadidaṃ sāmāvatī.

慈心解脱:メッター・チェートーヴィムッティ、mettā cetovimutti
悲心解脱:カルナー・チェートーヴィムッティ、karuṇā cetovimutti
喜心解脱:ムディター・チェートーヴィムッティ、muditā cetovimutti
捨心解脱:ウペッカー・チェートーヴィムッティ、upekkhā cetovimutti

慈倶行 :メッターサハガター、mettāsahagatā 
悲倶行 :カルナーサハガター、karuṇāsahagatā
喜倶行 :ムディターサハガター、muditāsahagatā
捨倶行 :ウペッカーサハガター、upekkhāsahagatā

天の高床大床:ディッバム・ウッチャーサヤナマハーサヤナム、dibbaṃ uccāsayanamahāsayanaṃ、
梵の高床大床:ブラフマム・ウッチャーサヤナマハーサヤナム、brahmaṃ uccāsayanamahāsayanaṃ,
聖の高床大床:アリヤム・ ウッチャーサヤナマハーサヤナム、ariyaṃ uccāsayanamahāsayanaṃ,
       ウッチャー(高い)サヤナ(床)マハー(大きい)サヤナ(床)

天を得る:デーヴァッパッタ、devappatta、パッタ(巳得の、得た、得達の)
梵を得る:ブラフマッパッタ、brahmappatta
不動を得る:アーネーンジャッパッタ、āneñjappatta、インジャナー(iñjanā、動揺、動転)の否定形、アーネーンジャで不動。
聖を得る:アリヤッパッタ、ariyappatta、アリヤ(聖なる、神聖な、尊貴な、聖者)

コメント(5)

「天・梵・聖の高床大床」に絡めて、「天・梵・不動・聖を得る」も似たような内容なのでまとめて載せた方がいいかも知れないと考えて、以下の文章を追加して編集しました。





05 梵を得る
「   百九十
一 あるとき、世尊はサーヴァッティの東園、ミガーラマートゥの高殿に住していた。そのとき、世尊は布薩の当日に比丘衆に囲まれて座っていた。ときに世尊はことごとく沈黙している比丘衆を見回して比丘衆に言った。
 比丘たちよ、この衆会は談話を離れている。この衆会には談話をする者はない。清浄で堅実に住している。世の中において見ることすらも得難い衆会である。比丘たちよ、この比丘衆はこのようである。
 比丘たちよ、この衆会はこのようである。応請、極応請、応施、応合掌、世の無上の福田である衆会である。比丘たちよ、この比丘衆はこのようである。
 比丘たちよ、この衆会はこのようである。衆会があり、会うためには若干の由旬を糧食を負って行く価値があるものである。比丘たちよ、この比丘衆はこのようである。
 比丘たちよ、この衆会はこのようである。比丘たちよ、この比丘衆はこのようである。
二 比丘たちよ、この比丘衆の中に比丘がいて、天を得て住する。
 比丘たちよ、この比丘衆の中に比丘がいて、梵を得て住する。
 比丘たちよ、この比丘衆の中に比丘がいて、不動を得て住する。
 比丘たちよ、この比丘衆の中に比丘がいて、聖を得て住する。
三 比丘たちよ、また何が比丘がいて天を得ているのか。
 比丘たちよ、世に比丘がいて、欲を離れ・・・初禅那を具足して住し・・・第二禅那を・・・第三禅那を・・・第四禅那を具足して住する。
 比丘たちよ、このようなものが比丘がいて天を得ているのである。
四 比丘たちよ、また何が比丘がいて梵を得ているのか。
 比丘たちよ、世に比丘がいて、慈倶行の・・・悲倶行の・・・喜倶行の・・・捨倶行の心をもって一方に遍満して住し、第二、第三、第四もまた同じ。このように上下横あまねく一切処において、一切世界に、捨と倶行する広く大きな、無量で、無怨で、無悩害の心をもって遍満して住する。
 比丘たちよ、このようなものが比丘がいて梵を得ているのである。
五 比丘たちよ、また何が比丘がいて不動を得ているのか。
 比丘たちよ、世に比丘がいて、一切色想を出過し、有対想、種々想を作意しないがゆえに「空は無辺である」と空無辺処を具足して住する。
 一切空無辺処を出過し、「識は無辺である」と識無辺処を具足して住する。
 一切識無辺処を出過し、「無所有である」と無所有処を具足して住する。
 一切無所有処を出過し、非想非非想処を具足して住する。
 比丘たちよ、このようなものが比丘がいて不動を得ているのである。
六 比丘たちよ、また何が比丘がいて聖を得ているのか。
 比丘たちよ、世に比丘がいて、「これは苦である」と如実に知り、「これは苦の原因である」と如実に知り、「これは苦の消滅である」と如実に知り、「これは苦の滅に趣く道である」と如実に知る。
 比丘たちよ、このようなものが比丘がいて聖を得ているのである」
     増支部経典>四集>(19)第五 大品 『南伝大蔵経18』大蔵出版 P321–324


