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原始仏典コミュの長部経典 第34経 『十上経』3 教義の集成 6集–7集

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(『原始仏典【第三巻】長部経典③』春秋社 P371から)


[六つ一組のもの]
七、「六つのものが繰り返し行なわれるべきである。六つのものが修習されねばならない。六つのものが充分に知られねばならない。六つのことが捨断されるべきである。六つのものが破滅に導くものである。六つのものが繁栄に導くものである。六つのものが洞察しがたい。六つのものは生じさせられるべきである。六つのことは証知されるべきである。六つのことが体現されねばならない。
(1)どの六つのものが繰り返し行なわれるべきか。六つの友愛の行ないである。すなわち、友よ、ここに比丘が清らかな行ないを同じくする人たちに対して、陰に日向に、慈愛のこもった体による行為を[280]行なっている。[この友愛の行ないは愛情と尊重とを生みだし、愛護をもたらし、論争をなくし、和合と統一をもたらす。
 さらにまた友よ、比丘が清らかな行ないを同じくする人たちに対して、陰に日向に、慈愛のこもったことばによる行為を行なっている。この友愛の行ないは愛情と尊重とを生みだし、愛護をもたらし、論争をなくし、和合と統一をもたらす。
 さらにまた友よ、比丘が清らかな行ないを同じくする人たちに対して、陰に日向に、慈愛のこもったこころによる行為を行なっている。この友愛の行ないは愛情と尊重とを生みだし、愛護をもたらし、論争をなくし、和合と統一をもたらす。
 さらにまた友よ、比丘が、適切に、正当に得られた利得があれば、鉢のなかの食べ物にいたるまで、そのような利得と戒律を保ち、清らかな行ないを同じくする人たちに平等に分け、一緒に使用する。この友愛の行ないも愛情と尊重とを生みだし、愛護をもたらし、論争をなくし、和合と統一をもたらす。
 さらにまた友よ、比丘が、端が破られておらず、途切れておらず、抜けるところなく、所々破れたところがなく、欲望から人を自由にし、賢者が賞賛し、汚染がなく、禅定に導くところの、そのような戒律のうちに、清らかな行ないを同じくする人たちと戒律を同じくしている。この友愛の行ないも愛情と尊重とを生みだし、愛護をもたらし、論争をなくし、和合と統一をもたらす。
 さらにまた友よ、比丘が、尊く、解脱に導き、そのように考える人を正しく苦の消滅に導くところの、そのような見解のうちに、清らかな行ないを同じくする人たちと見解を同じくしている。この友愛の行ないも愛情と尊重とを生みだし、愛護をもたらし、論争をなくし、和合と統一をもたらす。]
 この六つのものが繰り返し行なわれるべきである。
(2)どの六つのものが修習されねばならないか。六つの顧念の対象である。すなわち、仏の顧念、教えの顧念、僧団の顧念、戒律の顧念、施与の顧念、天の顧念である。この六つのものが修習されねばならない。
(3)どの六つのものが充分に知られねばならないか。六つの内の認識の領域である。すなわち、眼という領域、耳という領域、鼻という領域、舌という領域、身体という領域、こころという領域である。この六つものものが充分に知られねばならない。
(4)どの六つのものが捨断されるべきか。六つの愛執、すなわち、色と形に対する愛執、音に対する愛執、臭いに対する愛執、味に対する愛執、触れられるものに対する愛執、知られるものに対する愛執である。この六つのものが捨断されるべきである。
(5)どの六つのものが破滅に導くものか。六つの不敬である。すなわち、友よ、ここに比丘が師を尊敬せず、従順でない。教えを[尊敬せず、従順でない]。僧団を[尊敬せず、従順でない]。学ぶことを[尊敬せず、従順でない]。不放逸であることを[尊敬せず、従順でない]。礼儀正しいことを尊敬せず、従順でない。この六つのものが破滅に導くものである。
(6)どの六つのものが繁栄に導くものか。六つの尊敬である。すなわち、友よ、ここに比丘が師を尊敬し、従順である。教えを[尊敬し、従順である]。僧団を[尊敬し、従順である]。学ぶことを[尊敬し、従順である]。不放逸であることを[尊敬し、従順である]。礼儀正しいことを尊敬し、従順である。この六つのものが繁栄に導くものである。
