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原始仏典コミュの中部経典 第119経 『念身経』 念身の修行方法

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      第一一九経 身体にむけた注意――念身経    出本充代





「身体にむけた注意」の養成法とその効果および利益を説く。「身体にむけた注意」を養成
するには、出入息観のうち身体に関する部分を修める、行住坐臥を自覚する、日常のさま
ざまな所作を意識して行なう、身体を解剖学的に観察する、身体を地水火風という構成要
素から観察する、死体が腐乱していく過程を段階的に想像する、四段階の禅定を修めると
いう方法がある。こうして「身体にむけた注意」を養成した人は心にすきがなくなり、魔
王につけいれられることがなく、さまざまな神通力を自在に操る能力が身につく。
 漢訳「中阿含経」(八一)『念身経』(大正蔵一、五五四下――五五七下)。





 わたしはこのように聴いた。あるとき世尊はサーヴァッティーのジェータ林にあるアナータピンディカの僧園におられた。
 さて、食事を済ませて托鉢から戻った比丘たちが大勢で講堂に座って集まっていると、次のような話になった。
「友よ、[なにもかも]ご存じでわかっておられる尊敬に値するお方、正しく完全にさとったお方である世尊が、『身体にむけた注意』を養成し、強化すれば、大きな効果があり、大きな利益があると説かれたのはすばらしいですね。友よ、みごとですね」
 ここで比丘たちの談話が途切れた。世尊が夕刻に瞑想から覚めて、講堂のほうへお越しになったのである。世尊は、お越しになると、用意された席にお座りになった。お座りになると、比丘たちに話しかけられた。
「比丘たちよ、いまどんな話をして座っていたのかね。どんな話を中断したのかね」
[89]「師よ、いましがたわれわれが食事を済ませて托鉢から戻り、講堂に座って集まっておりますと、次のような話になりました。『友よ、[なにもかも]ご存じでわかっておられる尊敬に値するお方、正しく完全にさとったお方である世尊が、<身体にむけた注意>を養成し、強化すれば、大きな効果があり、大きな利益があると説かれたのはすばらしいですね。友よ、みごとですね』と。師よ、世尊がお越しになったとき、この話を中断したのです」

[出入息観による修習]
「比丘たちよ、『身体にむけた注意』をどのように養成し、どのように強化すれば、大きな効果があり、大きな利益があるのか。
 比丘たちよ、いま比丘が森林に行くか、空き家に行くかして、足を組んで身体をまっすぐに伸ばし、正面に思いを定めて座る。かれは意識しながら息を吸い、意識しながら息を吐く。長く息を吸いながら、『わたしは長く息を吸っている』と知る。長く息を吐きながら、『わたしは長く息を吐いている』と知る。短く息を吸いながら、『わたしは短く息を吸っている』と知る。短く息を吐きながら、『わたしは短く息を吐いている』と知る。『全身を感じ取りながら息を吸おう』と練習する。『全身を感じ取りながら息を吐こう』と練習する。『身体の活動を鎮めながら息を吸おう』と練習する。『身体の活動を鎮めながら息を吐こう』と練習する。かれがこのようにたゆみなく熱心に打ち込んでいると、在家的な記憶と思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、集束し、集中する。比丘たちよ、このようにして比丘は『身体にむけた注意』を養成する」

[所作の自覚による修習]
「さらに、比丘たちよ、比丘が歩いているときに『わたしは歩いている』と知る。立っているときに『わたしは立っている』と知る。座っているときに『わたしは座っている』と知る。横になっているときに『わたしは横になっている』と知る。また、自分の身体が置かれている状態のとおりに、そういう状態であると知る。かれがこのようにたゆみなく熱心に打ち込んでいると、在家的な記憶と思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、集束し、集中する。比丘たちよ、このようにして比丘は『身体にむけた注意』を養成する。
[90]さらに、比丘たちよ、比丘が進んだり戻ったりするのを意識しして行なう。前をまっすぐ見たり見回したりするのを意識して行なう。曲げたり伸ばしたりするのを意識して行なう。外套や鉢・上衣をもつのを意識して行なう。食べたり飲んだり噛んだり味わったりするのを意識して行なう。大便や小便をするのを意識して行なう。歩いたり立ったり座ったり、眠ったり覚めたり、話したり黙ったりするのを意識して行なう。かれがこのようにたゆみなく熱心に打ち込んでいると、在家的な記憶と思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、集束し、集中する。比丘たちよ、このようにして比丘は『身体にむけた注意』を養成する」

