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原始仏典コミュの長部経典 第22経 『大念処経』1 身念処

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七科三十七道品の第一である「四念処」の具体的な修行方法の記述がある「長部経典第二二経 大念処経」を『原始仏典【第二巻】長部経典②』(春秋社)のP375-418から、僕自身による注などを一切挟まずに本文そのまま全引用します。この経典は非常に有名な経典であり、同様に修行方法もまた非常に重要です。



 





     『原始仏典【第二巻】長部経典②』


     中村元 監修
     森祖道・浪花宣明 編集
     中村元・渡辺研二・岡野潔・入山淳子 訳



(前面の帯の文)

          創業85周年記念出版


   王と僧、そして神々の対話 解脱へと誘(いざな)う教え・・・

    さまざまな比喩を用い、民衆を仏の道に導こうとした
        ブッダのこころが、今、よみがえる


          最新の研究成果にもとづき、
     流麗なわかりやすい訳文で贈る現代語訳の決定版!

         春秋社◎定価(本体6500円+税)










     第二二経  心の専注の確立――大念処経       渡辺研二







  「長阿含経」には相当漢訳が含まれていないが、本経の内容がちょうど『中部』
  第一〇経(Satipaṭṭhāna-sutta)と第一四一経(Saccavibhaṅga-sutta)とを合わせた
  状態であるため、これらの経の相当漢訳が本経の漢訳経典となる。内容はさと
  りを得るための四種の修行法(四種の心の専注。四念処観)が詳しく説明され
  ている。この四念処観は仏教の重要な修行方法として、原始仏典のあちらこち
  らで見いだされるが、本経がもっとも基本的なものである。経の後半には、こ
  の観法に必要な「四つのすぐれた真理」(四聖諦)の教説を加えている。数ある
  仏教聖典のうちでも仏道修行にかんするもっとも重要な経典の一つとみなされ
  ている。








[290]一、わたしはこのように聞いた。
 あるとき世尊はクル国におられた。カンマーサッダンマという名のクル国の町があり、そこで、尊師は修行僧たちに「修行僧たちよ」と呼びかけられた。すると「尊き方よ」と、その修行僧たちは尊師にこたえた。そこで、尊師はこのように告げた。

[四種の心の専注]
「修行僧たちよ、生きものたちを清浄にするために、さまざまな愁いと悲しみをのりこえるために、苦痛と憂いを消滅させるために、正しい道を修得するために、ニッバーナの実現のため、このただ一つの道がある。つまり、それは四種の心の専注(四念処)である。
 四種とはなんであろうか。修行僧たちよ、ここに、
 修行僧は身体について身体を観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。
 感受について感受を観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。
 心について心を観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。
 もろもろの事象についてもろもろの事象を観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい」

