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原始仏典コミュの長部経典 第10経 『スバ経』3 聖なる精神統一 四禅

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(『原始仏典 第一巻 長部経典①』春秋社 P458から)


   第二章

[精神統一のまとまり]
 一、「では、アーナンダよ。かの尊者ゴータマが賞賛し、そこに多くの人を導き、住まわしめ、安住せしめた聖なる精神統一のまとまりとはなにか」

[感官の門を護る]
「バラモンの子よ。どのようにして比丘は感官の門を護るのか[を説く]。バラモンの子よ。比丘は眼でいろかたちを見ても、[対象を]異種のものと区別せず、また同種のもの同志の違いを意識しない。この眼という感官が制御されていない場合には、貪欲、憂鬱、邪悪なよくない事柄が降りかかるので、それの制御のために行動する。[すなわち]眼という感官を制御する。眼という感官において、制御をする。耳で音を聞いても、[対象を異種のものと区別せず、また同種のもの同志の違いを意識しない。この耳という感官が制御されていない場合には、貪欲、憂鬱、邪悪なよくない事柄が降りかかるので、それの制御のために行動する。すなわち耳という感官を制御する。耳という感官において、制御をする。]鼻で香をかいでも、[対象を異種のものと区別せず、また同種のもの同志の違いを意識しない。この鼻という感官が制御されていない場合には、貪欲、憂鬱、邪悪なよくない事柄が降りかかるので、それの制御のために行動する。すなわち鼻という感官を制御する。鼻という感官において、制御をする。]舌で味を感じても、[対象を異種のものと区別せず、また同種のもの同志の違いを意識しない。この舌という感官が制御されていない場合には、貪欲、憂鬱、邪悪なよくない事柄が降りかかるので、それの制御のために行動する。すなわち舌という感官を制御する。舌という感官において、制御をする。]身体で触れられるものに触れても、[対象を異種のものと区別せず、また同種のもの同志の違いを意識しない。この身体という感官が制御されていない場合には、貪欲、憂鬱、邪悪なよくない事柄が降りかかるので、それの制御のために行動する。すなわち身体という感官を制御する。身体という感官において、制御をする。]意識によって意識の対象・内容を見ても、[対象を]異種のものと区別せず、また同種のもの同志の違いを意識しない。この意識という感官が制御されていない場合には、貪欲、憂鬱、邪悪なよくない事柄が降りかかるので、それの制御のために行動する。すなわち意識という感官を制御する。意識という感官において、制御をする。この神聖な感官制御によって、自己の内に汚れのない快感が、感じられるのである。このようにして、バラモンの子よ。比丘は、感官の門を護るのです」

[正しい思い、正しい知識をもつ]
 二、「バラモンの子よ。どのようにして比丘は、正しい思い、正しい知識を備えるのか[を説く]。バラモンの子よ。比丘は、前進するときにも、後退するときにも注意し、前方を見るときにも、後方を見るときにも注意し、手足を屈伸するときにも注意し、外套・[托鉢用の]鉢・外出着を身につけるときにも注意し、食べるとき、飲むとき、噛むとき、味わうときにも注意し、大小便をするときにも注意し、歩くとき・立つとき・座るとき・寝るとき・目覚めているとき・話すとき・黙っているときにも注意する。バラモンの子よ。このようにして比丘は、正しい思い、正しい知識を備えているのです」

