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原始仏典コミュの長部経典 第22経 『大念処経』3 法念処 蓋・蘊・処・覚支

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(『原始仏典【第二巻】長部経典②』[春秋社]P388から)



[五つの蓋についての事象の観察]
 一三、それでは、修行僧たちよ、修行僧はどのようにしてもろもろの事象についてもろもろの事象を観察するだろうか。ここに、修行僧たちよ、修行僧は五つの蓋について事象を観察するのである。それでは、修行僧たちよ、修行僧はどのようにして五つの蓋について事象を観察するのであろうか」

[もろもろの事象についてもろもろの事象を観察すること]
「ここに、修行僧たちよ、修行僧は、
 内に欲望があるときに、『わたしの内には欲望がある』と知り、内に欲望がないときに、『わたしの内には欲望がない』と知るのである。
 また、いまだ生じていない欲望が生じるままにそれを知り、すでに生じている欲望が滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた欲望が未来に生じることがないということを知るのである。
 あるいは 内に怒りがあるときに、『わたしの内には怒りがある』と知り、内に怒りがないときに、『わたしの内には怒りがない』と知るのである。
 また、いまだ生じていない怒りが生じるままにそれを知り、すでに生じている怒りが滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた怒りが未来に生じることがないということを知るのである。
 あるいは内にものうさとぼんやりした鈍さがあるときに、『わたしの内にはものうさとぼんやりした鈍さがある』と知り、内にものうさとぼんやりした鈍さがないときに、『わたしの内にはものうさとぼんやりした鈍さがない』と知るのである。
 また、いまだ生じていないものうさとぼんやりした鈍さが生じるままにそれを知り、すでに生じているものうさとぼんやりした鈍さが滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされたものうさとぼんやりした鈍さが未来に生じることがないということを知るのである。
 あるいは内に心のざわつきと後悔があるときに、『わたしの[301]内には心のざわつきと後悔がある』と知り、内に心のざわつきと後悔がないときに、『わたしの内には心のざわつきと後悔がない』と知るのである。
 また、いまだ生じていない心のざわつきと後悔が生じるままにそれを知り、すでに生じている心のざわつきと後悔が滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた心のざわつきと後悔が未来に生じることがないということを知るのである。
 あるいは内に疑惑があるときに、『わたしの内には疑惑がある』と知り、内に疑惑がないときに、『わたしの内には疑惑がない』と知るのである。
 また、いまだ生じていない疑惑が生じるままにそれを知り、すでに生じている疑惑が滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた疑惑が未来に生じることがないということを知るのである。
 このように、内に[自分自身の]もろもろの事象についてもろもろの事象を観察し、また、外に[他人の]もろもろの事象についてもろもろの事象を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]もろもろの事象についてもろもろの事象を観察していくのである。また、もろもろの事象のなかで生起してくる現象を観察し、また、もろもろの事象のなかで消滅する現象を観察し、また、もろもろの事象のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、『ただ事象のみが存在する』という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにしてもろもろの事象すなわち五つの蓋について事象を観察するのである」

[五つの執着の要素についてもろもろの事象を観察する]
 一四、「またさらに修行僧たちよ、修行僧はもろもろの事象のすなわち[個人存在を構成する]五つの執着の要素(五取蘊)についてもろもろの事象を観察するのである。それでは、修行僧たちよ、修行僧はどのようにしてもろもろの事象すなわち五つの執着の要素について事象を観察するのであろうか。
 ここに、修行僧たちよ、修行僧は『物質的なもの(色)とはこのようなものである。物質的なものの生起とはこのようである。物質的なものの消滅とはこのようである。感覚的感受(受)はこのようなものである。感覚的感受の生起とはこのようである。感覚的感受の消滅とはこのようである。表象作用(想)とはこのようなものである。表象作用の生起とはこのようである。表象作用の消滅とはこのようである。潜在的形成力(行)とはこのようなものである。[302]潜在的形成力の生起とはこのようである。潜在的形成力の消滅とはこのようである。識別作用(識)とはこのようなものである。識別作用の生起とはこのようである。識別作用の消滅とはこのようである』と、このように、内に[自分自身の]もろもろの事象についてもろもろの事象を観察し、また、外に[他人の]もろもろの事象についてもろもろの事象を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]もろもろの事象についてもろもろの事象を観察していくのである。また、もろもろの事象のなかで生起してくる現象を観察し、また、もろもろの事象のなかで消滅する現象を観察し、また、もろもろの事象のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、『ただ事象のみが存在する』という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにしてもろもろの事象すなわち五つの蓋について事象を観察するのである」

