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原始仏典コミュの長部経典 第34経 『十上経』2 教義の集成 5集

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(『原始仏典【第三巻】長部経典③』春秋社 P365から)




「[五つ一組のもの]
「五つのものが繰り返し行なわれるべきである。五つのものが修習されねばならない。五つのものが充分に知られねばならない。五つのことが捨断されるべきである。五つのものが破滅に導くものである。五つのものが繁栄に導くものである。五つのものが洞察しがたい。五つのものは生じさせられるべきである。五つのことは証知されるべきである。五つのことが体現されねばならない。
(1)どの五つのものが繰り返し行なわれるべきか。五つの精勤の要因である。すなわち、友よ、ここに比丘が信をもち、[『この理由で、かの世尊は阿羅漢であり、正覚者であり、明知と徳行とを具えた人であり、幸せな人であり、世間を知った人であり、無上の人であり、人を調練する人であり、天と人間の師であり、ブッダ(覚った人)であり、世尊である』と、如来の覚知を信じる。病気が少なく、苦痛が少なく、正しく消化する消化器官をもち、冷淡にすぎず、過激にすぎず、中庸に、精勤に耐える。狡猾でなく、騙すことなく、師や知者や清らかな行為を同じくする者の前にみずからをありのままに顕す。悪いことを捨て去り、善いことを身につけるために、努力を続け、力強く、堅固な勇気をもち、善い事柄について苦労を回避しない。智慧をもち、生滅の繰り返しを知り、尊い、洞察する、正しく苦の消滅に導く智慧をそなえている]。この五つのものが繰り返し行なわれるべきである。
(2)どの五つのものが修習されねばならないか。正しい禅定の五つの要因、すなわち喜悦の横溢していること、楽の横溢していること、心の横溢していること、[278]光明の横溢していること、観察する様相である。この五つのものが修習されねばならない。
(3)どの五つのものが充分に知られねばならないか。五つの執着された集まり、すなわち執着された物質の集まり、執着された感受の集まり、執着された表象の集まり、執着された形成力の集まり、執着された意識の集まりである。この五つものものが充分に知られねばならない。
(4)どの五つのものが捨断されるべきか。五つの[煩悩の]蓋い、すなわち欲に対する欲求という蓋い、怒りという蓋い、こころの落込みと眠気という蓋い、こころの浮つきと後悔という蓋い、疑いという蓋いである。この五つのものが捨断されるべきである。
(5)どの五つのものが破滅に導くものか。五つのこころの不毛である。すなわち、友よ、ここに比丘が師に対して疑い、[疑問をもち、確信しておらず、満足していない。友よ、もし比丘が師に対して疑い、疑問をもち、確信しておらず、満足していないなら、かれのこころは努力、修行の反復、修行の持続、精勤に向かわない。かれのこころが努力、修行の反復、修行の持続、精勤に向かわないことが、第一のこころの不毛である。
 また友よ、比丘が教えに対して疑い、疑問をもち、確信しておらず、満足していない。友よ、もし比丘が教えに対して疑い、疑問をもち、確信しておらず、満足していないなら、かれのこころは努力、修行の反復、修行の持続、精勤に向かわない。かれのこころが努力、修行の反復、修行の持続、精勤に向かわないことが、第二のこころの不毛である。
 また友よ、比丘が僧団に対して疑い、疑問をもち、確信しておらず、満足していない。友よ、もし比丘が僧団に対して疑い、疑問をもち、確信しておらず、満足していないなら、かれのこころは努力、修行の反復、修行の持続、精勤に向かわない。かれのこころが努力、修行の反復、修行の持続、精勤に向かわないことが、第三のこころの不毛である。
 また友よ、比丘が学ぶべき基礎に対して疑い、疑問をもち、確信しておらず、満足していない。友よ、もし比丘が学ぶべき基礎に対して疑い、疑問をもち、確信しておらず、満足していないなら、かれのこころは努力、修行の反復、修行の持続、精勤に向かわない。かれのこころが努力、修行の反復、修行の持続、精勤に向かわないことが、第四のこころの不毛である。
