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原始仏典コミュの相応部経典 大篇 第七 神足相応3 「四神足3」

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(『南伝大蔵経16下 相応部経典6』大蔵出版 P136)から)





「   [二〇] 第十 分別

     一

二 比丘たちよ、四神足を修習し多修すれば大果大功徳がある。比丘たちよ、四神足をどのように修習し、どのように多修すれば大果大功徳があるのか。
三 比丘たちよ、ここに比丘がいて欲三摩地勤行成就の神足を修習する――このように私の意欲は退縮に過ぎないようにし、精勤に過ぎないようにし、内に収まらないようにし、外に散じないようにする。前後想あって住する――後ろは前のように、前は後ろのように、上は下のように、下は上のように、夜は昼のように、昼は夜のように。このように開いて覆われていない心によって極光浄の心を修習する。
 勤三摩地・・・・・・心三摩地・・・・・・
 観三摩地勤行成就の神足を修習する――このように私の意欲は退縮に過ぎないようにし、精勤に過ぎないようにし、内に収まらないようにし、外に散じないようにする。前後想あって住する――後ろは前のように、前は後ろのように、上は下のように、下は上のように、夜は昼のように、昼は夜のように。このように開いて覆われていない心によって極光浄の心を修習する。

     二

四 比丘たちよ、何を意欲が退縮する(atilīna、過度に粘着する)となすのか。
 比丘たちよ、意欲が懈怠(kosajja)と倶行(sahagata)し、懈怠と相応する(sampayutta)のである。
 比丘たちよ、これを名付けて意欲が退縮するとなす。
五 比丘たちよ、何を意欲が策励に過ぎる(atippaggahita)となすのか。
 比丘たちよ、意欲が掉挙(uddhacca)と倶行し、掉挙と相応するのである。
 比丘たちよ、これを名づけて意欲が策励に過ぎるとなす。
六 比丘たちよ、何を意欲が内(ajjhatta)に収まる(saṃkhitta、投げられた、混乱した)となすのか。
 比丘たちよ、意欲が惛眠(thinamiddha、惛沈睡眠)と倶行し、惛眠と相応するのである。
 比丘たちよ、これを名付けて意欲が内に収まるとなす。
七 比丘たちよ、何を意欲が外(bahiddhā)に散じる(vikkhitta)となすのか。
 比丘たちよ、意欲が外の五妙欲(pañca kāmaguṇā)に対して散乱し(anuvikkhitta)拡散する(anuvisaṭa)のである。
 比丘たちよ、これを名付けて意欲が外に散じるとなす。
八 比丘たちよ、何を比丘が前後想(pacchāpuresaññā)あって住し――後ろ(pacchā)は前(pure)のように、前は後ろのようにとなすのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいて、前後想を善く捉え(suggahitā)、善く作意し(sumanasikatā)、善く理解し(sūpadhāritā)、慧によって(paññāya)善く通達する(suppaṭividdhā)。
 比丘たちよ、このようにして比丘は前後想あって住し、後ろは前のように前は後ろのようにする。
九 比丘たちよ、何を比丘が上は下のように、下は上のように住するとなすのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいて、かかとから上、髪の頂より下、皮膚を際(きわ)とし、様々な不浄に満ちるこの身を省察する。――この身には髪・毛・爪・歯・皮・肉・骨・骨髄・腎臓・心臓・肝臓・肋膜・膵臓・肺・腸・腸間膜・胃・大便・胆汁・痰・膿・血・汗・脂・涙・脳漿・唾液・鼻汁・関節骨液・尿があるとなす。
 比丘たちよ、このように比丘は上は下のように、下は上のように住するとなす。
一〇 比丘たちよ、何を比丘が夜(ratti)は昼(diva)のように、昼は夜のように住するとなすのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいて、行相(ākāra)によって、特徴(liṅgeti)によって、相(nimitta)によって昼に欲三摩地勤行成就の神足を修習するが、彼はその行相によって、特徴によって、相によって夜に欲三摩地勤行成就の神足を修習する。あるいはまた、行相によって、特徴によって、相によって夜に欲三摩地勤行成就の神足を修習するが、彼はその行相によって、特徴によって相によって昼に欲三摩地勤行成就の神足を修習する。
 比丘たちよ、このように比丘は夜は昼のように、昼は夜のように住するとなす。
一一 比丘たちよ、何を比丘が開いて(vivaṭa)覆われていない(apariyonaddhena)心によって光輝ある(sappabhāsa)心を修習するとなすのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいて、光明想(ālokasaññā)を善く捉え(suggahita)、昼想(divāsaññā)を善く摂持(svādhiṭṭhitā)する。
 比丘たちよ、このようにして比丘は開いて覆われていない心によって光輝ある心を修習するとなす。