(7)どの六つのものが洞察しがたいか。六つの解放の要素である。すなわち、友よ、ここに比丘が次のようにいうとしよう。すなわち『本当に、わたしは慈愛によるこころの解脱を修行し、繰り返し実習し、[それを]乗り物とし、[根拠とし、実行し、積み重ね、善く勤めた。しかし怒りがわたしのこころを占拠して残っている』と。かれは次のようにいわねばならない。『そんなはずがない。あなたはそのようにいってはならない。世尊を非難してはいけない。世尊を非難することは善くない。世尊はそのようにいっていないはずである』と。友よ、慈愛によるこころの解脱を修行し、繰り返し実習し、それを乗り物とし、根拠とし、実行し、積み重ね、善く勤め、しかも怒りがその人のこころを占拠して残っているという道理はなく、あるはずがない。そのような道理はない。友よ、慈愛によるこころの解脱とは怒りを離れることに他ならない。
 友よ、ここに比丘が次のようにいうとしよう。すなわち『本当に、わたしは憐れみによるこころの解脱を修行し、繰り返し実習し、それを乗り物とし、根拠とし、実行し、積み重ね、善く勤めた。しかし加害の思いがわたしのこころを占拠して残っている』と。かれは次のようにいわねばならない。『そんなはずがない。あなたはそのようにいってはならない。世尊を非難してはいけない。世尊を非難することは善くない。世尊はそのようにいっていないはずである』と。友よ、憐れみによるこころの解脱を修行し、繰り返し実習し、それを乗り物とし、根拠とし、実行し、積み重ね、善く勤め、しかも加害の思いがその人のこころを占拠して残っているという道理はなく、あるはずがない。そのような道理はない。友よ、憐れみによるこころの解脱とは加害の思いを離れることに他ならない。
 友よ、ここに比丘が次のようにいうとしよう。すなわち『本当に、わたしは喜悦によるこころの解脱を修行し、繰り返し実習し、それを乗り物とし、根拠とし、実行し、積み重ね、善く勤めた。しかし不快の思いがわたしのこころを占拠して残っている』と。かれは次のようにいわねばならない。『そんなはずがない。あなたはそのようにいってはならない。世尊を非難してはいけない。世尊を非難することは善くない。世尊はそのようにいっていないはずである』と。友よ、喜悦によるこころの解脱を修行し、繰り返し実習し、それを乗り物とし、根拠とし、実行し、積み重ね、善く勤め、しかも不快の思いがその人のこころを占拠して残っているという道理はなく、あるはずがない。そのような道理はない。友よ、喜悦によるこころの解脱とは不快の思いを離れることに他ならない。
 友よ、ここに比丘が次のようにいうとしよう。すなわち『本当に、わたしはこころの平静によるこころの解脱を修行し、繰り返し実習し、それを乗り物とし、根拠とし、実行し、積み重ね、善く勤めた。しかし貪りがわたしのこころを占拠して残っている』と。かれは次のようにいわねばならない。『そんなはずがない。あなたはそのようにいってはならない。世尊を非難してはいけない。世尊を非難することは善くない。世尊はそのようにいっていないはずである』と。友よ、こころの平静によるこころの解脱を修行し、繰り返し実習し、それを乗り物とし、根拠とし、実行し、積み重ね、善く勤め、しかも貪りがその人のこころを占拠して残っているという道理はなく、あるはずがない。そのような道理はない。友よ、こころの平静によるこころの解脱とは貪りを離れることに他ならない。
 友よ、ここに比丘が次のようにいうとしよう。すなわち『本当に、わたしは対象物の誘惑する姿を離れることによるこころの解脱を修行し、繰り返し実習し、それを乗り物とし、根拠とし、実行し、積み重ね、善く勤めた。しかし誘惑する姿を追い求めるこころがわたしのこころを占拠して残っている』と。かれは次のようにいわねばならない。『そんなはずがない。あなたはそのようにいってはならない。世尊を非難してはいけない。世尊を非難することは善くない。世尊はそのようにいっていないはずである』と。友よ、対象物の誘惑する姿を離れることによるこころの解脱を修行し、繰り返し実習し、それを乗り物とし、根拠とし、実行し、積み重ね、善く勤め、しかも誘惑する姿を追い求めるこころが、その人のこころを占拠して残っているという道理はなく、あるはずがない。そのような道理はない。友よ、対象物の誘惑する姿を離れることによるこころの解脱とは誘惑するすべての姿を離れることに他ならない。