[身体構造の観察による修習]
「さらに、比丘たちよ、比丘が足の裏から上、髪の先から舌まで皮膚に包まれ、いろいろな種類の不浄物が詰まっているこの身体を、『この身体には、髪、毛、爪、歯、皮膚、肉、筋、骨、髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、膵臓、肺、腸、腸間膜、胃、大便、胆汁、粘液、膿、血、汗、脂肪、涙、膏、唾、鼻汁、リンパ液、小便が存在する』と観察する。あたかも、比丘たちよ、上下に口のある袋にもち米、うるち米、小豆、緑豆、胡麻、精白米といったいろいろな種類の穀物が詰まっているのを眼識のある人が開けて、『これはもち米、これはうるち米、これは小豆、これは緑豆、これは胡麻、これは精白米』といって観察するように、ちょうどそのように、比丘たちよ、足の裏から上、髪の先から舌まで皮膚に包まれ、いろいろな種類の不浄物が詰まっているこの身体を、『この身体には、髪、毛、爪、歯、皮膚、肉、筋、骨、髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、膵臓、肺、腸、腸間膜、胃、大便、胆汁、粘液、膿、血、汗、脂肪、涙、膏、唾、鼻汁、リンパ液、小便が存在する』と観察する。かれがこのようにたゆみなく熱心に打ち込んでいると、在家的な記憶と思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、集束し、集中する。比丘たちよ、このようにして比丘は『身体にむけた注意』を養成する。
[91]さらに、比丘たちよ、比丘がこの身体をあるがままに、置かれている状態のままに、『この身体には地の要素、水の要素、火の要素、風の要素が存在する』と要素の点から観察する。あたかも、比丘たちよ、熟練した屠牛人あるいは屠牛人の徒弟が牛を屠殺したあと、十字路で[その肉を]部分ごとに切り分けて腰を下ろしているように、ちょうどそのように、比丘たちよ、比丘はこの身体をあるがままに、置かれている状態のままに、『この身体には地の要素、水の要素、火の要素、風の要素が存在する』と要素の点から観察する。かれがこのようにたゆみなく熱心に打ち込んでいると、在家的な記憶と思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、集束し、集中する。比丘たちよ、このようにして比丘は『身体にむけた注意』を養成する」

[死体の観想による修習]
「さらに、比丘たちよ、墓場に捨てられた死体が死後一日、あるいは死後二日、あるいは死後三日を経過し、むくれて紫だち、うみただれているのを見ているかのように、比丘がこの生身の体について『この身体もそういう定めにあり、いずれそうなるのであって、それを免れることはできない』と要約する。かれがこのようにたゆみなく熱心に打ち込んでいると、在家的な記憶と思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、集束し、集中する。比丘たちよ、このようにして比丘は『身体にむけた注意』を養成する。
 さらに、比丘たちよ、墓場に捨てられた死体がカラスに啄まれ、鷲に啄まれ、禿鷹に啄まれ、犬に食われ、ジャッカルに食われ、いろいろなうじ虫に食われているのを見ているかのように、比丘がこの生身の体について『この身体もそういう定めにあり、いずれそうなるのであって、それを免れることはできない』と要約する。かれがこのようにたゆみなく熱心に打ち込んでいると、在家的な記憶と思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、集束し、集中する。比丘たちよ、このようにして比丘は『身体にむけた注意』を養成する。
[92]さらに、比丘たちよ、墓場に捨てられた死体が、肉と血がつき、筋でつながった骨組みとなっているのを[見ているかのように、比丘がこの生身の体について『この身体もそういう定めにあり、いずれそうなるのであって、それを免れることはできない』と要約する。かれがこのようにたゆみなく熱心に打ち込んでいると、在家的な記憶と思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、集束し、集中する。比丘たちよ、このようにして比丘は『身体にむけた注意』を養成する。
 さらに、比丘たちよ、墓場に捨てられた死体が、]肉がなく血にまみれ、筋でつながった骨組みとなっているのを[見ているかのように、比丘がこの生身の体について『この身体もそういう定めにあり、いずれそうなるのであって、それを免れることはできない』と要約する。かれがこのようにたゆみなく熱心に打ち込んでいると、在家的な記憶と思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、集束し、集中する。比丘たちよ、このようにして比丘は『身体にむけた注意』を養成する。
 さらに、比丘たちよ、墓場に捨てられた死体が、]肉も血もなくなり、筋でつながった骨組みとなっているのを[見ているかのように、比丘がこの生身の体について『この身体もそういう定めにあり、いずれそうなるのであって、それを免れることはできない』と要約する。かれがこのようにたゆみなく熱心に打ち込んでいると、在家的な記憶と思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、集束し、集中する。比丘たちよ、このようにして比丘は『身体にむけた注意』を養成する。
 さらに、比丘たちよ、墓場に捨てられた死体が、]つなぐものがなくなって四方八方に散らばる骨となっているのを見ているかのように――あちらに手の骨、こちらに足の骨、あちらに臑の骨、こちらに腿の骨、あちらに腰の骨、こちらに背骨、あちらに頭蓋骨――、比丘がこの生身の体について『この身体もそういう定めにあり、いずれそうなるのであって、それを免れることはできない』と要約する。かれがこのようにたゆみなく熱心に打ち込んでいると、在家的な記憶と思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、集束し、集中する。比丘たちよ、このようにして比丘は『身体にむけた注意』を養成する。
 さらに、比丘たちよ、墓場に捨てられた死体が法螺貝の色のように白い骨と化しているのを[見ているかのように、比丘がこの生身の体について『この身体もそういう定めにあり、いずれそうなるのであって、それを免れることはできない』と要約する。かれがこのようにたゆみなく熱心に打ち込んでいると、在家的な記憶と思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、集束し、集中する。比丘たちよ、このようにして比丘は『身体にむけた注意』を養成する。
 さらに、比丘たちよ、墓場に捨てられた死体が、]骨の堆積となっているのを[見ているかのように、比丘がこの生身の体について『この身体もそういう定めにあり、いずれそうなるのであって、それを免れることはできない』と要約する。かれがこのようにたゆみなく熱心に打ち込んでいると、在家的な記憶と思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、集束し、集中する。比丘たちよ、このようにして比丘は『身体にむけた注意』を養成する。
 さらに、比丘たちよ、墓場に捨てられた死体が、]年数を経て腐り、粉々の骨となっているのを見ているかのように、比丘がこの生身の体について『この身体もそういう定めにあり、いずれそうなるのであって、それを免れることはできない』と要約する。かれがこのようにたゆみなく熱心に打ち込んでいると、在家的な記憶と思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、集束し、集中する。比丘たちよ、このようにして比丘は『身体にむけた注意』を養成する」

