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原始仏典コミュの相応部経典 大篇 第七 神足相応2 「四神足2」

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(『南伝大蔵経16下 相応部経典6』大蔵出版 P112から)


「     第二 [鹿母]殿震動品

   [一一] 第一 前

一 舍衛城
二 比丘たちよ、私は以前にいまだ等覚を現等覚せずに菩薩であったとき、考えた。
 何の因、何の縁があって神足を修習するのか、と。
 比丘たちよ、そのとき、私は考えた。
三 比丘たちよ、ここに欲三摩地勤行成就の神足を修習する――このように私の意欲は退縮に過ぎないようにし、精勤に過ぎないようにし、内に収まらないようにし、外に散じないようにする。前後想あって住する――後ろは前のように、前は後ろのように、上は下のように、下は上のように、夜は昼のように、昼は夜のように。このように開いて覆われていない心によって光輝ある心を修習する。
四 比丘たちよ、ここに勤三摩地勤行成就の神足を修習する――このように私の精進は退縮に過ぎないようにし、精勤に過ぎないようにし、内に収まらないようにし、外に散じないようにする。前後想あって住する――後ろは前のように、前は後ろのように、上は下のように、下は上のように、夜は昼のように、昼は夜のように。このように開いて覆われていない心によって光輝ある心を修習する。
五 比丘たちよ、ここに心三摩地勤行成就の神足を修習する――このように私の心は退縮に過ぎないようにし、精勤に過ぎないようにし、内に収まらないようにし、外に散じないようにする。前後想あって住する――後ろは前のように、前は後ろのように、上は下のように、下は上のように、夜は昼のように、昼は夜のように。このように開いて覆われていない心によって光輝ある心を修習する。
六 比丘たちよ、ここに観三摩地勤行成就の神足を修習する――このように私の考察は退縮に過ぎないようにし、精勤に過ぎないようにし、内に収まらないようにし、外に散じないようにする。前後想あって住する――後ろは前のように、前は後ろのように、上は下のように、下は上のように、夜は昼のように、昼は夜のように。このように開いて覆われていない心によって光輝ある心を修習する。
七 比丘がこのように四神足を修習し多修すれば、多端神変(多く整えられた神通の種類)を経験する。一身を多身にし、多身を一身にし、現れ、隠れ、壁や城壁や山を通り抜けることは虚空におけるように、地中に出没することは水中のように、水の上を行くことは地上のように、虚空を結跏趺坐して行くことは飛ぶ鳥のように、大神通大威徳あるこの太陽と月をもって触り、梵世にいたるまで身を移す。
八 比丘がこのように四神足を修習し多修すれば、清浄で人を超えた天耳界によって遠近、神と人の声を聞く。
九 比丘がこのように四神足を修習し多修すれば、他の有情や人の心を心によって遍く了知し、有貪心を有貪心であると了知し、離貪心を離貪心であると了知し、有瞋心を有瞋心であると了知し、離瞋心を離瞋心であると了知し、有癡心を有癡心であると了知し、離癡心を離癡心でると了知し、略心を略心であると了知し、散心を散心であると了知し、大心を大心であると了知し、非大心を非大心であると了知し、有上心を有上心であると了知し、無上心を無上心であると了知し、非定心を非定心であると了知し、定心を定心であると了知し、不解脱心を不解脱心であると了知し、解脱心を解脱心であると了知する。
一〇 比丘がこのように四神足を修習し多修すれば、様々な宿住を思い出す。すなわち、一生、二生、三生、四生、五生、十生、二十生、三十生、四十生、五十生、百生、千生、百千生、多くの壊劫、多くの成劫、多くの成壊劫である。私はそこでは名はこうであり、姓はこうであり、容姿はこうであり、食べ物はこうであり、楽苦を受けることはこうであり、寿命はこうであり、そこに没してあそこに生まれた。そこでは名はこうであり、姓はこうであり、容姿はこうであり、食べ物はこうであり、楽苦を受けることはこうであり、寿命はこうであり、そこに没してここに生まれた。このように行相と名称をそなえて宿住を思い出す。
一一 比丘がこのように四神足を修習し多修すれば、清浄で人を超えた天眼によって有情の死生を見て、有情が業にしたがって劣勝、美醜、善趣悪趣を受けるのを知る。「ああ、この有情は身悪行を成就し、語悪行を成就し、意悪行を成就し、聖者を誹謗し、邪見を持ち、邪見の業を取る。身が壊れ命が終わって悪い生・悪趣・堕処・地獄に往生する。ああ、またこの有情は身善行を成就し、語善行を成就し、意善行を成就し、聖者を誹謗せず、正見を持ち、正見の業を取る。身が破れ命が終わって善趣・天世に往生する」とこのように清浄で人を超えた天眼によって有情の死生を見て、有情が業にしたがって劣勝、美醜、善趣悪趣を受けるのを知る。
一二 比丘がこのように四神足を修習し多修すれば、諸漏が尽きることにより無漏の心解脱・慧解脱を現実において自ら証智し実証し具足して住する。


