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原始仏典コミュの中部経典 第119経 『念身経』2 念身の成果

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(『原始仏典【第七巻】中部経典④』春秋社 P186から)


[『身体にむけた注意』を養成する効果]
「比丘たちよ、誰であれ『身体にむけた注意』を養成し、強化した人は、悟りの智慧の一部であるあらゆる善いことがらをあわせもっている。あたかも、比丘たちよ、誰であれ大海原に思いをいたす者は、海に流れ込むあらゆる小川をあわせ考えているように、ちょうどそのように、比丘たちよ、誰であれ『身体にむけた注意』を養成し、強化した人は、悟りの智慧の一部であるあらゆる善いことがらをあわせもっている。
 比丘たちよ、誰であれ『身体にむけた注意』を養成しておらず、強化していない人には、魔王のつけいるすきがある。魔王のつけいる余地がある。あたかも、比丘たちよ、ある人が重い石の玉を湿った土の塊に向かって投げつけるようなものである。比丘たちよ、どう思うかね。その重い石の玉は湿った土の塊にめり込む余地があるだろうか」
「はい、師よ」
[95]「ちょうどそのように、比丘たちよ、誰であれ『身体にむけた注意』を養成しておらず、強化していない人には、魔王のつけいるすきがある。魔王のつけいる余地がある。あたかも、比丘たちよ、乾燥した枯れ木の薪があるところへ、ある人が鑽木の棒をもって、『火をおこそう。炎をあげよう』と思ってやって来るようなものである。比丘たちよ、どう思うかね。その人がその乾燥した枯れ木の薪を鑽木の棒をもって摩擦したら、火をおこし、明かりをともすことができるだろうか」
「はい、師よ」
「ちょうどそのように、比丘たちよ、誰であれ『身体にむけた注意』を養成しておらず、強化していない人には、魔王のつけいるすきがある。魔王のつけいる余地がある。あたかも、比丘たちよ、中身がなく空っぽの水瓶を台に据えてあるところへ、ある人が水を担いでやって来るようなものである。比丘たちよ、どう思うかね。その人は水を[水瓶に]移すことができるだろうか」
「はい、師よ」
「ちょうどそのように、比丘たちよ、誰であれ『身体にむけた注意』を養成しておらず、強化していない人には、魔王のつけいるすきがある。魔王のつけいる余地がある。
 誰であれ『身体にむけた注意』を養成し、強化した人には、魔王のつけいるすきがない。魔王のつけいる余地がない。あたかも、比丘たちよ、ある人が軽い糸玉を心材だけでできた[堅い]戸板に投げつけるようなものである。比丘たちよ、どう思うかね。その軽い糸玉を心材だけでできた[堅い]戸板に入り込む余地があるだろうか」
「いいえ、師よ」
「ちょうどそのように、比丘たちよ、誰であれ『身体にむけた注意』を養成しておらず、強化していない人には、魔王のつけいるすきがない。魔王のつけいる余地がない。あたかも、比丘たちよ、湿った生木の薪があるところへ、ある人が鑽木の棒をもって、『火をおこそう。炎をあげよう』と思ってやって来るようなものである。[96]比丘たちよ、どう思うかね。その人がその湿った生木の薪を鑽木の棒をもって摩擦したら、火をおこし、明かりをともすことができるだろうか」
「いいえ、師よ」
「ちょうどそのように、比丘たちよ、誰であれ『身体にむけた注意』を養成しておらず、強化していない人には、魔王のつけいるすきがない。魔王のつけいる余地がない。あたかも、比丘たちよ、台の上にカラスが飲めるほど縁まで一杯に水が入った水瓶を据えてあるところへ、ある人が水を担いでやって来るようなものである。比丘たちよ、どう思うかね。その人は水を[水瓶に]移すことができるだろうか」
「いいえ、師よ」
「ちょうどそのように、比丘たちよ、誰であれ『身体にむけた注意』を養成しておらず、強化していない人には、魔王のつけいるすきがない。魔王のつけいる余地がない。
 比丘たちよ、『身体にむけた注意』を養成し、強化した人は誰であれ、神通によって直接経験できることがらのひとつひとつに対して神通によって直接経験しようと心を傾けると、その基盤があるときはいつもそれを直接経験できるようになる。あたかも、比丘たちよ、台の上にカラスが飲めるほど縁まで一杯に水が入った水瓶が据えてあるのを、力の強い男がどちらかから傾けるようなものである。水は流れ出るだろうか」
「はい、師よ」
「ちょうどそのように、比丘たちよ、『身体にむけた注意』を養成し、強化した人は誰であれ、神通によって直接経験できることがらのひとつひとつに対して神通によって直接経験しようと心を傾けると、その基盤があるときはいつもそれを直接経験できるようになる。あたかも、[比丘たちよ、]地面と同じ高さにあり、堤を巡らせた四角形の池に、カラスが飲めるほど縁まで一杯に水がたまっているときに、力強い男がどちらかから堤を切り開くようなものである。水は流れ出るだろうか」
[97]「はい、師よ」
「ちょうどそのように、比丘たちよ、『身体にむけた注意』を養成し、強化した人は誰であれ、神通によって直接経験できることがらのひとつひとつに対して神通によって直接経験しようと心を傾けると、その基盤があるときはいつもそれを直接経験できるようになる。あたかも、比丘たちよ、地の利がよい十字路に、駿馬をつなぎ、鞭をぶらさげた馬車をおいてあるようなものである。熟練した馬丁・馬の調教師がそれに乗り、左手に手綱を握り、右手に鞭をもって、思いどおりの方向へ走らせるように、ちょうどそのように、比丘たちよ、『身体にむけた注意』を養成し、強化した人は誰であれ、神通によって直接経験できることがらのひとつひとつに対して神通によって直接経験しようと心を傾けると、その基盤があるときはいつもそれを直接経験できるようになる」

