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原始仏典コミュの相応部経典 大篇  第一  道相応2 「八正道2」

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(『南伝大蔵経16上 相応部経典5』大蔵出版 P158から)




「     第二 住品


   [一一] 第一 住(一)

一 舍衛城因縁
二 比丘たちよ、私は半月、独坐しようと欲する。一人の食事を持つ者を除いては誰も私のところに来させてはならない。
 はい、大徳。
とその比丘たちは世尊に応え、一人の食事を持つ者を除いては誰も世尊のところに行かなかった。
三 ときに、世尊はその半月を過ぎて、独坐から起って比丘たちに告げた。
 比丘たちよ、私は初めて現等覚したとき住した分によって住した。
四 そのとき、私は知った。邪見を縁として感受するところがある。正見を縁として感受するところがある。
 邪思惟を縁として感受するところがある。正思惟を縁として感受するところがある。
 邪語を縁として感受するところがある。正語を縁として感受するところがある。
 邪業を縁として感受するところがある。正業を縁として感受するところがある。
 邪命を縁として感受するところがある。正命を縁として感受するところがある。
 邪精進を縁として感受するところがある。正精進を縁として感受するところがある。
 邪念を縁として感受するところがある。正念を縁として感受するところがある。
 邪定を縁として感受するところがある。正定を縁として感受するところがある。
 意欲(chanda、チャンダ)を縁として感受するところがある。
 尋(vitakka、ヴィタッカ)を縁として感受するところがある。
 想(saññā、サンニャー)を縁として感受するところがある。
五 意欲が非寂止(avūpasanta、アヴーパサンタ)であり、尋が非寂止であり、想が非寂止であるならば、それを縁として感受するところがある。
 意欲が寂止(vūpasanta、ヴーパサンタ)し、尋が非寂止であり、想が非寂止であるならば、それを縁として感受するところがある。
 意欲が寂止し、尋が寂止し、想が非寂止であるならば、それを縁として感受するところがある。
 意欲が寂止し、尋が寂止し、想が寂止であるならば、それを縁として感受するところがある。
六 到達していないものに到達するために精進があり、それに到達すればそれを縁として感受するところがある。


   [一二] 第二 住(二)

一 舍衛城因縁
二 比丘たちよ、私は三ヶ月、独坐しようと欲する。一人の食事を持つ者を除いては誰も私のところに来させてはならない。
 はい、大徳。
とその比丘たちは世尊に応え、一人の食事を持つ者を除いては誰も世尊のところに行かなかった。
三 ときに、世尊はその三ヶ月を過ぎて、独坐から起って比丘たちに告げた。
 比丘たちよ、私は初めて現等覚したとき住した分によって住した。
四 そのとき私は知った。邪見を縁として感受するところがある。邪見の寂止を縁として感受するところがある。
 正見を縁として感受するところがある。正見の寂止を縁として感受するところがある。
 邪思惟を縁として感受するところがある。邪思惟の寂止を縁として感受するところがある。
 正思惟を縁として感受するところがある。正思惟の寂止を縁として感受するところがある。
 邪語を縁として感受するところがある。邪語の寂止を縁として感受するところがある。
 正語を縁として感受するところがある。正語の寂止を縁として感受するところがある。
 邪業を縁として感受するところがある。邪業の寂止を縁として感受するところがある。
 正業を縁として感受するところがある。正業の寂止を縁として感受するところがある。
 邪命を縁として感受するところがある。邪命の寂止を縁として感受するところがある。
 正命を縁として感受するところがある。正命の寂止を縁として感受するところがある。
 邪精進を縁として感受するところがある。邪精進の寂止を縁として感受するところがある。
 正精進を縁として感受するところがある。正精進の寂止を縁として感受するところがある。
 邪念を縁として感受するところがある。邪念の寂止を縁として感受するところがある。
 正念を縁として感受するところがある。正念の寂止を縁として感受するところがある。
 邪定を縁として感受するところがある。邪定の寂止を縁として感受するところがある。
 正定を縁として感受するところがある。正定の寂止を縁として感受するところがある。
 意欲を縁として感受するところがある。意欲の寂止を縁として感受するところがある。
 尋を縁として感受するところがある。尋の寂止を縁として感受するところがある。
 想を縁として感受するところがある。想の寂止を縁として感受するところがある。
五 意欲が非寂止であり、尋が非寂止であり、想が非寂止であるならば、それを縁として感受するところがある。 
 意欲が寂止であり、尋が非寂止であり、想が非寂止であるならば、それを縁として感受するところがある。 
 意欲が寂止であり、尋が寂止であり、想が非寂止であるならば、それを縁として感受するところがある。 
 意欲が寂止であり、尋が寂止であり、想が寂止であるならば、それを縁として感受するところがある。 
六 到達していないものに到達するために精進があり、それに到達すればそれを縁として感受するところがある。


   [一三] 第三 有学

一 舍衛城
二 ときに一人の比丘がいた。世尊のいるところに行って世尊を敬礼して一方に座った。
三 一方に座ってその比丘は世尊に言った。
 大徳、有学(sekkha、セッカ)、有学と言います。何を有学となすのですか。
四 比丘よ、ここに有学の正見を具足し、有学の正思惟を具足し、有学の正語を具足し、有学の正業を具足し、有学の正命を具足し、有学の正精進を具足し、有学の正念を具足し、有学の正定を具足する。比丘よ、このような者を有学となす。


   [一四] 第四 生起(一)

一 舍衛城
二 比丘たちよ、八法を修習し多修すれば、生じていないものが生じる。ただし、如来・阿羅漢・三藐三仏陀が出現していない場合を除く。
三 何を八となすのか。すなわち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。比丘たちよ、この八法を修習し多修すれば、生じていないものが生じる。ただし、如来・阿羅漢・三藐三仏陀が出現していない場合を除く。


   [一五] 第五 生起(二)

一 舍衛城
二 比丘たちよ、八法を修習し多修すれば、生じていないものが生じる。ただし、善逝が調伏しないものを除く。
三 何を八となすのか。すなわち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。比丘たちよ、この八法を修習し多修すれば、生じていないものが生じる。ただし、善逝が調伏しない場合を除く。
 

   [一六] 第六 清浄(一)

一–二 舍衛城・・・乃至・・・
三 比丘たちよ、八法が遍く清浄であり、遍く浄化され、垢がなく、随煩悩を去っているならば、生じていないものが生じる。ただし、如来・阿羅漢・三藐三仏陀が出現しない場合を除く。
四 何を八となすのか。すなわち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。比丘たちよ、この八法が遍く清浄であり、遍く浄化され、垢がなく、随煩悩を去っているならば、生じていないものが生じる。ただし、如来・阿羅漢・三藐三仏陀が出現しない場合を除く。


   [一七] 第七 清浄(二)

一–二 舍衛城・・・乃至・・・
三 比丘たちよ、八法が遍く清浄であり、遍く浄化され、垢がなく、随煩悩を去っているならば、生じていないものが生じる。ただし、善逝が調伏しない場合を除く。
四 何を八となすのか。すなわち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。比丘たちよ、この八法が遍く清浄であり、遍く浄化され、垢がなく、随煩悩を去っているならば、生じていないものが生じる。ただし、善逝が調伏しない場合を除く。


   [一八] 第八 鶏林精舎(一)

一 このように私は聞いた。あるとき、具寿アーナンダと具寿バッダはパータリプッタのクックタ・アーラーマに住していた。
二 ときに具寿バッダは夕方に独坐から起って具寿アーナンダのところに行った。行って具寿アーナンダと挨拶し喜ばしく印象深い談話をして一方に座った。
三 一方に座って具寿バッダは具寿アーナンダに言った。
 友アーナンダ、非梵行(abrahmacariya、アブラフマチャリヤ)、非梵行と言う。友、何を非梵行となすのか。
 善いかな、善いかな、友バッダ。友バッダ、あなたの誘導は善い。弁才は善い。問いは善い。
四 友バッダ、あなたはこのように「友アーナンダ、非梵行、非梵行と言う。友、何を非梵行となすのか」と質問したからである。
 友、このようである。
五 友、八支の邪道を非梵行となす。すなわち、邪見・邪思惟・邪語・邪業・邪命・邪精進・邪念・邪定である。


   [一九] 第九 鶏林精舎(二)

一–二 パータリプッタ因縁
三 友アーナンダ、梵行(brahmacariya、ブラフマチャリヤ)、梵行と言う。友、何を梵行となし、何を梵行の完結となすのか。
 善いかな、善いかな、友バッダ。友バッダ、あなたの誘導は善い。弁才は善い。問いは善い。
四 友バッダ、あなたはこのように「友アーナンダ、梵行、梵行と言う。友、何を梵行となし、何を梵行の完結となすのか」と質問したからである。
 友、このようである。
五 友、聖なる八支の道(ariyo aṭṭhaṅgiko maggo、アリヨー・アッタンギコー・マッゴー)を梵行となす。すなわち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
 友、貪尽・瞋尽・癡尽を梵行の完結となす。


   [二〇] 第十 鶏林精舎(三)

一–二 パータリプッタ因縁
三 友アーナンダ、梵行、梵行と言う。友、何を梵行となし、何を梵行者(brahmacārī、ブラフマチャーリー)となし、何を梵行の完結となすのか。
 善いかな、善いかな、友バッダ。友バッダ、あなたの誘導は善い。弁才は善い。問いは善い。
四 友バッダ、あなたはこのように「友アーナンダ、梵行、梵行と言う。友、何を梵行となし、何を梵行者となし、何を梵行の完結となすのか」と質問したからである。
 友、このようである。
五 友、聖なる八支の道を梵行となす。すなわち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
 友、この聖なる八支の道を具足する者を梵行者となす。
 友、貪尽・瞋尽・癡尽を梵行の完結となす。

 この三経の因縁は一なり。

                           第二 住品[畢]

 この[品]の摂頌に曰く
  (一–二)二の住と(三)有学と
  (四–五)また二の生起と
  (六–七)二の清浄と
  (八–一〇)三の鶏林精舎とを説く。」
 
     『南伝大蔵経16上 相応部経典5』大蔵出版 P158–168




独坐:patṭisallāna、パティサッラーナ、宴坐、宴黙、独坐、独想、禅思
独坐する:paṭisallīyiti、パティサッリーウィティ、黙坐する、独坐する
具足する:samannāgata、サマンナーガタ、具備する

遍清浄:parisuddha、パリスッダ
遍浄化:pariyodāta、パリヨーダータ
無垢:anaṅgaṇa、アナンガナ
離随煩悩:vigatūpakkilesa、ヴィガトゥーパッキレーサ、

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