[六つの内外の認識領域についてもろもろの事象を観察する]
 一五、「またさらに修行僧たちよ、修行僧はもろもろの事象すなわち六つの内外の認識の領域(六処)についてもろもろの事象を観察するのである。それでは、修行僧たちよ、修行僧はどのようにしてもろもろの事象すなわち六つの内外の認識の領域について事象を観察するのであろうか。
 ここに、修行僧たちよ、修行僧は、
 眼を知り、色かたちを知り、またその二つによって生じた束縛を知るのである。いまだ生じていない束縛が生じるままにそれを知り、すでに生じている束縛が滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた束縛が未来に生じることがないということを知るのである。
 [また、]耳を知り、音声を知り、[またその二つによって生じた束縛を知るのである。いまだ生じていない束縛が生じるままにそれを知り、すでに生じている束縛が滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた束縛が未来に生じることがないということを知るのである。
 また、]鼻を知り、香りを知り、[またその二つによって生じた束縛を知るのである。いまだ生じていない束縛が生じるままにそれを知り、すでに生じている束縛が滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた束縛が未来に生じることがないということを知るのである。
 また、]舌を知り、味わいを知り、[またその二つによって生じた束縛を知るのである。いまだ生じていない束縛が生じるままにそれを知り、すでに生じている束縛が滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた束縛が未来に生じることがないということを知るのである。
 また、]身体を知り、触れられるものを知り、[またその二つによって生じた束縛を知るのである。いまだ生じていない束縛が生じるままにそれを知り、すでに生じている束縛が滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた束縛が未来に生じることがないということを知るのである。
 また、]心を知り、心の対象を知り、またその[303]二つによって生じた束縛を知るのである。いまだ生じていない束縛が生じるままにそれを知り、すでに生じている束縛が滅ぼされるままにそれを知り、すでに滅ぼされた束縛が未来に生じることがないということを知るのである。
 このように、内に[自分自身の]もろもろの事象についてもろもろの事象を観察し、また、外に[他人の]もろもろの事象についてもろもろの事象を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]もろもろの事象についてもろもろの事象を観察していくのである。また、もろもろの事象のなかで生起してくる現象を観察し、また、もろもろの事象のなかで消滅する現象を観察し、また、もろもろの事象のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、『ただ事象のみが存在する』という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにしてもろもろの事象すなわち五つの蓋について事象を観察するのである」

