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原始仏典コミュの三学     (南伝17 P378-379)

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増支部経典>三集>第四 沙門品



「  八十四

 ある時、一人の比丘がいた。世尊のいるところに行き・・・ないし・・・一方に座った。一方に座り終わってその比丘は世尊に言った。

 大徳。有学、有学と言います。大徳、何が有学ですか。
 比丘よ、彼は学ぶということである。ゆえに有学と説かれる。

 また彼は何を学ぶか。
 増上戒をも学び、増上心をも学び、増上慧をも学ぶ。比丘よ、それゆえに彼は有学と説かれる。

   まさしく学ぶ有学者は   まっすぐな道に随い行き
   滅尽するのに第一智    それよりすぐにまた智あり
   その智は已に解脱する人の このような者に実に智慧が生じる
   私の解脱は不動である   有を引く結が尽きたゆえ」

     南伝大蔵経17 増支部経典1 P378-379


増上:より優れた、さらに上の、という意

有学:彼は三学を学ぶ
三学:増上戒学・増上心学・増上慧学








増支部経典>三集>第四 沙門品


「  八十八

 比丘たちよ、これらは三学である。何を三となすのか。
 増上戒学、増上心学、増上慧学である。

 比丘たちよ、何を増上戒学となすのか。
 比丘たちよ、世に比丘あり、戒を具え、波羅提木叉律儀を護って振る舞い、正しい行と親近とを具足し、微細な罪に恐怖を見て、学処を受学する。
 比丘たちよ、これを増上戒学と説く。

 比丘たちよ、何を増上心学となすのか。
 比丘たちよ、世に比丘あり、欲を離れ、不善法を離れ、有尋有伺にして遠離より生じる喜と楽がある初禅那を具足して住する。尋伺が寂静となるゆえに内に等浄である心一趣を得て、無尋無伺の、三摩地より生じる喜と楽がある第二禅那を具足して住する。喜を離れるがゆえに捨にして住し、念あり、勝知あり、また身によって楽を受け、もろもろの聖者が捨念楽住と説く第三禅那を具足して住する。楽を断ち、苦を断ち、先にすでに喜と憂が滅しているために、不苦不楽である捨念清浄である第四禅那を具足して住する。
 比丘たちよ、これを増上心学となす。

 比丘たちよ、何を増上慧学となすのか。
 比丘たちよ、世に比丘あり、これは苦であると如実に了知し、これは苦集で如実に了知し、これは苦滅であると如実に了知し、これは苦滅に趣く道であると如実に了知する。
 比丘たちよ、これを増上慧学と説く。

 比丘たちよ、これらが三学である。


   八十九

 比丘たちよ、これらは三学である。何を三となすのか。
 増上戒学、増上心学、増上慧学である。

 比丘たちよ、何を増上戒学となすのか。
 比丘たちよ、世に比丘あり、戒を具え、波羅提木叉律儀を護って振る舞い、正しい行と親近とを具足し、微細な罪に恐怖を見て、学処を受学する。
 比丘たちよ、これを増上戒学と説く。

 比丘たちよ、何を増上心学となすのか。
 比丘たちよ、世に比丘あり、欲を離れ、不善法を離れ、有尋有伺にして遠離より生じる喜と楽がある初禅那を具足して住する。尋伺が寂静となるゆえに内に等浄である心一趣を得て、無尋無伺の、三摩地より生じる喜と楽がある第二禅那を具足して住する。喜を離れるがゆえに捨にして住し、念あり、勝知あり、また身によって楽を受け、もろもろの聖者が捨念楽住と説く第三禅那を具足して住する。楽を断ち、苦を断ち、先にすでに喜と憂が滅しているために、不苦不楽である捨念清浄である第四禅那を具足して住する。
 比丘たちよ、これを増上心学となす。

 比丘たちよ、何を増上慧学となすのか。
 比丘たちよ、世に比丘あり、漏が尽きることにより無漏の心解脱・慧解脱をすでに現法(現実)において自ら知り、作証し、具足して住する。
 比丘たちよ、これを増上慧学と説く。

 比丘たちよ、これらが三学である。

 増上戒と増上心     増上慧とを、具精進
 具力、具堅固、静慮して 正念、護根者習うべし
 前の如くに後ろもまた  後ろの如くに前もまた
 下の如くに上もまた   上の如くに下もまた
 昼の如くに夜もまた   夜の如くに昼もまた
 無量三摩地の力にて   一切方に打ち勝ちて
 行浄く進むなる     彼を有学と人は言う
 行を極めて堅固なる   世に等覚と彼は呼ぶ
 識の滅せることにより  愛尽解脱せるうえに
 明かりの涅槃する如く  心の解脱とはなりぬ」

   南伝大蔵経17 増支部経典1 P385-389





増上戒学:具戒
増上心学:四禅
増上慧学:四諦・倶分解脱


増上慧学に二つあるように、ゴータマはしばしば一部を言い換えて表現します。四諦了知も増上慧学であるし、倶分解脱も増上慧学であると。この話の流れと似た箇所では、よく「四諦→不還→倶部解脱」という風に三段階で表現しています。四諦了知を預流・一来とみなし、不還果、そして阿羅漢果という意味でもあるかと思います。


「前の如くに後ろもまた  後ろの如くに前もまた
 下の如くに上もまた   上の如くに下もまた
 昼の如くに夜もまた   夜の如くに昼もまた
 無量三摩地の力にて   一切方に打ち勝ちて」

この偈の部分は、四神足の極光浄心の修習における記述に一致します。光耀心修習は、四神足の修習方法の中でも大神通を得るための修行法であり、モッガーラナもたどった道ですが、それがここで出ています。無量三摩地を修習する過程で、必然的に前後想を獲得し、上下想(内臓観)をも獲得し、昼夜等しい行相をも獲得することを示しています。実際に、四無量心などの無量三摩地を修習していると、一切方における独特の感覚が生じてきます。その一切方における独特の感覚は若干の光想を伴うものです。しかし、やはり本格的に神通を獲得したい場合は、光耀心修習としての四神足を修習することが最速であり、円満だと思います。ここの記述は、無量三摩地に伴って生じる状態に関連した記述だと思います。

「明かりの涅槃する如く 心の解脱とはなりぬ」はしばしば使われる定型句です。

四禅は、チッタ居士が容易に行っていたように在家でも実現可能なのでぜひ実践して見てください。欲の欠点を考察して納得できたら、実際に欲を捨てる方向に意識を傾けます。それを繰り返せば、初禅那に馴れてくると思います。

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