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原始仏典コミュの長部経典 第34経 『十上経』5 教義の集成 9集

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(『原始仏典【第三巻】長部経典③』春秋社 P393から)






「(10)どの八つのものが体現されねばならないか。八つの解脱である。すなわち、[物質をもつ者がもろもろの物質を見る。これが第一の解脱である。みずからの内に物質についての想念をもたない者が、外にもろもろの物質を見る。これが第二の解脱である。清浄の相のみに志向する。これが第三の解脱である。物質という想いを完全に超越して、物質の不可入性という想いをなくして、さまざまな想いをこころに思わず、『空間は無限である』と、空間の無限性を観じる境地に至る。これが第四の解脱である。空間の無限性を観じる境地を完全に超越して、『意識は無限である』と、意識の無限性を観じる境地に至る。これが第五の解脱である。意識の無限性を観じる境地を完全に超越して『ないものも存在しない』と、なにものも存在しないと観じる境地に至る。これが第六の解脱である。ないものも存在しないと観じる境地を完全に超越して、想いがあるのでもなく想いがないのでもない境地に至る。これが第七の解脱である。想いがあるのでもなく想いがないのでもない境地を完全に超越して、表象と感受の消滅した境地に至る。これが第八の解脱である]。この八つのものが体現されねばならない。
 このようにこれら八十のものは真実であり、真理であり、その通りに、それと異ならず、同じように、完全に如来によって覚知された」

[九つで一組のもの]
 二、九つのものが繰り返し行なわれるべきである。九つのものが修習されねばならない。九つのものが充分に知られねばならない。九つのことが捨断されるべきである。九つのものが破滅に導くものである。九つのものが繁栄に導くものである。九つのものが洞察しがたい。九つのものは生じさせられるべきである。九つのことは証知されるべきである。九つのことが体現されねばならない。
(1)どの九つのものが繰り返し行なわれるべきか。九つの理にかなった思考の根元となるものである。すなわち、理にかなって思考する人は満足する。満足した人は喜悦する。こころに喜悦した人の身体は軽やかになる。身体が軽やかになった人は安楽を感受する。安楽になった人のこころは集中される。集中したこころで、適切に知り、見る。あるがままに知り、見て、嫌悪する。嫌悪して欲望を離れる。欲望を離れて解脱する。この九つのものが繰り返し行なわれるべきである。
(2)どの九つのものが修習されねばならないか。九つの清浄な精勤の要因である。すなわち、戒律の清らかさという清浄な精勤の要因、こころのの清らかさという清浄な精勤の要因、見解の清らかさという清浄な精勤の要因、疑惑を越える清らかさという清浄な精勤の要因、道と道でないものについて見極める智慧の清らかさという清浄な精勤の要因、実践を見極める智慧の清らかさという清浄な精勤の要因、見極める智慧の清らかさという清浄な精勤の要因、慧の清らかさという清浄な精勤の要因、解脱の清らかさという清浄な精勤の要因である。この九つのものが修習されねばならない。
(3)どの九つのものが充分に知られねばならないか。九つの生ける者の住む場所である。すなわち、[友よ、さまざまな体をもち、さまざまなこころをもっている生ける者たちがいる。それは人間、一部の天、一部の悪しき境涯の者たちである。これが第一の生ける者の住む場所である。
 友よ、さまざまな体をもち、同一のこころをもっている生ける者たちがいる。それは初めて生まれた梵衆天である。これが第二の生ける者の住む場所である。
 友よ、同一の体をもち、さまざまなこころをもっている生ける者たちがいる。それは光音天である。これが第三の生ける者の住む場所である。
 友よ、同一の体をもち、同一のこころをもっている生ける者たちがいる。それは遍浄天である。これが第四の生ける者の住む場所である。
 友よ、表象も感受ももたない生ける者たちがいる。それは精神活動の停止した天である。これが第五の生ける者の住む場所である。
 友よ、物質という想いを完全に超越し、対触の想いを消し去り、さまざまな想いをこころに抱かず、『空間は無限である』という空間の無限性を観ずる境地に到達した生ける者たちがいる。こあれが第六の生ける者の住む場所である。
 友よ、空間の無限性を観ずる境地を完全に超越して、『意識は無限である』という、意識の無限性を観ずる境地に到達した生ける者たちがいる。これが第七の生ける者の住む場所である。
 友よ、意識の無限性を観ずる境地を完全に超越して、『なにものも存在しない』という、なにものも存在しないと観ずる境地に到達した生ける者たちがいる。これが第八の生ける者の住む場所である。
 友よ、なにものも存在しないと観じる境地を完全に超越して、想いがあるのでもなく想いがないのでもない境地に到達した生ける者たちがいる。これが第九の生ける者の住む場所である。
 この九つものものが充分に知られねばならない。
(4)どの九つのものが捨断されるべきか。九つの渇愛の[289]の根元となるものである。すなわち、渇愛によって希求がある。希求によって獲得がある。獲得によって決定がある。決定によって欲望がある。欲望によって熱望がある。熱望によって固執がある。固執によって物惜しみがある。物惜しみによって防衛がある。防衛を原因として、棒を取り、剣を取り、争い、反駁し、論争し、喧嘩し、中傷し、嘘をつき、多くの邪悪な善からぬことが起きる。この九つのものが捨断されるべきである。
(5)どの九つのものが破滅に導くものか。九つの怒りの原因がある。すなわち、[『かれはわたしに不利益を行なった』と怒りを結ぶ。『かれはわたしに不利益を行なっている』と怒りを結ぶ。『かれはわたしの不利益を行なうだろう』と怒りを結ぶ。『かれはわたしの愛し可愛がっている者に不利益を行なった』と怒りを結ぶ。『かれはわたしの愛し可愛がっている者に不利益を行なっている』と怒りを結ぶ。『かれはわたしの愛し可愛がっている者に不利益を行なうであろう』と怒りを結ぶ。『かれはわたしが憎み嫌っている者に利益をもたらした』と怒りを結ぶ。『かれはわたしが憎み嫌っている者に利益をもたらしている』と怒りを結ぶ。『かれはわたしが憎み嫌っている者に利益をもたらすであろう』と怒りを結ぶ]。この九つのものが破滅に導くものである。