天を得る:デーヴァッパッタ、devappatta、パッタ(巳得の、得た、得達の)
梵を得る:ブラフマッパッタ、brahmappatta
不動を得る:アーネーンジャッパッタ、āneñjappatta、インジャナー(iñjanā、動揺、動転)の否定形、アーネーンジャで不動。
聖を得る:アリヤッパッタ、ariyappatta、アリヤ(聖なる、神聖な、尊貴な、聖者)
天・梵・聖の行住坐臥の「住」は「とどまる、立つ」を意味する語(tiṭṭhi)で、ヴィハーラ(vihāra)としての住のほうが全体的に「住む、住、精舎」を意味します。ですから、行住坐臥というよりも「歩立座臥」という意味合いが強いと思います。その歩き立ち座り横になる全体を行なう場としてヴィハーラがあるのだと思います。

そういう意味において天住・梵住・聖住の住、同様に発勤精進住でも四念住でも四梵住でも梵行住でもよいのですが、そういう意味における住について色々と考察すると深いものがあります。

住は暮らしと生活であり、邪命正命の命でもあります。その住その命においてそれぞれの八支が全面的に展開されています。存在者はこの全宇宙に住しているのであり、宇宙の外に住しているのではありません。同様に、この天の川銀河に住しており、この太陽系に住しており、この地球に住しており、日本他の国土に住しています。そして地方と地域と街と町内に住しており、自宅と自室において住しています。これは身体の住です。

身体の住と言えども、そこにおいて外界との接触があるわけですから、外界から五感を通じて流れ入ってくる情報は自分の意識に干渉してきます。それでそれぞれの星や風土や地方や時代や文化に住む生ける者の性格や気質や趣味嗜好というのはその住む場所の影響を大々的に受けます。生ける者はまずは力なき無力な者として在るのですから、外界の影響は甚大であり、自分が外界に与える影響は矮小です。

身体の住で意外と見過ごしやすいのが物理的な身体の汚れの不潔清潔も含めた意味でのファッションです。着る服の影響を人は強く受けます。服を選んで着るのは大抵いつも自分ですが、その自分が選んだ服が自分に強く影響します。自分で選んだ引っ越し先や日々食べている食べ物が自分に影響を与えるのと同じです。

身体の住のうちでもっとも近接しているのが自分の身体であり本体ですが、その次に重要なのがやはり着る服、自分のスタイル、即ちファッションとなります。髪型や髭の形も含めた上での全体の印象です。ファッションの後に、住居や移動中における車やバイクや自転車などの附属物が影響を与えます。

これらの外界からの影響を考慮して身体の清潔とファッションと自分の部屋と住む地域に気を配れば楽に進歩できます。五感を通じて常に影響を与えているからです。速やかに人であっても神であっても財産を多く獲得するために四輪が原始仏典で説かれていますが、その中に「適切なところに住むこと」というのがあります。それも住の自己制御です。適切なところというのは、そこに住めば自分の利益が増大するところであり、不適切なところというのはそこに住めば自分の不利益が増大するところであると思います。これと同様に、身体の清潔不潔と髪の毛と髭と爪の長さについて考慮すべきだと思います。ファッションや自分の部屋や住居全体もそのようです。自分に利益をもたらす外部環境を構築することが楽に利益を得る方法です。