[満足する]
 三、「バラモンの子よ。どのようにして比丘は、満足するのか[を説く]。バラモンの子よ。比丘は、身体を護る衣服、托鉢で得たおなかを護る食べ物に満足している。かれは、どこへ行くにもそれを携えていく。バラモンの子よ。あたかも翼のある鳥は、どこへ飛んでいくにも、翼をもったものとして飛ぶように、比丘は、身体を護る衣服、托鉢で得たおなかを護る食べ物に満足している。かれはどこへ行くにもそれだけを携えていく。バラモンの子よ、このように比丘は満足している。
 四、かれは、この神聖な戒律を身につけ、感官を制御し、正しい思い・正しい知識を身につけ、満足して、人里離れたところ、すなわち、荒野、木の根もと、山岳、渓谷、岩窟、墓地、ジャングル、屋外、藁の山などに好んで住む。かれは、托鉢から戻って、食事をしたあと、足を組んで、身体をまっすぐにして、正しい思いに集中する。
 五、かれは、世のなかに対する貪欲を捨て、貪欲を離れた心で生活し、貪欲から心を[引き離し]清浄にする。憎しみと怒りを捨てて、心に敵意なく生活し、全ての命あるものに対して同情心をもち、貪欲から心を[引き離し]清浄にする。不精と眠気を捨て、不精と眠気を離れて生活する。意識が閉ざされていず、注意深く、意識が明瞭で、不精と眠気から心を[引き離し]清浄にする。浮ついた心と悔やむ気持ちを捨てて、落ち着いた気持ちで生活し、自律的に、心が平静となり、浮ついた心と悔やむ気持ちから心を[引き離し]清浄にする。疑いを捨て、疑いに打ち克って生活し、素晴らしい教えに対して疑いをもたず、疑いから心を[引き離し]清浄にする」

[五つの克服の克服]
 六、「たとえば、バラモンの子よ、ある人が、借金をして事業をはじめ、その事業がうまくいき、前に借りていた借金を返済し、そのうえ、妻に装飾品を買ってあげられる程度のお金が余ったとする。するとかれはこう考える『わたしは以前、借金をして事業をはじめ、その事業がうまくいき、前に借りていた借金を返済し、そのうえ、妻に装飾品を買ってあげられる程度のお金が余った』と。このようにして、かれは、喜びを得て、安らぎを得るであろう。
 七、また、バラモンの子よ、たとえば、ある人が病気になり、病が重くなると、苦しんで、食事が楽しめず、身体に力が入らなくなったとする。そのかれが、後に病気から回復すると、食事が楽しめるようになり、身体に力が入るようになった。そのときかれはこう考える『わたしは、以前病気になり、病が重くなると、苦しんで、食事が楽しめず、身体に力が入らなくなった。そのわたしが、後に病気から回復すると食事が楽しめるようになり、身体に力が入るようになった』と。このようにして、かれは、喜びを得て、安らぎを得るであろう。
 八、また、バラモンの子よ。たとえば、ある人が監獄につながれるとする。そのかれが、後に安全に釈放され、財産を少しも失わなかった。そのときかれはこう考える『わたしは、監獄につながれたが、後に安全に釈放され、財産を少しも失わなかった』と。このようにして、かれは、喜びを得て、安らぎを得るであろう。
 九、また、バラモンの子よ、たとえば、ある奴隷が、自由がなく、他人に隷属し、自分の行きたいところへは行けないとする。そのかれが、後に奴隷の身分から解放され、自由となり、他人に隷属せず、自由の身分となり、自分の行きたいところへ行けるようになったとする。そのときかれはこう考える『わたしは、以前自由がなく、他人に隷属し、自分の行きたいところへは行けなかった。そのわたしが、後に奴隷の身分から解放され、自由となり、他人に隷属せず、自由の身分となり、自分の行きたいところへ行けるようになった』と。このようにして、かれは、喜びを得て、安らぎを得るであろう。
 一〇、また、バラモンの子よ、たとえば、ある金持ちで裕福な人が、危険な荒野の道に、食べ物もなく、踏み込んだとする。そのかれが、後に、この荒野を通り抜け、無事に平和で安全な村の外れにたどり着いたとする。そのときかれはこう考える『わたしは、以前、危険な荒野の道に、食べ物もなく、踏み込んだが、後に、この荒野を通り抜け、無事に平和で安全な村の外れにたどり着いた』と。このようにして、かれは、喜びを得て、安らぎを得るであろう。
 一一、バラモンの子よ。それと同じように、比丘は、[前に述べた]五つの障害を自己において克服しないかぎり、それらを、借金、病気、監獄、奴隷、荒野の道のように考える。しかし、バラモンの子よ。五つの障害を自己において克服した比丘は、それらを、借金のないことのように、健康状態のように、監獄から釈放されたことのように、自由人であることのように、平安な場所にいることのように考える」

