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原始仏典コミュの長部経典 第22経 『大念処経』5 法念処 滅諦・道諦

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(『原始仏典 【第二巻】 長部経典②』[春秋社]P406から)



[苦しみの消滅というすぐれた真理とはなにか]
 二〇、「また、修行僧たちよ、苦しみの消滅というすぐれた真理とはなにか。それは、この愛執にたいし、残りなく欲を離れ、滅し、棄て、放棄し、解き放たれ、執着のよりどころとしないことである。
 では、修行僧たちよ、この愛執はどこで捨てられ、どこで滅びるのだろうか。なんであれこの世のなかには好ましいもの、楽しいものがあり、そこでその愛執が棄てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである。
 では、この世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものとはなにか。
 眼はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである。
 耳はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 鼻はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 舌はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 身体はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 こころはこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである。
 色かたちはこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 音声はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 香りはこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 味わいはこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 触知できるものはこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 こころの対象はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである。
 眼による識別はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 耳による識別はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 鼻による識別はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 舌による識別はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 身体による識別はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 こころによる識別はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである。
 眼による接触はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 耳による接触はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 鼻による接触はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 舌による接触はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 身体による接触はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 こころによる[311]接触はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである。
 眼による接触から生じる感覚的感受はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 耳による接触から生じる感覚的感受はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 鼻による接触から生じる感覚的感受はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 舌による接触から生じる感覚的感受はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 身体による接触から生じる感覚的感受はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 こころによる接触から生じる感覚的感受はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである。
 色かたちの表象作用はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 音声の表象作用はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 香りの表象作用はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 味わいの表象作用はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 触知できるものの表象作用はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 こころの対象の表象作用はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである。
 色かたちへの意志作用はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 音声への意志作用はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 香りへの意志作用はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 味わいへの意志作用はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 触知できるものへの意志作用はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 こころの対象への意志作用はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである。
 色かたちへの愛執はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 音声への愛執はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 香りへの愛執はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 味わいへの愛執はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 触知できるものへの愛執はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 こころの対象への愛執はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである。
 色かたちへの粗い考察はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 音声への粗い考察はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 香りへの粗い考察はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 味わいへの粗い考察はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 触知できるものへの粗い考察はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 こころの対象への粗い考察はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである。
 色かたちへの微細な考察はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 音声への微細な考察はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 香りへの微細な考察はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 味わいへの微細な考察はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 触知できるものへの微細な考察はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。
 こころの対象への微細な考察はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである。
 これが、修行僧たちよ、苦しみの消滅というすぐれた真理といわれるのである」