 また友よ、ここに比丘が次のようにいうとしよう。すなわち『<わたしは存在する>という思いはわたしを損ねる。わたしは<これはわたしである>と考えないようにしよう。しかし疑いと疑問との矢がわたしのこころを占拠して残っている』と。かれは次のようにいわねばならない。『そんなはずがない。あなたはそのようにいってはならない。世尊を非難してはいけない。世尊を非難することは善くない。世尊はそのようにいっていないはずである』と。友よ、『わたしは存在する』という思いに損なわれ、『これはわたしである』と考えないようになった者に、疑いと疑問との矢がこころを占拠して残っているという道理はなく、あるはずがない。そのような道理はない。友よ、疑いと疑問との矢を離れることとは、『わたしは存在する』という自己意識を根絶することに他ならない]。この六つのものが洞察しがたい
[281](8)どの六つのものが生じさせられるべきか六つの常の住み方である。すなわち、友よ、ここに比丘は眼で物質を見ても、喜びもせず不快にも思わず、心が平静で、注意力があり、意識が明瞭である。耳で音を聞いても、[喜びもせず不快にも思わず、心が平静で、注意力があり、意識が明瞭である。。鼻で臭いを嗅いでも、喜びもせず不快にも思わず、心が平静で、注意力があり、意識が明瞭である。舌で味を味わっても、喜びもせず不快にも思わず、心が平静で、注意力があり、意識が明瞭である。身体で触れられるものに触れても、喜びもせず不快にも思わず、心が平静で、注意力があり、意識が明瞭である。こころで知られるべきものを知っても、喜びもせず不快にも思わず、心が平静で、注意力があり、意識が明瞭である]。この六つのものが生じさせられるべきである。
(9)どの六つのものが証知されるべきか。六つの無上のものである。すなわち、見ることのなかで無上のもの、聞くことのなかで無上のもの、利得のなかで無上のもの、学のなかで無上のもの、奉仕のなかで無上のもの、顧念のなかで無上のものである。この六つのものが証知されるべきである。
(10)どの六つのものが体現されねばならないか。六つの神通力である。すなわち、友よ、ここに比丘がさまざまな種類の神変を行なう。[一つの体を多くの体に変え、多くの体を一つの体に変え、姿を現し、姿を消し、壁を通り抜け、塔を通り抜け、あたかも空中を行くように、山をくぐり抜け、あたかも水中を行くかのように地面のなかに出入りし、あたかも陸を歩くかのように、沈むことなく水面を歩き、あたかも翼を有する鳥のように、すわったままで空中を行き、大きな力と大きな威光をもつ太陽と月を手で触れ、]梵天の世界に至るまで、体で自由自在に行う。
 澄み切って人を越えた天の耳の要素によって、遠くの、また近くの天と人との両方の声を聞く。
 他の生ける者の、他の人々のこころを、みずからのこころで知る。すなわち、欲望のあるこころを[欲望のあるこころと知り、欲望を離れたこころを欲望を離れたこころと知り、怒りのあるこころを怒りのあるこころと知り、愚痴のあるこころを愚痴のあるこころと知り、愚痴を離れたこころを愚痴を離れたこころと知り、落ちついたこころを落ちついたこころと知り、乱れた心を乱れたこころと知り、広大なこころを広大なこころと知り、狭いこころを狭いこころと知り、上のあるこころを上のあるこころと知り、無上のこころを無上のこころと知り、集中されたこころを集中されたこころと知り、集中していないこころを集中していないこころと知り、解脱したこころを解脱したこころと知り、]解脱していないこころを解脱していないこころと知る。
 多くの種類の過去の生存を想起する。たとえば一つの障碍、二つの生涯、[三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、十万の生涯、幾多の消滅の劫、幾多の生成の劫、幾多の生成と消滅の劫を想起し、『あのところではわたしはこのような名前であり、このような種族に生まれ、このような階級に属し、このような食事を食べ、このような苦楽を享受し、このような寿命であった。わたしはそこから死んで、別のところに生まれ、そこではわたしはこのような名前であり、このような種族に生まれ、このような階級に属し、このような食事を食べ、このような苦楽を享受し、このような寿命であった。またそのところから死んで、このところに生まれてきた』]と、状態と場所とをいっしょにして、多くの種類の過去の生涯を想起する。
 澄み切って人を越えた天の眼によって、[死に、また生じている、卑しき、尊い、色のよい、色のわるい、幸福な、不幸な生ける者を観察し、]生ける者が行為の通りに生じることを知る。