[四禅定による修習]
「さらに、比丘たちよ、比丘が欲望を斥け、不善のことがらを斥けて、大まかな思考や細かい思考が残っている、遠離から生じる喜びと安楽からなる第一の禅定に達する。かれはこの身体に遠離から生じる喜びと安楽を流し込み、巡らせ、満たし、ゆきわたらせる。かれの身体中どこをとっても、遠離から生じる喜びと安楽がゆきとどいていないところはない。あたかも、比丘たちよ、熟練した浴場の使用人か浴場の使用人の徒弟が銅製の盥に石鹸粉を振りまき、水で少しずつぬらしてはこね合わせると、[こねあがった]石鹸の固まりは水気を帯び、水気を含み、内も外も水気がゆきわたって、なおかつしずくが垂れないように、ちょうどそのように、比丘たちよ、比丘はこの身体に遠離から生じる喜びと安楽を[93]流し込み、巡らせ、満たし、ゆきわたらせる。かれがこのようにたゆみなく熱心に打ち込んでいると、在家的な記憶と思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、集束し、集中する。比丘たちよ、このようにして比丘は『身体にむけた注意』を養成する。
 さらに、比丘たちよ、比丘が大まかな思考や細かい思考が停止して内面が鎮まった状態、心が統一された状態である、大まかな思考も細かい思考もない、精神集中から生じる喜びと安楽からなる第二の禅定に達する。かれはこの身体に精神集中から生じる喜びと安楽を流し込み、巡らせ、満たし、ゆきわたらせる。かれの身体中どこをとっても、精神集中から生じる喜びと安楽がゆきとどいていないところはない。あたかも、比丘たちよ、水の湧き出る池があって、そこには東からも水が入って来ず、西からも水が入って来ず、北からも水が入って来ず、南からも水が入って来ず、神が適当な時季に十分な雨を降らせてくれなくても、その池自体から冷たい水流が湧き出て、その池に冷たい水を流し込み、巡らせ、満たし、ゆきわたらせ、その池中どこをとっても冷たい水がゆきとどいていないところがないように、ちょうどそのように、比丘たちよ、比丘はこの身体に精神集中から生じる喜びと安楽を流し込み、巡らせ、満たし、ゆきわたらせる。かれの身体中どこをとっても、精神集中から生じる喜びと安楽がゆきとどいていないところはない。かれがこのようにたゆみなく[熱心に打ち込んでいると、在家的な記憶と思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、集束し、集中する。比丘たちよ、このようにして比丘は]『身体にむけた注意』を養成する。
 さらに、比丘たちよ、比丘が喜びが冷めた後に静観しつづけ、注意し、意識しながら、安楽を身体で感じ取る。[すなわち、]『[その禅定にある者は]静観し、注意しながら安楽に住す』と聖者たちが表現する第三の禅定に達する。かれはこの身体に喜びをともなわない安楽を流し込み、巡らせ、満たし、ゆきわたらせる。かれの身体中どこをとっても、喜びをともなわない安楽がゆきとどいていないところはない。あたかも、比丘たちよ、青蓮華の池か赤蓮華の池か白蓮華の池に数本の青蓮華か赤蓮華か白蓮華が水中で生じ、水中で大きくなり、水の上に出ずに、水中に没したまま育っている間、[94]先端から根元にいたるまで冷たい水が流れ込み、巡り、満ち、ゆきわたっているように、ちょうどそのように、比丘たちよ、比丘はこの身体に喜びをともなわない安楽を流し込み、巡らせ、満たし、ゆきわたらせる。かれの身体中どこをとっても、喜びをともなわない安楽がゆきとどいていないところはない。かれがこのようにたゆみなく[熱心に打ち込んでいると、在家的な記憶と思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、集束し、集中する。比丘たちよ、このようにして比丘は]『身体にむけた注意』を養成する。
 さらに、比丘たちよ、比丘が安楽を捨て、苦しみを捨てたあとに、それ以前に快・不快感が消滅しているので苦しみもなく安楽もない、平静さによって注意力が澄みわたった状態である第四の禅定に達する。かれはこの身体を清浄純白な心で包んで座っている。かれの身体中どこをとっても、清浄純白な心で包まれていないところはない。あたかも、比丘たちよ、ある人が白い布を頭からすっぽりかぶって座っていると、[その人の身体中]どこをとっても白い布で包まれていないところがないように、ちょうどそのように、比丘たちよ、比丘はこの身体を清浄純白な心で包んで座っている。かれの身体中どこをとっても、清浄純白な心で包まれていないところはない。かれがこのようにたゆみなく[熱心に打ち込んでいると、在家的な記憶と思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、集束し、集中する。比丘たちよ、このようにして比丘は]『身体にむけた注意』を養成する」