   [一二] 第二 大果

二 比丘たちよ、四神足を修習し多修すれば大果大功徳がある。比丘たちよ、四神足をどのように修習し、どのように多修すれば大果大功徳があるのか。
三 比丘たちよ、ここに比丘がいて、欲三摩地勤行成就の神足を修習する――このように私の意欲は退縮に過ぎないようにし、精勤に過ぎないようにし、内に収まらないようにし、外に散じないようにする。前後想あって住する――後ろは前のように、前は後ろのように、上は下のように、下は上のように、夜は昼のように、昼は夜のように。このように開いて覆われていない心によって光輝ある心を修習する。
四-五 勤三摩地・・・乃至・・・心三摩地・・・・・・
六 比丘たちよ、ここに比丘がいて、観三摩地勤行成就の神足を修習する――このように私の考察は退縮に過ぎないようにし、精勤に過ぎないようにし、内に収まらないようにし、外に散じないようにする。前後想あって住する――後ろは前のように、前は後ろのように、上は下のように、下は上のように、夜は昼のように、昼は夜のように。このように開いて覆われていない心によって光輝ある心を修習する。
 比丘たちよ、このように四神足を修習し多修すれば大果大功徳がある。
七-一一 比丘たちよ、比丘がこのように四神足を修習し多修すれば、多端神変を経験し、一身を多身となり・・・・・・乃至梵世にいたるまで身を威を及ぼす・・・乃至・・・
一二 比丘たちよ、比丘がこのように四神足を修習し多修すれば、諸漏が尽きることにより無漏の心解脱・慧解脱を現実において自ら証智し実証し具足して住する。


   [一三] 第三 欲

二 比丘たちよ、比丘がもし意欲(chanda)に依ることによって三摩地(samādhi)を獲得し、心の一境性(cittassa ekaggatā、心が一に行く)を獲得するならば、これを名付けて欲三摩地(chandasamādhi)となす。
 彼はいまだ生じていない悪不善法を断じるために意欲(chanda)を生じさせ、励み、精進を起こし、心を策励し、精勤する。すでに生じた悪不善法を断つために、意欲を生じさせ、励み、精進を起こし、心を策励し、精勤する。いまだ生じていない善法を生じさせるために、意欲を生じさせ、励み、精進を起こし、心を策励し、精勤する。すでに生じた善法を住させるために、愚かにならないために、さらに多くするために、広大にするために、修習するために、完全にするために、意欲を生じさせ、励み、精進を起こし、心を策励し、精勤する。これを名付けて勤行(padhānasaṅkhāra)となす。
 欲にして欲三摩地、そして勤行である。比丘たちよ、これを名付けて欲三摩地勤行成就の神足(chandasamādhippadhānasaṅkhārasamannāgato iddhipāda)となす。
三 比丘たちよ、比丘がもし精進(vīriya)に依ることによって三摩地を獲得し、心一境性を獲得するならば、これを名付けて勤三摩地(vīriyasamādhi)となす。
 彼はいまだ生じていない悪不善法・・・乃至・・・すでに生じた善法を住させるために、愚かにならないために、さらに多くするために、広大にするために、修習するために、完全にするために、意欲を生じさせ、励み、精進を起こし、心を策励し、精勤する。これを名付けて勤行(padhānasaṅkhāra)となす。
 勤にして勤三摩地、そして勤行である。比丘たちよ、これを名付けて勤三摩地勤行成就の神足(vīriyasamādhippadhānasaṅkhārasamannāgato iddhipāda)となす。
四 比丘たちよ、比丘がもし心(citta)に依ることによって三摩地を獲得し、心一境性を獲得するならば、これを名付けて心三摩地(cittasamādhi)となす。
 彼はいまだ生じていない悪不善法・・・乃至・・・すでに生じた善法を住させるために、愚かにならないために、さらに多くするために、広大にするために、修習するために、完全にするために、意欲を生じさせ、励み、精進を起こし、心を策励し、精勤する。これを名付けて勤行(padhānasaṅkhāra)となす。
 心にして心三摩地、そして勤行である。比丘たちよ、これを名付けて心三摩地勤行成就の神足(cittasamādhippadhānasaṅkhārasamannāgato iddhipāda)となす。
五 比丘たちよ、比丘がもし考察(vīmaṃsā)に依ることによって三摩地を獲得し、心一境性を獲得するならば、これを名付けて観三摩地(vīmaṃsāsamādhi)となす。
 彼はいまだ生じていない悪不善法・・・乃至・・・すでに生じた善法を住させるために、愚かにならないために、さらに多くするために、広大にするために、修習するために、完全にするために、意欲を生じさせ、励み、精進を起こし、心を策励し、精勤する。これを名付けて勤行(padhānasaṅkhāra)となす。
 観にして観三摩地、そして勤行である。比丘たちよ、これを名付けて観三摩地勤行成就の神足(vīmaṃsāsamādhippadhānasaṅkhārasamannāgato iddhipāda)となす。


