ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

原始仏典コミュの律蔵 「不浄戒4」 猿と性交する比丘・不浄戒の詳説

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
(続き)


「(六)
 その時、一人の比丘はヴェーサーリーの大林において食べ物によって(大)猿を誘って、彼と不浄法を行った。時にその比丘は明け方、下衣を整え、衣鉢を持って乞食のためにヴェーサーリーに入った。その時、多くの比丘は精舎を巡ってその比丘の精舎に着いた。その猿は比丘たちが遠くからくるのを見、見終わってその比丘たちに近づいて、比丘たちの前で尻を振って尻尾を挙げて、尻を露わに示して淫相をなした。時に比丘たちは思った。「あの比丘はきっとこの猿と不浄法を行うだろう」と一方に隠れた。時にその比丘はヴェーサーリーにおいて乞食を行って得た食を持って帰った。時にその猿はその比丘のもとに来た。その比丘はその食の一部を自ら食べ、一部をその猿に与えた。こうしてその猿はその食を食べ終わってその比丘に向かって尻を露わに示してその比丘はその猿とともに不浄法を行った。
 比丘たちはその比丘に言った。
「友、世尊は学処を制したのではないのか。君はどうして猿と不浄法を行じるのか」と。
「友、確かに世尊は学処を制した。しかしそれは人間の女性のことであって畜生とのことではない」。
「友、確かにそうだ。友、しかしそれは適法ではない。随順行ではない。威儀ではない。沙門行ではない。浄行ではない。為すべきではないことだ。どうして君はこのように善く説かれた法律の中に出家して生涯完全清浄な梵行を修めることができないのか。
 友、世尊は様々な方法によって貪を離れるために法を説き、貪を具えるためではない。縛を離れるために法を説き、縛を具えるためではない。無執着のために法を説き、有執着のためではないのだ。
 ここに友、君は実に世尊によって、貪を離れるために説かれた法を貪を具えるものとなし、縛を離れるために説かれた法を縛を具えるものとなし、無執着のために説かれた法を有執着のものとする。
 友、世尊は様々な方法によって欲を離れるために法を説き、驕慢を破るために、渇きから離脱するために、愛を除くために、種を断ずるために、離欲・滅・涅槃のために法を説いたではないのか。
 友、世尊は様々な方法によって欲の断滅を説き、欲想を知ることを説き、欲渇の調伏を説き、欲尋の滅を説き、欲熱の静止を説いたのではないのか。
 友、これはいまだ信じていない者に信を起こさせ、すでに信じている者にその信を増長させるものにならない。これはむしろ、いまだ信じていない者に不信を起こさせ、すでに信じている者の一部が他に転向させるものだ」と。
 こうして比丘たちは様々な方便によってその比丘を呵責し終わって、世尊にこの事を言った。世尊はこの因縁によって比丘たちを集め、その比丘に質問した。
「比丘、あなたは確かに猿と不浄法を行じたのか」と。
「真実です、世尊」と。
 世尊は呵責した。
「愚か者、これは適法ではない。随順行ではない。威儀ではない。沙門行ではない。浄行ではない。為してはならないことである。
 愚か者、あなたはどうしてこのような善く説かれた法・律の中に出家して終生、完全無欠・清浄無垢の梵行を修めることができないのか。 
 私は様々な方法によって欲を離れるために法を説き、欲を具えるためではない。縛を離れるために法を説き、縛を具えるためではない。無執着のために法を説き、有執着のためではないのだ。ここにあなたは実に私が、欲を離れるために説かれた法を欲を具えるものとなし、縛を離れるために説かれた法を縛を具えるものとなし、無執着のために説かれた法を有執着のものとする。
 愚か者、私は様々な方法によって欲を離れるために法を説き、驕慢を破るために、渇きから離脱するために、愛を除くために、種を断ずるために、離欲・滅・涅槃のために法を説いたではないのか。愚か者、私は様々な方法によって欲の断滅を説き、欲想を知ることを説き、欲渇の調伏を説き、欲尋の滅を説き、欲熱の静止を説いたのではないのか。
 愚か者、たとえ恐ろしい毒牙の口の中に男根を入れるとしても、猿の根の中に入れてはならない。
 愚か者、たとえ毒蛇の口の中に男根を入れるとしても、猿の根の中に入れてはならない。
 愚か者、たとえ燃え盛る火坑の中に男根を入れるとしても、猿の根の中に入れてはならない。
 なぜか。愚か者、それを原因として実に死、あるいは死に等しい苦を受けるだろう。しかしそのために、身体が破れ命が終わった後、悪いところ・悪い行き先・悪い生まれ・地獄に生まれることはない。
 しかし、愚か者よ、この原因によって身体が破れ命終した後、悪いところ・悪い行き先・悪い生まれ・地獄に生まれるだろう。愚か者、あなたはここに実にこの罪業・卑しい業・悪行・汚れた行・末水行・隠れたところで行う法・ただ二人あることによってのみ成就する法を行った。
 愚か者、これはいまだ信じていない者に信を起こさせ、すでに信じている者にその信を増長させるものにならない。
 愚か者、これはむしろ、いまだ信じていない者に不信を起こさせ、すでに信じている者の一部が他に転向させるものだ。
 比丘たちよ、あなたたちはこのようにこの学処を誦しなさい。
 『いずれの比丘といえども不浄法を行ずれば、たとえ畜生であっても、波羅夷にして共住すべきではないものである』と」
 このように世尊は比丘たちのためにこの学処を制した。

