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原始仏典コミュの長部経典 第34経 『十上経』4 教義の集成 8集

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(『原始仏典【第三巻】長部経典③』春秋社 P383から)




「   第二章

[八つ一組のもの]
一、「八つのものが繰り返し行なわれるべきである。八つのものが修習されねばならない。八つのものが充分に知られねばならない。八つのことが捨断されるべきである。八つのものが破滅に導くものである。八つのものが繁栄に導くものである。八つのものが洞察しがたい。八つのものは生じさせられるべきである。八つのことは証知されるべきである。八つのことが体現されねばならない。
(1)どの八つのものが繰り返し行なわれるべきか。八つの原因と八つの条件とは、最初の清らかな行ないの智慧を、いまだ獲得していないときには獲得するために、すでに獲得しているときにはさらに多くし、広大にし、強くし、完全にするために役に立つ。
 友よ、ここに、師、または教師の立場にある、清らかな行ないをともにする誰かに近事し、その人に対して、みずから恥じ、また他に対して恥じる気もちが強く、親愛と敬意とをもっている。これが、最初の清らかな行ないの智慧を、いまだ獲得していないときには獲得するために、[285]すでに獲得しているときにはさらに多くし、広大にし、強くし、完全にするために役に立つ、第一の原因であり第一の条件である。
 またその師、または教師の立場にある、清らかな行ないをともにする誰かに近事し、その人に対して、自ら恥じ、また他に対して恥じる気持ちが強く、親愛と敬意とをもっていて、ときどきかれらを訪ねて、『尊師よ、これはどのようですか、これの意味はなんですか』と尋ね、質問する。それに対してかれら尊者は覆われているものの覆いをとり、明瞭でないものを明瞭にし、さまざまな疑問のあることがらについて疑問をはらしてくれる。これが、最初の清らかな行ないの智慧を、いまだ獲得していないときには獲得するために、すでに獲得しているときにはさらに多くし、広大にし、強くし、完全にするために役に立つ、第二の原因であり第二の条件である。
 またその教えを聞いて、身体の静寂とこころの寂静というふたつの寂静を成し遂げる。これが、[最初の清らかな行ないの智慧を、いまだ獲得していないときには獲得するために、すでに獲得しているときにはさらに多くし、広大にし、強くし、完全にするために]役に立つ、第三の原因であり第三の条件である。
 さらにまた友よ、ここに比丘が戒律を保ち、戒条による制御に防御されており、正しい行ないと適切な住居をもち、微塵ほどの罪にも恐怖を感じ、学ぶべき基礎を守り学ぶ。これが、[最初の清らかな行ないの智慧を、いまだ獲得していないときには獲得するために、すでに獲得しているときにはさらに多くし、広大にし、強くし、完全にするために]役に立つ、第四の原因であり第四の条件である。
 さらにまた友よ、比丘が[教えを]多くを聞いており、聞いたことを記憶し、聞いたことを蓄積している。それらの教えは始めが善く、中間が善く、終わりが善く、意味が深く、文章とが整い、すべてに完全であり、清浄な清らかな行ないを明瞭に説くものである。そのような教えを多く聞いて[学び]、記憶し、ことばとして蓄積され、こころによって熟考され、知力によって通暁されている。これが、[最初の清らかな行ないの智慧を、いまだ獲得していないときには獲得するために、すでに獲得しているときにはさらに多くし、広大にし、強くし、完全にするために]役に立つ、第五の原因であり第五の条件である。
 さらにまた友よ、比丘が悪いことを捨て去り、善いことを身につけるために、努力を続け、力強く、堅固な勇気をもち、善い事柄について苦労を回避しない。これが、[286][最初の清らかな行ないの智慧を、いまだ獲得していないときには獲得するために、すでに獲得しているときにはさらに多くし、広大にし、強くし、完全にするために]役に立つ、第六の原因であり第六の条件である。
 さらにまた友よ、比丘が、注意力をもち、最高に注意深い慎重さをそなえており、遠い過去に行ったことも遠い過去に話したことも、憶えており、思い出す。これが、[最初の清らかな行ないの智慧を、いまだ獲得していないときには獲得するために、すでに獲得しているときにはさらに多くし、広大にし、強くし、完全にするために]役に立つ、第七の原因であり第七の条件である。