[「身体にむけた注意」を養成する利益]
「比丘たちよ、『身体にむけた注意』を習い、養い、強化し、操り、基本とし、実行し、繰り返し、完全に習熟すると、次の十の利益が期待される。十とはなにか。
[1]好き嫌いを克服できるようになる。かれは嫌悪感をものともせず、生じてくる嫌悪感を打ち負かし続ける。
[2]恐れと怖じ気を克服できるようになる。かれは恐れと怖じ気をものともせず、生じてくる恐れと怖じ気を打ち負かし続ける。
[3]寒さ、熱さ、飢え、渇き、虻・蚊・風・熱・蛇との接触や辛辣で不愉快な発言に耐え、身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚をこらえられるようになる。
[4]現世で気持ちよく過ごすことのできる、雑念を離れてすっきりした四つの禅定を、[98]思うままに得、難なく得、苦労なく得られるようになる。
[5]多種多様な不可思議力を行使する(神足通)。――一身から多身になる。多身から一身になる。現れたり消えたり、壁を通り抜けたり、山を通り抜けたり、まるで水中を行くようにぶつかることがない。陸上でもまるで水の上にいるように浮かんだり沈んだりする。水の上でもまるで陸上にいるように沈むことなく歩む。空中でもまるで翼のある鳥のように足を組んだまま進む。あれほど大神通があり、あれほど大威力があるあの月と太陽を手でなでたりさすったりする。梵天界にいたるまでも身体をもったまま自由に行き来できる。
[6]澄み切った超人間的な天の聴覚で、遠くであれ近くであれ、神々と人間たち両方の声を聞く(天耳通)。
[7]他の生物や他の人々を心でとらえて知る(他心通)。――貪りのある心を貪りのある心と知り、貪りのない心を貪りのない心と知る。憎しみのある心を憎しみのある心と知り、憎しみのない心を憎しみのない心と知る。愚かさのある心を愚かさのある心と知り、愚かさのない心を愚かさのない心と知る。慎みのる心を慎みのある心と知り、乱れた心を乱れた心と知る。広大な心を広大な心と知り、狭小な心を狭小な心と知る。劣った心を劣った心と知り、最高の心を最高の心と知る。集中した心を集中した心と知り、集中していない心を集中していない心と知る。解脱した心を解脱した心と知り、解脱していない心を解脱していない心と知る。
[8]前世での多種多様な生活を想い出す(宿命通)。すなわち、[99]一つの生涯、二つの生涯、[三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯、多数の衰退の劫、多数の形成の劫、多数の衰退と形成の劫にわたり、『あのときわたしはこういう名前で、こういう姓で、こういう家柄に属し、こういうものを食べ、こういう楽しみと苦しみを味わい、こういう年齢でなくなった。そして、そこから没してあそこに生まれた。そこではわたしはこういう名前で、こういう姓で、こういう家柄に属し、こういうものを食べ、こういう楽しみと苦しみを味わい、こういう年齢でなくなった。そして、そこから没してここに生まれたのだ』]というように、状景とともに詳細とともに、前世での多種多様な生活を想い出す。
[9]澄み切った超人間的な天の眼で、生きものが死んだり生まれかわったりするのを見る(天眼通)。下等なものや上等なもの、美しいものや醜いもの、幸せなものや不幸なものなど、生きものたちが行為に応じて報いを受けているのを知る。
[10]煩悩を尽くして、煩悩のない心の解脱と智慧による解脱を現世においてみずからはっきりと知り、じかに見、そこに達してとどまる(漏尽通)。
 比丘たちよ、『身体にむけた注意』を習い、養い、強化し、操り、基本とし、実行し、繰り返し、完全に習熟すると、以上の十の利益が期待されるのである」
 世尊はこういわれた。比丘たちは感激して世尊のことばを讃えた。