 [煩悩の]漏泄が尽きて、[煩悩の]漏泄がなく、こころの解脱と慧による解脱とを、この世でみずから知り、体現し、完成している。この六つのものが体現されねばならない。
 このようにこれら六十のものは真実であり、真理であり、その通りに、それと異ならず、同じように、完全に如来によって覚知された」

[七つ一組のもの]
[282]八、「七つのものが繰り返し行なわれるべきである。七つのものが修習されねばならない。七つのものが充分に知られねばならない。七つのことが捨断されるべきである。七つのものが破滅に導くものである。七つのものが繁栄に導くものである。七つのものが洞察しがたい。七つのものは生じさせられるべきである。七つのことは証知されるべきである。七つのことが体現されねばならない。
(1)どの七つのものが繰り返し行なわれるべきか。七つの財産である。すなわち、信の財産、戒律の財産、みずから恥じることという財産、他に対して恥じるという財産、学問という財産、施与という財産、智慧という財産である。この七つのものが繰り返し行なわれるべきである。
(2)どの七つのものが修習されねばならないか。七つの悟りへの要因である。すなわち、注意力という悟りへの要因、教えの選択という悟りへの要因、精勤という悟りへの要因、喜悦という悟りへの要因、心身の軽やかさという悟りへの要因、禅定という悟りへの要因、中庸という悟りへの要因である。この七つのものが修習されねばならない。
(3)どの七つのものが充分に知られねばならないか。七つの意識の場所である。すなわち、友よ、さまざまな体をもち、さまざまなこころをもっている生ける者たちがいる。[それは人間、一部の天、一部の悪しき境涯の者たちである。これが第一の意識の場所である。
 友よ、さまざまな体をもち、同一のこころをもっている生ける者たちがいる。それは初めて生まれた梵衆天である。これが第二の意識の場所である。
 友よ、同一の体をもち、さまざまなこころをもっている生ける者たちがいる。それは光音天である。これが第三の意識の場所である。
 友よ、同一の体をもち、同一のこころをもっている生ける者たちがいる。それは遍浄天である。これが第四の意識の場所である。
 友よ、物質という想いを完全に超越し、対触の想いを消し去り、さまざまな想いをこころに抱かず、『空間は無限である』という空間の無限性を観ずる境地に到達した生ける者たちがいる。こあれが第五の意識の場所である。
 友よ、空間の無限性を観ずる境地を完全に超越して、『意識は無限である』という、意識の無限性を観ずる境地に到達した生ける者たちがいる。これが第六の意識の場所である。
 友よ、意識の無限性を観ずる境地を完全に超越して、『なにものも存在しない』という、なにものも存在しないと観ずる境地に到達した生けるもんたちがいる。これが第七の意識の場所である。]この七つものものが充分に知られねばならない。
(4)どの七つのものが捨断されるべきか。七つの潜在的煩悩である。すなわち、感覚的な欲望という潜在的煩悩、怒りという潜在的煩悩、[悪い]見解という潜在的煩悩、疑いという潜在的煩悩、自意識という潜在的煩悩、生存に対する欲望という潜在的煩悩、無知という潜在的煩悩である。この七つのものが捨断されるべきである。
(5)どの七つのものが破滅に導くものか。七つの善くないことがらである。すなわち、友よ、ここに比丘が信をもたず、他人に対して恥じず、みずから恥じず、学ばず、怠惰であり、注意が散漫であり、智慧が鈍い。この七つのものが破滅に導くものである。
(6)どの七つのものが繁栄に導くものか。七つの善いことがらである。すなわち、友よ、ここに比丘が信をもち、他人に対して恥を知り、みずから恥を知り、多くを学び、努力をし、はっきりした注意力をもっている。この七つのものが繁栄に導くものである。
(7)どの七つのものが洞察しがたいか。七つの善き人の性質である。すなわち、友よ、ここに比丘が教えを知り、[教えの]意味を知り、みずからを知り、適量を知り、適時を知り、集団を知り、個々の人を知っている。この七つのものが洞察しがたい。
(8)どの七つのものが生じさせられるべきか。七つの認知である。すなわち、無常の認知、無我の認知、不浄の認知、過患の認知、捨棄の認知、離貪の認知、消滅の認知である。この七つのものが生じさせられるべきである。