   [一四] 第四 モッガーラナ

一 このように私は聞いた。あるとき、世尊はサーヴァッティの東園のミガーラマートゥ・パーサーダ(鹿母の高殿)に住していた。
二 そのとき、多くの比丘がミガーラマートゥ・パーサーダに住んでおり、掉挙・驕慢・軽薄・饒舌で雑語をなし、忘念し、不正知にして定に入らず心が迷乱し、根が低劣であった。
三 ときに、世尊は具寿マハーモッガーラナを告げた。
 モッガーラナ、あの同梵行者はミガーラマートゥ・パーサーダに住んでおり、掉挙・驕慢・軽薄・饒舌で雑語をなし、忘念し、不正知にして定に入らず心が迷乱し、根が低劣である。モッガーラナ、行ってあの比丘たちに畏敬の念を起こさせなさい。
 はい、大徳。
と具寿マハーモッガーラナは世尊に答え、神通行を作し、足の指によってミガーラマートゥ・パーサーダを動かし揺らし震わせた。
四 ときに、その比丘たちは恐れ身の毛がよだって一方に立って言った。
 不思議だ、あり得ない。実にこのミガーラマートゥ・パーサーダは風を通さず、根を深く善く埋めてあり、震えず揺るがないのに、動き揺れて震える。
五 ときに、世尊はその比丘たちのところに行った。行って世尊はその比丘たちに告げた。
 比丘たちよ、どうしてあなたたちは恐れ身の毛もよだって一方に立っているのか。
 不思議です大徳、あり得ません大徳。実にこのミガーラマートゥ・パーサーダは風を通さず、根を深く善く埋めてあり、震えず揺るがないのに、動き揺れて震えます。
六 比丘たちよ、あなたたちに畏敬の念を起こそうと欲してモッガーラナ比丘が足の指によってミガーラマートゥ・パーサーダを動かし揺らし震わせたのだ。
 比丘たちよ、あなたたちはどう思うか。どのような法を修習し多修したためにモッガーラナ比丘はこのように大神通・大威徳があるのか。
 大徳、わたしたちにおいて法は世尊を根本とし、世尊を眼とします。・・・ないし・・・比丘たちは世尊から聞いて覚えるでしょう。
七 比丘たちよ、それならば聞きなさい。
 比丘たちよ、四神足を修習し多修するがゆえにモッガーラナ比丘はこのように大神通・大威徳がある。何を四とするのか。
八 比丘たちよ、ここにモッガーラナ比丘は欲三摩地勤行成就の神足を修習し・・・・・・勤三摩地・・・・・・心三摩地・・・・・・観三摩地勤行成就の神足を修習する――このように私の考察は退縮に過ぎないようにし、精勤に過ぎないようにし、内に収まらないようにし、外に散じないようにする。前後想あって住する――後ろは前のように、前は後ろのように、上は下のように、下は上のように、夜は昼のように、昼は夜のように。このように開いて覆われていない心によって光輝ある心を修習する。
九 比丘たちよ、この四神足を修習し多修するがゆえにモッガーラナ比丘はこのように大神通・大威徳がある。
一〇 比丘たちよ、この四神足を修習し多修するがゆえにモッガーラナ比丘は多端神変を経験し、一身を多身となり・・・・・・乃至梵世にいたるまで身を威を及ぼす・・・乃至・・・
一一 比丘たちよ、この四神足を修習し多修するがゆえにモッガーラナ比丘は諸漏が尽きることにより無漏の心解脱・慧解脱を現実において自ら証智し実証し具足して住する。
一二 このように六神通もまた広説すべし。