      『原始仏典【第七巻】中部経典④』春秋社 P177-191

コメント(9)

好き嫌いを克服できるようになる。かれは嫌悪感をものともせず、生じてくる嫌悪感を打ち負かし続ける。

素敵ですね。
憧れてしまいます。
身を念じれば何でも念身の修行になりますが、上の修行法はゴータマが特に「大きな成果」があると認めているものなので、他の念身修行より上の修行法が優先される価値があると思います。四念処の基本と、念身の基本を引用できました。後は、念息かなと思っています。
晴れぺこさん
 
この身念処の瞑想の記述を読ませていただいて、

「ヒマラヤ聖者の生活探究」の中でイエスさんやヒマラヤ聖者さん方がおっしゃっている。
この身体を完全なる神の宮とみなし、内なる神キリストを顕現させて、神の能力を思い出し、神から与えられた財産をすべて引き継いで、この身体を持ったまま天に次元上昇することと、同じことを述べているように感じましたね。

ありがとうございます。ハート達(複数ハート)
 
はじめまして、クリシュナさん。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』は以前から書店で見かけて興味があったのですが、まだ読んでいない本です。『あるヨギの自叙伝』なども読みたいとは思っているのですが、まだ読んでいません。ただ前者の出版社から出されている『ローム太霊講話集』は読んで多くを学びました。

クリシュナさん以外の人も含めて僕の立場を少し書きます。僕は原始仏典だけを読んでいるわけではなく、今でも仏教以外の書籍も読みます。霊界通信や仙人由来、神霊由来の教えは死後の世界を信じるに値するものとする情報を多く含んでいます。しかし、これらは「信じている段階」なので、「自分が信じているこれを信じない人は駄目な奴だ」と早急に切り捨てるべきではありません。「自分はこれを信じているだけで自分で確認したわけではないのだから」と考えて。信を知とするために諸々の修行があります。

僕は宗教的知識・霊的知識などを書籍に求める人を称賛しますが、それよりもなお、たとえ仏教以外の修行であっても「超常的な世界・超常的な能力を実証するために現実に努力している人」をより一層、称賛します。「信じている段階」から「自分自身で見て確認する段階」に移行しようとしている人は僕は素晴らしいと思います。そういう人は非常に少ないのですが。