 また友よ、比丘が清らかな行ないを同じくする人たちに対して怒りを抱き、こころよく思わず、こころが動揺しており、こころが不毛になっている。もし比丘が清らかな行ないを同じくする人たちに対して怒りを抱き、こころよく思わず、こころが動揺しており、こころが不毛になっているなら、かれのこころは努力、修行の反復、修行の持続、精勤に向かわない。かれのこころが努力、修行の反復、修行の持続、精勤に向かわないことが、第五のこころの不毛である]。この五つのものが破滅に導くものである。
(6)どの五つのものが繁栄に導くものか。五つの機能、すなわち信の機能、努力の機能、注意力の機能、精神集中の機能、智慧の機能である。この五つのものが繁栄に導くものである。
(7)どの五つのものが洞察しがたいか。五つの解放の要素である。すなわち、友よ、ここに比丘が欲望をこころに想っても、[欲望にこころが向かず、喜ばず、とどまらず、志向しない。しかし離欲をこころに想うとき、こころは離欲に向かい、喜び、とどまり、志向する。かれのこのこころは善く制御され、善く修行され、欲望から善く立ち退き、善く離れ、欲望と結びついていない。かれは、欲望を原因として生じる煩悩の漏出と苦痛と苦悩とを離れ、その感受を感受しない。これが欲望の解放といわれる。
 さらにまた、友よ、比丘が怒りをこころに想っても、怒りにこころが向かず、喜ばず、とどまらず、志向しない。しかし無瞋をこころに想うとき、こころは無瞋に向かい、喜び、とどまり、志向する。かれのこのこころは善く制御され、善く修行され、怒りから善く立ち退き、善く離れ、怒りと結びついていない。かれは、怒りを原因として生じる煩悩の漏出と苦痛と苦悩とを離れ、その感受を感受しない。これが怒りの解放といわれる。
 さらにまた、友よ、比丘が暴力をこころに想っても、暴力にこころが向かず、喜ばず、とどまらず、志向しない。しかし非暴力をこころに想うとき、こころは非暴力に向かい、喜び、とどまり、志向する。かれのこのこころは善く制御され、善く修行され、暴力から善く立ち退き、善く離れ、暴力と結びついていない。かれは、暴力を原因として生じる煩悩の漏出と苦痛と苦悩とを離れ、その感受を感受しない。これが暴力の解放といわれる。
 さらにまた、友よ、比丘が物質をこころに想っても、物質にこころが向かず、喜ばず、とどまらず、志向しない。しかし物質を離れた精神的存在をこころに想うとき、こころは精神的存在に向かい、喜び、とどまり、志向する。かれのこのこころは善く制御され、善く修行され、物質から善く立ち退き、善く離れ、物質と結びついていない。かれは、物質を原因として生じる煩悩の漏出と苦痛と苦悩とを離れ、その感受を感受しない。これが物質の解放といわれる。
 さらにまた、友よ、比丘が自己の身体をこころに想っても、自己の身体にこころが向かず、喜ばず、とどまらず、志向しない。しかし自己の身体の消滅をこころに想うとき、こころは自己の身体の消滅に向かい、喜び、とどまり、志向する。かれのこのこころは善く制御され、善く修行され、自己の身体から善く立ち退き、善く離れ、自己の身体と結びついていない。かれは、物質を原因として生じる煩悩の漏出と苦痛と苦悩とを離れ、その感受を感受しない。これが自己の身体の解放といわれる]。この五つのものが洞察しがたい。
(8)どの五つのものが生じさせられるべきか。正しい禅定について五つの智慧である。すなわち、『この禅定は現在も楽であり、未来においても楽の果報をもつ』と、各自に、智慧が生じる。『この禅定は尊く、世俗的な利益を離れている』と、各自に、智慧が生じる。『この禅定は善良な人に習熟されている』と、各自に、智慧が生じる。『この禅定は静まっており、勝れており、寂静を得ており、[こころが]一つの専中された状態を達成しており、苦労して達成されるものでもなく、抑止されるものでもなく、妨げられるものでもない』と、各自に、智慧が生じる。『このわたいは注意力をもったままこの禅定に入り、注意力をもったままこの禅定から出る』と、各自に、智慧が生じる。この五つのものが生じさせられるべきである。