     三

一二 比丘たちよ、何を精進(vīriya)が退縮に過ぎるとなすのか。
 比丘たちよ、精進が懈怠と倶行し、懈怠と相応するのである。
 比丘たちよ、これを名付けて精進が退縮に過ぎるとなす。
一三 比丘たちよ、何を精進が策励に過ぎるとなすのか。
 比丘たちよ、精進が掉挙と倶行し、掉挙と相応するのである。
 比丘たちよ、これを名付けて精進が策励に過ぎるとなす。
一四 比丘たちよ、何を精進が内に収まるとなすのか。
 比丘たちよ、精進が惛眠と倶行し、惛眠と相応するのである。
 比丘たちよ、これを名付けて精進が内に収まるとなす。
一五 比丘たちよ、何を精進が外に散じるとなすのか。
 比丘たちよ、精進が外の五妙欲に対して散乱し拡散するのである。
 比丘たちよ、これを名付けて精進が外に散じるとなす。
一六–一九 ・・・乃至・・・
 比丘たちよ、何を比丘が開いて覆われていない心によって光輝ある心を修習するとなすのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいて、光明想を善く捉え、昼想を善く摂持する。
 比丘たちよ、このようにして比丘は開いて覆われていない心によって光輝ある心を修習するとなす。

     四

二〇 比丘たちよ、何を心(citta)が退縮に過ぎるとなすのか。
 比丘たちよ、心が懈怠と倶行し、懈怠と相応するのである。
 比丘たちよ、これを名付けて心が退縮に過ぎるとなす。
二一 比丘たちよ、何を心が策励に過ぎるとなすのか。
 比丘たちよ、心が掉挙と倶行し、掉挙と相応するのである。
 比丘たちよ、これを名付けて心が策励に過ぎるとなす。
二二 比丘たちよ、何を心が内に収まるとなすのか。
 比丘たちよ、心が惛眠と倶行し、惛眠と相応するのである。
 比丘たちよ、これを名付けて心が内に収まるとなす。
二三 比丘たちよ、何を心が外に散じるとなすのか。
 比丘たちよ、心が外の五妙欲に対して散乱し拡散するのである。
 比丘たちよ、これを名付けて心が外に散じるとなす。
二四–二七 ・・・乃至・・・
 比丘たちよ、このようにして比丘は開いて覆われていない心によって光輝ある心を修習するとなす。

     五

二八 比丘たちよ、何を考察(vīmaṃsā)が退縮に過ぎるとなすのか。
 比丘たちよ、考察が懈怠と倶行し、懈怠と相応するのである。
 比丘たちよ、これを名付けて考察が退縮に過ぎるとなす。
二九 比丘たちよ、何を考察が策励に過ぎるとなすのか。
 比丘たちよ、考察が掉挙と倶行し、掉挙と相応するのである。
 比丘たちよ、これを名付けて考察が策励に過ぎるとなす。
三〇 比丘たちよ、何を考察が内に収まるとなすのか。
 比丘たちよ、考察が惛眠と倶行し、惛眠と相応するのである。
 比丘たちよ、これを名付けて考察が内の収まるとなす。
三一 比丘たちよ、何を考察が外に散じるとなすのか。
 比丘たちよ、考察が外の五妙欲に対して散乱し拡散するのである。
 比丘たちよ、これを名付けて考察が外に散じるとなす。
三二–三五 ・・・乃至・・・
 比丘たちよ、このようにして比丘は開いて覆われていない心によって光輝ある心を修習するとなす。
三六 比丘たちよ、四神足をこのように修習し、このように多修すれば大果・大功徳がある。
 比丘たちよ、比丘が四神足をこのように修習し、このように多修するときは、多端神変を経験し、一身を多身にし、多身を一身にし・・・乃至・・・乃至梵世に到るまで身によって威力を及ぼす・・・乃至・・・
三七 比丘たちよ、四神足をこのように修習し、このように多修するときは、諸漏が尽きることにより無漏の心解脱・慧解脱を現法において自ら証智し作証し具足して住する。
三八 六神通もまた広説すべし。
 
