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原始仏典コミュの犍度部 小品 第10  「比丘尼犍度」

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比丘尼にまつわる律の話を途中まで引用します。


(『南伝大蔵経4 律蔵4』大蔵出版 P378から)



律蔵>小品>第10 比丘尼犍度


「     第十 比丘尼犍度

一–一 そのときブッダである先生はサッカ国のカピラヴァットゥのニグローダ園に住していた。ときにマハーパジャーパティ・ゴータミーは先生のいるところを詣った。詣って先生に敬礼して一方に立った。一方に立ってマハーパジャーパティ・ゴータミーは先生に言った。
「どうか女性を如来が説かれた法と律において家を出て出家することができるようにしてください」
「やめなさい、ゴータミー。女性が如来が説いた法と律において家を出て出家することを願ってはならない」
 再び、マハーパジャーパティ・ゴータミーは先生に言った。
「どうか女性を如来が説かれた法と律において家を出て出家することができるようにしてください」
「やめなさい、ゴータミー。女性が如来が説いた法と律において家を出て出家することを願ってはならない」
 三たび、マハーパジャーパティ・ゴータミーは先生に言った。
「どうか女性を如来が説かれた法と律において家を出て出家することができるようにしてください」
「やめなさい、ゴータミー。女性が如来が説いた法と律において家を出て出家することを願ってはならない」
 ときに、マハーパジャーパティ・ゴータミーは「先生は女性が如来が説かれた法と律において家を出て出家することを許されない」と苦悩し悲嘆して、涙を流し、泣いて先生を敬礼し右回りして去った。
二 ときに、先生は意のままにカピラヴァットゥに住した後、ヴェーサーリに向かって遊行した。次第に遊行してヴェーサーリに到った。ここで先生はヴェーサーリの大林の重閣堂に住した。
 ときに、マハーパジャーパティ・ゴータミーは髪を除いて、袈裟衣を着て、多くのサキャ族の女性たちとともにヴェーサーリに向かって遊行した。次第に遊行してヴェーサーリの大林の重閣堂に到った。ときにマハーパジャーパティ・ゴータミーは足が腫れて、身は塵にまみれ、苦悩し悲嘆して、涙を流し、泣いて門戸の外に立った。尊者アーナンダはマハーパジャーパティ・ゴータミーが足が腫れて、身は塵にまみれ、苦悩し悲嘆して、涙を流し、泣いて門戸の外に立っているのを見た。見て、マハーパジャーパティ・ゴータミーに言った。
「ゴータミー、どうしてあなたは足が腫れ・・・泣いて門戸の外に立っているのか」
「アーナンダ先生、先生(ゴータマ)は女性が如来が説かれた法と律において家を出て出家することを許してくれません」
「それならばゴータミー、しばらくここで待ちなさい。私が先生に女性が如来の説かれた法と律において家を出て出家することをお願いしてきます」
三 ときに、尊者アーナンダは先生のいるところに詣った。詣って先生を敬礼して一方に座った。一方に座って尊者アーナンダは先生に言った。
「ここにマハーパジャーパティ・ゴータミーは足が腫れ・・・泣いて門戸に立って、先生は女性が如来が説かれた法と律において家を出て出家することを許されませんと言います。どうか女性を如来が説かれた法と律において家を出て出家することを得させてください」
「やめなさい、アーナンダ。女性が如来所説の法と律において家を出て出家することを願ってはならない」
 再び、尊者アーナンダは先生に言った。
「どうか・・・出家することを得させてください」
「やめなさい、アーナンダ・・・願ってはならない」
 三たび、尊者アーナンダは先生に言った。
「どうか・・・出家することを得させてください」
「やめなさい、アーナンダ・・・願ってはならない」
 ときに、尊者アーナンダは「先生は女性が如来所説の法と律において家を出て出家することを許されない」と知り、「私はよろしく他の方便によって先生に女性が・・・出家することを請うようにしよう」と思った。ときに、尊者アーナンダは先生に言った。
「女性がもし如来所説の法と律において家を出て出家したならば、預流果・一来果・不還果・阿羅漢果を実証することができますか」
「アーナンダ、女性がもし如来所説の法と律において家を出て出家すれば、預流果・一来果・不還果・阿羅漢果を実証することができるだろう」
「女性がもし如来所説の法と律において家を出て出家すれば、預流果・一来果・不還果・阿羅漢果を実証することができるならば、マハーパジャーパティ・ゴータミーは先生に恩を施すことが多く、叔母、乳母、養母、乳哺母であって生母が亡くなられてから先生に乳を与えられました。どうか女性が如来所説の法と律において家を出て出家することを得させてください」
四 「アーナンダ、もしマハーパジャーパティ・ゴータミーが八重法(アッタ・ガル・ダンマ、八つの重い法、尊重すべき法)を受けるならば、これをもってその具足戒となそう。