[苦しみの消滅にいたる道とすぐれた真理とはなにか]
 二一、「また、修行僧たちよ、苦しみの消滅にいたる道というすぐれた真理とは、いったいなにか。それは、八種よりなるすぐれた道(八聖道)である。すなわち、正しい見解(正見)、正しい思考(正思惟)、正しいことば(正語)、正しい行動(正業)、正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい念い(正念)、正しい精神統一(正定)である。
 では、修行僧たちよ、正しい見解とは、いったいなにか。
[312]じつに、修行僧たちよ、苦しみについて知ること、苦しみの原因を知ること、苦しみの消滅を知ること、苦しみの消滅にいたる道を知ること、これが、修行僧たちよ、正しい見解であるといわれるのである。
 では、修行僧たちよ、正しい思考とは、いったいなにか。
 出離への思考、怒りのない思考、傷害のない思考、これが、修行僧たちよ、正しい思考であるといわれるのである。
 では、修行僧たちよ、正しいことばとは、いったいなにか。
 偽りのことばから離れること、中傷のことばから離れること、粗暴なことばから離れること、無意味な飾ったことばから離れること、これが修行僧たちよ、正しいことばであるといわれるのである。  
 では、修行僧たちよ、正しい行動とは、いったいなにか。
 生きものを殺すことから離れること、与えられないものを取ることから離れること、淫らな行いから離れること、これが、修行僧たちよ、正しい行動であるといわれるのである。
 では、修行僧たちよ、正しい生活とは、いったいなにか。
 ここに、修行僧たちよ、立派な信徒が間違った生活を捨てること、正しい生活をして生きて行くこと、これが、修行僧たちよ、正しい行動であるといわれるのである。
 では、修行僧たちよ、正しい努力とは、いったいなにか。
 ここに、修行僧たちよ、修行僧はいまだ生じていない悪いこと、善くないことがらが、これから起きないようにするために意欲を起こし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。すでに生じてしまった悪いこと、善くないことがらを、断つために意欲を起こし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。いまだ生じていない善いことがらが、これから生じるようにするために意欲を起こし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。すでに生じている善いことがらを、存続し、忘れてしまわずに、[313]増大し、拡大し、修行が完成されるように、意欲を起こし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。これが、修行僧たちよ、正しい努力であるといわれるのである。
 では、修行僧たちよ、正しい念いとは、いったいなにか。
 ここに、修行僧たちよ、修行僧は身体について身体を観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去すべきである。感受に関して[感受を観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去すべきである]。こころについて[こころを観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去すべきである]。もろもろの事象についてもろもろの事象を観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去すべきである。これが、修行僧たちよ、正しい念いであるといわれるのである。
 では、修行僧たちよ、正しい精神統一とは、いったいなにか。
 ここに、修行僧たちよ、修行僧はさまざまな欲望を離れ、善くないことがらから離れ、粗い考察と微細な考察とをともない、遠ざかり離れることから生ずる喜びと楽しみの瞑想の第一段階(初禅)に達しているのである。
 粗い考察と微細な考察とを静めることから内心が清浄になり、心を統一して、粗い考察と微細な考察とをともなわない精神統一から生じる喜びと楽しみの瞑想の第二段階(第二禅)に達しているのである。
 喜びを離れて、心の平静があり、よく気をつけて、正しく自覚し、身体によって楽しみを感受しながら、それを、聖者たちが「心の平静があり、よく気をつけていて、楽しみに留まっている」と説く瞑想の第三段階(第三禅)に達しているのである。
 楽しみを捨て、苦しみを捨て、以前に経験した快さと憂いとを滅しているために苦しみもなく、楽しみもない、心の平静と気をつけることによって浄められている瞑想の第四段階(四禅)に達しているのである。これが、修行僧たちよ、正しい念いであるといわれるのである。
 これが、修行僧たちよ、苦しみの消滅にいたる道というすぐれた真理といわれるのである。
 このように、内に[自分自身の]もろもろの事象についてもろもろの事象を観察し、また、外に[他人の]もろもろの事象についてもろもろの事象を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]もろもろの事象についてもろもろの事象を観察していくのである。また、もろもろの事象のなかで生起してくる現象を観察し、また、もろもろの事象のなかで消滅する現象を観察し、また、もろもろの事象のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、『ただ事象のみが存在する』という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにしてもろもろの事象すなわち五つの蓋について事象を観察するのである」

