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原始仏典コミュの七科1 「四念処」 (南伝16上 P357〜359他)

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相応部経典>大篇>第三 念処相応







「[四七] 第三 念処相応

  第一 菴羅品

 [一] 第一 菴羅

 このように私は聞いた。ある時、世尊はヴェーサーリー国のアンバ園にいた。
 ここに世尊は比丘たちに告げた。
 比丘たち。
 大徳。
と彼ら諸比丘は世尊に答えた。世尊は説いた。

 比丘たちよ、この一乗道がある。衆生を清浄にし、愁い悲しみを乗り越え、苦憂を滅ぼし、正しい理を体得し、涅槃を現証させるものである。即ち、四念処である。何を四となすのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいる。身において身を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、受において受を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、心において心を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、法において法を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住す。
 比丘たちよ、この一乗道がある。衆生を清浄にし、愁い悲しみを乗り越え、苦憂を滅ぼし、正しい理を体得し、涅槃を現証させるものである。即ち、四念処である。
 世尊はこのように説いた。彼ら諸比丘は喜んで世尊の説いたことを歓喜した。


 [二] 第二 正念

 ある時、世尊はヴェーサーリー国のアンバ園にいた。・・・
 比丘たちよ、比丘は正念正知にして住しなさい。これが私のあなたたちへの教えである。
 比丘たちよ、どのようにして比丘が正念なのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいる。身において身を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、受において受を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、心において心を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、法において法を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住す。
 比丘たちよ、このようにして比丘は正念である。
 比丘たちよ、どのようにして比丘は正知なのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいる。進退するのに正知してなし、観察するのに正知してなし、屈伸するのに正知してなし、僧伽梨・衣鉢を持つのに正知してなし、飲食味わうのに正知してなし、大小便をするのに正知してなし、行くも住まうも坐るも臥すも起きるも話すも沈黙するも正知してなす。
 比丘たちよ、このようにして比丘は正知である。
 比丘たちよ、比丘は正念正知にして住しなさい。これが私のあなたたちへの教えである」

     南伝大蔵経16上 相応部経典 5 P357-359 を口語訳
 

「 [三五] 第五 正念

 舍衛城・・・・
 比丘たちよ、比丘は正念正知にして住しなさい。これが私のあなたたちへの教えである。
 比丘たちよ、比丘たちよ、どのようにして比丘が正念なのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいる。身において身を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、受において受を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、心において心を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、法において法を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住す。
 比丘たちよ、このようにして比丘は正念である。
 比丘たちよ、どのようにして比丘は正知なのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいる。彼において受が生じるのを自覚し、住するのを自覚し、滅するのを自覚する。尋が生じるのを自覚し、住するのを自覚し、滅するのを自覚する。想が生じるのを自覚し、住するのを自覚し、滅するのを自覚する。
 比丘たちよ、このようにして比丘は正知である」

     南伝大蔵経16上 相応部経典5 P413-414 の口語訳


「 [四〇] 第十 分別

 比丘たちよ、私はあなたたちのために念処と念処の修習と念処の修習に順じる道を説こう。聞きなさい。
 比丘たちよ、何を念処となすのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいる。身において身を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、受において受を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、心において心を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、法において法を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住す。
 比丘たちよ、これを名付けて念処となす。
 比丘たちよ、何を念処の修習となすのか。
 比丘たちよ、ここに比丘がいる。身の集法を観じ、熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、身の滅法を観じ、熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、身の集滅法を観じ、熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住す。受の集法を観じ、熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、受の滅法を観じ、熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、受の集滅法を観じ、熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住す。心の集法を観じ、熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、心の滅法を観じ、熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、心の集滅法を観じ、熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住す。法の集法を観じ、熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、法の滅法を観じ、熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、法の集滅法を観じ、熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住す。
 比丘たちよ、これを名付けて念処の修習となす。
 比丘たちよ、何を念処の修習に順じる道となすのか。
 即ち八正道である。つまり、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
 比丘たちよ、これを名付けて修習に順じる道となす」

     南伝大蔵経16上 相応部経典5 P417-418 の口語訳


「 [四二] 第二 集起

 比丘たちよ、私は四念処の集と滅を説こう。聞きなさい。
 比丘たちよ、何を身の集(滅)となすのか。食が生起することによって身が生起し、食が滅することによって身が滅する。
 比丘たちよ、何を受の集(滅)となすのか。触が生起することによって受が生起し、触が滅することによって受が滅する。
 比丘たちよ、何を心の集(滅)となすのか。名色が生起することによって心が生起し、名色が滅することによって心が滅する。
 比丘たちよ、何を法の集(滅)となすのか。作意が生起することによって法が生起し、作意が滅することによって法が滅する」

     南伝大蔵経16上 相応部経典5 P419-420 の口語訳


「 [二六] 第六 一分

 ある時、具寿サーリプッタと具寿マハーモッガーラナと具寿アヌルッダはサーケータ市のカンタキー林にいた。
 時に具寿サーリプッタと具寿マハーモッガーラナは夕方に瞑想から起って具寿アヌルッダのところに行った。行って具寿アヌルッダと挨拶し喜ばしく印象深い談話をして一方に座った。一方に座って具寿サーリプッタは具寿アヌルッダに言った。
 友アヌルッダ、有学、有学と説くが、友よ、何を有学となすのか。
 友らよ、四念処の一分を修習するがゆえに有学となす。何を四となすのか。
 友らよ、ここに比丘がいる。身において身を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、受において受を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、心において心を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、法において法を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住す。
 友らよ、この四念処の一分を修習するがゆえに有学となす。


 [二七] 第七 悉皆

 因縁同上
 友アヌルッダ、無学、無学と説くのは、友よ、何を無学となすのか。
 友らよ、四念処の悉皆(すべて)を修習するがゆえに無学となす。何を四となすのか。
 友らよ、ここに比丘がいる。身において身を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、受において受を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、心において心を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、法において法を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住す。
 友らよ、この四念処の悉皆を修習するがゆえに無学となす。


 [二八] 第八 世界

 因縁同上
 具寿アヌルッダはどの法を修習し多修して大通智(大神通)を得たのか。
 友らよ、四念処を修習し多修して大通智を得た。何を四となすのか。
 友らよ、ここに比丘がいる。身において身を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、受において受を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、心において心を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住し、法において法を観じ熱心・正知・正念にして世間の貪・憂を調伏して住す。
 友らよ、私はこの四念処を修習し多修して大通智を得た。
 友らよ、また私はこの四念処を修習し多修したがゆえに千世界に勝つ」

     南伝大蔵経16上 相応部経典5 P405-406 の口語訳


「 第四 未聞品

  [三一] 第一 未聞

 舍衛城・・・
 比丘たちよ、「これは身の身観である」と未だかつて聞いたことのない法において私に眼が生じ、智が生じ、明が生じ、光明が生じた。「まさにこの身の身観を修習すべきである」と未だかつて聞いたことのない法において私に眼が生じ、智が生じ、明が生じ、光明が生じた。「まさにこの身の身観はすでに修習された」と未だかつて聞いたことのない法において私に眼が生じ、智が生じ、明が生じ、光明が生じた。
 「これは受の受観である」と未だかつて聞いたことのない法において私に眼が生じ、智が生じ、明が生じ、光明が生じた。「まさにこの受の受観を修習すべきである」と未だかつて聞いたことのない法において私に眼が生じ、智が生じ、明が生じ、光明が生じた。「まさにこの受の受観はすでに修習された」と未だかつて聞いたことのない法において私に眼が生じ、智が生じ、明が生じ、光明が生じた。
 「これは心の心観である」と未だかつて聞いたことのない法において私に眼が生じ、智が生じ、明が生じ、光明が生じた。「まさにこの心の心観を修習すべきである」と未だかつて聞いたことのない法において私に眼が生じ、智が生じ、明が生じ、光明が生じた。「まさにこの心の心観はすでに修習された」と未だかつて聞いたことのない法において私に眼が生じ、智が生じ、明が生じ、光明が生じた。
 「これは法の法観である」と未だかつて聞いたことのない法において私に眼が生じ、智が生じ、明が生じ、光明が生じた。「まさにこの法の法観を修習すべきである」と未だかつて聞いたことのない法において私に眼が生じ、智が生じ、明が生じ、光明が生じた。「まさにこの法の法観はすでに修習された」と未だかつて聞いたことのない法において私に眼が生じ、智が生じ、明が生じ、光明が生じた」

     南伝大蔵経16上 相応部経典5 P410-411 の口語訳










涅槃へのただ一つに道が四念処であるという記述は、つまり正解脱は正智から生じ、正智は正定から生じるけれど、その正定は正念に基づくからだと思います。正定は捨によって心が統一を得るのですが、定を得るまでは念によって捨を行う必要があるからです。また正精進あるときそこには必ず正念があります。また七覚支も念覚支を最初とし、捨に極まります。

正念は基本的に四念処です。
正知は所作の自覚と受尋想の自覚の二つがあります。前者は身に向けられており、後者は心に向けられています。双方が自覚されるべきだということです。

念処とは、念じる処ですので身・受・心・法の場において熱心に正念正知して貪りと憂い、他の悪不善法から心を清めるということです。貪りは楽受によって生じ、憂いは苦受によって生じます。四念処は楽受が生じても貪りを生じさせない原因を形成し、苦受が生じても憂いを生じさせない原因を形成します。また他の悪不善法を排除します。

念処の修習は、四念処それぞれの集法・滅法・集滅法において三重に修するものです。生滅観はよく無常想を生じ、無常想はよく苦想と無我想を生じ、これらの想はよく厭患を生じ、離貪・滅・無執着・解脱を生じます。単に住している身受心法のみでなく生滅を観じることによって円満です。引用しませんでしたが、さらに内・外・内外の三つをさらに三重に修することが推奨されています。ですから、

身受心法×集法滅法集滅法×内法外法内外法→三十二念処

となります。


身の生滅は、食によります。肉体の食べ物のことだけでなく、四食のことです。普通の食べ物、触食、意思食、識食です。これらへの愛があればすなわち執着。執着があるときこの身は三界に何度でも生起します。しかし、これらへの愛と執着がなければ、この身は三界から滅します。有身の滅は涅槃です。

受の生滅は、触によります。これは十二縁起です。

心の生滅は、名色によります。心は意とか識と同意ですから、これも十二縁起です。すまり識によって名色があり、名色によって識があるというところと一致します。

法の生滅は、作意によります。法というのは、大念処経にも説いてあるとおり、五蓋、五蘊、六処、七覚支、四諦などですが、つまり教えであったり、如実智見であったりします。作意があるときこれらの法が現れてきますが、作意がないときは現れてきません。自分の心の中にということです。もし、寝ているときは法は現れてきません。法をもしもこの世界という風に理解してしまうとまったく意味が通じません。つまり作意があろうとなかろうと外界はあるからです。従って、法とは自分の中に現れてくる諸々の法であることが明らかです。法が作意に依存して生滅するのを観じて、筏の法門のように教えに対する執着などを捨てていきます。もっと広範囲な成果がありますが。

サーリプッタとモッガーラナがアヌルッダに質問しているのは、アヌルッダが四念処の達人だからです。有学とは、四念処の一分を修行した者のこと、無学とは四念処をマスターした者のことと言っています。四念処の一分を修行すれば、法が現れてきます。法が現れればその生滅を観じます。その生滅を観じれば、苦の生滅を観じます。苦の生滅を観じればすなわち四諦を了知します。それは流れに入った有学に同じです。四念処のすべてをマスターすれば、身受心法のすべてを知り尽くします。知り尽くしているがゆえにその患いをもよく知ります。患いをはっきり知るので、厭患し、離貪し、解脱します。その対象を念じていてかつその対象を知らないという道理がないからです。

十二縁起を発見したときのように四念処を発見したゴータマに光が現れました。それはろうそくの光という意味ではなくて、智慧の眼によって今まで知らなかったことを知り、理解できなかったことを理解したという意味です。眼は肉眼・天眼・慧眼の三つがあると長部に書いてあります。


四念処にはもっと重要な教えがありますが、基本の定義を上に出しておきました。アヌルッダの話を紹介したのは、興味深く感じる人もいるかと思ったからです。
 

コメント(5)

sadhu sadhu sadhu(aは長母音) !!!

第四 未聞品 [三一] 第一 未聞  南伝大蔵経16上 相応部経典5 P410-411
は僕は知らなかったのでその引用は大変参考になりました。
ありがとうございます。

ぼくも今、南伝大蔵経16上 相応部経典は手元にあるのでこれから少しづつ読んでいけたらと思っています。(どうも来年秋以降、大蔵出版から相応部経典全10巻が片山訳で出るそうですね。)
南伝を買われたんですね!いいですね。片山氏のが出るんですね。そろえると高くなるので僕は買わないですが、いい情報です。ありがとうございます。
ペコちゃんさんの四つの食物について気になったので、調べたWEB上の文章をここに抜粋します。


四食(子肉経)

「子肉経」は『多聞の聖弟子』に載せましたが、あれは一部ですので、ここでは全体を見てみたいと思います。

世尊は諸々の比丘に告げられた。「四食がある。衆生を助け、衆生を養っている。四食とは何か。麁搏食・細触食・意志食・識食の四つである。

どのように搏食を観察するべきか。
たとえば、夫婦二人があって非常に可愛がっている一人の子供がいた。ところが荒野の難所を渡ることになったが食料が尽き、餓死寸前になり助かる見込みはなかった。彼らはこのように考えた『ここに愛する子供がいる。もし、この子供を食えば三人が死ぬことだけはまぬがれる。』こうして、泣きながら子供を食い、荒野を渡ることが出来た。

比丘、この夫婦は子供の肉が美味しいと思って、たべただろうか」と。
答えて言った「そんなことはありません。世尊」と。
「比丘、荒野を渡るために、強いて食べたのではないか」と。
答えて言った「その通りです。世尊」と。
仏は比丘に告げられた「搏食を食する時は、このように観じなさい。このように観察すれば、搏食を断ずることが出来る。搏食を断ずれば、五欲の中の欲望と愛着を断ずることが出来る。多聞の聖弟子は一結の愛結も断ぜられていないものはない。もし、一結でもあれば、還ってこの世に生ずるのである。

どのように触食を観察するべきか。
たとえば牛を生きながらに皮を剥ぐと、いろいろな虫や草木が刺される。地に座れば地虫に刺され、水に入れば水中の虫に刺され、空中にとどまれば飛び虫に刺される。ふせっても起きても常にその身を苦しめられる。
このように比丘、触食において、このように観ずるべきである。このように観ずれば三受を断ずることが出来る。三受を断ずることが出来れば、多聞の聖弟子はこれによってすべて為すべきことは為したことになる。

比丘、どのように意思食を観察するべきか。
たとえば町に火事が起こっているが、炎も煙も見えない。
一人の賢明な男がいてこのように考えた「火事が起こっているのに炎も煙も見えない。今に大火が起こる。ここにいては必ず死ぬ。」と。このように思惟して、この町を捨てるようなものである。
意思食を断ずるのもこのようである。このように観ずれば、意思食を断ずることが出来る。意思食を断ずれば、三愛が断ぜられる。三愛を断ずれば多聞の聖弟子はこれによってすべて為すべき事は為したことになる。

諸々の比丘、どのように識食を観察するべきか。
たとえば部下が盗賊を捕らえ、縛って王の所へ送ってきた。彼は三百槍の刑にに処せられ、昼夜に渡って苦しむようなものである。このように識食を観察すれば、識食を断ずることが出来る。識食を断ずれば名色が断ぜられる。名色を断ずれば多聞の聖弟子はこれによってすべて為すべき事は為したことになる」と。

【解説】
まず、食とは何か。
食べ物に限らず外から自分に得ることをすべて食べるというのである。
これは、仏教に限らず、イエスキリストも「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」と言っています。
すなわち、「私の言葉(真理)を食べる者」という意味です。
※麁搏食=これはふつうの食べ物という意味です。
※触食=五官によって外界を認識し、苦・楽・不苦不楽の三つに分類することである。
※意思食=意思とはこれから実行しようとする考えである。これは欲望・愛着によって起きる。
※識食=過去の記憶である。

麁搏食の観察は我が子を食べるような気持ちで、生命を持続するために、やむなく食べることを観察する。

触食の観察は、皮を剥がされた牛のように、触れるものはすべて苦痛をもたらすものと観察せよ。と言うわけである。楽・苦・不苦不楽のすべてが苦の本であることを観察する。

意思食の観察は、これから行うことはすべて苦をもたらすことだと観察する。すなわち、今は炎も煙も無いが、実行することによって必ず大火すなわち苦がやって来ると観察する。

識食の観察は、記憶の観察である。十二因縁で識が名色を造るとあります。そこで過去の記憶を三百回も槍で突き刺すように、ぼろぼろにするように観察することである。
それによって、名色(自我)が消滅するというのである。
南伝大蔵経16 相応部経典 大篇 念処相応

が四念処を理解する上で重要であると感じている。アマゾンで南伝大蔵経16 上下巻購入したのだが、OD版で届くのに1〜3週間かかると言っているのでいまいち在庫を確保できるか微妙なところである。購入できなければ大蔵出版に最終的にはたのもうと思っている。

四念処がこんなに深い内容であることに今更ながら驚く。ペコちゃんさんが四念処を重視するわけがわかる。下記PDFの記述も参考になると思うので、興味のある方はご覧ください。

http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/6942/2/ib005001.pdf

ところで相応部経典 大篇 念処相応を英訳するとどのようになるのでしょうか?ご存知の方いらっしゃいましたらお教えください。
子肉経は、相応部経典の因縁篇にありますが、上の内容とは若干異なります。意思食のたとえが、「火坑に投げ込まれるたとえ」など細かいところで色々食い違っています。漢訳阿含からの出典かも知れません。子肉経は阿含でなくニカーヤにおいても「四食」に関するもっとも詳細な定義とたとえですのでまた時間があれば、引用したいと思います。

「原始仏教」コミュニティの方で、上の論文を批評してみたので、また参考にしてみてください。

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Aさん、ハイペースですね、素晴らしいです。

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