   [一五] 第五 婆羅門

一 このように私は聞いた。あるとき、具寿アーナンダはコーサンビーのゴーシター・ラーマ(ゴーシタ園)に住していた。
二 ときに、ウンナーバ婆羅門は具寿アーナンダのところに来た。来て具寿アーナンダとともに歓喜すべき印象深い談話を交わして一方に座った。一方に座り終わってウンナーバ婆羅門は具寿アーナンダに言った。
三 友アーナンダ、何の義のために沙門ゴータマのもとで梵行を修めるのか。
 婆羅門、意欲(chanda)を断つ(pahāna)という義のために世尊のもとで梵行を修める。
四 友アーナンダ、意欲を断つ道があり道迹があるのか。
 婆羅門、意欲を断つ道があり道迹がある。
五 友アーナンダ、意欲を断つどのような道があり、どのような道迹があるのか。
 婆羅門、ここに比丘がいて、欲三摩地勤行成就の神足を修習し、勤三摩地勤行成就の神足を修習し、心三摩地勤行成就の神足を修習し、観三摩地勤行成就の神足を修習する。婆羅門、これが意欲を断つ道であり道迹である。
六 友アーナンダ、もしそうであるならば有辺(santaka)であって無辺(asantaka)ではない(無辺であって有辺ではないの間違いか。パーリ原文も同様)。意欲によって意欲を断つという道理はない。
 婆羅門、それならば私はあなたに問おう。好きなように答えればいい。
七 婆羅門、あなたはどう思うか。あなたは先には阿蘭若(アランニャ、林のこと)に行こうという意欲があるが、すでに阿蘭若に着いたならばその生じたところの意欲は止滅するか。
 その通りだ、友よ。
 あなたは先には阿蘭若に行こうという精進があるが、すでに阿蘭若に着いたならばその生じたところの精進は止滅するか。
 その通りだ、友よ。
 あなたは先には阿蘭若に行こうという心があるが、すでに阿蘭若に着いたならばその生じたところの心は止滅するか。
 その通りだ、友よ。
 あなたは先には阿蘭若に行こうという考察があるが、すでに阿蘭若に着いたならばその生じたところの考察は止滅するか。
 その通りだ、友よ。
八 婆羅門、このように比丘が阿羅漢となり、漏が尽き、すでに完成し、為すべきことを為し終わり、重荷をおろし、自利を逮得し、有結を遍尽し、正悟(sammadaññā)し、解脱する者は、先には阿羅漢果を得ようという意欲があるが、すでに阿羅漢果を得ればその生じたところの意欲は止滅し、先には阿羅漢果を得ようという精進があるが、すでに阿羅漢果を得ればその生じたところの精進は止滅し、先には阿羅漢果を得ようという心があるが、すでに阿羅漢果を得ればその生じたところの心は止滅し、先には阿羅漢果を得ようという考察があるが、すでに阿羅漢果を得ればその生じたところの考察は止滅する。
九 婆羅門、あなたはどう思うか。もしそうであるならば、有辺なのか、無辺なのか。
 友アーナンダ、もしそうであるならば、有辺であって無辺ではない(終わりがあるのであって終わりがないのではない)。
一〇 素晴らしい、アーナンダ。素晴らしい、アーナンダ。・・・乃至・・・今日から一生帰依します。


   [一六] 第六 沙門婆羅門(一)

二 比丘たちよ、過去世の沙門婆羅門で大神通・大威徳があった者はすべてこの、四神足を修習し多修したことによる。
三 比丘たちよ、未来世の沙門婆羅門で大神通・大威徳があるであろう者はすべてこの、四神足を修習し多修することによる。
四 比丘たちよ、現在の沙門婆羅門で大神通・大威徳がある者はすべてこの、四神足を修習し多修することによる。何を四とするのか。
五 比丘たちよ、ここに比丘がいて、欲三摩地勤行成就の神足を修習し、勤三摩地勤行成就の神足を修習し、心三摩地勤行成就の神足を修習し、観三摩地勤行成就の神足を修習する。
六 比丘たちよ、過去世の沙門婆羅門で大神通・大威徳があった者はすべてこの、四神足を修習し多修したことによる。
七 比丘たちよ、未来世の沙門婆羅門で大神通・大威徳があるであろう者はすべてこの、四神足を修習し多修することによる。
八 比丘たちよ、現在の沙門婆羅門で大神通・大威徳がある者はすべてこの、四神足を修習し多修することによる。


   [一七] 第七 沙門婆羅門(二)