『比丘尼は具足戒を受けて百歳であるといえども、本日具足戒を受けた比丘のために敬礼、応対、合掌、尊敬をなしなさい。この法を尊敬し、尊重し、奉事し、讃嘆して生涯、犯してはならない』
『比丘尼は比丘のいない住処に住してはならない。この法を尊敬し、尊重し、奉事し、讃嘆して生涯、犯してはならない』
『比丘尼は半月ごとに比丘衆に二つの法を請わなければならない。布薩を問うことと教誡に行くことである。この法を尊敬し、尊重し、奉事し、讃嘆して生涯、犯してはならない』
『比丘尼が雨安居を住し終わったならば、両衆(比丘衆と比丘尼衆)において見・聞・疑の三事において自恣(じし、自発的な反省)を行なわなければならない。この法を尊敬し、尊重し、奉事し、讃嘆して生涯、犯してはならない』
『比丘尼が重法を犯したならば、両衆において半月の間、マーナッタ(六夜七日の謹慎処分)を行なわなければならない。この法を尊敬し、尊重し、奉事し、讃嘆して生涯、犯してはならない』
『式叉摩那が二年の間、六つの法を学んだならば、両衆において具足戒を請わなければならない。この法を尊敬し、尊重し、奉事し、讃嘆して生涯、犯してはならない』
『比丘尼はいかなることによっても比丘を誹謗中傷してはならない。この法を尊敬し、尊重し、奉事し、讃嘆して生涯、犯してはならない』
『今日より以後、比丘尼から比丘への言葉の路を閉ざし、比丘から比丘尼への言葉の路は閉ざさない。この法を尊敬し、尊重し、奉事し、讃嘆して生涯、犯してはならない』

アーナンダ、もしマハーパジャーパティ・ゴータミーがこの八重法を受けるならば、これによってその具足戒となそう」
五 ときに、尊者アーナンダは先生のもとで八重法の教えを受けてマハーパジャーパティ・ゴータミーのもとに到った。到ってマハーパジャーパティ・ゴータミーに言った。
「ゴータミー、もしあなたが八重法を受ければ、これによってあなたの具足戒となすだろう。
『比丘尼は具足戒を受けて百歳であるといえども、本日具足戒を受けた比丘のために敬礼、応対、合掌、尊敬をなしなさい。この法を尊敬し、尊重し、奉事し、讃嘆して生涯、犯してはならない』
『比丘尼は比丘のいない住処に住してはならない。この法を尊敬し、尊重し、奉事し、讃嘆して生涯、犯してはならない』
『比丘尼は半月ごとに比丘衆に二つの法を請わなければならない。布薩を問うことと教誡に行くことである。この法を尊敬し、尊重し、奉事し、讃嘆して生涯、犯してはならない』
『比丘尼が雨安居を住し終わったならば、両衆において見・聞・疑の三事において自恣を行なわなければならない。この法を尊敬し、尊重し、奉事し、讃嘆して生涯、犯してはならない』
『比丘尼が重法を犯したならば、両衆において半月の間、マーナッタを行なわなければならない。この法を尊敬し、尊重し、奉事し、讃嘆して生涯、犯してはならない』
『式叉摩那が二年の間、六つの法を学んだならば、両衆において具足戒を請わなければならない。この法を尊敬し、尊重し、奉事し、讃嘆して生涯、犯してはならない』
『比丘尼はいかなることによっても比丘を誹謗中傷してはならない。この法を尊敬し、尊重し、奉事し、讃嘆して生涯、犯してはならない』
『今日より以後、比丘尼から比丘への言葉の路を閉ざし、比丘から比丘尼への言葉の路は閉ざさない。この法を尊敬し、尊重し、奉事し、讃嘆して生涯、犯してはならない』
ゴータミー、もしあなたが八重法を受ければ、これによってあなたの具足戒となすだろう」
「アーナンダ先生、たとえば男女の若く、年少の装飾を好む者が、頭を洗って、ウッパラの華鬘、ヴァッシの華鬘、アティムッタの華鬘を得て両手で頭に置くように、このようにアーナンダ、私はこの八重法を受けて生涯犯しません」
六 ときに、尊者アーナンダは先生のいるところに詣った。詣って先生を敬礼して一方に座った。一方に座って尊者アーナンダは先生に言った。
「マハーパジャーパティ・ゴータミーは八重法を受けました。先生の叔母は具足戒を受けました」
「アーナンダ、もし女性が如来所説の法と律において家を出て出家することがなかったならば、アーナンダ、梵行は久しく住し、一千年の間、住しただろう。
 アーナンダ、女性が如来所説の法と律において家を出て出家するがゆえに、アーナンダ、今や梵行が久しく住することはない。
 アーナンダ、今や正法(サッダンマ)は五百年の間、住するだろう。
 アーナンダ、たとえば、家に女性が多く、男性が少ないときは、当座奥は夜、侵入しやすい。このように、アーナンダ、もし法と律において女性が家を出て出家することを得るならば、この梵行は久しくは住さない。
 アーナンダ、たとえば、成就した稲田に白カビと名付ける疫病が発生したときは、その稲田は久しくは住さない。このように、アーナンダ、もし法と律において女性が家を出て出家することを得るならば、この梵行は久しくは住さない。
 アーナンダ、たとえば、成就したサトウキビ畑に赤カビと名付ける疫病が発生したときは、そのサトウキビ畑は久しくは住さない。このように、アーナンダ、もし法と律において女性が家を出て出家することを得るならば、この梵行は久しくは住さない。
 アーナンダ、たとえば、人が大池にはあらかじめ堤を設けて水を氾濫させないようにするように、アーナンダ、このように私はあらかじめ比丘尼たちのために八重法を制して生涯犯すことがないようにさせる」

                        比丘尼八重法[畢]