                         第二 [鹿母]殿震動品[畢]

 この品の摂頌に曰く
  (一)前と、(二)大果と、(三)欲と、
  (四)モッガーラナと、(五)婆羅門と、
  (六–七)二の沙門婆羅門と、(八)比丘と、
  (九)説示と、(一〇)分別と。




     第三 鉄丸品

   [二一] 第一 道

一 舍衛城
二 比丘たちよ、私は先にいまだ等覚を現等覚していない菩薩であったとき、考えた。
 何の道、何の道迹があって神足を修習するのか、と。
 比丘たちよ、そのとき、私は考えた。
三 比丘たちよ、ここに比丘がいて欲三摩地勤行成就の神足を修習し、このように私の意欲は退縮に過ぎず・・・乃至・・・光輝ある心を修習する。
四–五 勤三摩地・・・・・・心三摩地・・・・・・
六 観三摩地勤行成就の神足を修習し、このように私の考察は退縮に過ぎず、精勤に過ぎず、内に収まらず、外に散じずとなし、前後想あって住し、後ろは前のように前は後ろのように、上は下のように、下は上のように、夜は昼のように昼は夜のように、このように開いて覆われていない心によって光輝ある心を修習する。
七 比丘たちよ、比丘が四神足をこのように修習し、このように多修すれば、多端神変を経験し、一身を多身にし、多身を一身にし・・・乃至・・・乃至梵世にいたるまで身をもって威力を及ぼす。
八 比丘たちよ、比丘が四神足をこのように修習し、このように多修すれば、諸漏が尽きることにより無漏の心解脱・慧解脱を現法において自ら証智し作証し具足して住す。
九 六神通もまた広説すべし。


   [二二] 第二 鉄丸

一 舍衛城
二 ときに、具寿アーナンダは世尊のいるところに行った。行って世尊を敬礼して一方に座った。一方に座って具寿アーナンダは世尊に言った。
三 大徳、世尊は神通によって意成身(manomaya kāya)をもって梵世(brahmaloka)に近づくと自証するのですか。
 アーナンダ、私は神通による意成身をもって梵世に近づくと自証する。
四 大徳、また世尊は神通によってこの四大種身(cātumahābhūtika kāya)をもって梵世に近づくと自証するのですか。
 アーナンダ、私は神通によってこの四大種身をもって梵世に近づくと自証する。
五 大徳、世尊はよく神通によって意成身をもって梵世に近づかれる。大徳、世尊は神通によってこの四大種身をもって梵世に近づかれる。大徳、ここにおいて世尊は希有です、未曾有です。
 アーナンダ、諸々の如来は希有法を具足して希有である。アーナンダ、諸々の如来は未曾有法を具足して未曾有である。
六 アーナンダ、如来は時として身を心に収め(samodahati、共に置く、収める、付ける、適用する)、心を身に収め、楽想(sukhasañña)・軽想(lahusañña)を身に置いて(okkamati、入る、来る、現れる、入胎する)住する。アーナンダ、そのとき、如来の身は軽く(lahu)、柔らかく(mudu)、堪任(kammanīya、適業の、堪任、事業に堪える)になり、清浄(pabhassara、輝く、極光浄の、清浄の、素晴らしい)になる。
七 アーナンダ、たとえば鉄丸を昼日、熱すると軽く、柔らかく、堪任に、清浄となる。アーナンダ、そのように、如来は時として身を心に収め、心を身に収め、楽想・軽想を身に置いて住する。アーナンダ、そのとき、如来の身は軽く、柔らかく、堪任に、清浄となる。
八 アーナンダ、如来は時として身を心に収め、心を身に収め、楽想・軽想を身に置いて住する。アーナンダ、そのとき、如来の身は努めなくとも地より虚空に揚がり、多端神変を経験し、一身を多身にし、多身を一身にし・・・乃至・・・乃至梵世に至るまで身をもって威力を及ぼす。
九 アーナンダ、たとえば綿花、軽い綿が風を受ければ努めなくとも地より虚空に揚がる。アーナンダ、そのように、如来は時として身を心に収め、心を身に収め、楽想・軽想を身に置いて住する。アーナンダ、そのとき、如来の身は努めなくとも地より虚空に揚がり、多端神変を経験し、一身を多身にし、多身を一身にし・・・乃至・・・乃至梵世に至るまで身をもって威力を及ぼす。