(七)
 その時、多くのヴェーサーリー出身のヴァッジプッタカー比丘ら(ヴァッジ族の比丘たち)は、欲しいままに食べ、欲しいままに寝て、欲しいままに入浴していた。欲しいままに食べ、欲しいままに寝て、欲しいままに入浴して、憶念をゆるがせにして、戒を捨てず、戒に弱いことを告示しないで不浄法を行じた。
 彼らは後に親族を失い、富を失い、病苦に迫られて心に感じ、具寿アーナンダのところに来てこのように言った。
 「大徳アーナンダ、私たちはブッダを誹謗し、法を誹謗し、サンガを誹謗するものではありません。私たちは実に徳が少なく福が薄い者です。私たちはこのように善く説かれた法と律の中に出家して生涯完全清浄な梵行を修めることができませんでした。
 しかし大徳アーナンダ、どうか私たちが今、世尊のもとで出家し進具することを得ることができますように。どうか私たちが今、善法を修め、初夜後夜に菩提分法を観じ、専念に修行して住することができますように。大徳アーナンダ、どうか世尊にこのことを言ってください」と。
「そうしよう、友」とアーナンダはヴェーサーリー出身のヴァッジ族の比丘たちに頷いて世尊のところに行った。行き終わって世尊にこの事を言った。
「アーナンダ、ヴァッジ人、あるいはヴァッジ出身である者のために、如来がすでに制した声聞弟子の波羅夷の学処を廃止するというこのことわりはあることはない」と。
 こうして世尊はこの因縁によって法話をし、比丘たちに言った。
「比丘たちよ、いずれの比丘といえども戒を捨てず、戒に弱いことを告示せずに不浄法を行じれば、彼が還ってくるとしても進具してはならない。比丘たちよ、もし戒を捨て戒に弱いことを告示して不浄法を行じた場合は、彼が還ってこれば進具すべきである。比丘たちよ、あなたたちはまさにこのようにこの学処を誦しなさい。
 『いずれの比丘といえども、比丘が学戒を受け、戒を捨てず戒に弱いことを告示せずに不浄法を行ずれば、たとえ畜生と為すといえども、波羅夷にして共住すべきではないものである』と。