「信じるだけでは十分ではない」ということはあらゆる宗教に言えます。数学や科学の手法からは多くの学ぶべきことがたくさんあります。しかし、それらの意義は全て一言で言えば「再現性」に尽きると思います。原始仏教の修行もまた「ゴータマの悟りを再現」するための三十七道です。従って、「再現性」のない一切の理論は不毛です。しかし、理論は知らなくても科学技術の恩恵を電化製品などで繰り返し再現性をもって享受できるからこそ、人々は科学を信じます。しかし、これは信じている段階です。仕組みを学んで知るからこそ、それに対して自由に振る舞うことができます。

「死ななければ検証できないこと」と「生きている間でも検証できること」について考えることは有益だと思います。また「超能力がなければ検証できないこと」と「超能力がなくても検証できること」を区別することも有益だと思います。もっとも基本的でしかも有益な考え方は「その教えの最高の理想とそれにいたる具体的な修行方法は何か」という観点で様々な宗教や教えを学ぶことです。しかし、それをしている人は少ないです。これは様々な技術でも同じことで「この業界は何を理想とし具体的にどうすればそこに達することができるのか」「このテキストは何を理想としそこに到るためのどのような訓練法が書いてあるのか」「この教師は何を最高と考えていて、具体的にどのような訓練を採用しているのか」などです。

もしこのように根本的に考えることができないならば大変大きな損失です。誤った宗教や教えを選択して人生が駄目になる人は多いです。多分、彼らに「どうして道を誤って無駄な時間を多く過ごしたのですか」と質問すれば、「それが現実に対応しない教えだと知りませんでしたし、現実に対応するかどうか考えもしませんでした。なぜなら、いいよと人が勧めて来たものですから安易に信じて、そのまま今日にいたりました」と答えるに違いありません。人生の一大事を安易に決めるのは危険過ぎます。

四諦は苦のメカニズムと心のメカニズムですから、超能力がなくとも内観によってある程度まで知ることができます。しかし十二縁起考察中における輪廻の事実は超能力がなければ確認することはできません。僕は近頃、超能力の必要性を痛感し、超能力がなければいまだ「自分が信じていることは事実なのか」という不安を拭い切ることができないことを繰り返し感じさせられます。
原始仏教はうぬぼれるためにあるのではありません。「自分は流れに入っている、他の人はそうではない、自分が上だ」などと思うためにあるのではありません。一部の賢明なキリスト教徒が自分よりも人の利益を願っているならば、それを恥じて見習うことに利益があります。テレビで超能力者が出れば「彼は力があっても流れに入っていない」などと自分の立場の優位性を確認する思考を起こすよりも「彼は流れに入っていないにしても力があり、自分は流れに入っているのに力がない、これは恥ずかしい」と考えて四神足に精を出す。この方が利益があります。

四諦をいくらか知り、流れに入って後は、もっと自由な気持ちで他の教えの書籍を読むことができます。そのときは、より一層「信じる段階を越えて自分で超能力を獲得して実証しなければ」という思いが強くなると思います。この欲求、この欲望の流れに乗って「欲神足」を修習することが利益があります。意欲によって超能力を得る土台となる三摩地を得る、これは光り輝く心の修習ですが、それを実践します。僕は原始仏教の修行方法を差し置いて他の教えの修行方法を実践することはありません。四諦をいくらか考察した人はゴータマと原始仏典への信頼に厚いものがあります。四諦はいくらか知っていますが、他は信じている段階ですが。