   [二三] 第三 比丘

二 比丘たちよ、四神足がある。何を四となすのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいて、欲三摩地勤行成就の神足を修習し、勤三摩地・・・・・・心三摩地・・・・・・観三摩地勤行成就の神足を修習する。
 比丘たちよ、これを四神足となす。
三 比丘たちよ、比丘がこの四神足を修習し多修すれば、諸漏が尽きることにより無漏の心解脱・慧解脱を現法において自ら証智し作証し具足して住する。


   [二四] 第四 清浄

二 比丘たちよ、四神足がある。何を四となすのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいて、欲三摩地勤行成就の神足を修習し、勤三摩地・・・・・・心三摩地・・・・・・観三摩地勤行成就の神足を修習する。
 比丘たちよ、これを四神足となす。


   [二五] 第五 果(一)

二 比丘たちよ、四神足がある。何を四となすのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいて、欲三摩地勤行成就の神足を修習し、勤三摩地・・・・・・心三摩地・・・・・・観三摩地勤行成就の神足を修習する。
 比丘たちよ、これを四神足となす。
三 比丘たちよ、この四神足を修習し多修すれば二つの果のうち一つの果が期待されるべきである。現法(diṭṭha dhamma、現世、現実)における開悟(aññā)、あるいは執着されたもののあまり(upādisesa)がある時は、不還性(anāgāmitā、不還性、不還位、不還果)である。


   [二六] 第六 果 (二)

二 比丘たちよ、四神足がある。何を四となすのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいて、欲三摩地勤行成就の神足を修習し、勤三摩地・・・・・・心三摩地・・・・・・観三摩地勤行成就の神足を修習する。
 比丘たちよ、これを四神足となす。
三 比丘たちよ、この四神足を修習し多修すれば、七果・七功徳が期待されるべきである。何を七果・七功徳となすのか。
四 現法においてすでに開悟に達する。もし現法においてすでに開悟を得なければ、死の時に開悟に達する。もし死の時に開悟に達しなければ、五下分結(pañca orambhāgiyāni saṃyojanāni)が遍く尽きることによって中般涅槃(antarāparinibbāyin)を得る。もし五下分結が遍く尽きることによって中般涅槃を得なければ、五下分結が遍く尽きることによって損害般涅槃(upahaccaparinibbāyin)を得る。もし五下分結が遍く尽きることによって損害般涅槃を得なければ、五下分結が遍く尽きることによって無行般涅槃(asaṅkhāraparinibbāyin)を得る。もし五下分結が遍く尽きることによって無行般涅槃を得なければ、五下分結が遍く尽きることによって有行般涅槃(sasaṅkhāraparinibbāyin)を得る。もし五下分結が遍く尽きることによって有行般涅槃を得なければ、五下分結が遍く尽きることによって上流(uddhaṃsota)となりアカニッタに行く(akaniṭṭhagāmin、色究竟、有頂)。
五 比丘たちよ、この四神足を修習し多修すれば、この七果・七功徳が期待されるべきである。