しかしこれらの身体の住よりも遥かに重要なことが心の住であると思います。実際に出家者たちの暮らしにおいて風呂は二週間ほど空けてからだったと思いますし、袈裟も不潔で構わないというより不潔な格好が逆に格好いいところもあると思います。ただ瞑想場所には気を使っていますが。それは心の住である初禅を重んじるからであり、初禅において声は刺であるとされているからです。
出家も在家とは違う住であるからこそ価値があると思います。出家は五欲を享受し難く、またサンガにおいては五欲享受が禁止されている住であるからです。出家者は袈裟をまとい、人によっては糞掃衣をまといますが、それも社会的名誉を求めず、社会的名誉に基づく財欲を求めず、財欲に基づく五欲楽を求めずということだと思います。在家者のファッションと出家者の服装の差異によって生じる心境の差異と社会的な対応の差異、それが在家出家の住の差異に深く関係してきます。

また一緒に過ごす家族や外で会ったりする人間関係もまた住の範疇で非常に重要だと思います。家族友人や仕事などで付き合わなければならない人との住は、相手の会話と所作を通じてこちらの心に強く影響を与えます。この対人関係は心の住にも入ってきますが、身体の住である行ったり来たり会ったり別れたりということと密接な関係があります。人は自分の人間関係と社会関係の中に深く住しています。その関係を断ち切るような大掛かりな身辺整理と引っ越しを行って隠遁しない限りは。

聖サンガを友とし仲間として持ち、その中に住するというのは利益が多いと思います。男子校や女子校や全寮制、一時的な合宿というのもそういった住の影響力を考慮してだと思います。

身体の住のうちでもっとも近いものが自らの身体の状態そのものへの住です。それは健康状態や病気の状態にあるときの住であり、年齢的に幼い若い壮年老年としての身体状態に住するということでもあり、今生はこの性別として住しているということでもあります。この身体の状態に住することがもっともダイレクトに心に影響を与え続けます。

健康に住することが長い者と病気に住することが長い者とでは自ずから経験が異なり、経験が異なれば見解も異なってくるでしょうし、同様に男性の肉体をまとう者と女性の肉体をまとう者とは別の経験をすることになり、それが見解の相違、ひいては八支の相違と相成ります。容姿の良し悪しもまた一つの住であり、所有する容姿により実際の外界における経験と内面の感受には人によって大きく異ってきます。

さらに容姿のみならず身体機能の相違として、人間の肉体に住する場合と畜生の肉体、それはナーガやスパンナを含めてですがそのような肉体に住する場合とではまったく異なる接触内容を得るでしょうし、神の身体やブラフマーの身体に住する場合とでは大きく生の内実が異なると思います。身体の住こそは生ける者にとってもっとも長期的な色の転換です。


これらは身体の住ですが、この身体の住よりも心の住のほうが言うまでもなく圧倒的に重要だと思います。そして心の住においてもっとも重要なものが長期的な心の状態だと思っています。貪瞋癡の濃さ深さ重さ、美徳の習慣、努力の習慣などであり、何よりも五取蘊、それが最重要であると思います。心が所有する力の総量も重要であるとは思いますが、生ける者は主に心の五蘊への執着分に応じて、死後の身体の獲得内容が決定され、涅槃するか転生するか、善趣へ行くか悪趣へ行くかが決まると考えるからです。

執着すれば執着するほどその住は重くなり苦は増大し、五取蘊が少なければ少ないほどその住は軽くなり苦は減少すると思います。五取蘊が絶無の住は阿羅漢の住であり、それは涅槃であり楽であると見えます。しかし多くの人にとって日々の暮らしは自らの執着への住です。それは五蓋を生み出し、人は五蓋の悩みのうちに住します。初禅に住する人は稀です。そして執着対象に対して三行と八支を繰り返し起こし、その中に住みます。そして内面的にはゆっくりと、外面的にはあるときは激しくあるときは穏やかにその住は変化していきます。
天住・梵住・聖住というのは一時的にそれらそれぞれの住に達して住することであり、恒常的にそれらの住に住するという意味ではないと思います。たとえば聖住と言っても阿羅漢が四六時中そこに住するのではないと考えています。右腕を切断している者が常に「私に右腕はない」と思っているわけではないように、三悪根を根絶している者が常に「私に三悪根はなく、生じることもない」と思っているわけではないと思います。しかし確認したいときは双方ともに自ら確認できます。その三悪根絶を知見して住している間だけを聖住と呼ぶのだと思います。そして知見し自覚した後はまたいつもの住に戻るのだと思います。