(9)どの五つのものが証知されるべきか。五つの解脱の生じる機会である。すなわち、友よ、ここに比丘のために師が、あるいは清らかな行ないを同じくする誰かが、教えを説く。[ともよ、師が、あるいは教師の立場にある清らかな行ないを同じくする誰かが、教えを説くとおりに、かれはその教えの意味を理解し、文章を理解する。かれは意味を理解し、文章を理解して、喜び、喜んで喜悦し、こころが喜悦して体が軽くなり、体が軽くなって安楽を感受する。安楽になって、こころが精神統一される。これが第一の解脱の生じる機会である。
 さらにまた友よ、比丘のために師が、あるいは教師の立場にある清らかな行ないを同じくする誰かが、教えを説かなくても、かれ自身が、他の人たちのために、聞いたとおりに、聖典のとおりに、教えを詳細に説く。友よ、比丘が他の人たちのために、聞いたとおりに、聖典のとおりに、教えを詳細に説くとき、かれはそのとおりにその教えの意味を理解し、文章を理解する。かれは意味を理解し、文章を理解して、喜び、喜んで喜悦し、こころが喜悦して体が軽くなり、体が軽くなって安楽を感受する。安楽になって、こころが精神統一される。これが第二の解脱の生じる機会である。
 さらにまた友よ、師が、あるいは教師の立場にある清らかな行ないを同じくする誰かが、教えを説かなくても、またかれ自身が、他の人たちのために、聞いたとおりに、聖典のとおりに、教えを詳細に説かなくても、聞いたとおりに、聖典のとおりに、教えを詳細に朗誦する。友よ、比丘が聞いたとおりに、聖典のとおりに、教えを詳細に朗誦するとき、かれはそのとおりにその教えの意味を理解し、文章を理解する。かれは意味を理解し、文章を理解して、喜び、喜んで喜悦し、こころが喜悦して体が軽くなり、体が軽くなって安楽を感受する。安楽になって、こころが精神統一される。これが第三の解脱の生じる機会である。
 さらにまた友よ、師が、あるいは教師の立場にある清らかな行ないを同じくする誰かが、教えを説かなくても、またかれ自身が、他の人たちのために、聞いたとおりに、聖典のとおりに、教えを詳細に説かなくても、聞いたとおりに、聖典のとおりに、教えを詳細に朗誦しなくても、聞いたとおりに、聖典のとおりに、教えを心のなかで繰り返し考察し、繰り返し伺察すし、こころで繰り返し観察する。友よ、比丘が聞いたとおりに、聖典のとおりに、教えを心のなかで繰り返し考察し、繰り返し伺察するとき、こころで繰り返し観察する、かれはそのとおりにその教えの意味を理解し、文章を理解する。かれは意味を理解し、文章を理解して、喜び、喜んで喜悦し、こころが喜悦して体が軽くなり、体が軽くなって安楽を感受する。安楽になって、こころが精神統一される。これが第四の解脱の生じる機会である。
 さらにまた友よ、師が、あるいは教師の立場にある清らかな行ないを同じくする誰かが、教えを説かなくても、またかれ自身が、他の人たちのために、聞いたとおりに、聖典のとおりに、教えを詳細に説かなくても、聞いたとおりに、聖典のとおりに、教えを詳細に朗誦しなくても、聞いたとおりに、聖典のとおりに、教えを心のなかで繰り返し考察し、繰り返し伺察すし、こころで繰り返し観察しなくても、智慧によって、どれか一つの精神集中の対象を善く取り、善く心を集中し、善く専注し、善く洞察する。友よ、比丘が智慧によって、どれか一つの精神集中の対象を善く取り、善く心を集中し、善く専注し、善く洞察するとき、かれはそのとおりにその教えの意味を理解し、文章を理解する。かれは意味を理解し、文章を理解して、喜び、喜んで喜悦し、こころが喜悦して体が軽くなり、体が軽くなって安楽を感受する。安楽になって、こころが精神統一される。これが第五の解脱の生じる機会である。]この五つのものが証知されるべきである。
(10)どの五つのものが体現されねばならないか。五つの真理の集まりである。すなわち、戒律の集まり、禅定の集まり、智慧の集まり、解脱集まり、[わたしは]解脱したと智慧で見る集まりである。この五つのものが体現されねばならない。
 このようにこれら五十のものは真実であり、真理であり、その通りに、それと異ならず、同じように、完全に如来によって覚知された」

     『原始仏典【第三巻】長部経典③』春秋社 P365–371     

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