   [二七] 第七 阿難(一)

一 舍衛城因縁
二 ときに、具寿アーナンダは世尊のいるところに行った。行って世尊が敬礼して一方に座った。一方に座って具寿アーナンダは世尊に言った。
 大徳、何を神通となし、何を神足となし、何を神足の修習となし、何を神足の修習に行く道迹となすのですか。
三 アーナンダ、何を神通となすのか。
 アーナンダ、ここに比丘がいて、多端神変を経験する。一身を多身にし、多身を一身にし、現れ、隠れ、壁や城壁や山を通り抜けることは虚空におけるように、地中に出没することは水中のように、水の上を行くことは地上のように、虚空を結跏趺坐して行くことは飛ぶ鳥のように、大神通大威徳あるこの太陽と月をもって触り、梵世にいたるまで身をもって威力を及ぼす。
 アーナンダ、これを名付けて神通となす。
四 アーナンダ、何を神足となすのか。
 アーナンダ、それは神通を獲得し、神通の獲得に導く道であり道迹である。
 アーナンダ、これを名付けて神足となす。
五 アーナンダ、何を神足の修習となすのか。
 アーナンダ、ここに比丘がいて、欲三摩地勤行成就の神足を修習し、勤三摩地勤行成就の神足を修習し、心三摩地勤行成就の神足を修習し、観三摩地勤行成就の神足を修習する。
 アーナンダ、これを名付けて神足の修習となす。
六 アーナンダ、何を神足の修習に行く道迹となすのか。
 この聖なる八支の道である。すなわち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
 アーナンダ、これを名付けて神足の修習に行く道迹となす。


   [二八] 第八 阿難(二)

二 ときに、具寿アーナンダは世尊のいるところに行った。行って世尊が敬礼して一方に座った。一方に座ったとき世尊は具寿アーナンダに言った。
 アーナンダ、何を神通となし、何を神足となし、何を神足の修習となし、何を神足の修習に行く道迹となすのか。
 大徳、わたしたちにおいて法は世尊を根本となし世尊を眼となし・・・乃至・・・
三–六 アーナンダ、ここに比丘がいて多端神変を経験して・・・乃至・・・アーナンダ、これを名付けて神足の修習に行く道となす。


   [二九] 第九 比丘(一)

二 ときに、多くの比丘が世尊のいるところに行った。行って世尊を敬礼して一方に座った。一方に座ってその比丘たちは世尊に言った。
 大徳、何を神通となし、何を神足となし、何を神足の修習となし、何を神足の修習に行く道迹となすのですか。
三–六 比丘たちよ、ここに比丘がいて多端神変を経験して・・・乃至・・・アーナンダ、これを名付けて神足の修習に行く道となす。


   [三〇] 第十 比丘(二)

二 ときに、多くの比丘が世尊のいるところに行った。行って世尊を敬礼して一方に座った。一方に座ったとき世尊はその比丘たちに言った。
 比丘たちよ、何を神通となし、何を神足となし、何を神足の修習となし、何を神足の修習に行く道迹となすのですか。
 大徳、わたしたちにおいて法は世尊を根本となし世尊を眼となし・・・乃至・・・
三 比丘たちよ、何を神通となすのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいて、多端神変を経験する。一身を多身にし、多身を一身にし、現れ、隠れ、壁や城壁や山を通り抜けることは虚空におけるように、地中に出没することは水中のように、水の上を行くことは地上のように、虚空を結跏趺坐して行くことは飛ぶ鳥のように、大神通大威徳あるこの太陽と月をもって触り、梵世にいたるまで身をもって威力を及ぼす。
 比丘たちよ、これを名付けて神通となす。
四 比丘たちよ、何を神足となすのか。
 比丘たちよ、それは神通を獲得し、神通の獲得に導く道であり道迹である。
 比丘たちよ、これを名付けて神足となす。
五 比丘たちよ、何を神足の修習となすのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいて、欲三摩地勤行成就の神足を修習し、勤三摩地勤行成就の神足を修習し、心三摩地勤行成就の神足を修習し、観三摩地勤行成就の神足を修習する。
 比丘たちよ、これを名付けて神足の修習となす。
六 比丘たちよ、何を神足の修習に行く道迹となすのか。
 この聖なる八支の道である。すなわち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
 比丘たちよ、これを名付けて神足の修習に行く道迹となす。