[七つのさとりを得るためのことがらについて、もろもろの事象を観察する]
 一六、「またさらに修行僧たちよ、修行僧はもろもろの事象すなわち七つのさとりを得るためのことがら(七覚支)についてもろもろの事象を観察するのである。それでは、修行僧たちよ、修行僧はどのようにしてもろもろの事象すなわち七つのさとりを得るためのことがらについて事象を観察するのであろうか。ここに修行僧たちよ、
 修行僧は内に念ずるというさとりを得るためのことがらがあるときに、『わたしの内には念ずるというさとりを得るためのことがらがある』と知り、内に念ずるというさとりを得るためのことがらがないときに、『わたしの内には念ずるというさとりを得るためのことがらがない』と知るのである。また、いまだ生じていない念ずるというさとりを得るためのことがらが生じるままにそれを知り、すでに生じている念ずるというさとりを得るためのことがらを修行して完成するということを知るのである。
 [また、ここに、修行僧たちよ、修行僧は]内に教えの選択(択法)というさとりを得るためのことがらがあるときに、[『わたしの内には教えの選択というさとりを得るためのことがらがある』と知り、内に教えの選択というさとりを得るためのことがらがないときに、『わたしの内には教えの選択というさとりを得るためのことがらがない』と知るのである。
 また、いまだ生じていない教えの選択というさとりを得るためのことがらが生じるままにそれを知り、すでに生じている教えの選択というさとりを得るためのことがらを修行して完成するということを知るのである。
 また、]内に努力(精進)というさとりを得るためのことがらがあるときに、[『わたしの内には努力というさとりを得るためのことがらがある』と知り、内に努力というさとりを得るためのことがらがないときに、『わたしの内には努力というさとりを得るためのことがらがない』と知るのである。
 また、いまだ生じていない努力というさとりを得るためのことがらが生じるままにそれを知り、すでに生じている努力というさとりを得るためのことがらを修行して完成するということを知るのである。
 また、]内に喜び(喜)というさとりを得るためのことがらがあるときに、[『わたしの内には喜びというさとりを得るためのことがらがある』と知り、内に喜びというさとりを得るためのことがらがないときに、『わたしの内には喜びというさとりを得るためのことがらがない』と知るのである。
 また、いまだ生じていない喜びというさとりを得るためのことがらが生じるままにそれを知り、すでに生じている喜びというさとりを得るためのことがらを修行して完成するということを知るのである。
 また、]内に心身の安堵(軽安)というさとりを得るためのことがらがあるときに、[『わたしの内には心身の安堵というさとりを得るためのことがらがある』と知り、内に心身の安堵というさとりを得るためのことがらがないときに、『わたしの内には心身の安堵というさとりを得るためのことがらがない』と知るのである。
 また、いまだ生じていない心身の安堵というさとりを得るためのことがらが生じるままにそれを知り、すでに生じている心身の安堵というさとりを得るためのことがらを修行して完成するということを知るのである。
 また、]内に精神統一(定)というさとりを得るためのことがらがあるときに、[『わたしの内には精神統一というさとりを得るためのことがらがある』と知り、内に精神統一というさとりを得るためのことがらがないときに、『わたしの内には精神統一というさとりを得るためのことがらがない』と知るのである。
 また、いまだ生じていない精神統一というさとりを得るためのことがらが生じるままにそれを知り、すでに生じている精神統一というさとりを得るためのことがらを修行して完成するということを知るのである。
 また、]内に心の平静(捨)というさとりを得るためのことがらがあるときに、『わたしの内には心の平静というさとりを得るためのことがらがある』と知り、内に心の平静というさとりを得るためのことがらがないときに、『わたしの内には心の平静というさとりを得るためのことがらがない』と知るのである。
 また、いまだ生じていない心の平静というさとりを得るためのことがらが生じるままにそれを知り、すでに生じている心の平静というさとりを得るためのことがらを修行して完成するということを知るのである。
 このように、内に[自分自身の]もろもろの事象についてもろもろの事象を観察し、また、外に[他人の]もろもろの事象についてもろもろの事象を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]もろもろの事象についてもろもろの事象を観察していくのである。また、もろもろの事象のなかで生起してくる現象を観察し、また、もろもろの事象のなかで消滅する現象を観察し、また、もろもろの事象のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、『ただ事象のみが存在する』という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにしてもろもろの事象すなわち五つの蓋について事象を観察するのである」

     『原始仏典 【第二巻】 長部経典②』春秋社 P388-396





 
・本文中の見出し文である[五つの蓋についての事象の観察]と[もろもろの事象についてもろもろの事象を観察すること]の二つが入れ替わってしまっていると思います。

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