     『原始仏典【第七巻】中部経典④』春秋社  P177-186

コメント(4)

 『原始仏典【第七巻】中部経典?』購入して、念身経読みましたが・・、何か女性的な言葉遣いだな〜と感じるのは私だけでしょうか?

なんか甘ったるいような・・。女性が訳しているというのもあるでしょうが・・。

確かに読みやすいし、理解しやすいけど、この翻訳はどこまで本来の原典の味を伝えているのだろうか?
『原始仏典』(春秋社)は岩波文庫同様、中村元氏が監修なので、「ひらがなが多い」ですね。それが女性的に思わせるかもしれませんが、訳はそんなに問題ないと思います。念身の具体的修行方法はこの経典が最強ですね。念身の功徳は増支部経典一集が一番詳細なので、また引用しようと思います。この二つをセットにすれば、念身はほぼ完璧です。後は、マハーカッサパへの「『私の悦倶行の念身は捨てられないように』とあなたはこのように学びなさい」という教えなどです。

原典はこちらで。

http://www.tipitaka.org/romn/
すいません。パーリ語全くわかりません。

中村元先生は意図的に平易な訳をこころがけていたということは、岩波文庫の後書きなどにも書いてあったため、その継承者の訳にもその傾向が引き継がれているのでしょう。

中村先生を批判するなど、とても相応の実力を持たない私がするなどもっての外かもしれませんが、なんかすらすら読めてあと頭に残らないみたいな印象があります。

中村先生は念処経や、入息出息法などの具体的な修行法について書かれた経典をあまり訳されてなかったように思うのですが、これは南伝大蔵経をあまり研究していなかったからでしょうか?中村先生は主にサンスクリット語の翻訳がメインだったように思います。
中村氏は、学界の人ですからやはり三十七道品や三学の詳細などは後世のドグマだと考えていたのだと思います。権威あるパーリテキストソサイエティー(PTS)もスッタニパータが大好きですから、学界はみなこのような見解のようです。だから、学界で最古の文献ともてはやされるスッタニパータや相応部の偈やダンマパダばかり出しています。「偈だったら古いだろう」という考えはあまりにも安直すぎます。ブッダが単なる素朴な道徳論を説いて死んだというのは、あり得ないことです。ただ学界が神通を認めるという道理もありませんが。福来友吉氏は、その辺立派だったと思います。千里眼などを自ら体験するために、密教の加行に入りましたから。もちろん学界から追放されましたが。生計のために知性を汚すのは、堕落です。

僕は自然科学における学界の研究は信頼できると思います。でも、人文科学における学界の研究はよくよく調べてから受け入れた方がいいと思います。

僕は上座部の長老のようになりたい人は上座部の長老の話を真剣に聞くでしょうし、学界の権威のようになりたい人は学界の権威の人の記述を真剣に読むと思います。「何のために学んでいるか」、それがその人の限界だと思います。

パーリ語は僕もよくわかりません。単語がわかるだけでずいぶん意味がわかるので、苦手意識は持たずに気楽に慣れてください。


以下のアドレスに発音のことが書いてありますから、これだけで十分だと思います。


・「まんどぅーかのパーリ語ページ」
 http://www.manduuka.net/pali/basic/moji.htm

優良サイトです。

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