 さらにまた友よ、比丘が五つの執着された集まりについて、生滅を想起している。すなわち、『物質はこのようであり、物質の原因はこのようであり、物質の消滅はこのようである』『感受はこのようであり、[感受の原因はこのようであり、感受の消滅はこのようである]』『表象はこのようであり、[表象の原因はこのようであり、表象の消滅はこのようである]』『形成力はこのようであり、[形成力の原因はこのようであり、形成力の消滅はこのようである]』『意識はこのようであり、意識の原因はこのようであり、意識の消滅はこのようである』と。これが、[最初の清らかな行ないの智慧を、いまだ獲得していないときには獲得するために、すでに獲得しているときにはさらに多くし、広大にし、強くし、完全にするために]役に立つ、第八の原因であり第八の条件である。
 この八つのものが繰り返し行なわれるべきである。
(2)どの八つのものが修習されねばならないか。八つの正しいことである。すなわち、正しい見解、正しい考え、正しいことば、正しい行為、正しい生活、正しい注意力、正しい禅定である。この八つのものが修習されねばならない。
(3)どの八つのものが充分に知られねばならないか。八つの世間の関心事である。すなわち、利益と不利益、名声と悪声、誹謗と賞賛、楽と苦とである。この八つものものが充分に知られねばならない。
(4)どの八つのものが捨断されるべきか。八つの[287]邪なことである。すなわち、邪な見解、邪な考え、邪なことば、邪な行為、邪な生活、邪な努力、邪な注意力、邪な禅定である。この八つのものが捨断されるべきである。
(5)どの八つのものが破滅に導くものか。八つの懈怠の基礎である。すなわち、友よ、ここに比丘の行なうべき仕事がある。[かれは次のように考える。『わたしは仕事をしなければならないであろうが、仕事をすればわたしの体は疲れるであろう。さあ、寝ていることにしよう』と、かれは横になり、まだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力しない。これが第一の懈怠の基礎である。
 友よ、さらにまた、比丘が仕事を行なった。かれは次のように考える。『わたしは仕事を行なった。しかし仕事を行なったので、わたしの体は疲れてしまった。さあ、寝ていることにしよう』と、かれは横になり、まだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力しない。これが第二の懈怠の基礎である。
 友よ、さらにまた、比丘の行くべき道がある。かれは次のように考える。『わたしは道を行かなければならないであろうが、行けばわたしの体は疲れるであろう。さあ、寝ていることにしよう』と、かれは横になり、まだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力しない。これが第三の懈怠の基礎である。
 友よ、さらにまた、比丘が道を行った。かれは次のように考える。『わたしは道を行ったが、道を行ったのでわたしの体が疲れた。さあ、寝ていることにしよう』と、かれは横になり、まだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力しない。これが第四の懈怠の基礎である。
 友よ、さらにまた、比丘が町や村を乞食して歩き、貧しい食べ物や贅沢な食べ物を充分に得ない。かれは次のように考える。『わたしは町や村を乞食して歩いたが、貧しい食べ物や贅沢な食べ物を充分に得なかった。そのためにわたしの体は疲れ、仕事をすることができない。さあ、寝ていることにしよう』と、かれは横になり、まだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力しない。これが第五の懈怠の基礎である。
 友よ、さらにまた、比丘が町や村を乞食して歩き、貧しい食べ物や贅沢な食べ物を充分に得る。かれは次のように考える。『わたしは町や村を乞食して歩いて、貧しい食べ物や贅沢な食べ物を充分に得たが、そのためにわたしの体は疲れ、仕事をすることができない。さあ、寝ていることにしよう』と、かれは横になり、まだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力しない。これが第六の懈怠の基礎である。
 友よ、さらにまた、比丘が軽い病気になった。かれは次のように考える。『わたしは軽い病気になった。寝ているのがふさわしい。さあ、寝ていることにしよう』と、かれは横になり、まだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力しない。これが第七の懈怠の基礎である。