[身体について身体を観察する]
[291]二、「それでは、修行僧たちよ、どのようにして身体について身体を観察するのだろうか。ここに、修行僧たちよ、修行僧は森にいき、あるいは樹木の根元にいき、あるいは空家に入って、足を組んで坐り、姿勢を真っすぐに正して、念ずることを目の前に据えて坐るのである。かれは気をつけながら息を吸い、気をつけながら息をはく。あるいは、長く息を吸えば『わたしは長く息を吸っている』と知り、また長く息をはけば『わたしは長く息をはいている』と知る。また短く息を吸えば『わたしは短く息を吸っている』と知り、また短く息をはけば『わたしは短く息をはいている』と知るのである。『全身を意識して、わたしは息を吸おう』とおもって実修し、また『全身を意識して、わたしは息をはこう』とおもって実修する。また、『身体の活動を静めて、わたしは息を吸おう』とおもって実修し、『身体の活動を静めて、わたしは息をはこう』とおもって実修するのである。修行僧たちよ、あたかも熟練した轆轤(ろくろ)匠、または轆轤匠の弟子が長く轆轤のひもを引っ張れば『わたしは長く引いている』と知り、短く引っ張れば『わたしは短く引いている』と知るように、長く息を吸えば『わたしは長く息を吸っている』と知り、また長く息をはけば『わたしは長く息をはいている』と知る。また短く息を吸えば『わたしは短く息を吸っている』と知り、また短く息をはけば『わたしは短く息をはいている』と知るのである。『全身を意識して、わたしは息を吸おう』とおもって実修し、また『全身を意識して、わたしは息をはこう』とおもって実修する。また、『身体の活動を静めて、わたしは息を吸おう』とおもって実修し、『身体の活動を静めて、わたしは息をはこう』とおもって実修するのである。
[292]このように、内に[自分自身の]身体について身体を観察し、また、外に[他人の]身体について身体を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]身体について身体を観察していくのである。また、身体のなかで生起してくる現象を観察し、また、身体のなかで消滅する現象を観察し、また、身体のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、「ただ身体のみが存在する」という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのである。
 三、また、つぎに修行僧たちよ、修行僧は歩いていけば『わたしは歩いている』と知り、また、立っていれば『わたしは立っている』と知るのである。また、坐っていれば『わたしは坐っている』と知り、臥せていれば『わたしは臥せている』と知るのである。また、いかなる状態であれ、かれの身体がおかれている状態のとおりに、それを知るのである。このように、内に[自分自身の]身体について身体を観察し、また、外に[他人の]身体について身体を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]身体について身体を観察していくのである。また、身体のなかで生起してくる現象を観察し、また、身体のなかで消滅する現象を観察し、また、身体のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、「ただ身体のみが存在する」という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのである。
 四、またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、出ていくときも、もどるときにも、よく気をつけて行なっている。前を見るときにも、後ろを見るときにも、よく気をつけて行なっている。腕を縮めるときも、伸ばすときも、よく気をつけて行なっている。大衣や衣鉢をとるときにも、よく気をつけて行なっている。食し、飲み、噛み、味わうときにも、よく気をつけて行なっている。大小便をするときも、よく気をつけて行なっている。歩いていき、立ち、坐り、眠り、目覚め、語り、沈黙しているときにも、よく気をつけて行なっているのである。[293]このように、内に[自分自身の]身体について身体を観察し、また、外に[他人の]身体について身体を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]身体について身体を観察していくのである。また、身体のなかで生起してくる現象を観察し、また、身体のなかで消滅する現象を観察し、また、身体のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、「ただ身体のみが存在する」という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのである。
 五、またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、髪の毛より下、足の裏より上のこの身体は皮膚で覆われており、種々さまざまな不浄物で満たされていると観察するのである。つまり、『この身体には、髪、毛、爪、歯、皮、肉、筋、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、肺、腸、腸間膜、胃、大便、胆汁、痰、膿、血、汗、脂肪、涙、血清、唾液、鼻汁、関節骨液、小便がある』と。修行僧たちよ、これはちょうど、両方に口のある袋のなかに、いろいろな種類の穀物、すなわちサーリ籾米、ヴィーヒ籾米、緑豆、豆、胡麻、玄米が一杯に入っているようなものである。見分ける眼のある人が、それを開けて『これはサーリ籾米である。これはヴィーヒ籾米である。これは緑豆である。これは豆である。これは胡麻である。これは玄米である』と観察するようなものである。修行僧たちよ、このように修行僧は、髪の毛より下、足の裏より上のこの身体は皮膚で覆われており、種々さまざまな不浄物で満たされていると観察するのである。つまり、『この身体には、髪、毛、爪、歯、皮、肉、筋、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、肺、腸、腸間膜、胃、大便、胆汁、痰、膿、血、汗、脂肪、涙、血清、唾液、鼻汁、関節骨液、小便がある』と。このように、内に[自分自身の]身体について身体を観察し、また、外に[他人の]身体について身体を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]身体について身体を観察していくのである。また、身体のなかで生起してくる現象を観察し、また、身体のなかで消滅する現象を観察し、また、身体のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、「ただ身体のみが存在する」という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのである。
 六、またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、この身体が、あるがまま、配置されているままに、要素ごとに観察するのである。つまり『身体には、地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある』と。修行僧たちよ、これはあたかも、腕のよい牛の屠殺人の親方、あるいは牛の屠殺人の弟子が牛を殺し、その肉片を、大道の四辻で、分割して並べて坐っているようなものである。修行僧たちよ、修行僧は、この身体が、あるがまま、配置されているままに、要素ごとに観察するのである。つまり『身体には、地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある』と。このように、内に[自分自身の]身体について身体を観察し、また、外に[他人の]身体について身体を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]身体について身体を観察していくのである。また、身体のなかで生起してくる現象を観察し、また、身体のなかで消滅する現象を観察し、また、身体のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、「ただ身体のみが存在する」という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのである」