(6)どの九つのものが繁栄に導くものか。九つの怒りの抑制である。すなわち、[『かれはわたしに不利益を行なった。しかし、わたしに不利益を行なうなということを、どうしてかれに求められようか』と考えて怒りを抑制する。『かれはわたしに不利益を行なっている。しかし、わたしに不利益を行なうなということを、どうしてかれに求められようか』と考えて怒りを抑制する。『かれはわたしに不利益を行なうであろう。しかし、わたしに不利益を行なうなということを、どうしてかれに求められようか』と考えて怒りを抑制する。『かれはわたしの愛し可愛がっている者に不利益を行なった。しかし、わたしに不利益を行なうなということを、どうしてかれに求められようか』と考えて怒りを抑制する。『かれはわたしの愛し可愛がっている者に不利益を行なっている。しかし、わたしに不利益を行なうなということを、どうしてかれに求められようか』と考えて怒りを抑制する。『かれはわたしの愛し可愛がっている者に不利益を行なうであろう。しかし、わたしに不利益を行なうなということを、どうしてかれに求められようか』と考えて怒りを抑制する。『かれはわたしが憎み嫌っている者に利益をもたらした。しかし、わたしに不利益を行なうなということを、どうしてかれに求められようか』と考えて怒りを抑制する。『かれは憎み嫌っている者に利益をもたらしている。しかし、わたしに不利益を行なうなということを、どうしてかれに求められようか』と考えて怒りを抑制する。『かれは憎み嫌っている者に利益をもたらすであろう。しかし、わたしに不利益を行なうなということを、どうしてかれに求められようか』と考えて怒りを抑制する]。この九つのものが繁栄に導くものである。
(7)どの九つのものが洞察しがたいか。九つの種々性である。すなわち、要素の種々性によって感触の種々性が生じる。感触の種々性によって感受の種々性が生じる。感受の種々性によって表象の種々性が生じる。表象の種々性によって思考の種々性が生じる。思考の種々性によって意欲の種々性が生じる。意欲の種々性によって苦悩の種々性が生じる。苦悩の種々性によって希求の種々性が生じる。希求の種々性によって獲得の種々性が生じる。この九つのものが洞察しがたい。
(8)どの九つのものが生じさせられるべきか。九つの想念である。すなわち、不浄なものの想念、死の想念、食べ物を嫌悪する想念、すべての世界を楽しまないという想念、無常の想念、無常であるものは苦であるという想念、[290]苦であるものは無実体でるという想念、捨て去る想念、欲を離れる想念である。この九つのものが生じさせられるべきである。
(9)どの九つのものが証知されるべきか。九つの段階を追った状態である。すなわち、[友よ、ここに比丘が、もろもろの欲望を離れ、善からぬ事柄を離れ、大まかな考察をそなえ、細かな考察をそなえ、[欲望を]離れることから生じる喜悦と安楽とをそなえた第一の瞑想(初禅)に入っている。
 大まかな考察と細かな考察とが静まり、心の内に清らかな信をもち、心が一つの対象に専注され、尋求と伺察とをともなわず、禅定より生じた喜悦と安楽とをそなえた第二の瞑想に入っている。
 喜悦を離れ、苦楽に中庸であり、注意力があり、明瞭な意識をもち、身体により安楽を感受し、聖なる人が『中庸となり、注意力をそなえた者は、安楽である』と述べたところの、第三の瞑想に入っている。
 安楽も断ち、苦をも断つことにより、またすでに先に喜悦と苦悩とが消滅しているから、苦でも楽でもない中庸さより生じた注意力がもっとも清浄になっている第四の瞑想に入っている。
 物質という想いを完全に超越し、対触の想いを消し去り、さまざまな想いをこころに抱かず、『空間は無限である』という空間の無限性を観ずる境地に入っている。
 空間の無限性を観ずる境地を完全に超越して、『意識は無限である』という、意識の無限性を観ずる境地に入っている。
 意識の無限性を観ずる境地を完全に超越して、『なにものも存在しない』という、なにものも存在しないと観ずる境地に入っている。
 なにものも存在しないと観じる境地を完全に超越して、想いがあるのでもなく想いがないのでもない境地に入っている。
 想いがあるのでもなく想いがないのでもないと観ずる境地を完全に越えて、知覚と感受の消滅した境地に入っている]。
 この九つのものが証知されるべきである。
(10)どの九つのものが体現されねばならないか。九つの段階を追った消滅である。すなわち、[第一の瞑想に入った者には欲望という想いが消滅している。
 第二の瞑想に入った者には大まかな考察と細かな考察とが消滅している。
 第三の瞑想に入った者には喜悦が消滅している。
 第四の瞑想に入った者には入息と出息とが消滅している。
 空間の無限性を観ずる境地に入っている者には、物質という想いが消滅している。
 意識の無限性を観ずる境地に入っている者には、『空間は限界がない』という想いが消滅している。
 なにものも存在しないと観ずる境地に入っている者には、『意識は無限である』という想いが消滅している。
 想いがあるのでもなく想いがないのでもないと観ずる境地に入っている者には、『ないものも存在しない』という想いが消滅している。
 表象と感受の消滅した境地に入っている者には、表象と感受とが消滅している]。この九つのものが体現されねばならない。
 このようにこれら九十のものは真実であり、真理であり、その通りに、それと異ならず、同じように、完全に如来によって覚知された」

     『原始仏典【第三巻】長部経典③』春秋社 P393–399

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