(9)どの七つのものが証知されるべきか。七つの阿羅漢の基礎である。すなわち、友よ、ここに比丘が学ぶべきことを完成させることを切望し、将来、[学ぶべきことを完成させ続けることを望んでいる。教えの考察を切望し、将来、教えを考察し続けることを望んでいる。欲望を制御することを切望し、将来、欲望を制御しつ続けることを望んでいる。他の人々から離れて一人でいることを切望し、将来、一人でいることをし続けようと望んでいる。洲業に努力することを切望し、将来、努力し続けることを望んでいる。注意力をもち明敏であることを切望し、将来、注意力と明敏さをもち続けたいと望んでいる。正しい見解を洞察することを切望し、将来、正しい見解を洞察し続けたいと望んでいる。この七つのものが証知されるべきである。
(10)どの七つのものが体現されねばならないか。七つの[煩悩の]漏泄の尽きた人の力である。すなわち、友よ、ここに[煩悩の]漏泄の尽きた比丘はすべての形成されたものは無常であると、あるがままに正しい智慧によって正しく見ている。さらに友よ、[煩悩の]漏泄の尽きた比丘がすべての形成されたものは無常であると、あるがままに正しい智慧によって正しく見るというこのことは、[煩悩の]漏泄の尽きた比丘の力であり、この力によって[煩悩の]漏泄の尽きた比丘は『わたしの[煩悩の]漏泄は尽きた』と、[煩悩の]漏泄の尽きたことを知る。
 さらにまた友よ、[煩悩の]漏泄の尽きた比丘は、もろもろの欲望は火床にたとえられると、あるがままに正しい智慧によって正しく見ている。[さらに友よ、煩悩の漏泄の尽きた比丘が、もろもろの欲望は火床にたとえられると、あるがままに正しい智慧によって正しく見るというこのことは、[煩悩の]漏泄の尽きた比丘の力であり、この力によって[煩悩の]漏泄の尽きた比丘は]『わたしの[煩悩の]漏泄は尽きた』と、[煩悩の]漏泄の尽きたことを知る。
 さらにまた友よ、[煩悩の]漏泄の尽きた比丘は、すべての[煩悩の]漏泄のとどまるものから、こころが離れる傾向にあり、離れる方に傾き、離れる方に向かい、離れることを目的とし、離れ出ることを喜び、離れてしまっている。さらに友よ、[煩悩の]漏泄の尽きた比丘が、[すべての[煩悩の]漏泄のとどまるものから、こころが離れる傾向にあり、離れる方に傾き、離れる方に向かい、離れることを目的とし、離れ出ることを喜び、離れてしまっているというこのことは、[煩悩の]漏泄の尽きた比丘の力であり、この力によって[煩悩の]漏泄の尽きた比丘は]『わたしの[煩悩の]漏泄は尽きた』と、[煩悩の漏泄の尽きたことを知る]。
 さらにまた友よ、[煩悩の]漏泄の尽きた比丘は四つの注意力の確立を修習し、[284]よく修習している。さらに友よ、[煩悩の]漏泄の尽きた比丘が、四つの注意力の確立を修習し、よく修習しているというこのことは、[煩悩の]漏泄の尽きた比丘の力であり、この力によって[煩悩の]漏泄の尽きた比丘は]『わたしの[煩悩の]漏泄は尽きた』と、[煩悩の漏泄の尽きたことを知る]。
 さらにまた友よ、[煩悩の]漏泄の尽きた比丘は五つの機能の確立を修習し、よく修習している。さらに友よ、[煩悩の]漏泄の尽きた比丘が、五つの機能を修習し、よく修習しているというこのことは、[煩悩の]漏泄の尽きた比丘の力であり、この力によって[煩悩の]漏泄の尽きた比丘は]『わたしの[煩悩の]漏泄は尽きた』と、[煩悩の漏泄の尽きたことを知る]。
 さらにまた友よ、[煩悩の]漏泄の尽きた比丘は七つの悟りへの要因を修習し、よく修習している。さらに友よ、[煩悩の]漏泄の尽きた比丘が、七つの悟りへの要因を修習し、よく修習しているというこのことは、[煩悩の]漏泄の尽きた比丘の力であり、この力によって[煩悩の]漏泄の尽きた比丘は]『わたしの[煩悩の]漏泄は尽きた』と、[煩悩の漏泄の尽きたことを知る]。
 さらにまた友よ、[煩悩の]漏泄の尽きた比丘は尊い八つの要因からなる道を修習し、よく修習している。さらに友よ、[煩悩の]漏泄の尽きた比丘が、尊い八つの要因からなる道を修習し、よく修習しているというこのことは、[煩悩の]漏泄の尽きた比丘の力であり、この力によって[煩悩の]漏泄の尽きた比丘は]『わたしの[煩悩の]漏泄は尽きた』と、[煩悩の]漏泄の尽きたことを知る。
 この七つのものが体現されねばならない。
 このようにこれら七十のものは真実であり、真理であり、その通りに、それと異ならず、同じように、完全に如来によって覚知された」
 第一の読誦部分は終わった。


    『原始仏典【第三巻】長部経典③』春秋社 P371–382

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