(八)
 「いずれの」とは、いかなる者をも――生まれにより、名により、姓により、戒により、精舎により、行域によるいかなる者をも――あるいは上臘(「臘(ろう)」は僧侶が得度出家してから経た歳月)、下臘、中臘、これらの「いずれの」と言う。
 「比丘」とは乞い求めるの意味の比丘、乞食に従事するという意味の比丘、袈裟衣を着けるという意味の比丘、沙彌の比丘(*注参照)、自称の比丘、善来比丘、三帰依により進具した比丘、善比丘、真実比丘、有学比丘、無学比丘、和合僧の白四羯磨(びゃくしこんま[かつま・カンマ・業]:三度サンガに質問して沈黙していれば四度目にサンガは同意したと知ると述べてそれが採決される方法)によって遮られず、価値があって進具された比丘がいる、その中のその和合僧の白曰羯磨(びゃくえつこんま)により遮られず、価値があって進具されたところの比丘、これここにおいて意味される比丘である。
 「学」とは三学があって、増上戒学・増上心学・増上慧学である。その中その増上戒学であるもの、これがここにおいて意味される学である。
 「戒」とは、世尊によって制された学処、これを戒と名付け、これを学習することを「学戒を受け」と言う。
 「戒を捨てず戒に弱いことを告示せずに」とは、比丘たちよ、戒に弱いことを告げて、しかも戒を捨てていない者がいる。あるいは戒に弱いことを告げて、戒を捨てている者もいる。

 比丘たちよ、何が戒に弱いことを告げて、しかも戒を捨てていないのか。比丘たちよ、ここに比丘がいる。憂いて楽しまず、沙門法から去ろうと欲して、比丘であることを苦として、羞恥し、嫌悪し、在家であることを願い、優婆塞であることを願い、清浄な人であることを願い、沙彌であることを願い、外道であることを願い、外道の声聞であることを願い、非沙門であることを願い、非釈子(サキャ族の子、サキャ族の出の者に随う者)であることを願って「私は今ブッダを捨てようか」と言って人に知らせる。比丘たちよ、このようなものが戒に弱いことを告げて、しかも戒を捨てていない。
 あるいは憂いて楽しまず、沙門法から去ろうと欲して、比丘であることを苦として、羞恥し、嫌悪し、在家であることを願い、優婆塞であることを願い、浄人であることを願い、沙彌であることを願い、外道であることを願い、外道の声聞であることを願い、非沙門であることを願い、非サキャ子であることを願って「私は今、法を捨てようか」と言って人に知らせる。比丘たちよ、このようなものも戒に弱いことを告げて、しかも戒を捨てていない。
 あるいは憂いて・・・乃至・・・「私は今、サンガを捨てようか」と言って・・・しかも戒を捨てていない。
 ・・・「私は今、戒を捨てようか」・・・
 ・・・「私は今、律を捨てようか」・・・
 ・・・「私は今、学処を捨てようか」・・・
 ・・・「私は今、説戒を捨てようか」・・・
 ・・・「私は今、和尚を捨てようか」・・・
 ・・・「私は今、阿闍梨を捨てようか」・・・
 ・・・「私は今、和尚弟子を捨てようか」・・・
 ・・・「私は今、阿闍梨弟子を捨てようか」・・・
 ・・・「私は今、同和尚を捨てようか」・・・
 ・・・「私は今、同阿闍梨を捨てようか」・・・
 ・・・「私は今、同梵行者を捨てようか」・・・
 ・・・「私は今、居士になろうか」・・・
 ・・・「私は今、優婆塞になろうか」・・・
 ・・・「私は今、浄人になろうか」・・・
 ・・・「私は今、沙彌になろうか」・・・
 ・・・「私は今、外道になろうか」・・・
 ・・・「私は今、外道声聞になろうか」・・・
 ・・・「私は今、非沙門になろうか」・・・
 ・・・「私は今、非釈子になろうか」と言って人に知らせるだろう。比丘たちよ、このようなものも戒に弱いことを告示して、しかも戒を捨てていない。