二 比丘たちよ、過去世の沙門婆羅門で多端神変を経験する。一身を多身にし、多身を一身にし、現れ、隠れ、壁や城壁や山を通り抜けることは虚空におけるように、地中に出没することは水中のように、水の上を行くことは地上のように、虚空を結跏趺坐して行くことは飛ぶ鳥のように、大神通大威徳あるこの太陽と月をもって触り、梵世にいたるまで身をもって威力を及ぼした者はすべてこの、四神足を修習し多修したことによる。
三 比丘たちよ、未来世の沙門婆羅門で多端神変を経験する。一身を多身にし、多身を一身にし、現れ、隠れ、壁や城壁や山を通り抜けることは虚空におけるように、地中に出没することは水中のように、水の上を行くことは地上のように、虚空を結跏趺坐して行くことは飛ぶ鳥のように、大神通大威徳あるこの太陽と月をもって触り、梵世にいたるまで身をもって威力を及ぼすであろう者はすべてこの、四神足を修習し多修することによる。
四 比丘たちよ、現在の沙門婆羅門で多端神変を経験する。一身を多身にし、多身を一身にし、現れ、隠れ、壁や城壁や山を通り抜けることは虚空におけるように、地中に出没することは水中のように、水の上を行くことは地上のように、虚空を結跏趺坐して行くことは飛ぶ鳥のように、大神通大威徳あるこの太陽と月をもって触り、梵世にいたるまで身をもって威力を及ぼす者はすべてこの、四神足を修習し多修することによる。何を四とするのか。
五 比丘たちよ、ここに比丘がいて、欲三摩地勤行成就の神足を修習し、勤三摩地勤行成就の神足を修習し、心三摩地勤行成就の神足を修習し、観三摩地勤行成就の神足を修習する。
六 比丘たちよ、過去世の・・・・・・未来世の・・・・・・現在の沙門婆羅門で多端神変を経験する。一身を多身にし、多身を一身にし、現れ、隠れ、壁や城壁や山を通り抜けることは虚空におけるように、地中に出没することは水中のように、水の上を行くことは地上のように、虚空を結跏趺坐して行くことは飛ぶ鳥のように、大神通大威徳あるこの太陽と月をもって触り、梵世にいたるまで身をもって威力を及ぼす者はすべてこの、四神足を修習し多修することによる。


   [一八] 第八 比丘

二 比丘たちよ、比丘が四神足を修習し多修すれば、漏が尽きることにより無漏の心解脱・慧解脱を現実に自ら証智し実証し具足して住する。何を四とするのか。
三 比丘たちよ、ここに比丘がいて、欲三摩地勤行成就の神足を修習し、勤三摩地勤行成就の神足を修習し、心三摩地勤行成就の神足を修習し、観三摩地勤行成就の神足を修習する。
四 比丘たちよ、比丘がこの四神足を修習し多修すれば、漏が尽きることにより無漏の心解脱・慧解脱を現実に自ら証智し実証し具足して住する。何を四とするのか。


   [一九] 第九 説示

二 比丘たちよ、あなたたちのために神通と神足と神足の修習と神足に行く道迹を説こう。聞きなさい。
三 比丘たちよ、何を神通(iddhi)となすのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいて、多端神変を経験する。一身を多身にし、多身を一身にし、現れ、隠れ、壁や城壁や山を通り抜けることは虚空におけるように、地中に出没することは水中のように、水の上を行くことは地上のように、虚空を結跏趺坐して行くことは飛ぶ鳥のように、大神通大威徳あるこの太陽と月をもって触り、梵世にいたるまで身をもって威力を及ぼす。
 比丘たちよ、これを名付けて神通となす。
四 比丘たちよ、何を神足(iddhipāda)となすのか。
 比丘たちよ、それは神通を獲得(iddhilābhāya)し、神通の獲得に導く(iddhipaṭilābhāya saṃvattati)道(magga)であり道迹(paṭipadā)である。
 比丘たちよ、これを名付けて神足となす。
五 比丘たちよ、何を神足の修習(iddhipādabhāvanā)となすのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいて、欲三摩地勤行成就の神足を修習し、勤三摩地勤行成就の神足を修習し、心三摩地勤行成就の神足を修習し、観三摩地勤行成就の神足を修習する。
 比丘たちよ、これを名付けて神足の修習となす。
六 比丘たちよ、何を神足の修習に行く道迹(iddhipādabhāvanāgāminī paṭipadā)となすのか。
 この聖なる八支の道(ariyo aṭṭhaṅgiko maggo)である。すなわち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
 比丘たちよ、これを名付けて神足の修習に行く道迹となす」

     『南伝大蔵経16下 相応部経典6』大蔵出版 P112–129

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