[墓場の死体の観察]
 七、「またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体が、死後一日、あるいは二日、あるいは三日と経つうちに、膨張し、青黒くなり、腐ってくるのを見るように、かれはこの身体を『この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、このような運命を免れえないものである』と見るのである。このように、内に[自分自身の]身体について身体を観察し、また、外に[他人の]身体について身体を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]身体について身体を観察していくのである。また、身体のなかで生起してくる現象を観察し、また、身体のなかで消滅する現象を観察し、また、身体のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、「ただ身体のみが存在する」という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのである。
 八、またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体が、カラスに啄まれ、あるいは鷹に啄まれ、あるいは鷲に啄まれ、あるいは犬に食い荒らされ、あるいは野犬に食い荒らされ、あるいは種々の虫に食われているのを見るように、かれはこの身体を『この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、このような運命を免れえないものである』と見るのである。[296]このように、内に[自分自身の]身体について身体を観察し、また、外に[他人の]身体について身体を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]身体について身体を観察していくのである。また、身体のなかで生起してくる現象を観察し、また、身体のなかで消滅する現象を観察し、また、身体のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、「ただ身体のみが存在する」という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのである。
 九、またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体の、骸骨に血や肉が付いて、筋がつながっているのを見るのように、[かれはこの身体を『この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、このような運命を免れえないものである』と見るのである。このように、内に[自分自身の]身体について身体を観察し、また、外に[他人の]身体について身体を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]身体について身体を観察していくのである。また、身体のなかで生起してくる現象を観察し、また、身体のなかで消滅する現象を観察し、また、身体のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、「ただ身体のみが存在する」という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのである。
 またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、]ちょうど墓場に棄てられた死体の、骸骨にすでに肉はなく、血だけ付いて筋がつながっているのを見るように、[かれはこの身体を『この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、このような運命を免れえないものである』と見るのである。このように、内に[自分自身の]身体について身体を観察し、また、外に[他人の]身体について身体を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]身体について身体を観察していくのである。また、身体のなかで生起してくる現象を観察し、また、身体のなかで消滅する現象を観察し、また、身体のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、「ただ身体のみが存在する」という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのである。
 またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、]ちょうど墓場に棄てられた死体の、骸骨に血や肉はすでになく筋だけがつながっているのを見るように、[かれはこの身体を『この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、このような運命を免れえないものである』と見るのである。このように、内に[自分自身の]身体について身体を観察し、また、外に[他人の]身体について身体を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]身体について身体を観察していくのである。また、身体のなかで生起してくる現象を観察し、また、身体のなかで消滅する現象を観察し、また、身体のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、「ただ身体のみが存在する」という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのである。
 またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、]ちょうど墓場に棄てられた死体の、骨が解け散って、そこに手の骨、そこに足の骨、そこに脛の骨、そこに腿の骨、そこに腰の骨、[297]そこに背骨、そこに頭蓋骨とばらばらになってあちらこちらに散乱しているのを見たときに、かれはこの身体を『この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、このような運命を免れえないものである』と見るのである。このように、内に[自分自身の]身体について身体を観察し、また、外に[他人の]身体について身体を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]身体について身体を観察していくのである。また、身体のなかで生起してくる現象を観察し、また、身体のなかで消滅する現象を観察し、また、身体のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、「ただ身体のみが存在する」という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのである。
 一〇、またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体の、骨が白い貝と同じ色になっているのを見たときに、[かれはこの身体を『この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、このような運命を免れえないものである』と見るのである。このように、内に[自分自身の]身体について身体を観察し、また、外に[他人の]身体について身体を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]身体について身体を観察していくのである。また、身体のなかで生起してくる現象を観察し、また、身体のなかで消滅する現象を観察し、また、身体のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、「ただ身体のみが存在する」という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのである。
 またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、]ちょうど墓場に棄てられた死体の、骨が積み重なって一年経過したものを見たときに、[かれはこの身体を『この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、このような運命を免れえないものである』と見るのである。このように、内に[自分自身の]身体について身体を観察し、また、外に[他人の]身体について身体を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]身体について身体を観察していくのである。また、身体のなかで生起してくる現象を観察し、また、身体のなかで消滅する現象を観察し、また、身体のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、「ただ身体のみが存在する」という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのである。
 またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、]ちょうど墓場に棄てられた死体の、骨が腐食して粉々になったものを見たときに、かれはこの身体を『この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、このような運命を免れえないものである』と見るのである。このように、内に[自分自身の]身体について身体を観察し、また、外に[他人の]身体について身体を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]身体について身体を観察していくのである。また、身体のなかで生起してくる現象を観察し、また、身体のなかで消滅する現象を観察し、また、身体のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、「ただ身体のみが存在する」という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのである」

     『原始仏典【第二巻】長部経典②』春秋社 P375-386

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