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原始仏典コミュの念息1 「十六念息」 (南伝16下 P181-183)

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なぜこの十六なのかを考えるとよいと思います。「長く呼吸していると知る」というのは、「ろくろを長く引く、短く引く」というたとえを出している経があるように、自覚していればいいのであって、頭の中で言葉にするしないはどちらでもいいと思います。両方できた方が上だと思いますが。

1 長く
2 短く
3 全身
4 身行軽安
     ・・・念身
1 喜
2 楽
3 心行
4 心行軽安
     ・・・念受
1 心
2 勝歓喜
3 三摩地
4 解脱 
     ・・・念心
1 無常
2 離貪
3 滅
4 捨棄
     ・・・念法








1. Ekadhammasuttaṃ 一法経  
(対応:南伝大蔵経16下 相応部経典6 入出息相応 P181-183)


サーヴァッティ。そこで・・・こう言った。
977. Sāvatthinidānaṃ . Tatra kho…pe… etadavoca –
比丘たち、一法を修習し多所作すれば、大果大功徳がある。
‘‘ekadhammo, bhikkhave, bhāvito bahulīkato mahapphalo hoti mahānisaṃso.
何が一法か。アーナーパーナサティ(念息、出入息念、呼吸念)。
Katamo ekadhammo? Ānāpānassati.
比丘たち、念息をどのように修習し、どのように多所作すれば、大果大功徳があるのか。
Kathaṃ bhāvitā ca, bhikkhave, ānāpānassati kathaṃ bahulīkatā mahapphalā hoti mahānisaṃsā?





ここに比丘がいて、林に行き、樹下に行き、空家に行って、結跏趺坐して坐り、身を正し、念を面前に置いて準備する。
Idha, bhikkhave, bhikkhu araññagato vā rukkhamūlagato vā suññāgāragato vā nisīdati pallaṅkaṃ ābhujitvā ujuṃ kāyaṃ paṇidhāya parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā.


彼は念じて息を吸い、念じて息を吐く。
So satova assasati, satova passasati.



1 長く息を吸って「長く息を吸っている」と知り、長く息を吐いて「長く息を吐いている」と知る。
  Dīghaṃ vā assasanto ‘dīghaṃ assasāmī’ti pajānāti, dīghaṃ vā passasanto ‘dīghaṃ passasāmī’ti pajānāti;
2 短く息を吸って「短く息を吸っている」と知り、短く息を吐いて「短く息を吐いている」と知る。
  rassaṃ vā assasanto ‘rassaṃ assasāmī’ti pajānāti, rassaṃ vā passasanto ‘rassaṃ passasāmī’ti pajānāti;
3 「全身を知覚して息を吸おう」と学び、「全身を知覚して息を吐こう」と学ぶ。
  ‘sabbakāyappaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati, ‘sabbakāyappaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati;
4 「身行を軽安にして息を吸おう」と学び、「身行を軽安にして息を吐こう」と学ぶ。
  ‘passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmī’ti sikkhati, ‘passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmī’ti sikkhati;


5 「喜を知覚して息を吸おう」と学び、「喜を知覚して息を吐こう」と学ぶ。
  ‘pītippaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati, ‘pītippaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati;
6 「楽を知覚して息を吸おう」と学び、「楽を知覚して息を吐こう」と学ぶ。
  ‘sukhappaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati, ‘sukhappaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati;
7 「心行を知覚して息を吸おう」と学び、「心行を知覚して息を吐こう」と学ぶ。
  ‘cittasaṅkhārappaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati, ‘cittasaṅkhārappaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati;
8 「心行を軽安にして息を吸おう」と学び、「心行を軽安にして息を吐こう」と学ぶ。
  ‘passambhayaṃ cittasaṅkhāraṃ assasissāmī’ti sikkhati, ‘passambhayaṃ cittasaṅkhāraṃ passasissāmī’ti sikkhati;


9 「心を知覚して息を吸おう」と学び、「心を知覚して息を吐こう」と学ぶ。
  ‘cittappaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati, ‘cittappaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati;
10 「心を勝歓喜させて息を吸おう」と学び、「心を勝歓喜させて息を吐こう」と学ぶ。
  ‘abhippamodayaṃ cittaṃ assasissāmī’ti sikkhati, ‘abhippamodayaṃ cittaṃ passasissāmī’ti sikkhati;
11 「心を三摩地させて息を吸おう」と学び、「心を三摩地させて息を吐こう」と学ぶ。
  ‘samādahaṃ cittaṃ assasissāmī’ti sikkhati , ‘samādahaṃ cittaṃ passasissāmī’ti sikkhati;
12 「心を解脱させて息を吸おう」と学び、「心を解脱させて息を吐こう」と学ぶ。
  ‘vimocayaṃ cittaṃ assasissāmī’ti sikkhati, ‘vimocayaṃ cittaṃ passasissāmī’ti sikkhati;


13 「無常を見て息を吸おう」と学び、「無常を身て息を吐こう」と学ぶ。
  ‘aniccānupassī assasissāmī’ti sikkhati, ‘aniccānupassī passasissāmī’ti sikkhati;
14 「離貪を見て息を吸おう」と学び、「離貪を見て息を吐こう」と学ぶ。
  ‘virāgānupassī assasissāmī’ti sikkhati, ‘virāgānupassī passasissāmī’ti sikkhati;
15 「滅を見て息を吸おう」と学び、「滅を見て息を吐こう」と学ぶ。
  ‘nirodhānupassī assasissāmī’ti sikkhati, ‘nirodhānupassī passasissāmī’ti sikkhati;
16 「捨棄を見て息を吸おう」と学び、「捨棄を見て息を吐こう」と学ぶ。
  ‘paṭinissaggānupassī assasissāmī’ti sikkhati, ‘paṭinissaggānupassī passasissāmī’ti sikkhati.




比丘たち、念息をこのように修習し、このように多所作すれば、大果大功徳がある。
Evaṃ bhāvitā kho, bhikkhave, ānāpānassati evaṃ bahulīkatā mahapphalā hoti mahānisaṃsā’’ti. Paṭhamaṃ.

コメント(13)

いつもありがとうございます。

ヨガの修行みたいですね。大果とは落ち着きとか平安といったものなのでしょうか。
丁度この意修行法について、少し、書き込みを入れようとしていたところでした。
驚きました!
嬉しかったです。
有難うございます。

このところ、この修行法を中心に行なっています。
「受」の修行法の大切さを知らされその素晴らしさに驚嘆しています。
「受のコントロールが可能になると知りました。
あごさん>

はじめまして。「大果」は大きな成果です。念息についてもっと書き込んだ方がいいでしょうか。ちょっと上だけだと手抜きかも知れません。

koyoiさん>

そうだったんですか。この修行本当にすごいですよね。と言っても、僕はまだ一番最初の長く息を呼吸するやつばかりですが。僕は念息よりは念身としてやってます。
あごさん>

「大果」は、言葉の意味ではなくて原始仏典上の実際の具体的な成果のことですね。「大果」の意味ぐらいわかりますよね、すいません。読み間違えてしまって。

基本的には、「一法あり、修習し多所作せば一向厭患・離貪・滅・通智・等覚・涅槃に資す。一法とは何か。念息なり」というのが増支部経典にありますし、本当に色々あるのですが、一言で言えば、涅槃だと思います。後、不浄観修習で自殺者が増加したときに、代わりにゴータマは念息を提示しており「眼が疲れず、安楽」みたいなことを言っていたと思います。

お詫びも含めて、少し念息を充実させようと思います。南伝中心で。
ヴェーダナーを来る日も来る日も
1日中観つめてみてください。

サマディを深めておいて、「識」が起こるたびにサティを入れてみてください、
コツは、ここが自分の弱点と決め、
構えておいてその気になっていたら出来ます、
そこが来たら、
念を入れます。


感情や気分に振り回されなくなっていきます。
人生が変わります。
サンカーラーが別のものになり、
業が変化するのがつかめます。

輪廻のからくりも見えてき始めます。
>念息よりは念身として

どうも、全身が呼吸体ということのようですね。

そして、「念身」のところは「地水火風」の風を見ることからはじまり、
結果として
「地水火風」という身体全部を観みていくことになるように思えますね。

デモここでも、当然心も観ることになりますから、
四念所すべてに於いて心と体をすべてみていくことになるようですね。

もちろん、当然のことでしょうが、程度や緻密さにおいては
それぞれの違いがあるようですけれど。

後はそれぞれのところにおいて、
具体的修行法としては
それぞれのバリエイションがある
ということになるのでしょうか。

その場合それぞれの人の個性的工夫ということも
現れてくるのかもしれませんね。

その辺のことは良く分かりませんが、
経典に忠実に修行を行なうという意味から行くと
どうなるのでしょうか?
あるメソッドでは「全身」や「身行」を「呼吸全体」という風に解釈したり、訳したりしているようですが、原語は上の通りです。「身行の基底」にあるのは呼吸であることは経典にも書いてあります。また第四禅那を「身行軽安」と表現するところから、(第四禅那において呼吸は滅しますので)、確かに関連はあります。しかし、第三念息は「全身を知覚しながら」、第四念息は「身行を軽安にしながら」実践すれば、それが法随法行です。