[四種の心の専注の結果]
 二二、「修行僧たちよ、この四種の心の専注を、このように七年間修める人はだれでも、二つの結果のうちどちらかの結果が期待できるのである。すなわち、現世における、最高の智慧(阿羅漢の智慧)か、あるいは生存の根元が残っているならば、この世に還ってくることのないもの(不還)が期待されるのである。
 修行僧たちよ、七年はともかくとして、この四種の心の専注を、誰であっても、このように六年間修める人は、[二つの結果のうちどちらかの結果が期待できるのである。すなわち、現世における、最高の智慧か、あるいは生存の根元が残っているならば、この世に還ってくることのないものが期待されるのである。
 修行僧たちよ、六年はともかくとして、この四種の心の専注を、誰であっても、このように]五年間修める人は、[二つの結果のうちどちらかの結果が期待できるのである。すなわち、現世における、最高の智慧か、あるいは生存の根元が残っているならば、この世に還ってくることのないものが期待されるのである。
 修行僧たちよ、五年はともかくとして、この四種の心の専注を、誰であっても、このように]四年間修める人は、[二つの結果のうちどちらかの結果が期待できるのである。すなわち、現世における、最高の智慧か、あるいは生存の根元が残っているならば、この世に還ってくることのないものが期待されるのである。
 修行僧たちよ、四年はともかくとして、この四種の心の専注を、誰であっても、このように]三年間修める人は、[二つの結果のうちどちらかの結果が期待できるのである。すなわち、現世における、最高の智慧か、あるいは生存の根元が残っているならば、この世に還ってくることのないものが期待されるのである。
 修行僧たちよ、三年はともかくとして、この四種の心の専注を、誰であっても、このように]二年間修める人は、[二つの結果のうちどちらかの結果が期待できるのである。すなわち、現世における、最高の智慧か、あるいは生存の根元が残っているならば、この世に還ってくることのないものが期待されるのである。
 修行僧たちよ、二年はともかくとして、この四種の心の専注を、誰であっても、このように]一年間修める人は、二つの結果のうちどちらかの結果が期待できるのである。すなわち、現世における、最高の智慧か、あるいは生存の根元が残っているならば、この世に還ってくることのないものが期待されるのである。
 修行僧たちよ、一年はともかくとして、この四種の心の専注を、誰であっても、このように七ヶ月修める人は、二つの結果のうちどちらかの結果が期待できるのである。すなわち、現世における、最高の智慧か、あるいは生存の根元が残っているならば、この世に還ってくることのないものが期待されるのである。
 修行僧たちよ、七ヶ月はともかくとして、この四種の心の専注を、誰であっても、このように六ヶ月修める人は、[二つの結果のうちどちらかの結果が期待できるのである。すなわち、現世における、最高の智慧か、あるいは生存の根元が残っているならば、この世に還ってくることのないものが期待されるのである。
 修行僧たちよ、六ヶ月はともかくとして、この四種の心の専注を、誰であっても、このように]五ヶ月[修める人は、二つの結果のうちどちらかの結果が期待できるのである。すなわち、現世における、最高の智慧か、あるいは生存の根元が残っているならば、この世に還ってくることのないものが期待されるのである。
 修行僧たちよ、五ヶ月はともかくとして、この四種の心の専注を、誰であっても、このように]四ヶ月[修める人は、二つの結果のうちどちらかの結果が期待できるのである。すなわち、現世における、最高の智慧か、あるいは生存の根元が残っているならば、この世に還ってくることのないものが期待されるのである。
 修行僧たちよ、四ヶ月はともかくとして、この四種の心の専注を、誰であっても、このように]三ヶ月[修める人は、二つの結果のうちどちらかの結果が期待できるのである。すなわち、現世における、最高の智慧か、あるいは生存の根元が残っているならば、この世に還ってくることのないものが期待されるのである。
 修行僧たちよ、三ヶ月はともかくとして、この四種の心の専注を、誰であっても、このように]二ヶ月[修める人は、二つの結果のうちどちらかの結果が期待できるのである。すなわち、現世における、最高の智慧か、あるいは生存の根元が残っているならば、この世に還ってくることのないものが期待されるのである。
 修行僧たちよ、二ヶ月はともかくとして、この四種の心の専注を、誰であっても、[315]このように]一ヶ月[修める人は、二つの結果のうちどちらかの結果が期待できるのである。すなわち、現世における、最高の智慧か、あるいは生存の根元が残っているならば、この世に還ってくることのないものが期待されるのである。
 修行僧たちよ、一ヶ月はともかくとして、この四種の心の専注を、誰であっても、このように]半月修める人は、二つの結果のうちどちらかの結果が期待できるのである。すなわち、現世における、最高の智慧か、あるいは生存の根元が残っているならば、この世に還ってくることのないものが期待されるのである。
 修行僧たちよ、半月はともかくとして、この四種の心の専注を、誰であっても、このように七日修める人は、二つの結果のうちどちらかの結果が期待できるのである。すなわち、現世における、最高の智慧か、あるいは生存の根元が残っているならば、この世に還ってくることのないものが期待されるのである。
『修行僧たちよ、生きものたちを清浄にするために、さまざまな愁いと悲しみをのりこえるために、苦痛と憂いを消滅させるために、正しい道を修得するために、ニッバーナの実現のため、このただ一つの道があるのである。つまり、それは四種の心の専注である』と最初に述べたのは、このことに関して説いたのである」と尊師は語った。そして、この修行僧たちは、尊師の説かれたことを聞いてたいへん喜んだ。
『マハー・サティパッターナ経』おわり


      『原始仏典【第二巻】長部経典②』春秋社 P406-418
 




・正命のところで「これが正しい行動である」というのは「これが正しい生活である」の誤植だと思います。
・正定のところで「これが正しい念いである」というのは「これが正しい精神統一である」の誤植だと思います。




以上で、大念処経は終わりです。

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