定に住するときも定に住さないときも、四念処に住するというのが比丘の理想であると思います。比丘は念と自覚に住するべきであり、それこそが自帰依法帰依であると繰り返し定義されています。呼吸を整えて常に明瞭な意識で注意深く外界と内界を観察して、事が起きれば常に機敏に対応することができるという完全にニュートラルな境地です。しかも貪りと憂いも常に制御し続けます。無相三摩地にも近いものがあると思います。

しかしこれは理想で実際には、一般の人たちは普通の精神状態に常に住み続けています。五蓋が増減したり、自覚が増減したりする状態である雑念住です。独り言の考え事をぼんやりと無自覚に続けていたり、適当に物事に取り組んでいたり、だらだらとテレビを見聞きしたり飲み食いしたり、特に意識した欲の対象を享受する段になればそれに集中したり、飽きたり、嫌なことがあれば怒ったり不満を溜め込んだり自分を誤摩化したりしています。それら全てが住の範疇です。人は接触によって生じた感受、それに起因する想である様々な感情に長い間住しています。受・想・尋の自覚はこの際、とても有効です。

ある人は不快感の中に多く住み、ある人は喜びの中に多く住み、ある人は優しさの中に多く住みます。その住は行となり、原因を作る三行となり、内界と外界に新しい結果を作り出します。それが短期的には顔の表情や身体の心拍数や筋肉の緊張状態やホルモン分泌に影響を与え、長期的には自分の容姿や身体の健康状態や免疫力に影響を与えていると思います。これは感情を原因として生じる身体の変化ですが、心がその内のそれぞれの想を原因として別の心に変化していくその有り様を見切ることがもっとも重要だと思います。念処や観の一環です。

人の習慣としての過去の行は惰性的なものに見え、現在新しく方向転換するために為される行は改めてエネルギーを出すことが必要なものに見えます。惰性といっても不利益を結果する惰性は悪いものであり、利益を結果する惰性は善いものです。また不利益を結果する新しい努力は悪いものであり、利益を結果する新しい努力は善いものです。今自分が続けている住、命を維持し向上させるためには正見にもとづく正精進と正念が不可欠です。それらに関して本人は無意識ではあっても。

根本的にしてもっとも長期的な心の住は自身の所有する見解であると思います。五取蘊の量と質の差異はその見解によって強く影響を受けていると見ます。人は誰もが自らの世界観と人生観の中に住み、大多数の人はその生き方、見解を変えることはありません。たとえ見解に相反する現実を突きつけられてもです。自分の考え方を変えるよりも自分の内面において認識された事実や相手のやり方自体を否定することによって解決を計ることがほとんどです。実際には問題は解決しませんが、とにかく問題があるのはこちらではなくあちらなのだから、こちらが変わる必要はないと考えるということです。因果連鎖としては異なる結果を欲する場合は異なる原因構築が自ら必要です。こちらの無努力によって他者や外界に都合のよい変化が起きると期待することは困難です。現実を見落とす分が更新されない無明分です。

多くの人は何十年経っても相変わらず変わってないように見え、むしろ再会するたびに堕落しているように見えます。世界が堕落に向かう時代において大多数の人はそうです。邪見と正見が入り交じり、それらを区別できずに大雑把に自分の従来のやり方と生き方に住み続けることにより、執着と渇愛をはじめ三毒は増大し、五蓋は増大し、念と集中が失われ、利益ある法と不利益の法を区別できずに、誤った三行を取って、より一層悪法を増大するという悪循環の住がそこにはあります。

世間一般の通念だけを自分の生き方・見解として採用し、しかも今生において幸せになるというのはあまりにも難しいと思います。考えや生き方が粗野過ぎて、多くの微細な黒法白法が分別できずに漏れるものが多過ぎるからです。その点、無害・忍耐に勝るものはないと思います。自らを傷付ける有へと導く渇愛を尽くすこともその内にあり、と見えるからです。
人は自分の見解の中に住み、自分の生き方の中に住んでいます。自己の住を強く規定しているこの見解を越えては別のいかなる住にも達し難いです。外界の状況は肉体の拘束と連行によって移動させることができますが、内界の状況は見解を打ち破る語行を外部から為さない限りは滅多なことでは変化しません。しかし知恵や反省を求める人は少なく、聞く耳を持つ人は少ないので荒廃した土地に蒔かれた種のごとくに無駄になる説教も多いです。宗教的な教えの説教だけでなく、家庭での躾や人からのちょっとした助言も含めて。

もし人が彼への助言の言路を自ら閉ざしたならば、あとは彼が自ら自身の見解を発酵させ微細化し、再構築するしかありません。自分の今までの生き方を自分一人で反省するということです。自分一人で正見を正精進と正念により修習することになります。しかし反省するためには疑いと迷いが生じる事態が彼に降り掛かることが必要です。そのときには心身ともに苦痛と損害を受けます。自らの見解の再検討を普段から繰り返している人間は損害を受けてからの改善ではなく、損害を受ける前の改善ができ自らの利益となります。

苦しみと不幸によって人は強くなり善を学び反省することはよくあります。しかしだからと言って向上するために苦しみが常に必要なわけでもありません。四禅は楽にして未来に向上とさらなる力と楽とを結果させると思われます。また修行が楽しみの者にとっては苦なく楽と力の増大があります。仮にもし苦しみが必ず力と善とを獲得させるとするならば、悪趣の住人たちが最速で力と善とを獲得するでしょう。しかし実際には一度悪趣に落ちたならば非常に長い間、そこにとどまるものと思われます。これと同様の論理で利益をもたらさない無益な苦行が否定されます。同様にあえて悪を為し悪業の報いを待って苦しみを期待することも否定されます。

善法と力と楽への道は、楽受を感受すればよいとか苦受を感受すればよいという問題ではなく、彼の内に八正道が正しく生起すること、そこにかかっています。正しい八支を生じさせるならばその感受はよかったと言え、邪な八支を生じさせるならばその感受は悪かったと言えます。ならば始めから一切感受を正しく向けるところの正見を修習すればそれで楽受を感受しようと苦受を感受しようと人は利益を得ます。それが預流、流れに入ったというところの因果連鎖の真義であると思います。どう転ぼうと待ち受けるは正覚です。

もし苦しみの中で自らの生き方を反省しても次に取るべき道が長期においてわからない状態が続き、且つその答えを求め続ける理由が彼の内にあるならば、そこに彼の確固たる信があり、その信よりして求道は生じます。求道の持続性はその信根信力に依存します。持続的であればあるほど求道の八支が生じ、それが彼の住になります。求道の三行、求道の八支に住する者が求道者です。そしてさらに上を求めて修行をする者は修行の八支に住するがゆえに修行者です。四諦知より始まる八正道に住する者は聖にして梵行住の者です。三悪行と八邪に住する者は悪人にして邪見者です。


現在の自己の住を知り、現在の自分の住は自分に利益をもたらすのか、不利益をもたらすのか、この住この命に住し続けることによって自分は最終的にどこに行くのかを考察することは利益があります。必ず死後の住、さらに後の住にまで思いを馳せることが正見ある者にとっては相応しくまた利益が多いことと思います。

人は何よりも自らの心に住する者であり、その自らの心を自ら楽しみ自ら厭う者であるならば、漏尽の心がいかに清浄にして楽なる住居であるか想像すれば漏尽に向けて前向きな気持ちが生じます。欲するがままに振る舞い、涼風彼を吹くがごとくの阿羅漢の住は求めるに足るものであると思います。

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