全身をsamvedaするわけですから、やはり知覚、あるいは感受しながらという意味です。全身を四大において見た場合に、地水火風となります。しかし、この場合は知覚・感受の領域として全身に志向するので、風を観察するのとは異なります。四大は「見られるべきもの」であり、第三の念息としての全身は「知覚・感受されるべきもの」です。

ただ、念息しながら四大を見てもそれも一応念息ですから、まったく何の問題もないと思います。念息あるところ、それは念息と言われます。それはゴータマも「それは念息でないとは言わない。されど円満な念息あり」と言っている通りです。この十六念息は完全に円満です。

四念処も十六念息もたんに「心と体を見るだけ」ではありません。一切諸法を増上させるもの、それが念であると経典に書いてあります。十六念息それぞれの要素を見ていただければわかると思いますが、「知る」「知覚・感受する」「心を変化させる」「善相を見る」という要素があり、多様です。


最初の二つだけ長く短く「知る」という単語を使っています。この二つの念息が基本となります。なぜなら、呼吸が長くても短くてもそれにすぐに気がつき、念と正知を呼吸に関連してすぐに取り戻す性質を獲得することになるからです。ゆっくりした呼吸だけにしか気づけないとか早い呼吸だけにしか気づけないという念力をさらに円満に修習するためにあります。これを多修することによって、あらゆる呼吸状態において正知が生じ念に転向できます。

第三念息の全身を知覚しながら、というのは、四大という分類ではなく、六触処における身触処、身における触、この二によって生じる身識、この三者の和合によって生じる身触、これを知り尽くすことを目標とするように思います。なぜ普段は知ることができないかというと、その身触は楽受を生じるのでもなく、苦受を生じるのでもなく、不苦不楽受を生じる身触だからです。念と正知のないところ、そこに無明があります。これを断つために、楽受でもない苦受でもない(それは粗いから正知されるからです)、不苦不楽受を生じる身触を正しく知る必要があります。これを得れば、身を縁として念は生じやすく、正知は生じやすくなります。

第四念息の身行を軽安にしながら、というのは、僕もよくわかりませんが、第四禅那の事前修習にもなっていそうです。少なくとも、呼吸を止めようとする修行ではなく、身行を軽安にするということを念頭においてこそ法随法行です。軽安の原語や意味など色々と詮索してしまうと思いますが、軽安の究極は「想受滅」と書いてありますので、身行軽安の意味は「身行が消滅すること」であることは間違いありません。身行の消滅に心を傾けることを呼吸に関連して修習すれば、それで問題ないと思います。これを多修すると勝手に第四禅那が達成されるかも知れません。僕はまだまだです。

以下は解説しませんが、修行方法に疑問が生じた場合、「何のための修行なのか」という目的の観点からの考察、道諦としての考察などを行えば、答えは出ます。疑問と正しく向けられた心を縁として意欲が生じ、意欲を縁として根本作意が生じ、根本作意を縁として答えが生じ、答えを縁として疑問が滅します。

僕は諸宗教が乱立し、北伝仏教と南伝仏教と原始仏教が混在して誰もが迷って確信できないでいる時代だからこそ、「慧根・慧力」を再重要視し、お勧めします。ゴータマも「慧根を第一とす」と言っている通りです。

最近は、法随法行の人が増えていてとてもよい傾向だと思っています。
そうなのですね。


次のようにも思うのですがどうでしょうか?


第三念息は普通の息の長さでサマディを深めつつ・・・、
第四念息では呼吸をどこか1点に集中して、禅定に持って行く方向でいきつつ・・・

それでそこをある程度修したら、
それから次に「ヴェーダナー」を観ていくということになるのでしょうか?
三摩地を特に深めるのは11番目の念息ですね。三摩地はどこの念息でも捨に縁じて心一境性を得れば、そこに三摩地があります。
呼吸への念は十六全ての念息にありますので四番目の念息は、それと同時に身行を滅して行く方向性です。「身行」が何なのか、それに関する知識もついてくると思います。

五番目からの受に関連した念息は、修したい方はいきなりやってしまっていいと思います。九次第定以外では、ゴータマは修習する順番を特に説いてはいませんから。心が進むところを修した方が修行が長続きしますから。
勉強になります。

>五番目からの受に関連した念息は、修したい方はいきなりやってしまっていい

すごい効果がありますので、皆でドンドンやりましょう。
僕もまだまだ受以降はあまりやってないので、これからはやろうと思います。
勉強になります… 
mixiでこんなに良い縁があるのも、またネットの面白さですね。 

投稿いつも楽しみにしています。 
無理をなさらずに気が向いたらちょくちょく投稿してくださいね(笑)
あごさん、ありがとうございます。無理せず長続きするように頑張って行きたいと思います。

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