 あるいはまた憂いて楽しまず・・・非釈子になることを願って「もし私が、ブッダを捨てればどうだろうか」と言って人に知らせて・・・しかも戒を捨てていない。
 ・・・「もし私が、法を捨てればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、サンガを捨てればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、戒を捨てればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、律を捨てればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、学処を捨てればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、説戒を捨てればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、和尚を捨てればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、阿闍梨を捨てればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、和尚弟子を捨てればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、阿闍梨弟子を捨てればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、同和尚を捨てればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、同阿闍梨を捨てればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、同梵行者を捨てればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、居士になればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、優婆塞になればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、浄人になればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、沙彌になればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、外道になればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、外道声聞になればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、非沙門になればどうだろうか」・・・
 ・・・「もし私が、非釈子になればどうだろうか」と言って人に知らせるだろう。比丘たちよ、このようなものが戒に弱いことを告示して、しかも戒を捨てていない。

 あるいはまた憂いて楽しまず・・・非釈子であることを願って「私は母を想う」と言って人に知らせて・・・しかも戒を捨てていない。
 ・・・「私は父を想う」・・・
 ・・・「私は兄弟を想う」・・・
 ・・・「私は姉妹を想う」・・・
 ・・・「私は息子を想う」・・・
 ・・・「私は娘を想う」・・・
 ・・・「私は妻を想う」・・・
 ・・・「私は親族を想う」・・・
 ・・・「私は親友を想う」・・・
 ・・・「私は村を想う」・・・
 ・・・「私は町を想う」・・・
 ・・・「私は田畑を想う」・・・
 ・・・「私は土地を想う」・・・
 ・・・「私は金を想う」・・・
 ・・・「私は銭を想う」・・・
 ・・・「私は技能を想う」・・・
 ・・・「私は過去の談話や笑いや遊びを想う」と言って人に知らせるだろう。比丘たちよ、このようなものも戒に弱い事を告げて、しかも戒を捨てていない。

 あるいはまた憂いて楽しまず・・・非釈子であること願って・・・
 ・・・「私には母がいる。私は養わなければならない」・・・
 ・・・「私には父がいる。私は養わなければならない」・・・
 ・・・「私には兄弟がいる。私は養わなければならない」・・・
 ・・・「私には姉妹がいる。私は養わなければならない」・・・
 ・・・「私には息子がいる。私は養わなければならない」・・・
 ・・・「私には娘がいる。私は養わなければならない」・・・
 ・・・「私には妻がいる。私は養わなければならない」・・・
 ・・・「私には親族がいる。私は養わなければならない」・・・
 ・・・「私には親友がいる。私は養わなければならない」と言って人に知らせるだろう。比丘たちよ、このようなものも戒に弱い事を告げて、しかも戒を捨てていない。

 あるいはまた憂いて楽しまず・・・非釈子であること願って・・・
 ・・・「私には母がいる。私を養ってくれるだろう」・・・
 ・・・「私には父がいる。私を養ってくれるだろう」・・・
 ・・・「私には親友がいる。私を養ってくれるだろう」・・・
 ・・・「私には町がある。それによって私は生計を立てよう」・・・
 ・・・「私には田畑がある。それによって私は生計を立てよう」・・・
 ・・・「私には土地がある。それによって私は生計を立てよう」・・・
 ・・・「私には金がある。それによって私は生計を立てよう」・・・
 ・・・「私には銭がある。それによって私は生計を立てよう」・・・
 ・・・「私には技能がある。それによって私は生計を立てよう」と言って人に知らせるだろう。比丘たちよ、このようなものも戒に弱い事を告げて、しかも戒を捨てていない。

 あるいはまた憂いて楽しまず・・・非釈子であること願って・・・
 ・・・「苦しい」・・・
 ・・・「楽しくない」・・・
 ・・・「私は精進しない」・・・
 ・・・「私は努力しない」・・・
 ・・・「私は喜ばない」・・・
 ・・・「私は楽しまない」と言って人に知らせるだろう。比丘たちよ、このようなものも戒に弱い事を告げて、しかも戒を捨てていない。