二–一 ときに、マハーパジャーパティ・ゴータミーは先生のいるところに詣った。詣って先生を敬礼して一方に立った。一方に立ってマハーパジャーパティ・ゴータミーは先生に言った。
「このサキャ族の女性たちをどうすればよいでしょうか」
 ときに、先生は法と説いてマハーパジャーパティ・ゴータミーを教示し・・・歓喜させた。ときに、先生は法を説いて教示し・・・歓喜させたとき、マハーパジャーパティ・ゴータミーは先生を敬礼して右回りをして去った。ときに、先生はこの縁によってこのとき説法して比丘たちに告げて言った。
「比丘たちよ、比丘尼は比丘に従って具足戒を受けることを許す」
二 ときに、その比丘尼たちはマハーパジャーパティ・ゴータミーに言った。
「尊者はいまだ具足戒を受けていません。私たちはすでに具足戒を受けました。先生はこのように『比丘尼は比丘に従って具足戒受けることを許す』と制されました」
 ときに、マハーパジャーパティ・ゴータミーは尊者アーナンダのもとに到った。到って尊者アーナンダを敬礼して一方に立った。一方に立ってマハーパジャーパティ・ゴータミーは尊者アーナンダに言った。
「アーナンダ先生、あの比丘尼たちはこのように言います。『尊者はいまだ具足戒を受けていません。私たちはすでに具足戒を受けました。先生はこのように「比丘尼は比丘に従って具足戒受けることを許す」と制されました』と」
 ときに、尊者アーナンダは先生のいるところに詣った。詣って先生を敬礼して一方に座った。一方に座って尊者アーナンダは先生に言った。
「マハーパジャーパティ・ゴータミーは言います。『アーナンダ先生、あの比丘尼たちは・・・と制されます』と」
「アーナンダ、マハーパジャーパティ・ゴータミーは八重法を受けた。これをもって具足戒を受けたとなす」

三–一 ときに、マハーパジャーパティ・ゴータミーは尊者アーナンダのもとに到った。到って尊者アーナンダを敬礼して一方に立った。一方に立ってマハーパジャーパティ・ゴータミーは尊者アーナンダに言った。
「アーナンダ先生、私は尊者に一つの願いを請います。どうか先生(ゴータマ)は比丘、比丘尼ともに長幼(出家年齢の長短)に従って敬礼、応対、合掌、尊敬をなすことを許して下さい」
 ときに、尊者アーナンダは先生のいるところに詣った。詣って先生を敬礼して一方に座った。一方に座って尊者アーナンダは先生に言った。
「マハーパジャーパティ・ゴータミーは言います。『アーナンダ先生・・・許してください』と」
「アーナンダ、如来が女性に敬礼、応対、合掌、尊敬をなすことを許すということ、この処はない、この機はない。
 アーナンダ、あの邪説の法を有する外道たちですら、女性に敬礼、応対、合掌、尊敬をなさない。そうであるのにどうして、如来が女性に敬礼、応対、合掌、尊敬をなすことを許すだろうか」
 ときに、先生はこの縁によってこのとき説法をして比丘たちに告げて言った。
「比丘たちよ、女性に敬礼、応対、合掌、尊敬をなしてはならない。なす者は悪作(ドゥッカタ、突吉羅)に堕す」

四–一 ときに、マハーパジャーパティ・ゴータミーは尊者のいるところに詣った。詣って先生を敬礼して一方に立った。一方に立ってマハーパジャーパティ・ゴータミーは先生に言った。
「比丘尼の学処で比丘と一緒であるものがあります。私たちはその学処においてはどのようになすべきでしょうか」
「ゴータミー、比丘尼の学処で比丘と一緒であるものは、比丘たちが学ぶようにその学処において学びなさい」
「比丘尼の学処で比丘と一緒でないものがあります。私たちはその学処においてはどのようになすべきでしょうか」
「ゴータミー、比丘尼の学処で比丘と一緒でないものは制せられたところに従って学処を学びなさい」

五–一 ときに、マハーパジャーパティ・ゴータミーは先生のいるところに詣った。詣って先生を敬礼して一方に立った。一方に立ってマハーパジャーパティ・ゴータミーは先生に言った。
「どうか先生は、省略して法を説いてください。私は先生から法を聴いて、独りで寂静に、不放逸に、熱心に、精勤に住しようと思います」
「ゴータミー、もしあなたが法を知るとして、この法は有貪に転じて離貪ではなく、縛に転じて離縛ではなく、積集に転じて損減ではなく、大欲に転じて少欲ではなく、不満足に転じて満足ではなく、集会に転じて閑寂でなく、懈怠に転じて精進を開始することではなく、養い難いことに転じて養い易いことでないならば、ゴータミー、一方的にこれは法ではない、これは律ではない、これは師の教えではないと知りなさい。
 ゴータミー、もしあなたが法を知るとして、この法は離貪に転じて有貪ではなく、離縛に転じて縛ではなく、損減に転じて積集ではなく、少欲に転じて大欲ではなく、満足に転じて不満足ではなく、閑寂に転じて集会ではなく、精進を開始することに転じて懈怠ではなく、養い易いことに転じて養い難いことでないならば、ゴータミー、一方的にこれは法である、これは律である、これは師の教えであると知りなさい」。