 友よ、さらにまた、比丘が病気から回復し、病気から回復して間がない。かれは次のように考える。『わたしは病気から回復したが、病気から回復してまだ間がない。そのためにわたしは弱っており、仕事をすることができない。さあ、寝ていることにしよう』と、かれは横になり、まだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力しない。これが第八の懈怠の基礎である。
 この八つのものが破滅に導くものである。
(6)どの八つのものが繁栄に導くものか。八つの精勤の基礎である。すなわち、友よ、ここに比丘の行なうべき仕事がある。[かれは次のように考える。『わたしは仕事をしなければならないであろうが、仕事をやっていても、諸仏の教えを熟慮することは難しい。さあ、わたしはまだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力をしよう』と。かれはまだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力をする。これが第一の精勤の基礎である。
 友よ、さらにまた、比丘が仕事を行なった。かれは次のように考える。『わたしは仕事を行なった。しかし仕事を行なったので、わたしは諸仏の教えを熟慮することができなかった。さあ、わたしはまだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力をしよう』と。かれはまだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力をする。これが第二の精勤の基礎である。
 友よ、さらにまた、比丘の行くべき道がある。かれは次のように考える。『わたしは道を行かなければならないであろうが、行けば諸仏の教えを熟慮することは難しい。さあ、わたしはまだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力をしよう』と。かれはまだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力をする。これが第三の精勤の基礎である。
 友よ、さらにまた、比丘が道を行った。かれは次のように考える。『わたしは道を行ったが、道を行ったのでわたしは諸仏の教えを熟慮することができなかった。さあ、わたしはまだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力をしよう』と。かれはまだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力をする。これが第四の精勤の基礎である。
 友よ、さらにまた、比丘が町や村を乞食して歩き、貧しい食べ物や贅沢な食べ物を充分に得ない。かれは次のように考える。『わたしは町や村を乞食して歩いたが、貧しい食べ物や贅沢な食べ物を充分に得なかった。そのためにわたしの体は軽快であり、仕事をすることができる。さあ、わたしはまだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力をしよう』と。かれはまだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力をする。これが第五の精勤の基礎である。
 友よ、さらにまた、比丘が町や村を乞食して歩き、貧しい食べ物や贅沢な食べ物を充分に得る。かれは次のように考える。『わたしは町や村を乞食して歩いて、貧しい食べ物や贅沢な食べ物を充分に得たが、そのためにわたしの体は力に満ち、仕事をすることができる。さあ、わたしはまだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために]努力をしよう』と。かれは[まだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力をする。これが第六の精勤の基礎である。
 友よ、さらにまた、比丘が軽い病気になった。かれは次のように考える。『わたしは軽い病気になった。しかもわたしの病気がおもくなる可能性もある。さあ、わたしはまだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力をしよう』と。かれはまだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力をする。これが第七の精勤の基礎である。
 友よ、さらにまた、比丘が病気から回復し、病気から回復してから間がない。かれは次のように考える。『わたしは病気から回復したが、病気から回復してまだ間がない。しかもわたしの病気が再発する可能性もある。さあ、わたしはまだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力をしよう』と。かれはまだ得ていないものを得るために、まだ完成していないことを完成させるために、まだ実現していないことを実現するために努力をする。これが第八の精勤の基礎である。]
 この八つのものが繁栄に導くものである。
(7)どの八つのものが洞察しがたいか。八つの清らかな行ないを実行できない時間や機会である。すなわち、[友よ、如来、供養されるべき人(阿羅漢)、正しく悟りを開いた人(等正覚)がこの世界に出現しており、寂静に導く、完全な涅槃に導き、正しい悟りに導き、善き人によって説かれた教えが説かれていても、その人が地獄に生まれている。これが第一の清らかな行ないを実行できない時間や機会である。
 さらにまた、友よ、如来、供養されるべき人、正しく悟りを開いた人がこの世界に出現しており、寂静に導く、完全な涅槃に導き、正しい悟りに導き、善き人によって説かれた教えが説かれていても、その人が畜生に生まれている。これが第二の清らかな行ないを実行できない時間や機会である。
 さらにまた、友よ、如来、供養されるべき人、正しく悟りを開いた人がこの世界に出現しており、寂静に導く、完全な涅槃に導き、正しい悟りに導き、善き人によって説かれた教えが説かれていても、その人が餓鬼に生まれている。これが第三の清らかな行ないを実行できない時間や機会である。
 さらにまた、友よ、如来、供養されるべき人、正しく悟りを開いた人がこの世界に出現しており、寂静に導く、完全な涅槃に導き、正しい悟りに導き、善き人によって説かれた教えが説かれていても、その人が寿命の長い天の仲間に生まれている。これが第四の清らかな行ないを実行できない時間や機会である。
 さらにまた、友よ、如来、供養されるべき人、正しく悟りを開いた人がこの世界に出現しており、寂静に導く、完全な涅槃に導き、正しい悟りに導き、善き人によって説かれた教えが説かれていても、その人が比丘や比丘尼や在家の男の信者や在家の女の信者が行くことのない、無知な未開人の住む辺境に生まれている。これが第六の清らかな行ないを実行できない時間や機会である。
 さらにまた、友よ、如来、供養されるべき人、正しく悟りを開いた人がこの世界に出現しており、寂静に導く、完全な涅槃に導き、正しい悟りに導き、善き人によって説かれた教えが説かれていても、その人が中心部に生まれていても、『布施はない、供養はない、供物はない、善い行ないと悪い行ないに結果も熟果もない、この世界もない、死後の世界もない、母もない、父もない、変化によって生まれる生ける者はない、この世界と死後の世界とをみずからすぐれた智慧によって悟り、[他に]説くところの、正しく修行し、正しく実践した修行者もバラモンもいない』と、よこしまな見解をもち、転倒した考えをもっている。これが第六の清らかな行ないを実行できない時間や機会である。
 さらにまた、友よ、如来、供養されるべき人、正しく悟りを開いた人がこの世界に出現しており、寂静に導く、完全な涅槃に導き、正しい悟りに導き、善き人によって説かれた教えが説かれていても、その人が]中心部に生まれていても、智慧が劣り、愚鈍であり、聾唖であり、善く説かれたことも悪しく説かれたことも、意味を理解することができない。これが第七の清らかな行ないを実行できない時間や機会である。
 さらにまた、友よ、如来、供養されるべき人、正しく悟りを開いた人がこの世界に出現しておらず、寂静に導く、完全な涅槃に導き、正しい悟りに導き、善き人によって説かれた教えが説かれていない。その人が中心部に生まれていて、智慧があり、愚鈍でなく、聾唖でなく、善く説かれたことも悪しく説かれたことも、意味を理解することができる。これが第八の清らかな行ないを実行できない時間や機会である。
 この八つのものが洞察しがたい。
(8)どの八つのものが生じさせられるべきか。八つの偉大な人の思考である。すなわち、この教えは欲望の少ない人のものであり、この教えは欲望の多い人のものでない。この教えは足るを知る人のものであり、この教えは足るを知らない人のものでない。この教えは衆を離れて住む人のものであり、この教えは衆に交わることを喜ぶ人のものでない。この教えは努力を続ける人のものであり、この教えは懈怠の人のものでない。この教えは明瞭な注意力をもつ人のものであり、この教えは注意力を喪失した人のものでない。この教えは精神の集中されている人のものであり、この教えは精神の集中されていない人のものでない。この教えは智慧を身につけた人のものであり、この教えは智慧の劣った人のものでない。この教えは冗漫な議論を離れることを喜び、冗漫な議論を離れることを好む人のものであり、この教えは冗漫な議論を喜び、冗漫な議論を好む人のものでない。この八つのものが生じさせられるべきである。
(9)どの八つのものが証知されるべきか。八つの勝利の領域である。すなわち、[みずからの内の物質を想念し、外にもろもろの物質を見て、そこに限られた美しさや醜さを認めても、それらを超越して、『わたしは知る、わたしは見る』とこのように想う。これが第一の勝利の領域である。
 みずからの内の物質を想念し、外にもろもろの物質を見て、そこに無限の美しさや醜さを認めても、それらを超越して、『わたしは知る、わたしは見る』とこのように想う。これが第二の勝利の領域である。
 みずからの内の物質について想念をもたず、外にもろもろの物質を見て、そこに限られた美しさや醜さを認めても、それらを超越して、『わたしは知る、わたしは見る』とこのように想う。これが第三の勝利の領域である。
 みずからの内の物質について想念をもたず、外にもろもろの物質を見て、そこに無限の美しさや醜さを認めても、それらを超越して、『わたしは知る、わたしは見る』とこのように想う。これが第四の勝利の領域である。
 みずからの内の物質について想念をもたず、外にもろもろの物質を見て、そこに青、青の色彩、青の色合い、青の光沢を、たとえば亜麻の花が青く、青の色彩をもち、青の色合いをもち、青の光沢があり、あるいはまたベナレス産の両面織りの高級布地が青く、青の色彩をもち、青の色合いをもち、青の光沢があるのを[認める]。このように、みずからの内の物質について想念をもたず、外にもろもろの物質を見て、そこに青、青の色彩、青の色合い、青の光沢を認めても、それらを超越して、『わたしは知る、わたしは見る』とこのように想う。これが第五の勝利の領域である。
 みずからの内の物質について想念をもたず、外にもろもろの物質を見て、そこに黄、黄の色彩、黄の色合い、黄の光沢を、たとえばカニカーラの花が黄いろく、黄の色彩をもち、黄の色合いをもち、黄の光沢があり、あるいはまたベナレス産の両面織りの高級布地が黄いろく、黄の色彩をもち、黄の色合いをもち、黄の光沢があるのを認める。このように、みずからの内の物質について想念をもたず、外にもろもろの物質を見て、そこに黄、黄の色彩、黄の色合い、黄の光沢を認めても、それらを超越して、『わたしは知る、わたしは見る』とこのように想う。これが第六の勝利の領域である。
 みずからの内の物質について想念をもたず、外にもろもろの物質を見て、そこに赤、赤の色彩、赤の色合い、赤の光沢を、たとえばバンドゥジーヴァカの花が赤く、赤の色彩をもち、赤の色合いをもち、赤の光沢があり、あるいはまたベナレス産の両面織りの高級布地が赤く、赤の色彩をもち、赤の色合いをもち、赤の光沢があるのを認める。このように、みずからの内の物質について想念をもたず、外にもろもろの物質を見て、そこに赤、赤の色彩、赤の色合い、赤の光沢を認めても、それらを超越して、『わたしは知る、わたしは見る』とこのように想う。これが第七の勝利の領域である。
 みずからの内の物質について想念をもたず、外にもろもろの物質を見て、そこに白、白の色彩、白の色合い、白の光沢を、たとえば金星(太白星)が白く、白の色彩をもち、白の色合いをもち、白の光沢があり、あるいはまたベナレス産の両面織りの高級布地が白く、白の色彩をもち、白の色合いをもち、白の光沢があるのを認める。このように、みずからの内の物質について想念をもたず、外にもろもろの物質を見て、そこに白、白の色彩、白の色合い、白の光沢を認めても、それらを超越して、『わたしは知る、わたしは見る』とこのように想う。これが第八の勝利の領域である。
 この八つのものが証知されるべきである。」

     『原始仏典【第三巻】長部経典③』春秋社 P383–393


八集の最後である「体現されるべき八」である「八解脱」は文字制限によりこのトピックに入りきりませんでした。

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