[第一段階の精神統一]
 一二、「この五つの障害を自分で克服したことを知る人には、喜びが生じる。喜びの生じた人には、喜悦が生じる。心に喜悦を感じる人は、身体がやすらかとなる。身体がやすらかな人は、安楽を感じ、安楽な人は心が安定集中する。
 一三、バラモンの子よ。比丘は、愛欲を離れ、善くないことを離れ、思慮のある、思考のある、遠ざかりは馴れることから生じた、喜び・快楽からなる、第一段階の精神統一に到達している。それ(第一段階の精神統一)は、遠ざかり離れることから生じた喜び・快楽でこの身体を満たし、潤し、充満し、浸透し、かれの身体には、完全に、遠ざかり離れることから生じた喜び・快楽によって浸透されないところはない。これがかれの精神統一の一つである」

[第二段階の精神統一]
 一四、「バラモンの子よ。比丘は思慮・思考を安定させ、内面が清浄となり、心を統一して、思慮・思考を伴わない、安定集中から生じた喜び・快楽からなる、第二段階の精神統一に到達している。そのように、その比丘は、安定集中から生じた喜び・快楽でこの身体を満たし、潤し、充満し、浸透し、かれの前進には、精神集中から生じた喜び・快楽で満たされないところはない。
 一五、たとえば、バラモンの子よ、湧き水のある湖があり、そこには、東にも、西にも、北にも、南にも、水の流れ入る箇所がなく、神もときどき激しい雨を供給するということもないとする。しかし、その湖からは冷たい水の流れが、湧き出て、その湖を冷たい水が満たし、充満し、いっぱいにし、遍満させ、その湖には、冷たい水で満たされないところはないとする。そのように、その比丘は、安定集中から生じた喜び・快楽でこの身体を満たし、潤し、充満し、浸透し、かれの前進には、精神集中から生じた喜び・快楽で満たされないところはない。[208]これがかれの精神統一の一つである」

[第三段階の精神統一]
 一六、「さらに、バラモンの子よ、比丘は『喜悦』と『離れること』に拘らず、注意深く、意識が明瞭である。そして、身体で快感を感じるのであるが、それを聖者たちは『[<喜悦>と<離れること>に]拘らず、思慮深いものは安楽にすごす』という。それは、第三段階の精神統一に入ることである。かれは、喜悦と無縁な快感でこの身体を満たし、充満し、いっぱいにし、完成させ、遍満させ、かれの全身には、喜悦と無縁な快楽で満たされないところはない。
 一七、たとえば、バラモンの子よ、青蓮華の池で、紅蓮華の池で、白蓮華の池で、青蓮華、紅蓮華、白蓮華のあるものは、水中で生まれ、水中で成育し、水中から出ず、水中に潜ったまま繁茂する。それらは先端から根もとまで、冷たい水で満たされ、充満され、完成させられ、遍満せられ、どの青蓮華、紅蓮華、白蓮華においても、冷たい水で満たされていないものはない。そのように、その比丘は、喜悦と無縁な快感でこの身体を満たし、充満し、いっぱいにし、遍満させ、かれの全身には、喜悦と無縁な快感で満たされないところはない。

[第四段階の精神統一]
 一八、さらに、バラモンの子よ、比丘は快楽を捨て、苦痛を捨て、すでに喜びと憂いを消滅させているので、苦痛もなく、快楽もなく、拘りのない、思慮深い、清澄な第四段階の精神統一に入る。かれは、清澄で純粋な心でその身体を満たして座り、その身体のいかなるところにも、清澄で純粋な心で浸されないところはありません。
 たとえば、バラモンの子よ、人が白い布で頭まで[全身を]包んで座るなら、かれの身体にはどこにも、白い布で覆われないところはありません。それと同様に、比丘は、清澄で純粋な心で身体を満たして座り、その身体はいかなるところにも、清澄で純粋な心で浸されないところはありません。これもかれの精神統一の一つです。
 一九、バラモンの子よ。これらが、世尊が賞賛された精神統一のまとまりである。また、そこへ多くの人々を導き、そこへ住まわしめ、そこにおいて多くの人々を安住せしめた精神統一のまとまりである。しかし、さらにいわれるべき精神統一もある」
「アーナンダよ。不思議なことである。驚くべきことである。アーナンダよ。この聖なる精神統一のまとまり、完全である。不完全ではない。アーナンダよ。わたしはこのように完全な聖なる精神統一のまとまりを、これ(仏教)以外の修行者・バラモンのあいだには見いだすことはできない。アーナンダよ。もし、これ以外の修行者・バラモンが、自分の[教団の]なかに、このように完全な聖なる精神統一のまとまりを見いだせば、かれらは、これのみで満足し、『これで十分である。これで修行者の目的は達せられた。さらになされるべき精神統一はまったくない』というであろう。しかし、尊者アーナンダは、『さらになされるべき精神統一もある』という」

     『原始仏典 第一巻 長部経典①』春秋社 P458-465







・瞋恚蓋を断つところで「貪欲から心を[引き離し]清浄にする」というところの「貪欲」は「怒り」の間違いだと思います。
・初禅のたとえと初禅の記述の繰り返しが抜けています。沐浴下僕が石けんをこねるたとえです。

参考:初禅

「比丘は、もろもろの欲を離れ、もろもろの不善を離れ、大まかな思考・細かい思考とをまだ伴ってはいるが、遠ざかり離れることから生じた、喜びと安楽のある、第一の禅定に到達しています。かれはこの身体をば、遠ざかり離れることから生じた喜びと安楽によって満たし、浸し、充満させ、あまねく満たしています。かれの身体全身、どこも遠ざかり離れることによって生じた喜びと安楽に触れないところはありません。

たとえば、腕のよい沐浴下僕かその弟子が、金属の容器に入浴用の粉を振りまいて、水を少しずつ落としてこねると、その粉のかたまりに油気がしみこんで行き、内も外も全体に油気がしみこんでいく。しかも、漏れて流れ出ることがないようなものです。まさにそれと同じように、かれは、この身体をば、遠ざかり離れることから生じた喜びと安楽によって潤し、あまねく浸し、あまねく満たし、かれの身体全身、どこも遠ざかり離れることによって生じた喜びと安楽に触れないところはありません。

これもまた彼の精神統一の一つである」


参考:食量知と覚醒に勉めること(根律儀と念正知の間にしばしば入ります)

「修行僧よ。さあ、汝は、食において量をわきまえる者であれ。正しい注意を払って、食べ物を摂取せよ。食事は遊びのためにあるのではない。自己顕示のためにあるのではない。色香のためにあるのではない。容色のためにあるのではない。この身体を維持し、存続させ、痛みを鎮め、聖なる修行を助けるというそのかぎりにおいて、すなわち『これまでの知覚を打ち破ろう。新たな知覚を生起させないようにしよう。命を繋ぎつつ、いかなる咎めを受けることなく、安らかな暮らしがわたしにはあるだろう』という、そのためにあるのである。

修行僧よ。さあ、汝は、つねに目覚めているように努めて過ごせ。
日中は経行と坐禅とを行って、修行の妨げとなるもろもろのことがらから、心を清らかにせよ。
夜の初分においては経行と坐禅とを行って、修行の妨げとなるもろもろのことがらから、心を清らかにせよ。
夜の中分においては、右脇腹を下にして、ライオンのように横臥するがよい。足を軽く重ね合わせ、注意を怠ることなく、明らかな意識を保ち、起き上がるときのことを思念しつつ。
夜の後分においては経行と坐禅とを行って、修行の妨げとなるもろもろのことがらから、心を清らかにせよ」 (中部経典一〇八経 算術家モッガーラナ)

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