六–一 そのとき、比丘尼たちのためにパーティモッカ(波羅提木叉、戒条)を誦さなかった。先生にこの義を告げた。
「比丘たちよ、比丘尼たちのためにパーティモッカを誦すことを許す」
 ときに、比丘たちに考えが生じた。「誰が比丘尼たちのためにパーティモッカを誦すべきだろうか」。先生にこの義を告げた。
「比丘たちよ、比丘たちが比丘尼たちのためにパーティモッカを誦すことを許す」
 そのとき、比丘たちは比丘尼の住居に到り、比丘尼たちのためにパーティモッカを誦した。人々は呟き憤り謗った。「これは彼らの女である。これは彼らの愛人である。今に彼らは彼女たちとともに楽しむだろう」。比丘たちはその人々が呟き憤り謗ったことを聞いた。ときに、その比丘たちは先生にこの義を告げた。
「比丘たちよ、比丘たちは比丘尼たちのためにパーティモッカを誦してはならない。誦す者は悪作に堕す。比丘たちよ、比丘尼たちが比丘尼たちのためにパーティモッカを誦すことを許す」
 比丘尼たちはパーティモッカを誦すことを知らなかった。先生にこの義を告げた。
「比丘たちよ、比丘たちが比丘尼たちのためにパーティモッカを誦すことを教えることを許す」
二 そのとき、比丘尼たちは罪を懺悔しなかった。先生にこの義を告げた。
「比丘たちよ、比丘尼は罪を懺悔しないわけにはいかない。懺悔しない者は悪作に堕す」
 比丘尼たちは懺悔することを知らなかった。先生にこの義を告げた。
「比丘たちよ、比丘たちが比丘尼たちの罪を受け入れることを許す」
 そのとき、比丘尼たちは街路、巷、四辻において比丘を見て鉢を地に置いて上衣をはだいて蹲踞して合掌を捧げて罪を懺悔した。人々は呟き憤り謗った。「これは彼らの女である。これは彼らの愛人である。夜には等閑であったから今、謝罪している」。先生にこの義を告げた。
「比丘たちよ、比丘たちは比丘尼たちの罪を受け入れてはならない。受け入れる者は悪作に堕す。比丘たちよ、比丘尼たちが比丘尼たちの罪を受け入れることを許す」
 比丘尼たちは罪を受け入れることを知らなかった。先生にこの義を告げた。
「比丘たちよ、比丘たちが比丘尼たちのために罪を受け入れることを教えることを許す」
三 そのとき、比丘尼たちのために羯磨(カンマ、業)を行なわなかった。先生にこの義を告げた。
「比丘たちよ、比丘尼たちのために羯磨を行なうことを許す」
 ときに、比丘たちに思念が生じた。「誰が比丘尼たちのために羯磨を行なうべきであろうか」。先生にこの義を告げた。
「比丘たちよ、比丘たちが比丘尼たちのために羯磨を行なうことを許す」
 そのとき、羯磨を受けた比丘尼たちは街路、巷、四辻において比丘を鉢を地に置いて上衣をはだいて蹲踞して合掌を捧げて謝し、このように為すべきであると思惟した。人々は呟き憤り謗った。「これは彼らの女である。これは彼らの愛人である。夜には等閑であったから今、謝している」。先生にこの義を告げた。
「比丘たちよ、比丘たちは比丘尼たちのために羯磨を行なってはならない。行なう者は悪作に堕す。比丘たちよ、比丘尼たちが比丘尼たちのために羯磨を行なうことを許す」
 比丘尼たちは羯磨を行なうことを知らなかった。先生にこの義を告げた。
「比丘たちよ、比丘たちが比丘尼たちのために羯磨を行なうことを教えることを許す」

     『南伝大蔵経4 律蔵4』大蔵出版 P378–388



比丘尼犍度に関しては今回はここまでの引用にしたいと思います。また機会があれば続きを訳していきたいと思います。

コメント(18)

こんばんは、もう今年もあと一月ですね。
とても早く感じます。

ところで八重法の効果について質問したいことがるのですが。

●女性出家を認めると正法が500年の寿命になるとあります。
しかし、これは八重法を制定しない場合にそうなると考えるべきなのでしょうか?

それとも、八重法を制定したので、正法の寿命は守られてやはり1000年だと考えていいのでしょうか?

>アーナンダ、たとえば、人が大池にはあらかじめ堤を設けて水を氾濫させないようにするように、アーナンダ、このように私はあらかじめ比丘尼たちのために八重法を制して生涯犯すことがないようにさせる

この部分を読むと八重法によって正法の寿命1000年が守られるように読めるのですが。

●この質問に付随して「正法」の意義についても疑問があります。

「正法」の寿命1000年が過ぎた今でも、一応パーリ経典は残っているわけです。

それでも1000年を超えたので「正法」の寿命が尽きていると考えるならば、
「正法の寿命が尽きる」という意味は、阿羅漢がいなくなって、
新しい阿羅漢を輩出させる指導者がいなくなるということなのでしょうか?
つまり、阿羅漢がいないので三蔵の本当の意味を教授できる人がいない、
したがって、パーリ経典が残っても「正法」としては完全には機能しないということなのでしょうか?

しかし、こう考えるとこの地球には阿羅漢が存在しないということになり、
いろんな瞑想メソッドが結局、阿羅漢にまで導くことができない不完全なシステムということになるのですが。

ぺこちゃんさんはどうお考えでしょうか?

早くも師走になりました。

この季節は恋人たちに嫉妬しないように自身を戒める季節に設定しています。嫉妬したものは手に入りづらくなるし、嫉妬する人は嫌われ、嫉妬しない人は愛されると思うので。


堤のたとえをもって正法1000年として読むよりは普通に以下の箇所、

「アーナンダ、もし女性が如来所説の法と律において家を出て出家することがなかったならば、アーナンダ、梵行は久しく住し、一千年の間、住しただろう。
 アーナンダ、女性が如来所説の法と律において家を出て出家するがゆえに、アーナンダ、今や梵行が久しく住することはない。
 アーナンダ、今や正法(サッダンマ)は五百年の間、住するだろう」

をもって「今や」というところからやはり女性が出家すれば正法は500年と読むのが自然な文脈だと思います。仮に正法が1000年続いたとしても今はないのでどちらでも同じですが。八重法は基本であってこれがなければ500年よりもっと短いというよりは八重法の律が設定されないならばはじめから女性の出家は許されるべきものではないということだと思います。

正法の定義については正しく苦滅に行く八正道、不死に行き着く八正道、三悪根絶に行き着く八正道、遠離・離貪・滅に依拠し放棄を結果する八正道をもって正法と僕は考えたいです。実際八正道は正法、八邪道は邪法という記述もあったと思います。十正十邪だったかも知れません。八正道が無漏法として機能し他者に正しく指導されるためには、指導者は正知正解脱も含めて無漏にして無学、学び終わった者の十法を成就していなければいけないと思います。

「正法の滅」とはサンガにおいて阿羅漢がいなくなったことを意味するのではないかと思っています。正法が滅してもある人が四念処から始まる七覚支を修習して無漏の倶分解脱に達することは常時可能なはずです。単独ブッダをはじめとして。むしろ正法が滅している状態において如来が出現して「説法したときに」正法が生じたと言われるのではないかと思います。この場合の正法とは、その時その時代において正しく苦滅に行く八正道を実践し、それのみならず正しく苦滅を実証した者が、さらに加えて他者に説法している状態、それをもって「世間に正法が生じた」と表現されるのだと思います。

単独ブッダが出現しても説法しなければ「世間に正法が生じた」とは言われないと思います。ゆえに「500年は正法が続くがこの私ゴータマも死に、私の教えにより不死を実証した弟子たち、そのまた弟子のうち不死を実証した弟子たちの流れは500年後はないであろう。そして再び如来が出現して説法するまでは世間に正法は生じないであろう。ただし単独ブッダは別。彼らは説法しないから世間に正法は生じないから」という意味だと思います。

ゆえに像法のみならず末法といえど、因果の必然により不死と苦滅の原因は定まっていると見れば像法も末法も関係ありません。正法が2000年前に滅したということは今の時代の人間が修行しても絶対に無漏の倶分解脱は無理だということを意味するのではなく、ただ世間において正しく苦滅に導く阿羅漢・長老が不在だということしか意味しないのだと思います。もしそうでないならば今は像法以下ですから、永遠にメッテーヤ・ブッダは出現しないことになります。しかしメッテーヤはじめ諸仏は正法がある時代に現れるのではなく、諸仏は正法がない時代に現れると見れば納得できます。

そのように見れば「正法の滅」とは「私ゴータマが説き育てた『この』サンガにおいて阿羅漢はいなくなる。ただし単独ブッダや四念処から始まる七覚支を如実に修習して倶分解脱する者は除く」と見るのが適切だと思います。原始仏典書籍により流れに入った場合、それはやはりゴータマの口から生まれた聖者の弟子、声聞と見ます。一種のイレギュラーとして有りだと思います。それはいまだ解脱せず阿羅漢でないアッサジの法話を聞いて悟りに達したサーリプッタ(解脱はその後)に似ています。正法が語られ読まれ理解されるとき阿羅漢が不在であっても人は流れに入るに十分な原因を自らの内に構築すると思います。

基本的に求道者は「自分は真実に到達する。他は関係ない」と思うでしょうし、修行者は「自分は莫大なる力を得る。他は関係ない」と思うと思います。組織や集団や指導者に苦滅因は見るのではなく、苦滅因を自ら知り自ら蓄積円満するところに苦滅因を見れば、組織や集団や指導者も正しく見れると思います。あるいは組織や集団や指導者がどうでもよくなると思います。絶対尊重すべきはただ法というところに依拠すれば。

 ・参考トピック「像法」
  1 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=26839760&comm_id=951429
  2 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=27109859&comm_id=951429
いつも有難うございます。

>基本的に求道者は「自分は真実に到達する。他は関係ない」と思うでしょうし、修行者は「自分は莫大なる力を得る。他は関係ない」と思うと思います。組織や集団や指導者に苦滅因は見るのではなく、苦滅因を自ら知り自ら蓄積円満するところに苦滅因を見れば、組織や集団や指導者も正しく見れると思います。あるいは組織や集団や指導者がどうでもよくなると思います。

これはまさにその通りで同感です。

ゴータマ→弟子の阿羅漢→そのまた弟子の阿羅漢→(500年以降)不還果以下の弟子・・・というように
ゴータマ直系の阿羅漢が不在になる時代が来るが、

不還果の長老→その弟子の一来果→その弟子の預流果→その弟子の阿羅漢・・・
という現象がこれまで起きていて、またこれからも起きる可能性があると
考えていいのでしょうか?

もし、そうだとすれば私としては修行への意欲と精進がアップします。

というのは、もしゴータマ直系の阿羅漢が不在になると、メッテーヤが
現れるときまで阿羅漢が不在になる(独覚仏陀を除く)と考えると、
自分がこの一生を求道のために時間を費やしても、
預流果になって流れには入れるが、阿羅漢にはなれないということになり、
修行のモチベーションに多少とも影響すると思うのです。
>不還果の長老→その弟子の一来果→その弟子の預流果→その弟子の阿羅漢・・・
という現象がこれまで起きていて、またこれからも起きる可能性があると
考えていいのでしょうか?

道理としてはあり得ると思います。聖者をこちらが判別できるかは別として。


>預流果になって流れには入れるが、阿羅漢にはなれないということになり、

預流果になった人間は頑張れば今生で阿羅漢になれますから、問題ないと思います。預流果は最低七回天人往復を意味するだけであり、頑張れば一来不還阿羅漢になれると僕は考えています。四果の評価基準はそれぞれの段における不退転性にあると見ています。堕ちることはないが昇ることはあると考えています。だから自分が預流だと思う人は阿羅漢を目指して頑張ればよいと思います。執着は確かに増減するものですから。


教理は別として僕は「1ミリ進歩したらそれに賭ける」を信条にしています。1ミリ執着が減ったならきっといけると思います。
表現を二度訂正しました。

klausさんが予定する出家先でどのような生活が待っているのか知りませんから、大雑把にコメントしたいと思います。


道諦として正しく苦を滅する道を事実の通りに知る者はやがて必ず苦を滅するだろうと言えます。すでに預流です。正しく苦を滅する道を事実の通りに知らない者は必ず苦を滅するとは言えない、いまだ苦滅の結果が必然とはなっていないと言えます。いまだ一般人です。

klausさんが道諦を知るならばどこで出家しようとしまいといずれ苦は滅するので安心です。しかし道諦を知らないならば、出家先は今後の苦滅道を大きく左右します。ゆえに手堅くはないと言えます。道諦を知らない人間が出家するのはリスクがあります。一方で道諦を知る人間は出家しても在家のままであってもリスクがありません。自分で苦滅のための修行カリキュラムを自在に構築できます。

ある特定の宗教・宗派のもとで出家、というか寮に入り、寄宿舎に入り、住み込むならば、その所属する組織の見解に染まります。聖見の組織ならば解脱に至り、俗見の組織ならば解脱には至りません。邪見ならば魔道に堕ちます。

自分が師事する教師・目上・先輩・組織・集団の見解が聖見か俗見か見極める必要があります。見極めれなければ邪見でも染まり、正見でも理解できません。大抵の人は生きるためなら自分の考え方を邪見に曲げることさえ厭いません。生活が成り立たない不利益は知っていても、邪見から生じる不利益を知らないからです。

人の見と組織の見が苦滅に至る聖見か苦滅に至らない俗見かを見極めるためにはすでに見極める者に四諦知が見られており、法眼が開けていなければいけません。四諦を幾分見れればすでに預流、見れていなければ一般人です。一般人のままに出家すればその出家先の見解に縛されます。正法の滅が説かれて久しいです。現今の全組織・全集団に聖見があるという可能性は低いです。しかし絶無とは言えません。しかし低いです。ゆえにハイリスクとなります。

僕はロウリスクを勧め、ハイリスクを勧めません。klausさんの出家先が聖か俗かはわかりません。突っ込んだ質疑応答の機会が僕に与えられる必要があります。ただklausさんがすでに四諦を見たならば欲するがままにして良いと思います。しかし四諦をいまだ見ず、預流でないならば、ハイリスクである出家は保留にして先に四諦を自分の慧眼で見るべきだと思います。

もし仮に出家しても「この修行で本当に解脱できるのか」と疑蓋が生じれば三摩地を破ります。一時的に信じて蓋を破っても七覚支法が含まれていなければ解脱しません。また信によっては疑蓋の根本的な削除には至りません。結局道諦を根本作意することになります。もし根本作意して道諦を見て「この修行では解脱できない」と知れば、自分だけ醜いアヒル、その実は白鳥となるもアヒルたちからは白眼視されて居場所を失います。もし道諦を見て「この修行で解脱できる」という苦滅道に合致するという可能性があるとしても正法の滅の今から考えればその可能性は低いです。ゆえにハイリスクです。


僕が勧めるのは「今の暮らしを続けながら、四諦知を得る」です。


もし出家先が聖見ある組織であるならばなおさら結局「四諦を見る」修行をさせられるでしょうから。苦滅を求める修行者がやることはいつでもどこでも同じです。四諦知を含む四念処から始まる七覚支をやるだけです。だから「今の暮らしを続けながら、四諦知を得る」ほうが方向転換と進路変更の自在性から言っても一番手堅い方法論だと思います。

また住み慣れて言語が通じる日本が三摩地に資すると思います。今やってる修行の有効性の有無も日本で確かめればよいと思います。指導者や組織への依存はハイリスクだと思います。僕も含めて。精神世界は自宅でじっくり吟味が気楽で安全だと思います。メッセージで別内容でとも思ったのですが、klausさんと同じことを考えている方が他にいるかも知れないので参考のためにコメントとして書き込みました。


僕も原始仏教を知って間もない頃は「着の身着のまま出家して日本アルプスにこもって熊と一緒に冬眠しよう」と考えていました。それが今ではすっかり無職暮らしのせいで臆病になって自宅にこもって猫と一緒に布団にくるまっています。甘くないですね、色んな意味で。反省してます。
捨の義については利益となる捨と不利益となる捨の二つを押さえれば特に問題ないと思います。

しかし捨と「今日の出家」はイコールではないと思います。僕は在家・出家の二つの道ではなく、あえて在家・出家・ホームレスの三つの道を提示したいと思います。実質、今日の出家はサンガ出家、ホームレスは単独出家に相当すると思います(それも僕の造語で原始仏典に書いてあるわけではないですが三人以下の出家ということです)。

このうちホームレスのほうがより一層捨に近いです。それゆえにもしklausさんが「本気で捨てること」を敢行した場合、日本でホームレスになるのが必然です。ホームレスの案が考慮されない場合、サンガ出家の案には「本気で捨てること」とは別に他の動機がklausさんにはあります。それが真犯人です。

四諦知が最速であるというのは「良馬は勢速を成就する。比丘において四諦如実知」として原始仏典にも述べられています。出家が最速、在家が遅速であるとは書いてありません。四諦知する者こそが出家でも在家でも最速です。四諦知なしに捨覚支を修する場合、捨すべきでないものを捨す可能性があり、遠離依止・離貪依止・滅依止・放棄決着の七覚支に転じ難いです。ゆえに四諦知なしに捨を修するのは最速ではありません。四諦知が生じるとともに苦因の知が生じ、苦因如実知あるとき苦因厭患が生じ、苦因厭患が苦因捨離を生じます。ゆえに四諦知最速は以上のことからも明らかです。出家が最速なのではありません。

また「正法の滅」として今日ではサンガ出家が危険であることも原始仏典から読み取ることができます。むしろ在家あるいは単独出家ホームレスのほうがリスクは低いものです。ホームレスは生活が成り立ち難いところがありますが、邪見・破戒・漏という三遠離対象のものがサンガ集団から感染しないというところに利点があります。もしサンガ出家して邪見・破戒・漏が感染すれば、それは決定的な損失となります。ゆえにサンガ出家はハイリスクです。


サンガ出家への意欲には原因があります。klausさんがなぜサンガ出家をしようと思ったのか、心を念じればその意欲の原因、サンガ出家に利ありという信を生み出した原因を見ます。サンガ出家は多く人間関係に起因します。いわく縁です。人との縁に二つ三つあり、その人と知り合うことを原因として利益が生じる、二つは不利益が生じる、三つは利益も生じるが不利益も生じるです。ゴータマは死に、ゴータマの教えによって阿羅漢となった者も死に、その弟子の阿羅漢もまた死に正法はすでに滅していると思われます。この時代でサンガ出家はリスクがあります。

僕は原始仏典が正しいとは思いません。原始仏典のアイデアはもし事実であればとんでもないことになるから検証に値するとそう思っています。信じるべきものはただ自分で確認した事実・現実・真実だけであり、他は全て推理されたもの・暫定的なもの・実験的なもの・力及ばずして放逸より生じる所業のみです。


僕が勧めるのは「今の暮らしを続けながら、四諦知を得る」です。それが最速法です。


klausさんが最速を求めると言いつつサンガ出家を取る場合は、最速よりも別にサンガ出家を取らせる別の何らかの動機があります。その動機を保持するのがklausさんの利益になるのか、あるいは不利益になるのかは、その動機如何によります。そしてその動機は最速法を求めるところにも、リスク軽減を求めるところにもないということは上の問答で推察されます。ここから先はklausさん自身が心念処を念じることによって明らかとなり、問題の進展がはかられるものと思います。もちろん全然別の内容を書いていただいても構いません。
電話もテレビ電話も実際に会うのもまずいです。でも書き込みの内容から「この人は預流だ」と僕が思えば考えるかも知れません。基本的に会わず話さずでお願いしたいです。話したり会ったりすれば僕に不利益が生じるでしょうから。


ここから先は出家先とklausさんの人間関係をはじめとする周辺の情報不足でなかなか助言し辛いものがあります。僕の考える預流を実証するのは市販の原始仏典だけでも十分であり、また原始仏教コミュニティと原始仏典コミュニティの書き込みの内容だけで十分なものがあります。

もとよりヴィジョンは無限です。限界想を持ったときその想を持ったその人にとってそれは限界となり、それより上に達することはなくなります。サンガ出家してから本気を出すのも素晴らしいとは思いますが、いつもの自宅でいきなり本気を出すほうが素晴らしいと思います。

ただ人間関係の縛は最強ですから、押して断つことを勧めるわけでもありません。押しても引いても動き難いのがすでに作られた結、執着だと思います。執着を断つことに転じる想を作り出す仕事は各個人のことですから。

とりあえず「何が苦か」とカフェに行って30分でも1時間でも念じることを勧めます。雑念は生じるものですが、押して「何が苦か」と念じます。考えるのではなく念じたほうがいいですが、譲って考えて思索に耽っても可です。さらに譲ってノートにメモりつつでも可です。そうすると磁石が砂鉄だけを砂場から引き付けるように、自分が苦と思うものだけが頭に浮かんできます。もっと続けるとより多く、より広く苦に関するものを集め始め、意識は現在の苦にも過去の苦にも未来の苦にも他者の苦にも思いをいたすようになります。念じていると勝手に考察している面はあります。試行錯誤してあれでもないこれでもないと確かめている意識も生じます。それらに意識が奪われることもありますが、自覚が生じるときが再び来るので再度「何が苦か」と念じます。これが僕の観、ヴィパッサナーです。この繰り返しで案外いけます。修行は単純、しかし果は大慧です。カフェがklausさんの森林僧院、客はカボチャでなくて林であると思えば日本でも楽しく修行できます。ただカフェで楽しそうに話す恋人たちへの嫉妬は推奨しません。

イルミネーションで飾られた街に出て道行く人にはその人のやることがあるのだろう、自分は四諦を自分で見ることをしてみようと思ってカフェに入って注文する。時折カップを口に運びながら四諦いずれかを念じる、疲れたら気分転換に迷惑にならない程度に周りの客の様子を見てみたりトイレに立ったりして戻ればまた「何が苦か」と再開する、そんな日が自分にあっても悪くはないだろうと思って、しばらく念じてみるとよいです。僕がやってるのはそれだけのことです。誰にでも今すぐ簡単にできることです。
最速について言えば、僕は自宅が最速ではなくて「四諦知が最速」だと思っています。自宅・サンガ出家・ホームレスのうち四諦知をもっとも多く修習できる環境が結果的に最速となると思います。サンガはキリスト教の修道院や神道の教習所なども含めての意味です。klausさんがミャンマーのサンガ出家が最速だと考えておられるのはわかりました。僕は四諦知修習が最速だとして勧めています。

リスクについて言えば、身命に関わるリスクと三遠離対象である邪見・破戒・漏のリスクの二つの判断基準で見るとわかりやすいと思います。身命に関わるリスクについては自宅が安全でサンガ出家・ホームレスの順でハイリスクになります。三遠離対象である邪見・破戒・漏の感染と増大について言えば、ホームレスが最も遠離に優れ、次いで自宅・サンガ出家の順でハイリスクになります。

ホームレスは邪見も生じ難く、単独ゆえに悪友がいないので破戒も生じ難く、欲漏をはじめとする漏も五感の快楽を楽しむための財産がないので生じ難いです。自宅は欲漏が増大しやすいですが、悪友は欲すれば断つことが可能であり、邪見についても宗教思想や霊的価値観を説いてくる人間との接触を意図的に避ければ自分で考えて自分で判断することができます。自宅における欲漏の増大は軽微なものですが、邪見の増大は致命的なので自宅は中評価です。

最もハイリスクなサンガ出家はすべてサンガの性質を善にしろ悪にしろ全面的に受けます。見も戒も漏もその組織の色に染まります。ゆえに全てはサンガ如何、集団組織如何にかかっています。それゆえに事前のリサーチがもっとも重要です。調べ確認するためには知恵において優れていなければできません。それで四諦知・善悪知・聖俗知・苦滅道知が先に必要になります。苦滅道知を得るためにサンガ出家は必須ではないのですが、しかしサンガ出家してから苦滅道知を得るという順序で行こうとしているklausさんの決意は固そうです。

五感の快楽を与える接触の質と量の減少としての排除・捨について言えば、ホームレスが最も遠離しており、次いでミャンマーのサンガ出家、自宅になると思います。サンガの中における自分への他者からの評価への欲も五欲の一種だと考えます。五欲の遠離が最速であると考えるならば、サンガ出家ではなくホームレスを取ると思いますが、klausさんは違うようです。

それでklausさんの信は排除や最速法にあるのではなく、やはり該当サンガのメソッドに信があると見えます。 パオ・メソッドと呼ばれるものだと思います。その信の原因はそれへの見聞作意です。人の姿を見て人の声を聞き聞いたことを考えるその見聞作意の接触から信が生じ、信からklausさんが「目標の明瞭化」と呼ぶものが生じます。厳密には信から生じる精進への意欲、精進根であり言い換えれば「意図的なモチベーション強化」です。

その信と勤を原因として出家への念が生じ、その念分が出家にあると思われる利益に関する考察に導いています。ですからklausさんの出家の動機は最速でも排除でもなく一重にそのサンガの師に相当する人への信、それより生じるその人の説く法への信、それより生じるその人の説く法を実践する人々・集団・サンガへの信です。僕も原始仏典の法を信じて優先的に検証しているわけですから信自体を云々するわけではありません。ただ根本作意は正見を生じ、非根本作意は邪見を生じるので、ぜひとも四諦への根本作意を勧めているわけです。それによってklausさんの持つ師法僧学定への信の是非が自分で確認できるという話です。

しかしklausさんの決意は固そうですので僕も押して言うことはしません。僕もいまだ途上にある者ですから自信もまだなく。ただ僕の求道は人よりは長いと思うので参考の足しにしていただければと思っています。

何にしても信じて検証するということは善いことだと思います。検証の優先順位の相違が個性と縁というところだと思います。リスクが高くとも危険を回避しリターンを得ればそれは利益です。僕も世間から見ればリスクの高い見解と暮らしをしています。もし機会があれば出家して後のklausさんから何がしかの報告があれば後学に資すると思います。それぞれの生き方がどのような結果を出すかという実験と観察による検証の観点から見ても無益なこととも言えません。今後の成り行きを時に応じて観測していくのが利益だと思います。


出家は来年だと聞きましたのでまた何かあれば書き込んでください。
ホームレスの語の義は単独出家を、サンガの語の義は現今の宗教組織全般を意図していました。また捨と排除の義、苦滅道等については先の書き込みを。そこから先の論理は察してください。


十分な理は示され、論は満ちました。ここから先はklausさんとこれを読んでいる人の利益に供すること少なくなります。またよろしければ追って報告してください。
報告の意思等への返答、ありがとうございます。klausさんに幸多きことを。

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