 比丘たちよ、何が戒に弱いことを告げて、また戒を捨てているのか。比丘たちよ、ここに比丘がいる。憂いて楽しまず・・・非釈子であることを願って「私はブッダを捨てた」と言って人に知らせるだろう。比丘たちよ、このようなものは戒に弱いことを告げて、また戒を捨てている。
 あるいは憂いて楽しまず・・・非釈子であることを願って「私は法を捨てた」と言って人に知らせるだろう。比丘たちよ、このようなものも戒に弱いことを告げて、また戒を捨てている。
 ・・・「私はサンガを捨てた」・・・
 ・・・「私は戒を捨てた」・・・
 ・・・「私は律を捨てた」・・・
 ・・・「私は学処を捨てた」・・・
 ・・・「私は説戒を捨てた」・・・
 ・・・「私は和尚を捨てた」・・・
 ・・・「私は阿闍梨を捨てた」・・・
 ・・・「私は和尚弟子を捨てた」・・・
 ・・・「私は阿闍梨弟子を捨てた」・・・
 ・・・「私は同和尚を捨てた」・・・
 ・・・「私は同阿闍梨を捨てた」・・・
 ・・・「私は同梵行者を捨てた」・・・
 ・・・「私を居士として受け入れろ」・・・
 ・・・「私を優婆塞として受け入れろ」・・・
 ・・・「私を浄人として受け入れろ」・・・
 ・・・「私を沙彌として受け入れろ」・・・
 ・・・「私を外道として受け入れろ」・・・
 ・・・「私を外道声聞として受け入れろ」・・・
 ・・・「私を非沙門として受け入れろ」・・・
 ・・・「私を非釈子として受け入れろ」と言って人に知らせるだろう。比丘たちよ、このようなものも戒に弱いことを告げて、また戒を捨てている。

 あるいは憂いて楽しまず・・・「私はブッダを必要としない」・・・「私は法を必要としない」・・・「私はサンガを必要としない」・・・「私は戒を必要としない」・・・「私は律を必要としない」・・・「私は学処を必要としない」・・・「私は説戒を必要としない」・・・「私は和尚を必要としない」・・・「私は阿闍梨を必要としない」・・・「私は和尚弟子を必要としない」・・・「私は阿闍梨弟子を必要としない」・・・「私は同和尚を必要としない」・・・「私は同阿闍梨を必要としない」・・・「私は同梵行者を必要としない」と言って人に知らせるだろう。比丘たちよ、このようなものも戒に弱いことを告げて、また戒を捨てている。

 あるいは憂いて楽しまず・・・「私がどうしてブッダを必要とするだろうか」・・・「私がどうして法を必要とするだろうか」・・・「私がどうしてサンガを必要とするだろうか」・・・「私がどうして戒を必要とするだろうか」・・・「私がどうして律を必要とするだろうか」・・・「私がどうして学処を必要とするだろうか」・・・「私がどうして説戒を必要とするだろうか」・・・「私がどうして和尚を必要とするだろうか」・・・「私がどうして阿闍梨を必要とするだろうか」・・・「私がどうして和尚弟子を必要とするだろうか」・・・「私がどうして阿闍梨弟子を必要とするだろうか」・・・「私がどうして同和尚を必要とするだろうか」・・・「私がどうして同阿闍梨を必要とするだろうか」・・・「私がどうして同梵行者を必要とするだろうか」と言って人に知らせるだろう。比丘たちよ、このようなものも戒に弱いことを告げて、また戒を捨てている。

 あるいは憂いて楽しまず・・・「ブッダは私に利益なし」・・・「法は私に利益なし」・・・「サンガは私に利益なし」・・・「戒は私に利益なし」・・・「律は私に利益なし」・・・「学処は私に利益なし」・・・「説戒は私に利益なし」・・・「和尚は私に利益なし」・・・「阿闍梨は私に利益なし」・・・「和尚弟子は私に利益なし」・・・「阿闍梨弟子は私に利益なし」・・・「同和尚は私に利益なし」・・・「同阿闍梨は私に利益なし」・・・「同梵行者は私に利益なし」と言って人に知らせるだろう。比丘たちよ、このようなものも戒に弱いことを告げて、また戒を捨てている。