原始仏典ばかり読んで頭が熟んで来たときは、ときにはヨガ行者や仙人や神道家や超能力者や霊能力者やイギリス霊界通信やバハイ聖典や最近のイエスの啓示などを読むのが気分転換にはちょうどいいです。色々な教えの比較とそれぞれの教えの限界、具体的な修行方法があるかどうかなど、示唆されるところも多いです。何事も一朝一夕には成り難いので、無理に一生の方向性を決めずに、自然に道が決まるまでは情報収集と熟慮を続けることが肝要だと思います。職業選択の進路も結婚の選択も老後の計画も宗教の進路も在家出家の選択も、無理に決めようとするのは情報が足りていない証拠なので「決めるんじゃない、決まるんだ」という態度で、自然に結論が出るまでは情報収集と熟慮を続けることをお勧めします。

コメントと関係ないですが、僕は発言の機会が与えられるならば、その機をいいことにいささかあえてお節介な内容を書いて、読まれた方が利益を得るようにと考えてこのように書いています。
晴れぺこさん

お返事ありがとうございます。ハート達(複数ハート)
 
わたしは、以前、
「四念処瞑想」もやったことがありますし、
「12因縁法則」についての瞑想体験をしたこともあります。
 
わたしのプロフィールの「臨死体験」のところで、その瞑想体験の概要を記述させていただいています。
 
これは超能力というより、人間が元々持っている「本来能力」というほうが正確かと思います。
だから、チャクラを活性化させて浄化し、クンダリニーを活性化させてチャクラに光をともせば、だれでも体験できることですよね。
 
四念処瞑想だけでは、長い年月の修行が必要ですが(お釈迦様も、師のもとで7年必要と述べられてますが)、
クンダリニーを活用する密教系の修行(お釈迦様は一部の高弟だけに授けたそうですが、これはチベット密教に伝わっていますが)を用いれば、比較的容易に体験できるようですが、こちらには優れた師が必要ですね。
 
もしご興味があれば、遊びにいらしてくださったらうれしく思います。

ありがとうございます。ハート達(複数ハート)
 
・聖中心道 肥田式強健術
 http://homepage1.nifty.com/hidashiki/


上記のサイトだと思うのですが、分量があるのでまだ少ししか読んでいません。

原始仏教は色々な教えを否定するものではないので念身の観点から言えば色々なスポーツや格闘技と同じで、関連性はあると思います。

学校の勉強はヴィパッサナーと関連がありますし、座禅や呼吸を整えたり決まった行動形式を繰り返すのもサマタと関連があると思います。原始仏教は苦滅を目的とする教えですから、俗世間において一部の苦滅に資する様々な教えと反発するものではありません。

原始仏教をしっかりやっていても、四神足をマスターしていない在家信者が医者になろうと思うなら医学を学ばなければいけませんし、ピアニストになろうと思うなら原始仏教の研究と修行とは別にしかるべき訓練が必要だと思います。健康になろうと思うなら、原始仏教だけでなく薬になる食の知識・健康を増進する運動の仕方・適切な休息時間などについて色々と学ぶことが有益だと思います。

肥田式強健術も世間にたくさんある「それだけでは完全なる苦滅には導かないが学べば一部の苦を滅することができる教え」の一つであって、その利益ある部分は原始仏教とは矛盾しないと思います。もし肥田式強健術に利益に反し現実に反する部分があったときは、その点においては原始仏教や現実に反するとは思いますが、利益ある部分は利益ある部分として残るものですし、そのように判断すべきだと思います。

それぞれの教えの修行方法がどのような原因を蓄積することになり、またそれによって何が結果されるかを考察すれば、それぞれの教えの意義はすべてそのうちにあると思います。その因果連鎖を実際に自ら確認するところにおいては全ての学問的方法や術式や流派や派閥は完全に滅するものです。

原始仏教も学び、原始仏教以外も学び、自分の内にある知識をフルに使って、様々な教えを比較し考察して、換骨奪胎して全て完全に自分のものにしていく作業はとても有意義だと思います。学校教育で学んだ知識を様々な分野に応用するだけでも、かなりの知恵が生じると思います。多くの人は学校で学んだ知識をまったく応用しないので、知識が知恵に練り上げられず、ほとんどの知識を忘却していますが。


肥田式強健術を学んで自ら検証することは大いに結構なことだと思います。

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