   [三一] 第十一 モッガーラナ

二 ここに世尊は比丘たちに告げた。
三 比丘たちよ、あなたたちはどう思うか。何の法を修習し多修するがゆえにモッガーラナ比丘はこのように大神通・大威徳があるのか。
 大徳、わたしたちにおいて法は世尊を根本となし世尊を眼となす・・・乃至・・・
四 比丘たちよ、四神足を修習し多修するがゆえにモッガーラナ比丘はこのように大神通・大威徳がある。何を四となすのか。
五 比丘たちよ、ここにモッガーラナ比丘は欲三摩地勤行成就の神足を修習し、このように私の意欲は退縮に過ぎず・・・乃至・・・光耀心を修習する。
六–七 勤三摩地・・・・・・心三摩地・・・・・・
八 観三摩地勤行成就の神足を修習し、このように私の考察は退縮に過ぎず、精勤に過ぎず、内に収まらず、外に散じずとなし・・・乃至・・・このように開いて覆われていない心によって光耀心を修習する。
九 比丘たちよ、この四神足を修習し多修するがゆえにモッガーラナ比丘はこのように大神通・大威徳がある。
一〇 比丘たちよ、この四神足を修習し多修するがゆえにモッガーラナ比丘は、多端神変を経験し・・・乃至・・・乃至梵世に至るまで身をもって威力を及ぼす。
一一 比丘たちよ、この四神足を修習し多修するがゆえにモッガーラナ比丘は、諸漏が尽きることによって無漏の心解脱・慧解脱を現法において自ら証知し現証し具足して住する。


   [三二] 第十二 如来

二 ここに世尊は比丘たちに告げた。
三 比丘たちよ、あなたたちはどう思うか。何の法を修習し多修するがゆえに如来はこのように大神通・大威徳があるのか。
 大徳、わたしたちにおいて法は世尊を根本となし世尊を眼となす・・・乃至・・・
四 比丘たちよ、四神足を修習し多修するがゆえに如来はこのように大神通・大威徳がある。何を四となすのか。
五 比丘たちよ、ここに如来は欲三摩地勤行成就の神足を修習し、このように私の意欲は退縮に過ぎず・・・乃至・・・光耀心を修習する。
六–七 勤三摩地・・・・・・心三摩地・・・・・・
八 観三摩地勤行成就の神足を修習し、このように私の考察は退縮に過ぎず、精勤に過ぎず、内に収まらず、外に散じずとなし・・・乃至・・・このように開いて覆われていない心によって光耀心を修習する。
九 比丘たちよ、この四神足を修習し多修するがゆえに如来はこのように大神通・大威徳がある。
一〇 比丘たちよ、この四神足を修習し多修するがゆえに如来は、多端神変を経験し・・・乃至・・・乃至梵世に至るまで身をもって威力を及ぼす。
一一 比丘たちよ、この四神足を修習し多修するがゆえに如来は、諸漏が尽きることによって無漏の心解脱・慧解脱を現法において自ら証知し現証し具足して住する。
一二 六神通をもまた広説すべし。

                     第三 鉄丸品[畢]


 この中摂頌に曰く
  (一)道と、(二)鉄丸と、(三)比丘と、
  (四)清浄と、(五–六)二の果と、(七–八)二の阿難と、
  (九–一〇)また二の比丘と、
  (一一)モッガーラナと、(一二)如来と。」


     『南伝大蔵経16下 相応部経典6』大蔵出版 P136–149

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