 あるいは憂いて楽しまず・・・「私はよくブッダから抜け出た」・・・「私はよく法から抜け出た」・・・「私はよくサンガから抜け出た」・・・「私はよく戒から抜け出た」・・・「私はよく律から抜け出た」・・・「私はよく学処から抜け出た」・・・「私はよく説戒から抜け出た」・・・「私はよく和尚から抜け出た」・・・「私はよく阿闍梨から抜け出た」・・・「私はよく和尚弟子から抜け出た」・・・「私はよく阿闍梨弟子から抜け出た」・・・「私はよく同和尚から抜け出た」・・・「私はよく同阿闍梨弟子から抜け出た」・・・「私はよく同梵行者から抜け出た」と言って人に知らせるだろう。比丘たちよ、このようなものも戒に弱いことを告げて、また戒を捨てている。

 その他のすべてのブッダの号・法の号・サンガの号・戒の号・律の号・学処の号・説戒の号・和尚の号・阿闍梨の号・和尚弟子の号・阿闍梨弟子の号・同和尚の号・同阿闍梨の号・同梵行者の号・居士の号・優婆塞の号・浄人の号・沙彌の号・外道の号・外道弟子の号・非沙門の号・非釈子の号があるが、それらの様相、表示、現相によって言って人に知らせるだろう。比丘たちよ、このようなものも戒に弱いことを告げて、また戒を捨てている。

 比丘たちよ、どのような者が捨戒を成就していないのか。比丘たちよ、ここにその様相、その表示、その現相によって捨戒されることがあるだろうが、その様相、表示、現相によって発狂者が捨戒したならば捨戒は成就していない。発狂者の前で捨戒をしたのならば、捨戒は成就していない。
 心を失った人が捨戒したならば、捨戒は成就していない。心を失った人の前で捨戒をしたのならば、捨戒は成就していない。
 痛みに悩む人が捨戒したならば、捨戒は成就していない。痛みに悩む人の前で捨戒をしたのならば、捨戒は成就していない。
 天神の前で捨戒をしたのならば、捨戒は成就していない。
 畜生の前で捨戒をしたのならば、捨戒は成就していない。
 
 都会人が地方人の前で捨戒するとして、彼がもしも了解しないのならば捨戒は成就していない。
 地方人が都会人の前で捨戒するとして、彼がもしも了解しないのならば捨戒は成就していない。
 都会人が都会人の前で捨戒するとして、彼がもしも了解しないのならば捨戒は成就していない。
 地方人が地方人の前で捨戒するとして、彼がもしも了解しないのならば捨戒は成就していない。

 戯れのために捨戒したならば、捨戒は成就していない。
 騒動のために捨戒したならば、捨戒は成就していない。
 説かないことを欲して説いたならば、捨戒は成就していない。
 説こうと欲して説かなかったならば、捨戒は成就していない。
 無智者に向かって説いたならば、捨戒は成就していない。
 有智者に向かって説かないならば、捨戒は成就していない。
 あるいはまたすべての人に説かないならば、捨戒は成就していない。
 比丘たちよ、このようなものが捨戒を成就していない。

 「不浄法」とは、あの罪行・卑行・悪行・末水法・隠処法・唯有二人成就法である。これを不浄法と名付ける。
 「行じる」とは、(男)相をもって(女)相に性器をもって性器に(入れることであって)、たとい一胡麻子の量を入れるとしても行ったとなす。これを行じると言う。
 「たとえ畜生と為すといえども」とは、畜生女と不浄法を行じるとしても、沙門ではなく、釈子ではない。人間の女の場合は言うまでもない。このゆえにたとえ畜生と為すといえどもと言う。
 「波羅夷(はらい、パーラージカ)」とは、あたかも頭を断たれた人は、彼の身体で生きて行けないように、そのように比丘が不浄法を行じたならば、沙門ではない、釈子ではない。このゆえに波羅夷と言う。
 「共住すべきではないものである」とは、共住とは同一羯磨・同一説戒で共に学習すること、これを共住と名付ける。それは彼と共ではない、このゆえに共住すべきではないものであると言う」(続く)

   『南伝大蔵経1 律蔵1』大蔵出版  P33-44

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

原始仏典 更新情報

原始仏典のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング